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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第24章 幻想世界の黄昏
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24-1 幻想世界の浸食

 気づけば、俺は大空を駆けていた。

 雲を追い越し、銀色の翼で風を切って進めば、目標が見えてくる。

 目標は鈍重だ。

 俺のスピードにはついて来れない。

 というよりも、超高機動というべきか。

 目標の操縦席がみるみる近づいてきて、キャノピーの向こうにはヘルメットを被った頭が見える。

 表情は読めないが、恐怖か驚愕かそのどちらかだろう。

 耳元で、ふとアラームが鳴る。

 後方から敵三機接近中。

 馬鹿馬鹿しい。

 俺は急速に反転し、目標の下に潜り込んだ。

 まずい。

 無事だと思ったら、下にもいやがった。高性能のステルス機だったのだ。

 俺は慌てて翼を翻し、急旋回して回避しようとする。

 翼が捻じれる。

 一瞬失速する。

 「ああ」

 自分の声が聞こえた気がした。

 もう駄目だ。

 「リュージ,あきらめないで」

 耳元で確かな声がする。

 ココナだ。

 「貴方ならできる.負けないで」

 俺は再度体勢を立て直し、垂直に降下して敵機を急襲した。

 今も昔も、翼の付け根が鈍重な有人機の弱点だ。

 「頑張って! 私たちの国を守るために!」

 俺の機体――というよりも俺の身体から曳光弾とともに20ミリの銃弾が火を噴いて飛んで行った。続けて急速旋回し、上に回り込まれた敵機に空対空ミサイルを叩きこむ。

 あっという間に空に花火――爆炎の塊が二つできた。

 「やった! 流石!」

 ココナの声の向こうに、アラート音が聞こえる。

 と言っても実際にそれを捕えているのは俺の耳ではなく、俺の脳なのだが。

 どうやら俺の機体も傷ついたらしい。

 「大丈夫? リュージ?」

 向こうから残りの三機が近づいて来るのが見える。それにも俺と同じ――コウモリのような黒い小さな機体がとり付いている。

 あとは、あいつらに任せるか……

 アラート音が次第に大きくなり、俺は空から落ちて行く。

 青い海が見える。

 海面に叩きつけられれば、俺の機体はバラバラになるだろう。

 だが、その前に俺はまた帰れるのだ。

 しきりにさっきから耳元で――これも俺の脳内なのだろうが――ココナの声がする。俺を心配する声だ。

 ……帰る場所があるというのは、なんと素晴らしい事だろう。

 家はあった。だが、ごみ溜めのようなそれは、俺の体形に相応しい豚小屋のようなものだった。ただ居場所というだけのことだ。あれは,帰る場所とはとても言えない。

 誰にも必要とされず、道を歩けば誰彼にも蔑まれる存在。

 それが俺だった。

 だが見てみろ。

 俺は今、流線型の黒い体に銀色の翼を持ち、空を駆けている。

 鳥よりも早く、風よりも雲よりも早い。

 何という事だろう。

 陳腐な言葉だが、愛は偉大だ。

 今の俺には待っている人がいて、その人に愛されている。

 ああ、ココナ。

 俺は君の所にまた帰る。

 帰れば、きっと君の柔らかな体を抱きしめるのだ。

 君も俺を抱きしめ返してくれるだろう。

 みるみる海面が近づいて来る。

 なに、これはまたゲームオーバーになっただけの事。

 帰ろう、マグナ・スフィアの家に。


  ***


 「以上です。如何でしょうか?」

 スーツ姿の青年がそう言うと空間投影型モニタの映像が切れ、会議室は明るくなった。

 士官服を着た男が腕組みをしながら、手元の書類――有機液晶(OLED)のモニタだが――を確認している。

 「空間制圧能力が、第六世代有人戦闘機の十五倍、無人機の九倍か」

 「数字だけ見れば圧倒的だ」

 「いいえ、数字だけの問題ではありません。これは事実です。先日の国境防衛の映像はご覧になっての通り、領空侵犯機をものの数秒で制圧しました」

 「通常のAI搭載機よりも上ということだね」

 「その通りです」

 プレゼンターである青年は、嬉しそうに言った。

 「戦闘機に搭載できるサイズのAIは、単純判断は得意です。陸上制圧のように味方の認識票がないものをせん滅するといったような、単純な作戦であれば問題ないでしょう。しかし、ステルス化が進んだ現在、ドッグファイトの空戦ではそのような単純判断は通用しません」

