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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第23章 機械仕掛けの魔法 ウェスティニア共和国編 序章
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23-5 虚構の陽だまり

 「ここにいる生徒――プレーヤーは,自分専属のパートナーがいて,それがちやほやしたりしてくれて,いつもいい気分になる様にしてくれているんでしょ」

 

 シノノメは少し驚いていた.あまり怒りっぽい方ではないのに,知らず知らずのうちに自分の言葉が怒気を孕む気がする.それは意志というよりも,もっと奥深くの感覚的な何かがそうさせるように思えた.

 本能とでもいうのだろうか.この‘メム’に強い違和感を抱いてしまう.嫌悪感とも違う,拒絶する感覚というようなものが,どこからか湧いて来るのだ.

   

 「そうなの? シノノメさん」

 「うん,唇の動きや目の動きで分かるよ.NPCのパートナーは,そういう言葉だけをささやき続けてるの.貴方が一番です,とか貴方しか愛していないとか――まるで,過保護の親みたいに,ほめて,なだめて……あんなのおかしいよ」

 

 さらりとシノノメは自分の不思議な能力――超感覚のことを口に出していた.しかし,あまり論理的な説明が得意ではないので,どうしても言葉足らずになってしまう.


 「確かに,町であったカップルも,そう言えば……」

 グリシャムはココナとリュージのカップルを思い出した.咄嗟の会話にぎこちなくなってしまった青年の会話を,上手に少女が誘導してコミュニケーションを成立させていた.


 「うん,そう.全部あんな感じ」

 シノノメが眉をひそめて頷く.

 ……何かが間違っている.

 そう伝えたいのだが,うまく言えない.


 シノノメの追及に,ふう,とため息をついてからアスタが口を開いた.

 「東の主婦殿が何を不満に思っているかはわかりませんが――それはその通りです」

 だが,彼の口調はきっぱりとしてためらいが無かった.


 「やっぱり……」


 「君が空想の友達みたい,と言っていたのは正解だ.僕たちは,彼ら・彼女らをまさにイマジナリーフレンドと呼んでいる」

 サバトは口元に小さな笑みを浮かべて言った.


 「イマジナリーフレンド?」

 「理想のパートナーだよ」

 「理想の恋人,友人.決して傷つけることなく,裏切ることなく,従順に愛を捧げ続ける.君たちの世界でも,携帯端末や家庭用のAIにそんな機能を持たせて喜んでいる人がいるじゃないか」


 「そんなの……オタクチックでキモイよ」

 一瞬つばを飲み込んだ後,シノノメは率直すぎる感想を口にした.だが,心の中に抱いている疑念の本質は,もっと暗く淀んだ何かなのだ.

 「コミュ障のオモチャです.普通じゃナイわ」

 グリシャムも相槌を打つ.


 アスタとサバトは顔を見合わせて首を振った.同じ顔の二人が顔を見合わせていると現出した鏡像のようで不思議な光景だ.

 「君たちの世界にある様な二次元のイラストや,ホログラムや,玩具じみた人形じゃない.手を握ればちゃんと実感があるし,抱きしめればちゃんと温もりがある.ずっと高度で素晴らしいと思わないの?」


 「……それは,おかしいよ」

 温もりという言葉にシノノメは身体を震わせた.

 シンハの意識の中で失くしてしまった,かけがえのない温もりを想起していた.それは仮想世界の中で発見した,自分の真実の感情だったのだ.彼らが作り出しているのは仮想の温もり――愛情であり,偽りの感情であるようにしか思えない.


 「彼らはそれで幸せなのです.幸せになって何が悪いんです?」

 「おまけに,彼らは僕たちの世界――君たちにとっては単なる仮想世界かもしれないけれど――を豊かにしてくれる.いいことづくめだ」

 アスタとサバトは淡々と言葉を継いだ.


 「不自然だよ.そんなことしたら――そんなことをずっと続けたら,現実世界でどうやって生きていくの?」

 「それほど危険ですか?」

 「だって,生きていくうえで一番しんどいのは――衣食住や,環境なんかもあるけれど,それでも――人との関わりあいだよ.それが無いっていうんだったら……」

 虚像のぬくぬくとした環境に包まれているのであれば,人はいかにも脆弱ぜいじゃくになってしまうのではないか.シノノメの言いたいことがグリシャムにも分かり始めた.

