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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第22章 仮想世界の彷徨人(さまよいびと)
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22-5 なみだの海

 ゲームの技なんて、何も無かった。

 武道や格闘技の経験は、小学校の時の空手教室と、中学高校で必須科目だった柔道くらいだ。

 射撃の腕など皆無だ。

 本を読むのだけは早かった。

 文献や論文を大量に読んで情報を集めるのは得意だ。

 大量のネット情報の中に散見する、‘強欲の塔’の情報。

 マグナ・スフィアのアメリア大陸、最終ステージ。

 その頂点に登れば、あらゆる願いが叶うという。

 不確かな情報だが、すでにできることは全てやった彼には、すがるものはそれしかなかった。

 だが、どうやって上に登ればいいのか。

 ゲームで勝ちあがるためにはどうすればいいのか。

 特殊なスキルは何も持っていない。

 普通のゲーマーが持っている基本的な知識すら無かった。

 だから彼は必死で考えた。

 自分にできて、他人にできないことは何なのか。

 ゲームの得意な子供や、学生より少しは自由になる金がある。

 だが、それでは足りない。

 わずかな休暇をかき集め、一週間連続で参加すればどうだろう。

 他のプレーヤーの休眠期間を狙って、爆弾を仕掛ければどうだろう。

 壁越しに不意打ちすればどうだろう。

 仲間のふりをして近づき、囮にして後ろから殺せばどうだろう。

 さらにその屍を利用して、闇討ちすればどうだろう。

 最後のとどめの筈の大量破壊兵器を乱発すればどうだろう。

 階層ボスがいるなら、階層ごと破壊すればどうだろう。

 他のプレーヤーがいても、全員同時に皆殺しにしてしまえばどうだろう。

 他のプレーヤーが無敵の身体部品パーツを持っているなら、それを引きちぎって自分の物にすればいい。

 無敵の装甲を手に入れれば、あとは技なんて関係ない。

 相手の攻撃ごと蹂躙して、踏み潰して壊せばいい。

 無駄な戦闘がしたくなければ、思い切り惨たらしく相手を破壊して、恐怖させてやればいい。

 戦いが楽しいなんて嘘だ。

 人を殺すことが美しく楽しいはずなんてない。

 神経系の配線も、血管に似たエネルギーチューブも、場所は分かる。

 人体の一番弱い場所を狙って腕をこじ入れ、思い切りねじりあげればいいのだ。

 そうすれば人間の体は容易く壊れる。

 機械人間だって同じだ。

 考えるな。

 心を凍り付かせろ。

 痛覚も触覚も邪魔だ。

 最後は近づいて、装甲で相手を引きちぎればいいのだ。

 目的は、ただ上に行くこと。ただそれだけなのだから。


  ***


 「こりゃ……本当にすげーよな」

 「ここまでのことをさせる情熱と言うか、執念と言うか……一体、何なんでしょう?」

 

 電子パッドのファイルにまとめた資料を読みながら、風谷ヴァルナと千々クヴェラは唸っていた。

 アルタイルこと日高に黒騎士――正確には闇騎士ダークナイトの話を聞いた二人は早速調査を開始していた。

 片瀬シェヘラザードの行動を掴むわずかな線――シンハの言葉につながる謎を解くためだ。

 かつて一人のプレーヤーが頂点に上り、その日惑星マグナ・スフィアの運行が止まったという。

 それをもし成し得たとすれば、闇騎士かもしれないと日高は言っていた。

 

