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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第22章 仮想世界の彷徨人(さまよいびと)
165/334

22-7 暁の旅立ち

 日が落ちて部屋――唯の病室は暗くなり始めた。

 センサーが反応して、天井の自動照明が点灯した。

 部屋の中ほどまで進んだ風谷の視線から唯を守る様に、黒江はじっと黙って立っている。

 風谷はポケットに手を突っ込み、不謹慎ともいえる笑顔を浮かべて立っていた。

 その後ろでは千々石が胸に手を当てて立っている。


 その様子を見て璃子りこひそかに納得していた。

 たたずまいがまさにヴァルナ――飄々として捉えどころがなく、風のようだ。

 そして、小柄な女性はきっとクヴェラに違いない。

 だが、部屋の中の空気は電気を帯びている様にピリピリとして、緊張感に押し潰されそうだった。

 対する塚原セキシュウには流石の威厳と貫禄を感じる。

 それにしても、シノノメの夫であるという、黒江という人は……。

 いわおの様だ。

 疲れ果てた医師という初めの印象が嘘のようで、巨大な質量を持った岩石が急に部屋の中に出現した様だった。

 風谷から時折発せられる質問は、鎌鼬のように鋭く感じられる。

 だがそれは岩の表面を撫でる様で、彼の内部まで届くことはまるでない――完全に拒絶しているように見えた。

 風谷の言葉が本当ならば……

 レベル百。

 見当もつかない。

 あのシンハが悪事の限りを尽くしても届かず、超常の脳機能を持つシノノメが魔法と武技――正確には主婦スキルだが――の頂点を極め、カカルドゥアを滅亡から救ってもなお届かない境地。

 たかがゲームのレベルと言えばそうだ。

 しかし、レベル百のプレーヤーとは、数億人が参加するというゲームの頂点、仮想世界、人工生命圏の究極にある生物であるということだ。

 それこそがあの黒騎士、そしてここにいる男性だという。

 しかも、よもやそれがシノノメの夫だとなどとは、想像もしていなかった。


 「もう一度聞くぜ。あんた、闇の騎士――ダーク・ナイトは何故ユーラネシアでウロウロしている?」

 黒江は風谷の問いに答えない。

 

 「アメリアでレベル百になれば、目的は達したんじゃねーのか?」

 黒江はそれでも黙っている。

 風谷はすでに黒江を黒騎士と断定して話し続けていた。黒江はそれに対し否定も肯定もしない。


 「何故、お前はシノノメの危機にやって来る? しかも、普通のゲームオーバーで終わらない危機だ」


 無表情に黙り続ける黒江にむしろ焦れているのは、千々石の方だった。風谷は笑みを浮かべ、黒江が口を開くのを余裕で待っているように見える。


 「つまりは、それを察知しているってことになる。お前は、シェヘラザードも……もしかして、デミウルゴスのことも知っているのか?」


 黒江は口を開かない。

 すでにこうして三十分以上が経っている。

 風谷の来訪はあまりにも突然で、質問も態度も無礼だ。だが、部屋の誰もが尋ねたくて尋ねられない核心の問いだった。璃子も祥子も、彼の問いを遮ることができない。塚原も困ったように黒江の横顔を見ていた。


