22-2 電脳世界のファンタジー
「僕はずっと彼女を守りたかった」
青年はそうつぶやきながら、ずっとブランコを揺らしている。
ブランコは二つ並んでいて、彼の隣の空のブランコは風もないのに揺れていた。
知的で端正な、優しい横顔の青年だ。
線が細く、女性的ですらある。
細い髪の毛が、額に優雅にかかっている様子は、唯の知っている人間を思い出させた。
だが、目は虚ろだ。
ずっと何もない地面を見つめている。
その先には、うっすらぼんやりと光る白い子供の影が揺れていた。
「それは、誰?」
隣のブランコに腰かけて唯は話しかけた。
青年は目を地面から離さない。
声の主にはまるで興味がないか、そこにいないかの様な素振りだ。
「僕には、小さいときに死に別れた妹がいた」
青年の言葉は、唯の言葉への回答ではなかった。
唯は小さくブランコを揺らした。
青年の視線の向こうで、光る白い影が幼い女の子の姿をとった。
細い小さな土の道を辿ってやって来たのが、この空間だ。
周囲はぼんやりと霞みにかかったようなマンション群で、集合団地を彷彿とさせる。
団地の中の児童公園とでもいうのだろうか。
この空間はとても狭く、丸いドーム状の穴の開いた遊具や、ゾウの形をした滑り台が点々と並んでいた。
ただ、すべてが真っ白だ。
その隅にあるブランコに、この青年が一人黙って座っていたのだ。
寂しい空間だった。
風もないのに揺れていたもう一台のブランコに唯は腰かけているが、青年の表情は沈鬱で暗い。
「彼女は、妹に似ていた」
唐突に青年が再び口を開いた。
「彼女?」
唯が問いかけても、青年は決して顔を上げずに再び押し黙った。
代わりにブランコの前に、小さな机が現れた。
小学校にあるような、スチール製の脚に木の天板が載った小さな机だ。
青年は机の上にノロノロと両手を持ち上げた。
「守ってやりたかった」
そう呟くと、青年は、いつの間にか手の中に現れた万年筆を握ったまままた動かなくなった。
見ると、肩から背中の上に紙粘土の塊のようなものが覆いかぶさっていた。
全体の形は何となく人間に似ているが、もっと大雑把で、頭に当たる部分についた割れ目からギロリと目だけが覗いて辺りを見回している。
机の上には紙束が現れたが、バラバラと辺りの地面に飛び散って落ちた。
紙片にはびっしりと文字が書かれている。
唯は拾い上げて読んだが、どれも不思議な形の文字の羅列で読めなかった。
「物語の世界で、妹に会いたかった」
「そう……」
「この手で、彼女を守ってやりたかった」
「守る……」
唯は黒騎士と、自分を必死で守ろうとしてくれたもう一人の騎士の姿を思い出していた。
自分に結婚しようと言ってきた、強力な力を持った美しい騎士。
その時のことを思い出すと、ほんの少し頬が染まり、自然に微笑が出てしまう。
「ありがとう、ランスロット」
そう呼ぶと、青年は少しだけ視線を唯の方に向けた。
ぎこちない。まるで、機械仕掛けの様だ。
唯は青年に覆いかぶさる化け物に向かって手をかざし、口を開いた。
「お掃除サイクロン!」
一陣の風が巻き起こった。
紙粘土の様だった化け物は散り散りの紙片となり、大空に消えていった。
地面に散らばっていた紙も舞い上がり、それは白い鳩になって飛び立っていった。幾枚かは小さな少女の姿をしていた。
青年は思わず立ち上がって、空を見上げていた。
いままで身体全体を覆っていた鉛の様な重さが嘘のように消えてなくなっている。
‘公園’を取り囲んでいた霞は消え去り、青空が広がっていた。
ふと気づいて、自分の隣のブランコを見た。
唯――亜麻色の髪の女性はもうそこにはいなかった。
ただブランコが風に揺れているだけだった。
「シノノメ……」
青年――小説家、竜崎光彦は空になったブランコを見つめて呟いた。