 「軋轢あつれき……ね.全く人との軋轢がない社会なんて――あり得ない」

 「人間は赤ちゃんのときから――たとえどんなにお母さんに守られていても,自分の想い通りにならないことや人たちとの戦いの連続だもの.それが全くないなんて,不自然だよ.みんな,居場所は自分で見つけていったり,作ったりしていくんだよ.なのに,それを人に与えられるなんて……」


 「ふふん……」

 アスタとサバトはぴったり息を合わせたように小さく笑った.

 「では,君たちの世界で生きていけない人間はどこに行けばいいんだい?」

 「平凡な日常に没入し,あるいは脱落し,希望も夢もなく,倦怠感と惰性で生き続ける人々が別世界に夢を求めて何が悪い?」

 「どういうこと?」

 「やっぱり……予想はしてたけど,もしかして……」

 真実の予感に息を呑むグリシャムの顔を,シノノメは怪訝な顔で見つめた.


 「彼らは移住者だ」

 アスタが執務机に置いた両手を組み,ぽつりと言い放った.

 「君たちの世界では生きていけない弱い人たち.この世界を新たな永住先として自ら選んでやって来た人々だよ」

 

 現実世界では意識を失っているシノノメには,アスタの言ったことの意味が理解できなかった.だが,耳が一つの単語の不吉な響きをとらえていた.


 「永遠,って,どういうこと?」

 「……社会的落伍者の意識を電子情報化して,この世界に永住させる……」

 「五聖賢みたいに? そんなことが……今,起きてるの?」

 この一年ほど,シノノメが帰っていた‘家’は意識の中のかりそめの存在だ.ぼんやりとした意識で永遠に続くかのような平穏な日常を続けていたシノノメには,社会情勢に関する知識がほぼ欠けている.数カ月前から政府主導で電子人格化の事業が行われているなど知らないし,想像すらつかないことだ.


 「そう……らしいの」

 グリシャムは微かに顎を引いて頷いていた.

 

 「社会保障費の節約にもなるし,何より彼らが自分で望んでこちらの世界に来るんだ.あちらの世界では役に立たない人間でも,こちらでは――そう,生まれ変わったとでもいうのかな?――貴重な知識を持つ人材だよ.というよりも,その様にこちらが扱う」

 「といっても,あちらの世界にも貢献しているんだけどね……おっと,これは秘密事項.失言だった」

 アスタの厳しい視線を受け,サバトが慌てて口を手で覆った.


 「そんな……」

 間違っている.

 記憶を取り戻しつつある今,シノノメには何より現実世界の温もりが恋しかった.それは今,望んでもどうしても手に入らないものなのだ.

 現実の身体を自ら捨て去る人たちの気持ちが到底理解できない.たとえどんなに辛い事情があったとしても,電気情報だけの人間になるなど,頭で理解できても生理的に受け入れられなかった.自分は希望しているわけでもないのに,それに近い状況に置かれているのだから.


 「安定した日本だけじゃないんだよ.紛争が多発している中東や,内乱が続く中国,貧富の差が極大化したアメリカの人たちもたくさん移住してきている」

 サバトはそう言いながら窓の外を見た.視線の先には町に立ち並ぶ四角い共同住宅が見えた.


 「完全電子化した人格が破綻することは,先のカカルドゥアの事件で分かったことじゃないんですか? 彼らは,現実の法律に拘束されないことを理解して,凶悪な犯罪を起こしていました」

 グリシャムは厳しい口調で反論した.

 五聖賢――電子人格化した大国の首脳や軍のリーダーは,カカルドゥアで人身売買や人体実験,植民地化による収奪などあらゆる事を行っていたのだ.それは,仮想世界であれば罰則が適応されないという考えから起こった自我の暴走だった.

 

 「それは大丈夫です.彼らは移住者,亡命者,移民と言ってもいい存在です.しかるべきこちら――ウェスティニア共和国の法律には従ってもらいますし,法を犯せば法に沿って処罰されます.そして,だからこその学院なのです」

 「……つまり,校則みたいなのがあるんだね」

 「そう,そして不安定な人格はイマジナリーフレンドたちがバックアップする.これによって人格が破綻することを防いでくれる」

 アスタが赤目を細めてにっこりと笑った.