 それにしても、ひどい。

 アメリア大陸プレーヤーの交流サイトにある掲示板は特に、一時期彼の悪口がその大半を占める内容になっていた。

 負けたプレーヤーの愚痴、怒り、罵詈雑言の塊で、読んでいても胸が悪くなるほどだ。

 ただ、そうしたくなる気持ちも分からないでもなかった。

 ありとあらゆる不正行為に近い手段で勝ち上がっているのだ。

 しかも、残虐だ。

 ユーラネシアで臓器売買や人身売買を行っていたシンハとは質の違う残酷さだ。

 ただ純粋に、戦闘行為そのものが無残で惨たらしい。

 仲間の前で死にかけた機械人の顎をむしり取って投げつけたり、内臓をえぐり取ったりもしている。

 ユーラネシアの剣士、アメリアで言えば銃の名手の様な戦いの美意識など欠片もなかった。


 「だが、こいつの目的ははっきりわかる」

 「というと?」

 「ゲームを楽しむ気なんて毛頭ない。ただ、欲望の塔の上に上がりたいだけなんだ。一分一秒でも早く、効率的にな」

 「そんなことをして、楽しいんでしょうか……って、その発想が違うのか」

 「ああ、そうだな」

 千々石は少しだけパッドから顔を上げて車の前を確認した。

 運転席に座っているが、都内のメイン道路ならAIが自動運転してくれる。とはいえ、時々行き先を確認しなければならない。渋滞回避で狭い道に入り込んだ時、地方の道路などはとてもAIは対処しきれないのだ。

 風谷は助手席のリクライニングを倒し、ほとんど寝っ転がるようにしてパッドの情報を読んでいた。

 「むしろ重要なのは、闇騎士が何のために上に上がりたいのか、そっちの目的の方だろうな。つまるところ、レベル百になったとして、何を望んだかだ」

 「何でしょう? 想像もつかないですね」

 「少なくとも、世界征服とかじゃないことは確かだな。だったら今頃とっくに核戦争が起きてるかもしれん」

 「そんな物騒な……でも、冗談じゃないんですね」

 「ああ、米露の中枢にVRマシンで洗脳された奴がもう何人もいるだろうからな。デミウルゴスがその気になれば、局地紛争から世界大戦まで望むがままだ」

 風谷はのんびりとした口調で言ったが、千々石は想像して震えあがった。

 「先輩の言う通り、この人は医療関係者なんでしょうか?」

 「分からねー」

 風谷はパッドを四つに畳むと、アイマスクの様に顔にかぶせた。

 「そ、そんないい加減な」

 「だが、この一週間ぶっ続けプレイってのが、どうもな」

 「ああ、グリシャムさんに教えてもらったんですっけ。血糖値が下がらないようにすれば、VRマシンの連続稼働時間を誤魔化して休眠ポーズなしでプレイできるって。医療関係者の発想ってことですね」

 「あと、グリシャムちゃんも言ってただろ? シンハは医者かもしれないってな。専門知識や思考パターン、独特の喋り方や言葉遣い――女のカンってやつか?」

 そう言うと風谷はわずかにパッドを押し上げ、千々石の横顔を見た。

 「あっ! その目は! 僕が女らしくないってことでしょう! セクハラですからね!」

 「自分のことを僕って言ってる奴がよく言うぜ」

 風谷はヘラヘラと笑った。

 「レベル100に到達した奴がいるかどうか、マグナ・スフィアの運営は公表してねー。っていうか、管理してる人間は少なくとも把握してなかった。ネットにも噂一つない。なのに、何故シンハはそれを知り得たかだ。こいつは、宝くじを当てた奴を知ってるみたいなものだな」

 「つまりごく近しい範囲にいた人物という事――とすれば、医療関係っていう共通項が不自然に多いってわけですか」

 そう言いながら千々石もパッドを畳み、ハンドルに両手を置いた。そろそろ目的地だ。

 「でもって、最近ぶっ倒れた医療関係者――医者がいるところをちょいっと調べたらあそこだ」

‘ちょいっと’と風谷は言うが、マグナ・スフィアの管理システムでは個人情報は厳しく管理されている。これは‘凄腕’と称賛される彼の情報収集能力の賜物なのである。

 「ここに……シンハを名乗っていたプレーヤーがいるんでしょうか……」

 AIの自動運転装置を切り、千々和は自らハンドルを操作した。病院の敷地内では、安全上バック以外の自動運転が禁止されている。

 玄関のロータリーが見えてきた。

 「いや、それどころか、もっと大きな情報が手に入るかもしれね―ぞ」

 たたんだパッドの下で、風谷は不敵な笑みを浮かべた。

 病院の名前は、神経精神医療センター附属病院。

 銀色に光る文字を横目に、千々和は駐車場に向かった。


 ***


 唯はよろよろと道を歩いていた。

 丸い池のある広場を通り抜け、来たはずの道に戻る。

 元の家に帰るつもりはなかった。

 だが、他に行く当てもなかった。

 マリーンの、‘一旦元の場所に戻りましょう’と言う言葉がよぎる。

 さらさらした砂の道を抜けると、誰もいないオープンカフェのデッキがあった。

 こんな物は前来た時なかったのに……

 そう思いながら歩いて行くと、地下に向かう螺旋階段があった。

 もしかして……ここが出口かも……

 もう何も分からない。

 さっきからずっとあの言葉が頭の中で繰り返されている。

 

 ……眠り続けるお前が……まだ愛され続けていると思うのか?


