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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第24章 幻想世界の黄昏
174/334

24-3 繋がる想い

 「……そんな……」


 カタリナが祖母だと,どうして,気づけなかったんだろう.

 どうして,カタリナはそう言ってくれなかったんだろう.

 あんなにずっとそばにいたのに.


 幼い時から,頭を撫でてくれた優しい手.

 ヨーロッパから避難する飛行機の中でそっと抱きしめてくれたあの腕.

 母は幼い弟を抱かなければならないので,姉ぶって強がっていた自分の腕をとって懐に包み込んでくれたあの柔らかさ,ぬくもり.


 思えば,カタリナの感触はそれと一緒だったはずだ.

 何より,あの無償の愛を自分に注いでくれる人が他にいるだろうか.

 あのメッセージを自分に送る人が他にいるだろうか.

 何故.

 どうして.


 シノノメは言葉を失い,崩れ落ちるように墓標の前に座り込んでいた.

 力を失った腕を何とかかろうじて動かし,指で紫水晶の表面をなぞった.

 ここにあるのは,ただ仮想世界の墓標に過ぎない.そこに映し出されているのだって,若かったころの祖母の面影を宿した魔法使いの肖像だ.本人のものではない.


 「嘘よ……そんな……死んだなんて」

 声を絞り出すようにして,やっとそれだけを言った.


 「残念ですが,嘘ではないわ」

 クルセイデルが静かに答えた. 

 

 シノノメ自身も嘘でないことは分かっていた.

 もし嘘だとしたら,きっと祖母はここに立っているはずだから.そして,かつて何度もしてくれたように自分を抱きしめてくれるはずだから.


 「でも,お祖母ちゃんは……ゲームなんて……」

 否定してしまいたい.

 一縷の望みをつなぐように,シノノメは言った.だが,優しいクルセイデルの言葉がそれを断ち切るように返って来た.


 「そうね.カタリナ――マリエルは,ゲームなんて,ましてVRゲームなんて触れたこともない,なんて言ってた.仮想現実(バーチャルリアリティ)など,まやかしのようで嫌だとも.でも,彼女がその節を曲げたのは,全て貴女を救うためだった.もともと,古ヨーロッパの伝承に詳しかった彼女は,通常のプレーヤーの十分の一ほどの時間で,魔法院の知識と理論を吸収していった」


 クルセイデルは祖母の本名を懐かしそうに呼んだ.


 「孫を助けるためという情熱――使命感がそうさせていたのかもしれない.治癒魔法に関しては右に出る者がいないほどの達人になった後,不安定な精神状態の貴女を支え続けたの」


 「私のために……」

 「そう.彼女は最後の生命いのちを貴女のために使ったの」

 「最後の命……じゃあ……」

 「知っていたのよ.病気のせいで,自分には時間がないことを.そして,時間が無いのであれば,その残りの時間を全て貴女のために使うと,決めていたの」


 クルセイデルの言葉は葬送曲のように,静かに淡々と紡がれていく.

 シノノメの目から,涙がとめどなく流れていた.

 涙で歪んだ視野の中のカタリナの肖像は,限りなく祖母に近く見えた.

 ――何より,シノノメと同じ目をしている.


 「セキシュウさんは……知ってたの? 私にどうして言ってくれなかったの……?」

 「セキシュウ殿は知っていたでしょうね.でも,あの頃の貴女に告げれば,どうなったかしら? きっとそれを気遣ってくださっていたのでしょう」

 

 それとも,自分が理解できないと思ったから告げなかったのか.

 いや,違う.気づけなかった自分がどうかしていたのだ.今こうやって墓標の中で微笑んでいるカタリナに,祖母の姿を見いだせないなんて.

 

 「私は……私が……」

 シノノメは自分が許せなかった.

 何も知らずに――何も気づかずにゲームの中を彷徨さまよっていた自分が許せなかった.

 自分の腕を抱き,腕を痛いほど掴んだ.爪が食い込むが,その痛みなどどうでもよかった.

 このまま自分を引き裂いてしまいたい.さもなければ,心が本当に張り裂けそうだ.

 

 にわかに魔法の庭園の空が曇り始めた.

 黒く分厚い雲が空を覆い,明るい陽光を遮る.

 冷たい風が吹き始めた.

 風が雨を呼び,大粒の雨球が地面に落ち始める.

 風は草原に咲き誇る花々の花弁を散らし,暗い空の向こうへと運んで行った.

 クルセイデルはわずかに眉を顰め,空をにらんだ.

 風の勢いは小さな彼女の身体を吹き飛ばさんばかりに強くなっている.しかし,クルセイデルは帽子のつばを軽く手で押さえただけで毅然とそこに立っていた.


 「シノノメ,自分を責めるのはおやめなさい.これは,どうにもならなかったことなの」

 厳しさをも感じさせるクルセイデルの声が響く.


 雨に打たれ風に亜麻色の髪をかき乱されながら,シノノメはうなだれていた.


 「でも……私は……本当に大好きな,大好きなお祖母ちゃんなのに……」

 

 クルセイデルの言う事は正しかった.