***
千々石は、膨大な資料を机の上に積み上げ、四苦八苦していた。
そのほとんどは彼女の上司、風谷から収集を命じられたものだ。
今時紙の資料なんて、と思うが、ネットで収拾できない古い資料も頼まれた上に、そのほとんどはデジタル記録ができない――つまりは昔ながらの紙コピーで閲覧しなければならないものだった。
どさりと机の上に降ろすと、もうもうと埃が舞い上がった。
「ぺっぺ!」
資料を抱えたときに着いたらしいパンツスーツの汚れをはたき落とした。
作戦行動や式典の時には国防軍――旧自衛隊の制服を着るが、省庁の中で作業をするときは普通の服を着ている。
中学生くらいの身長しかない童顔の千々石がスーツを着ていると、七五三のようだと言って笑う同僚もいるのだが、かといって官公庁勤めでラフな服が着れる筈もない。
「まったく、先輩はこんなに那由多システムの資料を集めて、どうする気なんだろう。CIAに連絡をとって請求したのもあるし……」
愚痴を言いながらふと風谷のデスクを見ると、もそもそと黒いものが動いているのを発見した。
「先輩!」
黒いものはビクリと体を震わせ、また机に屈みこんで動き始めた。
千々石は資料の山を崩さないように気を付けながら反対側のデスクの列に回った。
局員はほとんど外勤で、局長は会議中である。部局に残っているのは、千々石と風谷だけだ。
よれよれのダークスーツを着た長身の男――風谷が前かがみで端末を操作している。
「僕には下働きばかりさせて、何をしてるんですか?」
千々石の地元は熊本で、肥後もっこすを自認する男兄弟五人と一緒に育った。
そのせいか、時々自分のことを僕と言ってしまう。一般の上司と話すときはできるだけ言わないように気を付けているが、風谷だけには別だった。
風谷は統合情報機動局きっての切れ者で、防衛大学の先輩である。仕事や能力に対しては尊敬の念を抱いているが、近くでだらしのない姿を見ているとどうも気が抜けて普段の口調が出てしまうのだ。
風谷は今日も着ているスーツはよれよれで、カッターシャツはグシャグシャの皺だらけ、ネクタイは曲がっているし髪の毛もぼさぼさの伸び放題だ。
「これが、美少年ヴァルナ様の正体だと知ったら、気絶する女子が世界中にいるんだろうなぁ」
そう呟くと、少しだけこの前の魔宮でのことを思い出してしまう。
『お前が俺の切り札だ、みくり』
助けに来てくれて、自分の下の名前を呼ばれて、肩まで抱かれてしまったのだ。
一瞬顔が熱くなって、千々石は慌てて首を振った。
……ダメだ。変に美化されてる。
脳裏に浮かんだヴァルナの凛々しい眼差しを追い払い、ずかずかと近づいて風谷が見ているモニタを覗き込んだ。
見ると、マグナ・スフィアに関する掲示板、投稿サイトだった。しかも怪しい噂に関する類のいい加減なサイトだ。いかがわしい広告のバナーがバタバタと立ち上がっている。
「し、仕事中に何をやってるんですかぁ!」
思わず大声が出た。
「あ、ああ、これか」
千々石の非難などどこ吹く風で、風谷は顔を上げると笑った。
「調査だよ。調査」
「片瀬の尻尾を今度こそ掴むって言って、何を調査だっていうんですか? ただのネットサーフィンじゃないですか!」
「まあ、そんなに怒るなよ、みくり」
「みっ! やめてください! きちんと上の名前か階級でお願いします!」
風谷はボリボリと頭を掻いた。
フケが飛び散ったので、千々石は顔をしかめた。
「面倒臭ぇなあ。じゃあ、少尉。どうだ? 普通の資料を当たってみて、何か見つかったか?」
「……いいえ。おそらく、サマエルは自分が介入した痕跡を巧妙に消しています。造物主なんて名乗って、一体何がしたくて、何を目的に活動しているのか……」