 それは呪いの言葉の様だった。

 シンハが発したのかは分からない。

 自分自身の心の中の不安が言葉になって噴出したのかもしれない。

 だが、その言葉が頭の中を一巡するたびに体が心から冷えて体温が奪われていくような気がする。

 

 ……苦しい。ぬくもりが……


 胸の前で手を合わせ、あの温かい輝きを思い出そうとしてももうできなかった。

 寒さに凍え、両肩を抱くようにして唯は螺旋階段を下りた。

 階段を降りると、そこにはきれいな砂浜が広がっていた。

 波の音がする。

 夜の海だ。

 地下なのに、空には美しい星空が広がっている。

 沖縄の離島で見た夜空の様にきれいな天の川が広がっているのが分かった。


 「きれい……」


 見上ると少しだけ明るい気持ちになれる。

 唯は星空の下に誰かがいることに気づいた。


 「誰?」

 その人物はサクサクと砂を踏む音を立てて近づいて来ると、唯の手を取った。


 「忘れたの? 君にこの星空を見せるために、ここに連れてきたんだよ」

 すらりと背の高い美青年だった。

 白いシャツにジャケットを羽織っている。


 「そう……そうだったかしら」


 混乱した頭では判断できなかった。

 彼が……夫だったかもしれない。

 いや、違う。違うと思うけど……

 唯は彼の腕をとって、一緒に歩いて行った。


 静かな潮騒に、サクサクと砂を踏む足音が響く。

 しばらくすると、牧草地が広がっていた。

 少年が歩いて来る。

 少し弟に似ていると思った。


 「あき君?」


 呼びかけると、少年はにっこり笑って言った。

 「僕はお母さんに薬を作ってあげるんだ。それは、この世界を出る鍵なんだよ」

 「鍵?」


 鍵……それは私の記憶にとっても大事なものだ。

 青年と腕を組みながら、唯は少年の行く先を見ていた。

 行先に柵があった。さながら牧場に放牧された家畜が出て行かないようにするものに似ている。


 「あ、それに近づいちゃダメ!」

 不意に叫ぶ声がした。

 振り返る。そこには白いワンピースを着た少女――マリーンが立っていた。

 「唯さん、あそこに近づいちゃいけない!」

 どうして? と言う代わりに、唯は再び柵の方を振り返った。

 少年が柵を潜って外に出ていく。

 だが……少年は出たはずの柵の前にまた立っていた・


 「僕はお母さんに薬を作ってあげるんだ。それは、この世界を出る鍵なんだよ」

 同じ言葉を繰り返すと少年は、何度も柵を出ては出現することを繰り返す。

 壊れた映画のフィルムを見ているように、何度も何度も繰り返された。


 「仕方がないな」

 唯と腕を組んでいた青年がそう言いながらひょいと手を伸ばした。

 グルグルとループの様な動きを繰り返していた少年は首根っこを掴まれ、柵から離れた場所に放り投げられた。

 不気味な無限のループ動作が止まると、少年は別の方に向かって歩いて行った。

 青年は何事もなかったかのように肩をすくめた。


 「あなたは……いい人なのね」

 少年を不気味な柵から助けてあげたのだ。

 「あそこに近づいてはいけないね」

 青年は唯の手を取ると、再び歩き始めた。

 後ろからマリーンがついて来る。

 「行ってはダメ! 唯さん、戻りましょう! さっきの階段のところまで、戻りましょう!」

 そう叫んでいるようだが、唯には何のことか分からない。

 夫……も隣にいる。

 何せ、マリーンの言う通り砂丘につながる道に戻って来たではないか。

 歩いて行くと、小さな木が生えていた。

 先ほどの少年が木の枝を掴んで、周りをグルグル回っている。

 引き抜こうとしているのか、それとも……

 「この木がクスリになるんだよ」