 どんなに‘もしも’があっても,当時のシノノメの状態――脳の機能では,できることは何もなかっただろう.それは分かっていた.それでも悲しかった.

 自分を祖母だと認識できない孫と会っていた時の祖母の気持ちを考えると,胸が痛かった.

 どんな気持ちで仮想世界の自分の肩を抱き,あの優しい笑顔を送り続けていたのだろうか.

 どんな思いで,まだ記憶を取り戻せない孫と別れたのだろうか.

 理想の女性として尊敬していた.

 いつかその様になりたいと思っていた.

 いつか自分の子供ができたら,かつての自分のように抱いてもらうつもりだった.


 お祖母ちゃん.

 自分が現実世界を離れている間に,二度と会えなくなっているなんて.

 それを知らなかったなんて.


 「……ごめんなさい,ごめんなさい……」

 シノノメは言葉を絞り出すようにして謝り続けていた.


 風がさらに強まり,雷鳴が轟いた.

 雨は土砂降りとなって自分の肩を抱くシノノメの身体を打つ.

 クルセイデルはしばらく黙ってシノノメの背中を見つめていたが,不思議な事に雨は彼女クルセイデルの身体を濡らしていなかった.

 

 「シノノメ,あなたは謝るべきではない.これは,彼女の希望.彼女は人生の最後に,望むことをやったの」

 雷鳴と豪雨が作る爆音の中,クルセイデルの声は不思議にシノノメの耳に届く.


 「でも……会いたい.会いたいよ……また巡り合えるって,もしかしたらって,ずっと思ってたのに……」


 ‘また巡り合える’という言葉を信じて,ここまで来たのだ.

 カカルドゥアのシンハとの死闘の中で希望を見出し,導かれ,もう一度この世界に戻ってきた後も,それが心の支えだったのだ.

 もうどんなに望んでも,あの温かくて柔らかい手に触れることも,優しい声を聴くこともできない.

 シノノメは嗚咽した.肩が震える.雨が容赦なく身体を打った.


 「――違うわ.貴女は間違えている」

 その声は一際厳しく,凛と響いてシノノメの耳朶を打った.まるで,クルセイデルの声そのものが雷鳴になったようにすら思えた.


 「間違い……? 間違えてるって……?」

 シノノメは涙を拭い,眉をひそめた.

 腕を抱きしめていた手を緩め,そっと背後のクルセイデルの顔を振り返った.

 クルセイデルの緑の瞳は,嵐の中で一層不思議な光を宿していた.表情はむしろ厳しいと言ってもいい.だが,その瞳の奥に秘めた優しさが感じられる.

 濡れ鼠になってしまったシノノメとは対照的に,クルセイデルは全く雨に濡れていなかった.風が彼女のローブと髪を揺らすだけだ.時折雷光が激しく閃いて二人を照らすのだが,彼女は暗闇の中で自ら燐光を放っている様に見えた.


 クルセイデルはゆっくり頷き,薄紅色の小さな唇を開いた.

 「西の魔女から東の魔女へ.貴女が思い出すとき,また巡り合える――これは,彼女の遺言.彼女がこの世界を去る時,最後に貴女にあてたメッセージ」


 「そんな,それじゃ……」

 シノノメは体を起こし,クルセイデルの方に向き直った.座っているので小さなクルセイデルの顔を見上げるようになる.少女の姿を持つ偉大な魔女は,静かに語り続けた.


 「あなたとの……実際的な意味での……再会を期した言葉ではありません」


 「じゃあ……お祖母ちゃんは,もう二度と会えないことを知ってて……」

 「……ええ.あれは,貴女へのお別れの言葉」

 クルセイデルは頷いた. 


 「あっ……」

 シノノメは涙にぬれた目を見開いた.


 そうだった.

 あの言葉が想起させる,祖母が愛読していた本のタイトルは――‘西の魔女が死んだ’.

 そして,本の中で「ニシノマジョカラ,ヒガシノマジョヘ」は祖母から孫にあてた遺言の始めの文句なのだ.

 ……どうして気づかなかったのだろうか.

 

 雨が小降りになり,強い風が吹きつけるばかりになり始めた.空では激しく暗雲が流れ,渦を作っている.

 クルセイデルは悄然しょうぜんと同じ場所に立っているだけだったが,何故かほっとしているようで,小さなため息をついたように見えた.


 「シノノメ……」

 クルセイデルは厳しくも優しい口調で言った.

 「貴女が思い出すたびに,貴女は彼女に会えるの」

 「でも……それは」

 「思い出に過ぎないというかもしれない.形のない記憶に過ぎないというかもしれない.この世界マグナ・スフィアだって,存在もあやふやな仮想現実に過ぎない.でも,だからこそ――形のないもの――人の想いこそ,私は大事だと信じている」


 「形のないものこそ……大事……」

 いつか耳にした言葉に,シノノメはふと顔を上げた.

 

 雲間から陽光が差し,再び草原に光が帰って来た.雨に濡れた草花がキラキラと雲母のように光を放った.


 「あなたがカタリナという仮想体(アバター)を通じて,マリエルから受け取った温もりは,偽り? それとも虚構?」

 クルセイデルは目元に小さな笑みをたたえ,尋ねた.