 「かといって、有人機ではパイロットにかかる重力負担のせいで、機動力に限界が出る」

 「それでこの第三の方法というわけか。無人機の遠隔操作ではだめなのか?」

 

 「それは……」

 青年が口ごもったので、慌ててその隣の年長の男が前に立った。青年の上司だった。佇まいはより洗練されていて、有能な商売人ビジネスマンらしく、より機敏な印象を与える。

 「それも弊社で調査済みです。コントロールに限界があるんですよ。モニタを見てコントロールするのは人間ですが、それだと結局高機動運動に三半規管が反応して酔ってしまう――視覚から受け取る情報のせいで、そのように感じてしまうんです。彼らには当然三半規管などありませんからね。どんな急旋回も落下も、所詮電子情報に過ぎないわけです」

 青年の上司は自信たっぷりの様子で補足説明した。

 

 「資料を見る限り、いいことづくめだ……」

 プレゼンを受けた側はしばらく黙って、OLEDの画面をフリップしていた。


 「当然、人的損害もない。撃墜されても人が死ぬことはない。国民や馬鹿なマスコミの批判を気にすることもない。閣議対策も楽、というわけか。あとの問題は予算確保だな――まあ、財務省にしてみれば人件費の削減ができるから、問題なしという事か。防衛省,厚生労働省,財務省,おまけに防衛産業が潤って経済産業省まで大喜び。本当に良くできた話だな」

 仕立ての良いスーツを着たやせた男は淡々と言ったが、その口調は喜色に満ちている。 


「我が国の国防予算の大部分は人件費ですから」

 プレゼンターの上司――企業の営業担当者は、我が意を得たり、と言わんばかりに大きく頷いた。

 

「次官、空軍としては、是非このまま導入を進めたいと思います」士官服の男は顔を輝かせて頷いた。「パイロットの養成には時間もかかるし、費用も馬鹿にならない。しかしこれなら――いわば、戦闘に特化したサイボーグとでもいうものですよね」


 「とはいえ、陸軍も戦車に導入する計画もある。我が国は防衛作戦を余儀なくされるので、任務が複雑だ。他国に行ってせん滅作戦をしない代わりに判断能力を要する局面が多い」

がっちりした体格の男も肯く。


 「護衛艦への転用も可能とは本当ですか?」

 「左様です。イージスシステムだけでは判断できない補助、機雷除去の掃海艇も無人化すべきでしょう」

白い士官服の男の言葉に、プレゼンターの青年ははきはきと答えた。


 「しかし、何と言うか……本当に大丈夫なのかね?」

 それまで黙っていた初老の男がぽつりとつぶやくように言った。

 彼が口を開くと、士官服を着た三人の軍人は一斉に黙った。通常の上下関係以上の厳しい緊張が走る。男は彼らの上官だった。

 「私のような古い人間には、どうも胡散臭い感じが否めないんだよ。どうなのかね? 本当に危険はないのか? なあ、片瀬君」


 初老の男は部屋の隅にいたスーツ姿の女性に声をかけた。

 全員が長机についているのに、その人物だけは少し後ろのパイプ椅子に腰かけている。

 「危険、とおっしゃいますと? 山本幕僚長」

 四十過ぎとは思えない美貌と若々しさの持ち主であるその女性――片瀬は、澄んだ声で答えた。活舌の良い明るい声は、アナウンサーを彷彿とさせる。

 「無人機の頭脳チップに使う人間は、もともと厚生労働省が進めている例の計画の人間たちだろう?」

 「そうです。移住者と呼ばれています」

 「社会的に自立できなくなった――不健康な精神状態の人間が多いんじゃないのかね。ある日いきなり反乱を起こしたりしないのか。反乱して僚機を突然攻撃、とか」

 片瀬は失礼でないほどにクスリ、と笑って見せた。笑顔までが計算され尽くしたかの様に美しい。次官と呼ばれた男はそれを見てだらしなく笑った。

 「SFみたいですね。でも、大丈夫です。彼らの精神状態はきちんと管理されています。移住者たちには仮想世界での生活を守ることが第一なのです。そのためにこの‘防衛事業への参加’は必須という事を理解させています」