 少年はやがて回転を増し、空中でミキサーにかけられたように木とともにぐちゃぐちゃに入り混じった。

 「ひ……」

 唯はあまりの不気味さに思わず悲鳴を上げた。

 声に反応するように、腕を組んでいた青年が低い声で囁く。

 「……眠り続けるお前を……まだ愛していると思うのか?」

 その声は、シンハに似ていると思った。

 「きゃああ……!」

 悲鳴が、悲鳴にならない。

 唯は音のない絶叫で喉を震わせた。


  ***


 「それでは逸見いつみさん、逸見祥子さんでしたね。機械の説明は以上です。分かりましたか?」

 「はい、おおむね」

 祥子はVRPIの管制室にあるリクライニングシートに座っていた。

 横では谷安が不安そうに見守り、手に大きなヘルメットのような機械を持っている。

 谷安の髪はぺったりと撫で付けられ、寝ぐせの様な跡がついていた。

 彼女は臨床心理士だという。

 さっきまでこの装置を被って、唯の精神崩壊を食い止めるために必死で介入していたとのことだった。

 「外部の方に協力してもらうって黒江先生が言った時には少し驚いたんですけど、薬剤師さんなんですね」

 「ええ、それにシノノメさん――唯さんとは」そこまで言って祥子は黒江の不安そうな顔を見た。「親友です。マグナ・スフィアで会った、ね」

 安心させるために少し微笑を作って見せたが、黒江の表情は変わらなかった。

 「それにしても、急いだ方が良いぜ。セロトニン濃度が低下しまくってる。デストルドーの限界まで遠くない」

 医療工学士の国島が声をかけてきた。

 少し軽い感じがするが、唯のことを心配していることがよく分かった。

 「でも、祥子さんも心配です。極力安全を守るようにしなくては。私もそばでバックアップしますから」

 「ありがとう、谷安さん……っていうより、マリーンって感じね。下の名前で呼んでいい?」

 「もちろん」

 マリーンは祥子が機械を頭にかぶるのを手伝った。今時とは思うが、いくつか有線回線の部品があるようだ。被った後も慎重にコードの色を確認しながらつないでいる。黒江も黙々とそれを手伝っていた。

 「それで……でも、勝算はあるのか? マリーン?」

 国島に問いかけられ、マリーンは一瞬黒江の様子を窺った。

 彼の率直過ぎる物言いに黒江が傷つかないか、気遣っているようだ。

 「ええ……難しい方法だけど……精神科の毛利先生にも意見を聞いて、神経内科の先生たちにも教えてもらった。今の彼女が確実に自我を保てるのは、おそらくマグナ・スフィアの中よ。まだどういう仕組みかは分からないけど……あの仮想世界の中からマグナ・スフィアに行く道が途絶えていないのなら……」

 「マグナ・スフィアに行くように誘導すればいいんですね」

 祥子は頭に機械を付けたままで頷いた。

 国島は祥子の携帯端末から送られたデータを解析し、VRPIシステムにアップロードしている。

 「それで……逸見さんはこのアバターを使って、唯さんに接触するんスね。オッケー、今大急ぎでシステムにアップ中。あと数秒っス。これでうちのシステムの中では、祥子さんはエルフの魔女姿って、おい、緑陰の魔女グリシャム? ビッグネームじゃん!」

 「国島君、そんな場合じゃないでしょう!」

 興奮する国島を谷安はしかりつけた。

 こうしている間にも着々と時間は過ぎていく。

 モニタに表示された唯の精神図では、彼女の意識が水面下に完全に沈み込もうとしていた。

 「だけど、ちょっと待ってくれよ。アイテムを1個持っていきたいんだよな。こっちは……これ? マジ? こんなもの? まあ、どうせ魔法の杖を持って行っても形だけで唯さんが認識しなけりゃただの空気、棒切れだけどさ……」