 輝くような笑顔だ.グリシャムはどこかに違和感を抱きながらも口を閉ざさざるを得なくなった.

 「完璧な対策だろ?」

 サバトが背伸びを一つして歯を見せて笑った.

 「……つまり,みんなの考えを管理してしまうってことね.でも,それはそんなにうまくいくのかな?」

 それでも口を閉ざさないシノノメの言葉に,アスタとサバタが眉を吊り上げた.

 「人間って,本当に予想外で理屈に合わないことをしてしまうこともあるよ.あなた達の思った通りにいくとは思えない.きっと大変なことになると思う」


 「ほう……東の主婦の予言ですね」

 「では,僕たちをどうする気?」

 

 「ううん,どうでもいい.私には,もっと大事なことがあるもの」

 一瞬で張り詰めた空気を振り切るように,シノノメは大きく首を振った.

 「グリシャムちゃん,この人たちに会う用事はもう済んだし,行こう」

 ここにいると……何かおかしな気分になる.

 シノノメはドアに向かって歩き出した.

 ソファに腰かけていたグリシャムは慌てて立ち上がった.


 「大事な事か……あなたが無くしているという,記憶の事ですか?」

 アスタが澄んだ声で去ろうとするシノノメの背中に声をかけた.思わずシノノメの足が止まる.

 「そんなに現実世界に帰りたいのかい? 向こうには辛い現実が待っているかもしれないんだろう?」

シノノメは黙って振り返ると,サバトとアスタの顔を見据えた.

 「何が言いたいの? ……あなた達,そうか,サマエルの仲間――欠片アルコーンなのね」

 自分の記憶の秘密を知り,電子情報化した人間たちを統率するというこれだけのことを成し遂げる存在といえば,それしか考えられなかった.それにしても,自分の口からすらりとアルコーンという言葉が出ていることに少し驚く.おそらくナーガルージュナ――サマエルの欠片の一人,ヤオーの知識の影響だろう.


 アスタとサバトはその問いには答えず,口角を挙げて笑みの形を作った.

 「ならば……どうしますか? 僕たちを殺しますか?」 

 「戦ってみるかい?」

 アスタとサバトの赤い瞳が危険な光を帯び始めたので,グリシャムは万能樹の杖を手元に引き寄せて握りしめた.

 ……クルセイデル様,何でこんな奴らに会えなんて言ったの.

 心の中で舌打ちする.

 こんなはずではない.これではシノノメの記憶の手掛かりが得られるどころか,一触即発の大戦争が始まりかねない.彼らはNPCとはいえ,すでに強力な武力を蓄えている.おそらく,メムの魔導士と呼ばれるプレーヤー達も参戦するだろう.

 とすれば,ここは彼らの本拠地の中だ.いかにシノノメが強いとはいえ,多勢に無勢にもほどがある.グリシャムの頬を汗が伝った.

 

 「緑陰の魔女殿も疑問に思っておられるようだけれど,僕にはわかるよ」

 「何がわかるの?」

 勢いよく体ごと振り返ったので,シノノメの亜麻色の髪が揺れた.

 

 「僕たちに会うようにって,クルセイデルがシノノメに言った訳さ」

 アスタとサバトは紅い瞳をシノノメとグリシャムにじっと向けていた.瞳の色は燃えるようなのに,ぞっとするほど冷たい視線だ.二人は同時に口を開き,同じ声音でシノノメに呼び掛けた.

 

 「東の主婦――シノノメさん」

 「何?」

 声が共鳴すると,めまいを起こすような気がする.

 シノノメは堪えて赤い瞳を見つめ返した.

 

 「君は,こちら側に来る気はないのか?」

 「……どういうこと?」

 「君こそ,彼ら‘移住者’にとっての理想像だからさ」

 「理想……?」

 シノノメはアスタとサバトの言葉を反芻した.