 「お国のためにか……いや、仮想世界を提供してくれる我が国のため、っていう事か。まるで一種の依存だな」

 「移住者は喜んで参加していますよ。彼らにとって、現実世界の戦闘は逆にゲームに過ぎないのですから。それにもともと、ゲームや軍事に詳しい人間が多いのです」

 「ゲームか……無人機同士が戦い合う戦争になった時、勝敗はどうやって決めるというのかな……」

 山本は背もたれに体を預け、腕組みをして唸った。

 「文学的過ぎます。それはまだ未来のこと。少子化により防衛力の減退が問題になっている我が国で、彼らは貴重な戦力です。誰からも必要とされていない人たちが生きがいを持って働いている。そして彼らもそれを誇りにしているのです。何の問題があるでしょう?」

 片瀬の言葉は力強く会議室に響いた。誰もが彼女の言葉に聞きほれるようにして頷いている。隅に控えめに座っている女性に、場は完全に掌握されているように感じられた。


 「現実と仮想世界が逆転する……本当にそれでよいのだろうか」

 だが、もう誰も山本の言葉など気に留めていなかった。


 ***

 

 シノノメが魔法院に来てからすでに数日が経った.

 幾度かの朝と夜が過ぎ,彼女は自室として与えられた魔法院の客間でため息をついていた.

 客間と言っても,エルミディアの館のような装飾や豪華な家具の類はない.

 白いシーツのかかった木のベッドと,簡素な文机,小さなテーブルと対になった椅子があるだけだ.

 「今日もクルセイデルに会えなかったね」

 シノノメが言うと,ベッドの上に寝っ転がったネムが眠そうな目で答えた.

 「仕方がないヨ.クルセイデル様って,現実世界でもとっても忙しい人らしいヨー」

 ニットの魔女服を着たネムは仰向けで編物をしながら話している.器用なものだ.

 マグナ・スフィアの時間は現実世界の二倍で経過する.薬剤師の仕事があるグリシャムもいつも来れるわけではない.一方,ネムの方は余程暇なのか,しょっちゅうシノノメのところにやって来ていた.

 「そう……」

 時間を持て余したシノノメはネムと一緒に,あるいは一人で魔法院の中を見学――というよりもうろついていた.

 「それにしても,魔法院って本当に学校みたいなんだね」

 「そうだヨー.試験もあるヨー.あたしは落ちこぼれだけどネー」

 ネムはまったく気にしていない様子で言った.

 

 ウェスティニアの魔法使いを志す者は,試験を受けて魔法院に入学すると,魔法使いとしての教育が始まる.

 基礎理論から実践,実習に試験に補習と,それは現実世界の進学校のようなカリキュラムになっていている.試験に合格した者は次の段階に進学し,やがて研究者あるいは冒険者として独り立ちしていくのだ.

 それは,童話に出てくる魔法学校にそっくりだった.

 

 「クマリさんの土魔法の講義,面白かったな」

 「そうでショ? 数学とか国語とかよりも楽しいよネ.粘土細工みたいで」

 

 今日見たのはクルセイデルの側近‘五大の魔女――ペンタ・エレメンタル’の一人,土魔法のクマリの講義だった.

 土精ノーム息吹いぶき――素明羅スメラでは息壌そくじょうと呼ばれる,自然増殖する半生物の土をイメージ通りに操る方法を学ぶというものだ.

 教室の後ろからシノノメがそっと覗いていると,他の生徒たちと一緒に参加するように計らってくれたのだ.

 褐色の肌に癖のある髪をしたクマリは,良く笑う快活な女性だった.印象的な黒い目をきょろきょろと動かし,生徒たちが作る土の造形物を見回っていた.

 シノノメが土鍋や皿ばかり作るのを見て,「これでは普通の陶芸です」と言ったので,教室は爆笑に包まれたのだが,それも愉快だった.


 「炎のヴァネッサさんもすごかったなぁ」

 「火で輪を作ったりして操るやつだネー.あたし,あれやるとしょっちゅうあちこちに放火しちゃうんだけどネー」


 火の妖精,サラマンダーを操ることに長けたヴァネッサの授業は,クマリの実習とは対照的に迫力満点だった.教室の中を竜や輪,稲妻状に形を変えた炎が飛び交うのだ.

 生徒たちはどの教室でも真剣でしかも楽しそうに講義に参加していた.


 「本当に,魔法院っていい雰囲気だね」

 「うん,でしょ? 居心地良いよネー」


 「でも,機械仕掛けの魔法――だっけ,メムの学院っていうのもできたよね?」

 シノノメは魔法院に来る前に見たブリューベルクの建物を思い出していた.こちらの魔法院が童話の世界だとすれば,あれは――何だろう.ライトノベルやラブコメディの漫画の雰囲気とでもいうのだろうか.どこか空虚で現実感の伴わない雰囲気だった.この違いは何なのだろう.