 「すみません、こんな突然……しかも、失礼な訪問の仕方で申し訳ありません。ですが、これは重要犯罪の捜査なんです。どうか我々に協力していただけませんか」

 風谷が黙って、代わりに千々石が口を開いた。

 その機会を待っていたかのように、黒江の身体が動いた。

 「あっ」

 千々石はようやく黒江が答えてくれるものと思って目を輝かせた。だが、次の瞬間に彼がしたことを見て肩を落とした。

 黒江は腕を伸ばし、窓のカーテンを閉めたのだ。窓から来る冷気から妻を守ろうとしただけの動作だったのだ。

 黒江が妻のことをとても大事にしている様子が見て取れる。ベッドの上で目を瞑っている彼の妻は、ゲームの中で会ったシノノメにそっくりだった。

 ……唯さん、だっけ。

 先ほど電子カルテのデータをハッキングしたが、年齢は22歳。シノノメは無邪気で少し子供じみているが、流石にこうしてみると電脳世界の彼女より大人びて見える。

 だが、面差しがそっくりだった。シノノメの姉がいるか、シノノメが成人したらこんな感じなのかもしれない。

 「ば、場合によっては国や政府、それだけじゃなくって、民間の人にもたくさんの被害者が出るかもしれないんです。お願いですから、協力してください」

 黒江はそれでも黙っていた。背中を風谷と千々石に向け、唯の掛布団を直してやっている。

 無言の拒絶だった。

 まるで、国だろうが政府だろうが、例え多くの犠牲者が出ようが、自分の妻以外はどうでもいいと言っているようにも見えた。

 「任意で協力して頂けないのなら、所定の手段をとって同行して頂いて……あなたの身柄を拘束することだってできるんです。そうすればあなたは病院にも来れなくなるんですよ!」

 千々石がそう言った瞬間、黒江の背中は一回り大きくなったような気がした。それまで黙っていた黒江が振り返り、眼鏡越しに千々石を睨んだ。

 殺気の籠った視線だった。まるで地獄の底から現れた幽鬼のような――視線で呪い殺す力を持つという邪眼を彷彿とさせる。

 突然黒い刃が黒江の体の中から姿を現した――そんな風にも見える。

 「ひ……」

 千々石はたじろいだ。思わずジャケットの胸元に下げた銃に手が伸びる。

 「馬鹿、よせよ」

 ひょいっと猫背の身体を揺らし、千々石を黒江の視線から守ったのは風谷だった。風の様に黒江の鋭い視線を受け流すと、ニヤリと口元に笑みを浮かべた。

 「この旦那、身柄を拘束して話す玉かよ。例え拷問を受けても答えそうにないぜ」

 風谷は身を翻すと、あっさりと背中を向けて手を振った。

 「じゃあまた来させてもらいます。今日はこのくらいにしときますんで。黒江さん、そして――シノノメにもごきげんよう」

 振り向きもせずに風谷は部屋を出ていく。千々石は軽く会釈すると慌ててその後を追って出て行った。


 「ふう……」

 張り詰めていた緊張の糸が一気に途切れた。

 璃子は思わずため息をついて祥子と顔を見合わせた。どちらからという事なくうなずきあう。

 ふと見れば黒江は椅子に座って妻の顔を見ているところだった。

 

 「黒江さん……」

 「黒江君……」


 塚原と祥子が同時に声をかけた。

 黒江からの返事はない。

 もし本当に彼が強欲のタワー・オブ・グリードの頂上に達して、何か願い事をしたとすれば……

 その答えは分かり切っていた。

 

 自分の妻が再び目を覚ますこと。

 ただもう一度、一目会って言葉を交わすこと。


 それ以外にあろうか。

 だが、彼の謎の行動の意味は一体何なのだろう。


 「話せないことなのだな……」

 塚原が黒江の真意を察して言った。

 シノノメ――唯の目を覚ますためには、何かが必要なのだ。そして、それを他言してはいけないと口止めされたのだろう――彼の頑なな態度と、鋼鉄のような意思と行動からは、そうとしか考えられない。

 だが、誰に?

 マグナ・スフィアを司る意思たる人工知能、ソフィアか。

 あるいは……造物主を名乗る悪魔のような人工知能、サマエルか。

 

 祥子もそれに気づいた。

 どうやらヴァルナたちは自分たちの会話を盗聴しているようだ。だが、それが黒江が黙っている理由ではない様だ。ここまでかたくなに話すことを拒むのは――そして、今までずっと口のきけない機械人形として一人で行動していたのには、きっと何か深い事情があるのだ。

 