 「国島君! 口は良いから、早くするの! 手を動かしなさい!」

 「分かってるってばよ! 見よ、この光速のブラインドタッチ!」

 ガチャガチャとキーボードを叩く音がした。

 「準備オッケー! 行けるぜ!」

 祥子の耳元でフィーンという作動音が聞こえ始めた。

 バイザーに’導入中’の文字が浮かび上がる。

 その下にあるのは、カウントダウンらしい。徐々に数字が減っていく。

 本当にVRゲームのようだ。

 もともと医療機器がゲーム機に転用されたとは聞いていたが……

 これは、ゲームではない。

 かけがえのない友達を救うのだ。

 祥子は右の手に触れるコンソールスイッチの上に指を置いた。

 いざとなったらこのスイッチで強制終了もできるという。

 指先にわずかに湿った汗を感じた。

 「では、祥子さん、気を付けて! 何かあったら必ず相談してね!」

 マリーンが手を振る。

 祥子はバイザー越しに、黒江の姿を探した。

 黒江は黙って祥子に頭を下げていた。


  ***


 もう少しで、だまされるところだった……

 そんなことを考えながら、唯は一人で夜の波打ち際を歩き続けていた。

 身体が重い。

 夢の中で体が重いなんて、変だ。

 いや、いつからだろう。

 マグナ・スフィアのゲームの中で、不思議な頭痛を自覚するようになったのは。

 いつからが夢で、いつからが現実なのだろうか。

 マグナ・スフィアで出会った友達たちも、そして、夫すらも全部――自分の夢ではなかったのか。

 もしかしたら自分はまだ子供で、アルザス動乱の瓦礫の中で死にかけているのではないだろうか。

 死の刹那の夢……

 日本に来たことも、夫との出会いも、幸せな結婚生活もすべてが夢……


 雨が降ってきた。

 冷たい雨だ。

 髪や服がべったりと肌にまとわりついて、体温を奪っていく。

 足元の砂がぬかるんでいる。

 いつの間にか裸足になっていた。

 足がずぶずぶと砂に沈んだ。


 「あっ」

 泥に足を取られて、転んだ。

 うまく手を付けず、顔まで泥にまみれた。

 もう歩けない。

 むしろ、泥の中が気持ちいい。

 唯は地面に倒れたままでしばらく体を打つ雨に身を任せた。

 いつの間にか溢れてきた涙と雨が入り混じり、顔を濡らしているのがどちらかもわからない。


 ああ……

 せんせい。

 名前も顔も思い出せないあなた。

 もしあなたがここにいたら、私と一緒にここに横たわってくれるだろうか。

 そして、泥の中に一緒に溶けて……

 他には何もいらない。

 会いたい。

 会っても分からないかもしれないけど、一目でも会いたい。

 声だけでも聞きたい。 


 砂浜は徐々に沼のようになっていた。

 唯の身体は気づくとゆっくりと沼の中に沈み込み始めていた。

 手を伸ばしても届かない少し先に海が見える。

 海の傍の泥沼だ。

 海は暗い波がうねり、墨のように黒かった。

 冷たい色だった。

 夜闇よりさらに暗い色。


 あれは、涙の海だ。

 唯はふとそう思った。

 ……自分の哀しい気持ちがいっぱい集まって、涙が海になったんだ。

 押し寄せるあの波も、水も、私の涙。

 もう、疲れた。

 ……無明の闇の中は心地よいものだ。

 シンハさん、あなたの気持ちが少しわかるかも。


 唯の身体はさらにゆっくりと泥の中に沈んでいった。


  ***


 「これは……すさまじく混沌とした景色ですね」

 祥子はシノノメの意識の中を歩いていた。

 自分の呼吸音がやけに近く感じる。

 確かにアクアラングを付けているようで、国島が言っていた、ブレインダイブと言う言葉の感覚が少しわかる気がした。

 空中を魚が泳いでいる。

 しかも、深海魚だった。

 ‘意識の奥深く’という唯の意識が具象化したものだという。

 その横ではハムスターの群れが魚群の様に泳いでいた。

 滅茶苦茶だ。

 秩序と言うものがない。

 異世界マグナ・スフィアで様々な体験をしてきたが、ここまでまとまりがない風景は見たことがない。

 『そこの螺旋階段を下りてください』

 マリーンの指示に従い、ゆっくりと階段を下りて行った。

 『排除されないようにゆっくりと。そうです、上手です』

 階段を降りると、そこにも夜空が広がっていた。

 星は見えない。

 雲が出ているようだ。

 雨が降っていた。

 脚に何かが当たる。

 「きゃっ」

 よく見ると人形だった。

 長身の青年のようだ。