 「あちらも学校だし……ライバル校みたいなもの?」

 シノノメがそう尋ねると,それまでのんびりムードだったネムは編み物を編む手を止めてムクリと起き上がった.

 「違うヨ!」

 「どういうこと?」

 相変わらず寝ぼけ眼ではあったが,途端にネムの口調が真剣になったのでシノノメは驚いた.

 「あちらは,こっちみたいに試験も無いし,補習も追試もないヨ.何にもないヨ」

 「何にもない?」

 「メムの学院に入学した初心者のプレーヤーで,こっちに移って来た人に聞いたヨー」

 「試験も何にもないっていうと,そっちの方が楽で楽しそうに聞こえるけど……」

 「違うヨ.クルセイデル様もいつも言ってるモン.人間の向上心のために競争は必要だって.いけないのは結果で人を差別することで,えーと……それぞれの価値観を認めないシステムが間違いだって」

 

 ネムの言葉とは思えない言葉だった.クルセイデルの受け売りらしく,思い出しながら言っていた.

 だが,おそらくその言葉の通りのことが魔法院の主義なのだろう.確かに,ネムは魔法院では落ちこぼれだというが,それなりに講師たちに愛されているようでもあるし,ネム自身にも卑屈になっている様子はちっとも見られない.

 

 「じゃあ……あの人たちは何を目指して,あの学校みたいなところで何をしてるの?」

 「目的とか……無いみたい.ただ,魔法機械を組み立てる講習があって,修学旅行みたいのがあって……毎日文化祭や運動会の前みたいな雰囲気なんだって」

 「そんな……それで楽しいのかな.文化祭前とか,練習が大変で,学校に遅くまで残ってみんなでジュースを飲んだりお菓子を食べたり……確かにそういうのって楽しいけれど,普通の授業があるからこそ楽しいんじゃないの?」

 「うーん,よく分かんないけど,あたし,あっちは何かイヤー.何だかダラダラフニャフニャしてて」

 しょっちゅう寝てばかりいるネムの言葉では説得力はないが,確かに何となく言いたいことは分かった.

 「でも,電気を引いたりしてるよね?」

 「あれ,NPCの村人とか動員してやってるんだよ.自分たちはフニャフニャして,ブルドーザーみたいなの組み立ててダム作らせたり,道路作ったりとか,あたし,あーゆーの嫌い」

 「ダムまで作ってるの?」

 「みたいだよ.でも,良く知らない」

 

 シノノメは来る途中で見た石塔の列――高圧電線の配電塔を思い出した.それはとてもこの異世界にそぐわない,歪な風景であったように思う.そして同時に,その違和感からあることを連想していた.

 それはかつてカカルドゥアでマユリの邸宅に忍び込んだ時,武器庫の中を見て感じたときの気持ちに似ていた.アラビアンナイトのような世界に並べられた,黒光りする近代的な兵器の列から受ける不気味な予感は,ノルトランドで生産された銃を見た時以上のものだった.ここではない,どこか別世界から無理やり持ち込まれたもの.違和感を超え,危険で不吉なものをもたらす得体のしれない感情だ.

 

 シノノメが考え込んでいると,ネムは再び編み棒を動かし始めた.編み物をしているときのネムはとても幸せそうだ.


 「今,何作ってるの?」

 「え? それはネ」

 ネムは飛び切り嬉しそうに笑って,できつつある作品を広げて見せた.丸い袋状で,白と黒と茶色の三色模様になっている.

 「あ,その柄は……」

 「そうだヨ! 三毛ちゃんの卵に着せるんだ!」


 ネムは毛糸の糸玉がたくさん入った籠――ネムのアイテムボックスだ――から,同じ模様の卵を取り出した.鶏の物よりは大きく,ソフトボールほどの大きさの卵――空飛び猫の卵である.フレイド達がカカルドゥアのラージャ・マハール迷宮を攻略したときにシノノメにくれた物だが,カカルドゥアで自分を助けてくれたお礼に,ネムにあげたのだ.


 「卵にセーター?」

 「そうだよ,良いアイデアでしょ.あったかそう」

 ネムは早速出来上がった丸い袋をすっぽりと卵にかぶせた.

 「うーん,ネム……その卵は,ある程度自分で温めてあげないと孵らないよ.それに,空飛び猫は生まれて初めて見た人をお母さんと思うの」

 本当はステイタスウインドウを立ち上げて見てみれば書いてあることなのだが,ネムは全く読まなかったようだ.