千々石は若干肩を落とした。
「俺は、面白いものを見つけたぜ」
風谷はニヤリと笑った。
「えっ!?」
「これさ」
風谷はそう言ってモニタを指さしたので、慌てて千々石は指先にある文字列を見た。
「タワー・オブ・グリード……強欲の塔? 渇望の塔? これが、何か?」
「アメリア大陸の、マンハッタン島にあるという‘あちら側’の最終ステージだ」
「機械文明大陸、アメリア……塔の最上階にたどり着いたものはレベル100となり、願いが一つ叶う……何ですか、これ? ただの噂話でしょう?」
「お前、シンハが言ってた言葉を覚えてるか? レベル100になったら、どうしたいかって」
「あいつは全世界の電子情報を全て自分の物にするって言ってましたけど……あ……そう言えば」
‘過去にただ一度,那由多システムの全てを一人が使ったことがあるのだ’
風谷は頷いた。
「レベル100に到達した人間がいたかどうかは、公式には発表されてねー。だが、ここに、面白い事実がある。那由多のメンテナンスと管理を行っている独立行政法人をしつこくねちこく攻めてみた」
「まさか……」
「ああ、八カ月ほど前、完全にマグナ・スフィアがストップした日があるのさ。沈黙の日とかSEは呼んでたぜ。その後も全くシステムに異常は見られなかったらしい。ただ、惑星マグナ・スフィアから‘一日’という時間が消えてなくなった」
「じゃあ、その時?」
「シンハの言葉が正しければな。そして、シンハは何故その情報を知り得たかだ」
「そうか、シンハの身元から洗って行けば、何か別の角度から手掛かりが得られるかもしれない」
さすが先輩、と千々石は言いかけて慌てて取り消した。現実世界の風谷はヴァルナと同じくお調子者だ。あまり褒めすぎてはいけない、という局長の言葉を思い出した。
「それでとりあえず、アメリアのことについて詳しい民間人に協力を頼んだ」
「えっ? 民間人? それ、まずくないですか?」
「まずいも何も、もう呼んじまった。隣の部屋にそろそろ来てるはずだ」
「えーっ!?」
「お前、こっちに案内して来てくれよ。向こうも女の子に迎えに来てもらった方が、気が楽だろうさ」
「何故……」
僕が、と言いかけたが千々石は考え直した。見るからに怪しそうな人物だったら、追い払えばいいのだ。
今現在風谷と千々石が関わっている案件は、極秘中の極秘だ。
何せ、内務省の官僚が外国の要人を暗殺しており、さらに国民を洗脳しているというのだ。というのに、風谷には慎重さの欠片も見られない。ならば、自分がしっかりすればいいことだ。
ヒヒヒ、と笑いながらコンピュータの端末に向き直る風谷を背に、千々石は隣の部屋――来客用の小部屋のドアをノックした。
中から返事がある。
「失礼します。防衛省の千々石です」
そう言って部屋の中に入った千々石は、絶叫した。
「ひゃあああ!」
「ヒャハハハハ」
目を丸くして部屋から出てきた千々石を見て、風谷は悪戯っぽく笑った。
「ど、どうして、ここに芸能人が、日高雅臣が……」
「ひでえなぁ、またお前、こういう悪戯しやがって」
千々石の後ろから、ひょっこりと日高が顔を出して風谷に声をかけた。
「お前、腕の調子は良いのか?」
「おかげさまで、昨日病院に行ってからすっかりだぜ」
日高は左手をグルグルと回して見せた。千々石の頭上で親しげな会話が飛ぶ。
呆気にとられる千々石に風谷はニヤリと笑いかけると、改まった調子で日高を紹介した。
「紹介しよう、クヴェラ君。その人こそアメリア大陸とユーラネシア大陸、二つの大陸を股にかけて戦う最強の弓使い、アルタイルだ」
「え! ええっ!?」
千々石は目を白黒させた。
***
唯は海岸を歩いていた。
冬の海だった。
うねる波は灰色と群青色で、冷たい風が吹いて来る。