 ゆっくりそれを避けながら前に進む。

 『気を付けてください。左右の柵は、精神境界線です。あれを超えると、そのまま唯さんのイドの世界に落ちてしまいます』

 イドとは、無意識に潜む本能的な衝動だという。詳しくは知らないが、不気味な語感に背筋が寒くなった。

 慎重に歩みを進めると、再び海岸線に出た。

 夜の海が見える。

 墨を流したように真っ黒だ。

 うねる白波すらも黒かった。

 「あっ」

 祥子は波打ち際にぼろきれのように転がっている何かを見つけた。

 よく見るとそれは人の上半身の形をしている。

 半身は底なし沼に飲み込まれたように泥の中に埋まっていた。

 間違いない。

 あれはきっと……

 「唯さんを見つけました」

 小さな声で囁くように報告した。マリーンには聞こえているはずだ。

 『進んでください』

 だが、耳元の声が突然男のものに変わった。

 黒江の声だ。

 『……宜しくお願いします』

 「わかりました」

 一言にどれほどの想いを込めれば、こんな声になるのだろう。

 祥子は小さく頷くと足を進めた。


 ***


 砂を踏む足音が聞こえてくる。

 誰だろう。

 暗闇に身をゆだねようとしていた唯は、ゆっくりと目を開けた。

 誰かが立っている。

 もう瞼が重くて、開けているのもつらいのだ。

 このまま眠らせてほしい。

 唯が再び意識を手放そうとしていると、懐かしい声がした。

 

 「シノノメさん、シノノメさん」


 ゆっくり見上げると、深緑色の魔女服に身を包んだエルフが立っていた。

 雨がとんがり帽子のつばを叩いている。


 「グリ……シャム……ちゃん」

 カサカサになった唇を動かし、やっとそれだけ言った。

 

 「シノノメさん、ここで倒れていないで、私と行きましょう」

 「グリシャムちゃんがこんなところにいるはずない……そうか、これも私の夢……私が会いたかったから出てきたのね」

 唯はぐったりと首を動かし、呟くように言った。

 「……」

 グリシャム――祥子は必死で口元に笑みを浮かべていた。

 シノノメ――唯を不安にさせないためだ。

 だが、本当は今にも泣きそうだった。マグナ・スフィアでこんな惨めなシノノメの姿など見たことがない。

 明るく天真爛漫な彼女がここまで傷ついてボロボロになるとは、どれだけ深い心の闇に囚われてしまったのだろう。


 「私と、マグナ・スフィアに帰りましょう」

 涙をこらえながら、もう一度言った。

 「マグナ・スフィアに?」

 「そう」

 『何とか、できるだけ会話を引き延ばしてください』

 祥子の耳元でマリーンが助言する。

 だが、唯はゆっくりと首を振った。

 「だめ……私には何もないから。こうやって話してるあなたも、存在しないかもしれないから。友達も……幻かもしれないから」


 「いいえ、そんなことナイ。私は存在するし、あなたの夢の中にこうやって会いに来たの」

 「……」

 唯の言葉が少なくなり始めた。

 それに伴って、身体が沼と化した砂浜にズブズブと沈んでいく。

 

 「ありがとう……グリシャムちゃん」

 そう言って唯が再び目を閉じようとした瞬間、何かがパチンという音を立てた。

 気づくと、自分の身体を打つ雨粒の感覚が消えている。

 唯は少しだけ目を開けた。

 頭の上にハート柄でフリルのついたピンク色の傘が差しかけられていた。

 雨を遮る傘がバラバラと音を立てるのが聞こえる。

 傘を握って前かがみになったグリシャムは濡れ鼠になっていた。

 だがそれでも彼女は笑みを浮かべていた。


 「これは……?」

 「アイテム、‘ちょっと恥ずかしい傘’」

 唯の目が少しだけ光を取り戻した。

 「覚えている? シノノメさん。私とあなたが初めて一緒に戦った時、あなたが私にくれた傘」

 唯はゆっくり頷いた。

 「西留久宇土シルクートで……」


 「あなたが私に傘をくれたから……今度は、私があなたを雨から守るの」

 そう言うグリシャムの目は、涙で溢れていた。

 すでに祥子自身にも頬を濡らす物が涙なのか雨なのか分からなかった。


 「本当に……本物のグリシャムちゃんが……来てくれた」

 「シノノメさん、マグナ・スフィアに帰りましょう」

 シノノメはゆっくり笑って頷いた。


 雨は次第に降り止み、涙の海の向こうからゆっくりと温かい光が差し始めた。




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