 「現実世界から乖離かいりして仮想世界で雄飛する.仮想世界の誰もから見上げられ,崇敬される.君は素晴らしい存在だ.今や,このユーラネシア,いや,マグナ・スフィアに無くてはならない存在だよ.」

 「そう,その通り.君は,ずっとこのままでいたいとは思わないのか?」


 「それは……違うよ」

 「そうかな? ずっとファンタジーを楽しんでいたいというのは,君の願望のはずだ」

 「物語が終わりに近づくと,悲しくなって終わりたくなくなる.それは,君の本心だろう?」

 「それは……」

 ……かつて間違いなく自分が口にした言葉だ.

 アスタとサバトの言葉が残響こだまの様に部屋の中に響いた.

 いや,それは錯覚だ.響いたのはシノノメの心の中だ.


 「これこそ,クルセイデル様が僕たちに会えといった理由じゃないのか?」

 「僕たちのところにおいで.そして,一緒に歩もう,シノノメ」

 「君が望むなら,君を支えるイマジナリーフレンドを用意できる――君の理想の容姿でね.それを,君のご主人と思えばいいじゃないか」

 「彼は決して裏切らない.君を助け,君の心にずっと寄り添ってくれるだろう」

 「苦しみはない.現実と対峙する必要もない」

 「学院メムは君を喜んで受け入れるよ」


 その言葉は蜜のように甘い余韻をシノノメの耳に残した.

 ……違う,そうじゃない.

 シノノメは一瞬だけ目を伏せた後,顔を上げて言った.

 「行こう,グリシャムちゃん.クルセイデルのところに案内して」

 ……これ以上ここにいてはいけない.

 飲み込まれそうな感情を断ち切るために,言葉に力を込めた.


 「え,ええ」

 不安そうに見ていたグリシャムは慌てて杖をとると,シノノメの後に続いた.

 シノノメは元気よくドアを開けたが,荒々しく閉めようとして思い直した.

 自分の気持ちをドアにぶつけるのは,揺り動かされた自分の心を見透かされているようで悔しかった.

 動揺を押し殺し,そっと閉じる前にドアの隙間からもう一度アスタとサバトの方を振り向くと,二人は静かな笑みを湛えたままシノノメとグリシャムを見つめていた.


 「また会おう,東の主婦」

 「必ず」


 どこか余裕すら感じる.その言葉には答えず,ドアを閉めたシノノメは大きなため息をついてグリシャムの姿を目で追った.

 ……また心配させただろうな.


 「わっ!」

 そう思って見たグリシャムは,ドアの陰を見て小さくない驚きの声をあげた.

 「な,何?」

 つられて見れば,ドアの外に暗い表情の少女が座り込んでいた.

 ドアを開いた時には死角にいて気づかなかったのだが,それ以上に少女に気配――生気が感じられなかったのだ.

 少女は‘メムの学院’の制服を着ていた.前髪が目にかかりっているせいで,表情があまり読み取れない.

 体育座りのまま,前髪の隙間で覗くように上目遣いでシノノメとグリシャムをにらんでいる.


 「何?」

 シノノメは尋ねたが,少女は何も言わずただひたすら自分を見ている.その視線はあまりにも冷たく,殺意すら感じた.アスタとサバトの目が熱線の様だとすると,まるで氷のナイフそのものだ.


 「い,行きましょう,シノノメさん」

 「う,うん」

 少女の視線に病的なものを感じたグリシャムはシノノメの手を引いた.

 少し離れると,少女は立ち上がって二人を睨み続ける.

 出口に向かって歩いて行く間も,少女はじっと二人を睨んでいた.その姿はまるで幽鬼だ.

 五十メートルほど廊下を歩き,アスタとサバトの執務室を離れたころ,良く通る声の青年とすれ違った.

 青年は駆け足で少女の方に向かっている.少女とは全く対照的に,快活な印象だった.


 「ここにいたのか! ヒヨリ!」

 青年は少女にしきりに話しかけていたが,少女の方は黙ってシノノメとグリシャムを睨み続けている.

廊下の角を曲がり,二人の姿が見えなくなる頃,ようやく青年に手を引かれて少女は執務室の前から姿を消していた.


 「何なんだろう,あれ……?」

 「……この学院の,‘無理’みたいなものだよ.きっと」

 グリシャムの言葉に,シノノメはほぼ反射的に――ぽつりとつぶやくように答えた.