 誰からも言葉が出なかった。

 璃子は哀しくなった。この部屋にいる誰もがシノノメのことを思いやっている。なのに、沈黙するしかないなんて、そんな事があっていいのだろうか。

 璃子はベッドの上で眠り続ける唯の顔を見た。

 少し青白いが、その面影は間違いなくシノノメの物だった。

 仮想世界で楽しく言葉を交わしていたのが嘘の様だ。見ていればいきなり飛び起きて、「アイエルちゃん」と声をかけてきそうな気がする。

 自分の友達たちがこんな悲しそうな顔で押し黙っているのを、あのシノノメが平気でいるだろうか。 

 璃子は顔を上げて、黒江の隣の丸椅子に思い切って腰かけた。

 ベッドから出ている唯の左手に触れた。

 きめ細かい肌が柔らかく、少し冷たかった。

 瞬間、それに反応するように黒江の身体が微かに震えた。


 「でも……一つだけ、いいですか?」

 璃子は思い切って黒江の横顔に声をかけた。

 「シノノメさんは……あまり女の子らしくない言葉遣いだったり、時々変なことを言ったりしますよね?」

 黒江は黙っている。だが、自分の言葉に耳を傾けていると感じた。

 「忍者軍団が猿軍団みたいとか、虫がすごく嫌いとか……少し子供っぽい様なことを言いますけど、あれは、怪我のせいですか? それとも、もともとあんな感じの人なんですか?」

 璃子の言葉に祥子と塚原が戸惑っている。

 不躾かもしれない。でも、きっと目を瞑っている唯はこんな会話を望んでいる。璃子はそんな気がしていた。

 「他にもお掃除ラララとか、恋のチャンスはあっちこっちにあるとか……」

 思い出すと、口元が自然にほころんでしまう。そんなシノノメが大好きなのだ。


 「ふ、ふ……」

 小さな小さな笑いに、思わず璃子は、そして祥子と塚原も耳を疑った。

 黒江の口元が少しだけ開いてかろうじてではあるが――笑みの形を作っていた。


 「それは……唯のもとからの物です……多分」

 「というと?」

 「彼女は面白い言い間違えを良くするんですよ。踏み台昇降運動のことを、踏み台症候群なんて言ったりしてました」

 黒江はゆっくり手を伸ばすと、妻の頬に手を触れた。

 「踏み台症候群? ……それはナイわ。どんな病気?」

 祥子は思わず吹き出した。

 「ずっと上がったり下がったりしちゃう病気みたい。ふふ、でもそれ、すごくシノノメさんらしいや」

 璃子が明るく笑うと、黒江は少しだけ目を細めた。

 塚原はほっとしたように微笑した。

 それでもなお黒江の目は深い闇の中にあるように暗かったので、ひどく淋しい笑顔に見えた。


 「すみません……皆さん」

 璃子と祥子が笑い終わるのを待ってから、黒江はぽつりと言葉を継いだ。

 黒江の次の言葉に三人は耳を傾けた。


 「……少し時間を下さい」

 黒江はそれだけを言うと、再び口を閉ざした。

 口元からは笑みの痕跡すら消え果ていた。


 ***


 シノノメはベッドに座って,ゆっくりと辺りを眺めていた.

 マグナ・スフィアに夜が訪れようとしている.

 楕円形の部屋をぐるりと囲む窓の外は,紫色の夜闇に染まり,星が見え始めていた.

 素明羅スメラの自宅だ.

 斑鳩いかるがの都は,巨大な扶桑樹の木そのものであり,町はその上に築かれている.シノノメの家はその中でも最上階の梢のほど近く,巨大な木の実をくりぬいて作られたものだ.

 魔石の明かりがゆっくりと部屋の中を照らし始めた.

 電灯に比べると温かく,ほの暗い優しい明りだ.

 天井に吊るしたハンギング・ガーデンから薄紫色の花びらがしずしずと舞い降りていた.

 自分の大好きなもの――現実世界の自宅を注文設計するときに入れられなかったもの――をふんだんに取り入れた,一番落ち着ける夢の家だ.


 グリシャムの言葉のまま,夢の中で唯はマグナ・スフィア・ログインのコマンドを立ち上げると,あっという間にここに移動していた.

 VRマシンもつけていないのに,ただ夢の中でそう望んだだけだ.

 移動できるセーブポイントとして,他にはカカルドゥアに借りたアパートとアーシュラのアジトがあったが,ほぼ無意識にこの場所を選んだようだ.そのあたりはあまり記憶が定かでない.


