24-4 魔女の部屋
「お祖母ちゃん……カタリナ,ありがとう」
そう言ってカタリナの墓標に会釈するシノノメを見ると,クルセイデルは満足そうに笑っていた.無理に動かした右手が痛いのか,左手で腕を押さえている.
しかしすぐに左手を振ると,宙から杖を取り出した.
魔法使いが持つワンドと呼ばれる短い指揮棒のような長さのものだが,先に光る石がはめ込んであった.一般的には軸――手元の太い方に宝飾を設えるので,少し変わった作りである.
「地面に落書きを描く蝋石みたいなものよ」
不思議そうに見るシノノメを横目に,悪戯っぽい笑顔を浮かべたクルセイデルは言った.実際の年齢はもちろん見た目通りの年齢ではないはずだが,そう言って笑うクルセイデルの表情は無邪気な少女のように見える.
クルセイデルは杖を振ると,宙にアーチ状の線を描いた.杖の先が地面に触れるのと同時に,線の内側がパカリと音を立ててずれる.景色をそこだけ切り取って,だまし絵の扉が出来上がったように見えた.
「ドア?」
「そうよ.空間を切り取ってドアを作ったの」
クルセイデルは絵の描いた扉――というよりも,さっきまでは風景の一部だったはずの物なのだが――を開き,中に入った.
「ついて来なさい」
そう言われて,シノノメも慌てて後に続いた.クルセイデルの背は低いので,頭を下げて通り抜ける.シノノメが通り抜けると,後ろでパタンという軽い音がしてドアが閉じた.
気づけば,石畳の部屋に立っていた.
「ここは?」
ぐるりと見まわすと,壁一面に書架があり,本で埋め尽くされている.くすんだ革の背表紙の並びに,一見無造作だが整頓されて積み重ねられた羊皮紙の巻物が所狭しと納められていた.
その隣には硝子――ユーラネシアでは水晶の方が一般的だが――の瓶に入ったよく分からない色とりどりの薬品が並べられた棚がある.
部屋の奥には大きな机があり,その上にも色々な古紙の巻物が積まれていた.
高い天井と床の間には大きな球体がいくつも浮かんでいた.
天球儀に地球儀,水球儀.ユーラネシアの月もある.そして,現実世界の地球儀もあるようだ.
「これは,魔女の部屋ね!」
シノノメは少し楽しくなって言った.見ていると心が躍る.ファンタジーの物語に出てくる魔女の部屋にぴったりのイメージだったからだ.
「そう,私の仕事部屋よ.院長室って呼ばれてる」
クルセイデルはシノノメの反応に満足そうにうなずきながら,執務机の向こうにある椅子に腰かけた.
「仕事が溜まっている様ね.座って少し待っていてくれる?」
きょろきょろと物珍しそうに部屋の中を見るシノノメに,クルセイデルは座るように促した.椅子などどこにもなかったはず――そう思って後ろを見たシノノメのところに,猫脚の椅子がのこのこと歩いてやって来ていた.
生きた椅子なのだろうか.上に座るのは少し申し訳ない気がしたが,腰かけるととても心地よかった.
クルセイデルは羊皮紙を広げ――片腕しか使えないのだが,左手で撫でるようにすると巻物が自分で広がるのだ――,踊るユーラネシア文字に目を走らせていた.
興味深く見ていたシノノメの肘を誰かがつつくので振り向くと,ティーポットとカップを乗せたサイドテーブルが歩いている――と思えば,その下に運んでいる小さな小人がいた.お茶をこぼさないようによちよちと歩いている.
「ありがとう」
妖精は満足そうにサイドテーブルを置くと,本棚の向こうに逃げるように走って行った.
「家事妖精は,恥ずかしがりなのよ」
そう言うクルセイデルはまだ書類から目を離せずにいたので,シノノメはカップに茶を注いで飲んだ.レモンのような香りがする.
「レモングラス……レモンバームかな」
心を落ち着かせる効能のハーブティーのようだった.ハーブティーの効果以上に,気持ちが落ち着いてきている自分に気づいた.
不思議な魔法の庭園だった.まるで,自分の感情によって天候が変わる様な……
クルセイデルの方をもう一度見ると,彼女は左手を上に掲げて何かを呟いている.
見る間に,巨大な球体の一つが降りてきた.よく見れば惑星マグナ・スフィアのそれではなく,現実世界の地球儀のようである.
「地球儀?」
「異世界儀よ.だって,この世界から見れば,私たちの世界は異世界だもの」
クルセイデルは地球儀――いや,異世界儀を眺めながらメッセンジャーを立ち上げていた.