  ***


 再びゲートに戻り,ブリューベルクの郊外から魔法院の対岸に転移すると,空はもう茜色に染まり始めていた.

 いつしか二人の間で交わされる言葉は少なくなっていた.


 シノノメはずっと考え続けていた.

 自分を心配そうに見つめるグリシャムの視線は痛いほど感じていたが,言葉が出ない.

 そんな様子を察してくれているのかグリシャムも黙って海沿いの道を歩いている.


 海風にあおられ,シノノメの心の中ではとめどなく言葉があふれていた.

 自分は現実世界に戻りたいのだろうか.

 いや,それは間違いない.

 あの人のところに帰るんだ.

 あの人の名前も顔も思い出せないのに?

 会えば分かるはず.

 きっと,全て思い出せるはず.

 もし思い出せなかったら?

 思い出したとしても……あの人の気持ちがまだ自分にあるのだろうか.

 屍の様にベッドに転がっているやせこけた自分の姿を想像する.

 封印していた思いがあふれ出し,心の中でぐるぐると渦巻いていた.

 この世界にずっといれば――アスタとサバトの言葉が蘇る.

 そのたびに何度も頭を振った.

 

 ログアウトしても幻の家か,異様な世界にしか戻れないことはすでに理解していた.

 自分が自分としていられるのは,おそらくこのゲーム――仮想世界,マグナ・スフィアでだけなのだ.


 そうだ.

 自分はあの二人の申し出に惹かれている.

 この心地よい世界にずっといて,苦しみも悲しみも忘れて,楽しく生きられたら.

 そして,実際にそのように生活しているメムの魔導士――移住者たちに,どこか嫉妬のようなものを感じている.

 だからこそ,こんなに苛立つのだ.惹かれてしまう自分に.現実世界のことを忘れて生活するあの人たちに.

 でも……

 それではいけない.

 虚像まやかしの中で生きていたって,生きているって言えない.

 どんなことをしても帰るのだ.

 帰らなくっちゃ.

 ……本当に自分が帰るべき場所に.


 太陽が西に傾き,ミラヌスの沖合に浮かぶ魔法院の美しいシルエットが見えてきた.

 高い尖塔が薄墨色になった空を切り抜く様にそびえ立ち,夕日の残光を受けて塔飾りが輝いている.

 夕凪を迎え,潮が引くと,浅瀬が魔法院へと続く浅瀬が細い海の道を形作り始めた.


 「海の道だわ.良かった.渡し舟は使わなくて良さそう.あれ揺れるから苦手なの」

 グリシャムはすっかり黙りこくってしまったシノノメを気遣いながら,海中の道路を指さした.少しでも気が晴れるようにというつもりだろう.声のトーンが少し高い.

 「魔法院の周りは魔素の乱流があるから,魔法アイテムで飛んで行くのは難しいの」


 シノノメがグリシャムの指さす方を見ると,海の道の周りにぽつぽつと光が灯り始めた.

 「あれは……?」

 「鬼火の街灯.新米の魔法使いが灯す役目なの」


 オレンジ色の明かりは,笑うように上下に揺れたり,時々隣の鬼火同士で場所を入れ替わったりしている.可愛いともしびが作る幻想的な光景に,シノノメの気持ちはほんの少しだけ温められた.

 「ふざけっこしているみたいだね」

 「鬼火はお調子者だから」

 シノノメはグリシャムの後に続き,湿った海の道を歩いて行った.

 時折靴が深く砂に沈むと,小さな蟹やヤドカリが慌てて波打ち際に逃げていった.


 「さあ,着いた」

 普段は海水につかっている建物の基礎部分には石造りの階段が設けられていた.まだ海水を吸って黒っぽい色をしている.それを上ると,今度は黒い鉄格子の門が現れた.奥に石造りの壁と,傾斜するらせん状の道が続いているのが見える.


 「えー,こほん.開門せよ! 開門せよ!」

 格式ばった口調でグリシャムが朗々と叫んだ.