 

 ……絶対に違う.真実の心の繋がりだ.

 シノノメは慌てて首を振った.


 「魂を無くし,孤独な抜け殻になってしまっていたあなたを――それでも見守っていた,彼女の想い――愛情に,想いを馳せなさい」

 「想い……」

 

 人形のようで,自分でそれを自覚することもできなかったあの頃.

 混乱する意識の中,燈火ともしびのように自分を照らし,温めてくれたもの.

 

 お祖母ちゃん……

 シノノメはいつか幼い日,夕焼けを見ながら,テラスに並んで座っていた時のことを思い出していた.

 茜色の空.

 紅葉が赤い光を受けて,辺り一面が暖かな赤に染まっていた.

 自分の手を握る手の柔らかさ.

 もたれかかっていたあの体の温もり.

 祖母が歌う童謡.

 山に響くカラスの声.

 体と心を包む,深い安心感……


 その時,シノノメは気付いた.

 様々な冒険クエスト数多あまた戦闘バトル――永劫旅団アイオーンで潜り抜けた,どんな胸躍るはずの想い出よりも,どうしてあの中央平原の夕日の記憶が鮮烈に心に残っているかを.

 

 あの時,夕日を眺める二人の想いが一つになっていたからだ.

 祖母,孫と名乗っていなくても,姿かたちは違っていても,仮想世界であっても……

 二人の胸に同じ光景がありありと蘇っていたからだ.

 二人の間に言葉はいらなかった.

 同じ想い出を共有し,同じ気持ちで繋がれた瞬間だったからだ.

 

 そう気づいたとき,心の奥に小さな灯がともるのを感じた. 


 「私を,守ってくれていた……ありがとう……」


 シノノメの頬を,哀しみとは違う涙が一筋伝って落ちた.

 そして,その遠い記憶は,もう一つの記憶を呼び覚ました. 


 暗闇の中で,誰かの声がする.

 血の匂いがした.

 苦しくって,体が動かなくって,何も見えなくって,怖くて……

 遠くから聞こえる,チリチリという鈴の音.

 マグナ・スフィアに参加してから時々聞こえる,不思議な音.

 ……?

 違う.

 あれは,鈴の音じゃない.

 ……唯.

 ……唯.

 自分を呼ぶ,小さな声だ.

 何度も,何度も……

 あれは……


 「そう,貴女は守られていた.ずっと.孤独じゃない」

 クルセイデルの声でシノノメは我に返った.

 だが,胸の奥には小さな小さな温もりが残っている.

 

 「温かい……」

 シノノメはそれをそっと抱きしめるように胸を押さえた.

 かつてカカルドゥアで手に入れ,シンハの意識の中で失くした温もりに比べると,比べ物にならないほどの小さな燈火ともしびだったが,その懐かしい温かさはとても掛け替えのないものに思えた.


 「……彼女はそこにいる.貴女は思い出せば,いつでも会えるの」


 クルセイデルは笑みを浮かべ,少しだけ歩み寄ってシノノメの肩に両手を乗せた.

 右手がブルブルと震え,小さく動かすだけでも苦しそうだった.


 「クルセイデル……それは……」


 だが,彼女は笑みを絶やさない.クルセイデルがシノノメの両肩に触れると,ずぶ濡れだった身体はたちまち乾いて暖かくなった.

 雨の中で泣いていたのが嘘の様だ.気づけば,シノノメの頬に涙の痕跡がわずかに残っているだけだ.

 雨上がりの水を飲みに来たのか,シノノメとクルセイデルの間を横切る様に蝶がひらひらと飛んでいく.

 

 風はすっかり止んでいた.

 辺りを見回せば,風に吹き飛ばされた花々が再び花開き,色とりどりに咲き乱れていた.

 雲一つない,雨上がりの美しい空が頭上に広がっていた.

 それはどこか朝焼けの空のようで,うっすらと差す茜色はシノノメの記憶の中の夕日にも似ている.だが,憂愁を帯びた夕日の朱色とは違って,新しい一日を迎える希望に満ちたくれないに思えた.


 「……私にも,もうあまり長い時間は残されていないの.でも,私は信じている」


 クルセイデルはすっと身を引き,シノノメから体を離した.

 そうして,棒の様に垂れ下がった右腕を左手で抱くと,墓標の列を眺めた.

 

 「私たちの感情も,この仮想世界の体験も,全てが電子情報だとしても……消えて無くなってしまうのではない.想いは残る.そして,残された者は,思い出さなければならない……彼らとともに共有した想いを.ある時は悲しみや,寂しさとともに.時には後悔とともに.それが,残された人々の責務.でも,そうすれば,去って行った人たちにまた会える」


 彼女の心を反映するように,空は澄み渡った青空に変わっていた.毅然とした言葉の端には固い信念と,そして願いが込められているように思えた.


 「……そうやって,私はずっと見送ってきた.魔法院がここにある限り……想い出は生き続けるの……永遠に」


 「思い出せば……また会える……」

 シノノメも墓標の列を目で追った.

 濡れた紫水晶の柱の列が,日光を受けて輝いていた.


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