通話モードで,公開回線になっていた.テレビ電話のように映像が宙に浮かび上がったので,シノノメにも相手の顔が見えた.栗色の髪の魔女がウィンドウの中に映っている.
「ウェンリー.貴方のところに,食料品の不良在庫はある? 保存が効くものよ」
「はいっ! クルセイデル様! ございます」
クルセイデルに話しかけられた相手の声には,緊張が感じられる.
「過剰仕入れで,販売しても赤字必須ですが,何か?」
「イエメンの紛争で,難民が食料不足ですって」
「分かりました.運搬は誰に頼めば?」
「オリビエと,カラリに頼みましょう.船の手配は……スジャータが確か,ジブチの方に強かったかしら」
そう言うと,次々宙にウィンドウが立ち上がった.
三人の魔女がウィンドウの向こうでかしこまってクルセイデルとウェンリーの会話を聞いている.
「了解です.二十四時間以内に開始します.魔女のマークはこちらでつけておきます」
「……無くてもいいんだけど」
クルセイデルは困った様な,嬉しいような顔で答えた.
「いいえ,いけません!」
ウィンドウで複数会話をしていた全員が一斉に反駁した.
「必ずつけます.マギステル・クルセイデル率いる魔法院の贈り物は,世界の人々に夢と希望を与えるのです」
「では,お任せします」
「はいっ」
嬉しそうな声で答えると,会話の相手である魔女たちは一斉にメッセンジャーを切った.多分,‘行動開始’,というところなのだろう.
思わぬ舞台裏を見た,とシノノメは思った.
マグナ・スフィアが開始されて間もなく,仮想世界であるウェスティニアの魔法院から,現実世界の災害地帯や紛争地帯の子供たちに贈り物が届くようになった.
時には薬品であり,時には食糧,あるいは生活必需品である.
クルセイデルは麾下の魔女たち――ほとんどが女性だ――のネットワークを使って,その活動をしているのだと噂されていた.
国連やユニセフ,WHO,国境なき医師団よりも早く活動を開始するという.しかも,紛争地帯の真っただ中で,インフラが完全に停止している場所にまで物品は届けられるのだ.
魔法院が繋いだ人と人とのコネクションを駆使しているのだが,それはまさに魔法に等しい技だった.
贈り物にはいつも魔女のマークがプリントされている.
十字軍という,イスラム世界の人々には忌むべき名前を持ちながら,それでいてその姿はキリスト教世界にとっての仇敵,魔女.
いずれの宗教信条にも関係なく,善意で行動する,東の果ての国に住む’西の善き魔女‘.
それは,現実世界にあってファンタジーを具現化したような存在だった.
仮想世界を通して,現実世界を良くする……
シェヘラザードがそんなことを言っていた気がする.
そう言いながら彼女は現実世界の死者をよみがえらせ,カカルドゥアを大混乱に陥れた.
もしかして,メムの魔法院の魔導士――移住者っていう人たちにも,シェヘラザードの息がかかっているのかもしれない.
クルセイデルこそ,仮想世界を通して現実世界を良くしようと行動している真の存在だ.
多くのプレーヤーが尊敬するのももっともだ,とシノノメは思った.
ふと戸口の方から軽い足音が聞こえた.
見ると,黒猫が一匹部屋に入って来てクルセイデルとシノノメを見比べている.
シノノメはチチチ,と舌を鳴らして呼び寄せようとしてみたが,伸びを一つしただけで寄ってこない.
「おいで,猫さん」
そう言うと,猫は突然ニヤリと笑って口をきいた.
「どうだい? 東の主婦.心を取り戻した気分は?」
「ひゃっ!」
不思議の国のアリスのチェシャ猫(ニヤニヤ笑いをする猫)は知っていたが,実際に猫が笑うのを見てシノノメは驚いた.
「魔法院の奥の院,魔法の庭園の天候をも動かす力を持つ気分はどうだい?」
「どういうこと?」
シノノメには猫の言葉の意味がよく分からなかった.
「お前はもう,クルセイデルにも匹敵する絶大な能力を持っているのだ.お前は世界を手に入れたくないのか?」
そう言って猫はニヤニヤ笑った.
「おやめなさい!」
空気を切り裂くように,クルセイデルの厳しい声が響いた.いつの間にか執務机の前に立っている.
「サマエル,出て行きなさい」
緑の瞳が燃える炎のような輝きを帯びていた.