 「夜のとばりが降りんとするこの時間に何用か. 魔法院の一員をかたるならば,夜魔に囚われ,永劫の呪いを受けるであろう」

 鉄の門の上は道路橋で,物見の櫓がついている.櫓の中でとんがり帽子のシルエットが揺れていた.グリシャムの呼びかけに答えたのは,見張り役の魔法使いだった.

 いかにも魔法使いの総本山といった雰囲気に,シノノメはクスリと笑った.

 それでこそマグナ・スフィアの幻想世界だと思う.この世界を愛する人たちが,大事に守っている世界観,雰囲気だ.


 「我は魔法院の一員,緑陰の魔女!」

 「証を見せよ!」

 グリシャムは杖を宙で一回転させると,地面を突いた.

 杖の端から空に向かって緑色の光がほとばしり出る.光は空に広がると,蔓の絡まった六芒星の意匠に姿を変えた.

 「おお,まごう事無き魔法院の紋! だが,その後ろに連れしは何者ぞ!?」

 門の主が再び問いかけてきた.

 「むむ……メムとの関係で,ずいぶん厳重な警戒態勢ね……面倒くさいなぁ」

 少しだけ素に戻ったグリシャムは,そっと愚痴った.

 そんなやり取りに,シノノメも笑みがこぼれる.

 グリシャムは一度大きく息を吸い込むと,声を張り上げた.

 「いと高きお方,最高魔導士マギステルのお客人をお連れした」

 「そは何者か」

 「東の主婦,シノノメ!」

 

 その言葉に呼応したかのように,一斉に魔法院の窓に光が灯った.

 無数のオレンジ色の窓に,魔法使いのとんがり帽子――魔法院の制服の影が揺れる.

 「東の主婦?」

 「シノノメ?」

 ざわめきが夜風に乗って伝わってくるようだ.

 門の見張り――門番の魔法使いは意外な回答に驚き,どうしたらいいのか戸惑っている.

 門は固く閉ざされたままだ.どうやらグリシャムの使命は周知されていなかったようだ.

 

 「シノノメ? 東の主婦,シノノメと申したか!」

 代わりに別の方向から声が聞こえてきた.

 門の奥,緩やかな傾斜になった道の奥から,藍色を帯びた黒いローブをまとった魔女が歩いてきた.声の主は彼女だった.

 髪も黒で,目元も口紅も黒を基調としたメイクだ.肘上まである黒い手袋をつけていた.


 「あっ! リリス様!」

 「……誰?」

 「シノノメさんも,少しだけ素明羅で会ったでしょ? ウェスティニアの五大の魔女の一人,闇魔法のリリス様」

 リリスはしかし鉄の門扉越しに立ちはだかると,グリシャムとシノノメに厳しい視線を向けた.

 「こんなのナイです.私,間違いなくクルセイデル様に指示されてシノノメさんを連れてきたんです……入れてください」

 グリシャムは不満そうに言ったが,リリスの表情は固いままだ.

 「シノノメさん,メールをもらったんでしょ?」

 「う,うん,でも消えちゃったよ」

 いつもの元気をなくしたシノノメは自信なさそうに言った.

 「メールなど,偽造もできよう.それより,その者がシノノメというならば……本人に証を立てさせるがよい」

 「私が?」

 シノノメは自分を指さした後,思わず助けを求めるようにグリシャムの目を見た.だが,グリシャムもこんな展開になるとは予想もしなかったようで,戸惑っている.

 

 「お主が我らに危害を与えず,なおかつこの門をくぐるにふさわしい魔法の使い手であることを証明せよ.そして,お主がまぎれもなく東の主婦であるという事を示せ」

 リリスは厳しい視線をシノノメに向けた.


 「私が……私であること……?」

 「そうだ」

 リリスが頷く.

 「そんなのアリ? シノノメさんは……」

 今,あんなに傷ついているのに……グリシャムが言葉を継いでかばおうとしたが,シノノメは何かを振り切ったように前に進み出た.


 ……どうしても帰る.

 温かいあの場所,自分の本当の居場所に必ず帰る.

 そう決めたんだから.


 シノノメは門の前に立つと,黒い小山の様にそびえ立った魔法院のシルエットを仰ぎ見た.

 どこかで巣に帰る最後のカモメが鳴いている. 

 ふと,魔法院を包む夜の潮騒が,大きくなったような気がした.


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