 「私の夢とマグナ・スフィアがつながっているみたい……」

 以前自宅の衣装箪笥の中からマグナ・スフィアに来てしまったことを思い出した.

 夢と夢.

 夢とゲーム.

 境界がなくなってしまったようだ.

 そう考えると,また自分の存在がか細く思えて不安になる.

 自分は,本当に自分なのか.

 自分と言うものが本当に存在するのか……

 首を振って,不安を追い払った.

 グリシャムがああやって来てくれたのだ.

 そして,思い出した.

 ――夢の中でパンの森をさまよっているときにふと思いついた考えだ.

 やはりこれは,何か自分の夫が関わっているのではないだろうか.

 具体的には分からないが,もし自分が意識不明になっているとしたら……

 彼は神経外科医だ.

 きっと何かの治療を尽くしてくれたに違いない.

 その結果,今の不思議な状況になったのかもしれない.

 これが理論的な推理と信じたかった.

 というよりも,そう思っていたい――夫とつながっていると信じたい自分がいる.

 ともすればあの冷たい闇の中の言葉が蘇る.


 ……夢の中にいるお前を,夫が愛し続けていると思うのか?


 今頃現実世界の自分が,誰にも顧みられない寒々としたベッドの上に転がっているとしたら……


 あの言葉は呪いの様に心を凍えさせる.

 シノノメは自分の両肩を抱いた.


 いけない.

 分からないことは考えてはいけない.とにかく,できることをしよう.


 この仮想世界でできた,本当の友達がいる――

 シノノメは右手を掲げ,通話ソフトであるメッセンジャーを立ち上げた.

 視界の端に届いているメールが通知された.

 二百四十三件.

 たまりにたまっている.

 これだけの数のメールを見るといつもはげっそりしてしまうのだが,何だか少しホッとした.

 自分というものが確かにあって,そこに繋がっている人たちがいるという事実の証拠だ.

 開封してみた.

 マグナ・スフィアの運営からの通知,たくさんの友達承認依頼のメッセージ.

 友達承認依頼の中には,ユグレヒトやフレイドの物もあった.

 仮想世界のキャラクターの顔がついている.

 思えばシノノメは顔の見分けがつかず,いつも確認もせずにゴミ箱に捨てるか放置していたのだ.いつの間にか他人の顔が認識できていることを,シノノメは自覚していなかった.


 「迷惑メールは削除して……一言ずつでも,全部読んで手紙を書こう」


 没頭すれば,嫌なことは少なくとも忘れられる.

 シノノメはメールを開封しては次々に返信していった.

 それは自分の実在――確かにここにいるということの証明作業のように思えた.

 ふと手が止まる.

 グリシャムとアイエルからたくさんのメッセージが届いていた.

 少し控えめな,心配そうな文章がたくさん並んでいる.その全部に目を通した.

 そして,一番新しいグリシャムのメッセージをシノノメは開封した.

 

 ‘シノノメさん.

 涙の海から帰って来たね.

 おかえりなさい.

 必ず,サンサーラの中央広場で会いましょう.‘

 

 日付と時間が書いてある.マグナ・スフィア時間だと明後日だ.


 「あれは……夢じゃなかった.よかった……」


 きっとシノノメが不安になると思ってこのメールも送ってくれたに違いない.

 シノノメの目にはいつの間にか涙が浮かんでいた.

 だが,なぜサンサーラの中央広場なのだろう.あそこには他の都市に行くための魔法門――転位ゲートがある.グリシャムはどこかに行くつもりなのだろうか.

 グリシャムのメールを大事に保存すると,あとは数通残るだけだ.

 運営のゲーム規約に関するメールに簡単に目を通して削除すると,思わず手が止まった.

 昨日届いたメールのレターヘッドについた差出人の顔に見覚えがあった.

 寝ぼけまなこの,ニットの魔女帽をかぶった少女である.


 「ネムだ!」


 カカルドゥアでともに戦い,悲惨な最期を迎えた編み物師の魔法使いである.五聖賢の攻撃は現実世界の脳にも障害を及ぼすという.無事だったのだろうか.

 シノノメはすぐに開封した.