「俺は,シノノメに話しただけだ」
クルセイデルは嘲笑する猫の言葉には答えず,机の上にあった革ひもを無造作に猫に向かって投げた.
革ひもは空中で黒い蛇に変わると,猫を一飲みに飲み込んだ.
細い蛇の身体が風船のように膨らんだかと思うと,あっという間にしぼんでしまった.それこそ風船の空気が抜けたようだ.
「お前には,もう時間があまりないだろうに……」
部屋に笑い声が響くと,床には革ひもに戻った蛇が転がっているだけだった.
「ああやって時々ちょっかいを出して来るの」
クルセイデルは苦虫をかみつぶしたような顔をした.
「あれも,サマエル……」
「ええ,この世界の万物全てに彼はなり得る.我々は彼の創造した世界の中で我々は活動しているのだから……彼を創造したのは我々が創造したソフィアだというのに」
ふう,とため息をついてクルセイデルは再び椅子に腰かけた.
「お待たせしました.それで,シノノメ.少しは落ち着いたかしら?」
「あ,ええ.……クルセイデル,どうもありがとう」
シノノメは改めて感謝の言葉を述べた.
祖母の言葉を受け取り,ネムに託して伝えてくれたことや,こうやって魔法院に受け入れてくれたことなど,落ち着いて考えてみれば礼を言うべきことはたくさんあった.クルセイデルが矢継ぎ早に見せる魔法の技に圧倒されたことや,祖母の死を告げられた衝撃で,言う機会を失っていたのだ.
「礼には及ばないわ.全て親友から頼まれたことだから」
「親友? お祖母ちゃんが?」
「ええ.マリエルは素晴らしい女性だった.知的で,思慮深くて……私たちは,とても息が合ったの.でも,実は,私自身は,貴女に真実を告げることに最後まで躊躇っていた」
「そう……じゃあ.なんで?」
「マリエルが,必ずそうするように言い残したの.きっと貴女のことを信じていたのね.彼女はこんなことも言っていた」
――仮想現実の世界なんて,と思っていたけれども,人生を終える前に胸躍る体験をすることができた.
そして,最後の時を最愛の孫のために使うことができた.自分の一番大事なものを,自分の一番大事な人のために使うことができたことはこの上ない喜びだった.
少女時代,辛い思いをたくさんさせたかもしれない唯.
幸せを手に入れたと思った矢先,また大きな試練に巻き込まれてしまったけれど,きっとあなたなら乗り越えられると信じている――.
「……お祖母ちゃんがカタリナだったって分かって,色々考えました.私,お祖母ちゃんだけじゃなく,この世界でできた友達にも守られてきたって.セキシュウさんや,グリシャムちゃんにも.」
「そうね.人と繋がっている事に気づけるのは,大きな幸せね」
クルセイデルはゆったり笑い,大きく肯いた.
頭上ではまさに彼女の作る人のつながり――ネットワークを象徴するかのような地球儀が回転している.
「でも……私は現実の世界で,ずっと眠っているみたいだけど……どうやったら元の世界に帰れるのか,目が覚めるのかが分からないの.きっと最後の記憶が戻れば,帰れると信じているんだけど……」
「最後の記憶?」
クルセイデルの顔が少し険しくなった.興味をそそられたようでもある.
シノノメは説明した.
自分はそもそも,人間の顔の区別ができないような状態であったこと.
そして,それを自覚すらしていなかったこと.
ノルトランドでの戦いの後,それに気づき始めたこと.
ログアウトしたと思って戻っていたのは不思議な空間と,虚構の家だったこと.
カカルドゥアでナーガルージュナと出会い,記憶を再構築してもらえたこと.
状況から考えて,ずっと昏睡状態ではないかと思われること.
せっかく希望を取り戻したのに,邪悪なシンハの意識の中で失くしてしまったこと.
そして,いまだに夫の名前と顔が思い出せないこと.
「そう……それは,辛かったでしょうね」
少しうなだれるシノノメを見ながら,クルセイデルは手を口に当てて考え込んだ.
「あなたは,どうしてこの……マグナ・スフィアの迷子のような状態になったか,その時のことは覚えていないの?」
「それを考えると……」
シノノメはひどい頭痛を感じて頭を押さえた.
「なるほど.記憶に鍵がかかっているのね」
「そう……みたい.ナーガルージュナさんなのか……心の中のお祖母ちゃんなのか分からないけど……同じことを言われたの」
「最後の記憶……貴女の最愛の人の名前と顔……」
「最愛の人?」
シノノメの顔は真っ赤になっていた.