 「えー.そうなんだ.じゃあ,こうしよう」

 ネムはセーターを着せた卵を大事そうに抱えると,ベッドの上で丸くなった.卵を孵す親鳥か,子猫を温める親猫にそっくりの姿勢である.

 「これできっと早く孵るね」

 嬉しそうにネムは言った.これにはシノノメも笑わざるを得ない.

 「……そうだね」

 

 ……こうしていると,色々なことを忘れそう……

 シノノメは真剣な顔で卵を温めるネムを見ながら思った.

 自分の記憶の事.

 クルセイデルが持っているかもしれない,記憶の鍵.

 そして,マグナ・スフィアを統べる女神,ソフィアの願い.

 ――我が子,サマエルを殺せ.

 サマエルを殺すどころか,自分の心――脳の中には,サマエルの欠片アルコーンの一人,ナーガルージュナ,ヤオーがいる.

 時折心の中で自分の感情を肯定し,あるいは批判する存在をシノノメは感じていた.

 心の指針――憧れの祖母にも似た存在.いや,祖母とナーガルージュナがまるで一つに溶け合ったような――神秘的な言い方をすれば,守護天使とでも言うのかもしれない.

 その存在がずっとシノノメに警鐘を鳴らし続けている.

 マギカ・エクス・マキナ――メムの学院は,危険だと.

 ……あの人たちを,どうしろというの? ナーガルージュナさん.

 そう心に問いかけても,答えは返ってこない.

 サバトとアスタの申し出は未だに鉛のように重く心にのしかかっている.


 ずっとこの世界にいたら,どうなのか.

 かりそめのパートナーとともに,永遠に幸せに過ごせばいいのではないか.


 ――ファンタジーが終わりそうになると,止めるのが嫌で,ずっとそれを楽しんでいたくなる.

 間違いなく,かつて自分が言った言葉だ.

 自分のレベルは現在98.

 シンハと会って心の輝きを失った後,少しレベルが下がってしまった.

 だが,確かに,このマグナ・スフィアをゲームととらえるならば,終わりは近いのだろう.

 だからと言って終わることを惜しんでいる場合ではない.

 夢から目を覚まし――きっとあの人に会うんだ.

 そう叫び続ける自分が心の中にいる.

 でも,どうすれば?

 どうやればこの終わりのない夢――鏡の中の鏡の様な迷宮が終わりになるのか――見当もつかない.

 あまりの果てしなさ――途方も無さに,心が苦しくなる.

 

 シノノメは椅子から立ち上がると,窓の鎧戸を開けた.

 心地よい風が頬を撫で,レースのカーテンを揺らす.

 潮騒とカモメの声が耳に心地よい.

 暑くもなく寒くもない,気持ちの良い午前の空が広がっていた.

 

 そうだ……厨房に入らせてもらって,お昼の支度をしよう.お世話になっているんだから,それくらいはしなくっちゃ.

 仮想世界の食事は,単なる脳の電気刺激に過ぎない.それでも味覚は喜びを与えてくれるはずだ.

 あの人,ご飯どうしてるんだろう……

 今までずっと食事の支度をしていると思っていたあの‘家’は,偽物の世界だった.

 顔の思い出せない夫のことをふと思って胸が切なくなった.

 

 とりあえず厨房に行くことを決めたシノノメが振り返ってベッドの方を見ると,ネムは卵を温める姿勢のままで熟睡していた.

 「ちょっと,ネム……」

 ネムを起こそうと,そっと肩に手を置こうとした瞬間,どうっと窓の外から強い風が吹き込んだ.

 「あっ」

 吹き込んだ風はくるくると小さなつむじ風を作り,部屋の中央で小さな竜巻を作った.

 不思議な竜巻はテーブルの上にあった紙片を数枚吹き飛ばすと,次第に実体を持った黒い影を作り始めた.

 子供ほどの大きさの黒い影は,やがてくるくると回りながら回転を止め,風がやむとともにそこには一人の人物が立っていた.

 シノノメは右手をネムの肩に置こうとする寸前の姿勢で固まっていた.


 「あなたは……」

 「ネムはそのまま寝かせておいてあげなさい」


 声は幼女の物なのに,その抑揚は落ち着きのある賢者のそれだ.

 黒いとんがり帽子に,黒いローブを羽織った,赤髪碧眼の少女.

 ユーラネシア大陸,最高の魔女.

 ウェスティニア共和国魔法院が誇る最高魔導士マギステル

 クルセイデルその人が静かにそこに立っていた.


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