 動画と音声が入ったメールだった.だが,そこはゲームの魔法世界らしく,くるくると巻かれた羊皮紙スクロールが宙に浮かび,ポトンと床に落ちて自動的に広がる.

 広がるとそこからモクモクと煙が立ち上り,立体映像が浮かび上がった.

 まさに本物の魔法の手紙である.手の込んだメールだ.ネムには悪いが,彼女にこんな細かい技ができるとは思いもよらなかった.

 

 「わー,すごい!」

 思わず歓声を上げると,煙の向こうから,寝ぼけ眼の魔女の顔が現れた.

 

 「やっほー,シノノメ,あたし.ネムだよ」

 

 ネムはヘラヘラと笑いながら手を振っていた.相変わらずの調子だ.


 「元気? 友達承認お願いねー」


 それだけの内容にしては手が込みすぎている.

 そう思った刹那,手を振るネムの後ろから別の人影が現れた.

 

 黒い魔女服――とんがり帽子とローブに身を包んだ,小柄な人影だ.ほとんど子供と言ってもいい.

 「このメール,あたしじゃなくってクルセイデル様に作ってもらったのー.クルセイデル様,シノノメに用事だってー」

 そう言うと,ネムの幻影は手を振りながらゆっくりと姿を消した.


 「クルセイデル?」

 シノノメは眉をひそめた.

 煙の中,代わりに燃えるような赤い髪と緑色の瞳を持つ魔女が前に進み出てきた.背格好は中学生ほどだ.

 「斑鳩公会議の時以来ね.ごきげんよう.東の主婦,シノノメ」

 クルセイデルは幼い顔に似つかわしくない笑みをゆったりと浮かべ,シノノメに微笑みかけた.

 魔法マギ・マイスター.マギステル.

 最高魔導士.

 西のウェスティニア共和国が誇る魔法院最高位の魔法使い.

 推定レベル95以上.

 幼女の姿をしたユーラネシア大陸最強の魔法使い.

 まぎれもなくマギステル・クルセイデルその人だった.


 「私が直接メールを送ると色々と支障があるので,ネムのメールを利用させてもらいました」

 「クルセイデル……」

 シノノメは思い出した.


 ‘西の魔女から東の魔女へ.貴女が思い出したとき,再び巡り合える.’


 祖母を彷彿させるメッセージをネムに託した人物こそ,彼女だ.

 「あなたは,お祖母ちゃんのことを何か知ってるの?」

 思わずそう問いかけたが,双方向通話ではない.これはただの保存された映像なのだ.だが,その反応を予想していたかのように,クルセイデルの映像は頷いて言葉を継いだ.


 「時が来ました.ウェスティニアの魔法院にいらっしゃい.貴女に告げなければならないことがあります」

 「私に?」


 シノノメはクルセイデルの表情から真意を読み取ろうとしたが,何も読み取ることはできなかった.ただその神秘的な瞳でシノノメに優しい笑みを投げかけている.

 

 「貴女のお友達――緑陰の魔女が道案内をしてくれるでしょう」

 「グリシャムちゃんが?」


 それでサンサーラで待ち合わせるのだろうか?

 シノノメはいつしかクルセイデルの表情が険しくなっていることに気づいた.


 「そして貴女は――この世界と戦わなければならなくなるかもしれない」

 それだけを言い残すと,クルセイデルは煙の中に姿を消した.

 入れ替わりに手を振るネムの映像が再び現れる.


 「じゃーねー.魔法院でまた会おうねー」

 ネムがそう言うと,ポンと小さな煙を上げて巻物は消えた.


 「クルセイデル……」

 シノノメは呟いた.

 「一体どういう事なんだろう……告げたいこと? お祖母ちゃんのこと?」

 もしかして,クルセイデルこそ祖母なのではないかと少しだけ考えたこともあったのだ.だが,今の映像を見るとやはりどうもそうではないように思える.

 しばらく考えていたが,どうしても分からなかった.

 辺りはすっかり夜闇に包まれ,部屋の中も暗くなっている.

 メールの整理が済んだのでウィンドウを閉じ,シノノメはベッドに身を投げ出して天井を見つめた.