「だって,そうなんでしょう? 貴女のご主人は,貴女にとってどういう人なの?」
クルセイデルは悪戯っぽく笑った.青白い頬に紅が差し,恋の話に目を輝かせる少女の様な表情になった.
「……尊敬できる人.色々なことを教えてくれて……優しくて……私,彼以外の人とは付き合ったことがないから,他の人と比べてどうかとか,分からないけれど……」
言えば言うほどシノノメの顔は赤くなった.自分でも,爪先まで赤くなっている気がする.
胸の鼓動が爆発しそうに早くなり,思わず胸を押さえたが,胸を押さえると今度は火照った顔が気になってきたので,両手で顔を隠した.
「最初で最後……ふふ,その人はあなたの運命の人なのね」
「でも……だから,悲しくなるの.顔も名前も分からないなんて……」
自分の様子を見て楽しそうなクルセイデルを指の隙間から覗きながら,シノノメは言った.
「そう……だけど,それって少し素敵じゃない?」
「素敵?」
シノノメは恐る恐るというように顔からゆっくり手を離し,首を傾げた.
「だって,あなたは顔も名前も分からない運命の人がいて,眠りにつきながらその人との出会いを待っているわけでしょう?」
「……」
「それって,童話の眠り姫の様じゃない?」
クルセイデルにそう言われた瞬間,ふとシノノメの脳裏に幻想が浮かんだ.
荊に囲まれた城の奥深くで眠り続ける,自分の姿だった.
幻想の姫となったシノノメは,幸せな夢を見ているのか,口元にはわずかな微笑を浮かべ,頬は薔薇色に染まっている.
それは,やせ衰えて病院のベッドで寂しく眠っているのとは全く違うイメージだった.
「そ……そんな風にはとても思えないよ……」
これもクルセイデルの魔法だろうか.
シノノメは頭を振って熱っぽくなった顔を冷ましたが,胸は早鐘のような動悸を打っていた.
ところが張本人のクルセイデルを見ると,そんなシノノメを尻目に何か考え込んでいる.
「クルセイデル?」
クルセイデルは現実世界の地球儀の隣に浮かぶ,惑星マグナ・スフィアの地球儀をじっと見つめていた.視線の先をシノノメが追うと,そこには機械文明の大陸――アメリアがある.
シノノメの呼びかけから少し経ってから,ようやくクルセイデルはゆっくり答えた.
「もう少し色々調べなければならないけれど,私には分かるかもしれない.……貴女が目を覚ます方法が」
「えっ!」
シノノメは思わず立ち上がった.
「それって……!?」
だが,クルセイデルの口調は重い.慎重に言葉を選ぼうとしている様子である.
「それは……」
クルセイデルが言葉を続けようとしたちょうどその時,高い足音ともに部屋のドアが勢いよく開け放たれた.
「申し訳ございません.失礼します!」
「どうしたの,レラ?」
シノノメが振り向くと,そこには灰色がかったローブをまとった,すらりとした魔法使いが立っていた.
五大の魔女の一人,風のレラだ.レラはクルセイデルに声をかけられると,帽子をとって片膝をついた.
「シノノメ殿と重要なお話の途中とは存じておりましたが,ご容赦ください.緊急の要件です.」
レラの顔は険しかった.クルセイデルを探し回っていたのかもしれない.ローブの裾が乱れている.
「そんなに慌てて,どうしたの?」
「オルレワンの暴動です」
「……それは,犬人たちの村で水竜が暴れているというので,もうフィーリアたちが解決のために出かけたでしょう?」
レラはクルセイデルの出した名前を聞くと,唇を噛み締めた.わずかにうつむくと,銀色の髪の毛が一筋落ちるように流れた.
「クルセイデル様,幻獣退治のクエストなどではありません.始まったのは,暴動……あるいは,反乱です」
「反乱ですって? それで,フィーリアはどうしたの?」
「フィーリアは……ユーラネシアンの暴徒たちの手に落ちたまま,詳細不明です.まだログアウトは確認されていません.かの地では,今,……魔女狩りが始まっています」
レラは吐き出すように言った.怒りと口惜しさが言葉の端々から感じられる.
「何ですって……! 五大の魔女の一角,湖のフィーリアが……NPCに……?」
クルセイデルは目を大きく見開いた.青白かった顔色が一層白くなる.
「魔女狩り?」
不吉な語感に背筋が凍る.シノノメの耳には,消え去った黒猫――サマエルの嘲笑が,何故か残響の様に蘇っていた.