 後から後から考えが湧いて来る.

 クルセイデルと祖母には何か関りがあるのだろうか.

 ウェスティニアの魔法院なら,首都ミラヌスの沖合だ.誰でも知っている.グリシャムはどこに連れて行くのだろう.

 そこには私の一番知りたいこと――思い出したいこと……

 夫の記憶を取り戻す鍵があるのだろうか.

 そして.

 ……世界と戦うとは,どういう事だろう.


 目を瞑ってみたが,ネムの様に仮想世界で眠ることはシノノメにはできなかった.

 ネム.

 そう言えば,空飛び猫を欲しがってたな.

 フレイドさんに新しい卵をもらったときには,申し訳なくってその場ですぐあげられなかったけど.

 右手をかざし,召喚獣――空飛び猫のラブを呼び出す.

 そして同時に,ウィンドウの中にもう一つまだ孵っていない空飛び猫の卵――三毛猫柄の卵があることを確認した.

 空飛び猫は少しだけ羽根を羽ばたかせてシノノメの胸元に着地すると,丸くなって鼻を擦り付けた.

 軽く頭をなでると,グルグルと喉を鳴らして寝息をたてはじめた.

 静かすぎて淋しくなった部屋の中で,ラブの吐息が温かい.

 ……赤ちゃんが生まれてからって言ったけど,あんなに助けてくれたし,この卵はやっぱりネムにあげよう……

 魔法院に着いたら……

 グリシャムに明日会ったら……

 ウェスティニア……

 思い出せないけどあの人に会いたい……

 シノノメはやがて,仮想世界で深い眠りに落ちていた.


 ***


 朝が来た.

 部屋の中いっぱいの日差しの中,シノノメは目を覚ました.

 朝焼けの光のせいで,部屋はどこもかしこも茜色に染まっていた.


 「さあ,行こう」


 シノノメはベッドから身を起こすと,着物に着替えた.朝焼けをそのまま染め上げたような加賀友禅だ.茜色のグラデーションに美しい手書き模様の花弁が散っている.金糸の刺繍が入った帯を締めると,身がしまって気が引き締まる気がした.

 これと同じ柄ではないが,加賀友禅は夫が結婚してから初めて買ってくれた着物だった.おおやけの場所に出るときに着ていくようにと言って,少し無理をして買ってくれたのだ.

 その着物は,学会のパーティーや結婚式で何度か着て活躍した.唯の容姿に映えると色々な人にほめてもらったこともあって,今ではとても大事な宝物の一つになった.着ていたときに隣にいた夫の顔を思い出せないのは哀しいが,こうしていると彼がそばにいてくれているような気がする.


 シノノメは顔を上げ,朝日が差す遠い空の向こうを見つめた.

 茜色の雲が旅立ちを祝福するように渦巻いている.

 グリシャムと待ち合わせをしているカカルドゥアに行くには,飛行船の定期便を使うか,ゲートを使うか.

 いや,違う.

 この朝の光と風で,自分の身体を洗い流したい.

 全ての迷いを払拭するように……

 そんな気持ちだった.


 「ラブ,行こう!」

 「にゃん!」


 シノノメの声とともに,空飛び猫はムクムクと大きくなった.                                                            

 テラスに向かう窓を開けると,少し冷たい朝の風が一斉に吹き込んで来る.

 柔らかい和毛にこげの生えた翼を雄々しく広げたラブに,シノノメは飛び乗った.


 「南のカカルドゥアへ! ――そして,ウェスティニアへ!」

 空飛び猫とシノノメは空に身を躍らせた.

 力強く翼が羽ばたき,抜け落ちた羽根が朝日の中で輝きながら踊る.

 

 きっと進んだ先に何かがある.

 もしかして……ここにはもう帰ってこないかもしれない.

 ぐんぐん小さくなる扶桑樹の上の家を振り返りながら,シノノメはなぜかそんな予感がした.


 最後の冒険……


 ふと浮かんだそんな言葉を胸に,暁の光の中,黄金の矢となったシノノメは南へと向かって行った.


22章はこれで終了です。次回よりウェスティニア編が始まります。この物語も、残り2部になりました。

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