砂浜には、誰もいない。
スニーカーが砂に埋まる。
どこからか音楽が聞こえてくる。
女性歌手が歌う英語のジャズ――スローバラードだ。
どうして行かなかったのか、私には分からない――と言っているように聞こえる。
サクサクと足音を立てて歩いて行くと、小さなカフェがあった。
掘っ立て小屋に近いが、海の家と言うには洒落ている。
音楽はその店の中から聞こえていた。
「こんにちは……」
そっと店の中を覗き込む。
全席オープンテラスというか、砂の上には銀色のフレームできた椅子と小さなガラスの机が並んでいた。
星の王子様みたいだ、と思う。
色々な星を訪ねていくように、昨日から色々な夢を見続けている。
まるで迷宮のようだ。
迷宮の部屋部屋には、魔物の様なものに悩まされている人たちが住んでいる。魔法を使って魔物を倒すと、その部屋――悪夢たちは、消えてしまうのだ。
色んな人たちがいた。
王になれと道化たちに襲われている人。
お腹にハリネズミが刺さった女の人。
右手を大きな魚に食べられている少年。
ギターを弾こうとしているのに、腕を炎のお化けに食いつかれている男の人。
今朝はランスロットに似た、紙のお化けに襲われている人を助けた。
これを繰り返せば、いつか迷宮の外にたどり着けるのだろうか。
少し疲れた。
この夢は、他の物に比べて穏やかだ。
少し寂しげだけれど、とても心地よかった。
今のところ魔物も出てこない。
唯は椅子に腰を下ろした。
椅子の脚が砂浜に沈み込み、鳴くような音を立てる。
「いいいい……いらっしゃい……」
そう言って店の奥から出てきたのは、一人の女性だった。
「あなたは……」
何故か知っている気がした。
二十代の後半くらいで、少しウェーブのかかった豊かな髪を後ろでまとめている。黒いパンツに白いシャツを着て、黒のカフェエプロンを着けていた。
「なななな何に、ししししますか?」
メニューの書いてある紙を差し出したその腕には、ステイプル――大きなホッチキスの針か、大工道具のカスガイに似た針が無数に刺さっていた。小麦色の健康そうな肌だけに、痛々しく感じる。
女性の顔は引きつっていた。
メニューは全部上から下までコーヒーだった。しかも、豆の銘柄が色々あるのではなく、上から下まで、コーヒー、コーヒー、コーヒー……とただそれだけが並んでいる。
「じゃあ、この二番目のコーヒーを下さい」
「わわわわ、わかりました」
痛みのせいか震える声で、ぎくしゃくと女性は奥に戻って行った。
ほどなくして震える手で銀のトレイに載ったコーヒーカップを運んできたが、唯のテーブルに着く前に全てこぼれて砂に吸い込まれてしまった。
女性は空になったカップをテーブルに置くと、哀しそうにうなだれた。
「大丈夫? 痛いの?」
「……」
女性は返事をしなかった。よく見ると虚ろな目の下には隈があった。痛みのために憔悴しきっている、そんな印象だ。
「素敵なカフェだね」
女性が少し顔を上げる。
「私の友達は異世界で船のレストランを経営していて、いつか現実の世界でもカフェを開くんだって言ってた」
女性は少し首を傾け、聞き耳を立てているように見えた。
「いつか、私はそこに行くの。それが約束なの」
いつの間にか女性は、向かいの席に座って唯を横目で見ていた。
「そのケガ、私、治せるかも。見せてくれる?」
女性はゆっくりとステイプルの刺さった腕を差し出し、テーブルに乗せた。唯のことが半信半疑であるように見える。
……夢の中で、この反応も不思議だな……
そんなことを考えながら、唯は右手をかざした。
「召喚獣、エイポップ!」
右手に大きな矢印型の生き物――白いエイが現れた。唯はエイの尻尾をつかんだ。
エイには大きな一つの目があり、きょろきょろと辺りを見ていた。
「全部吸い取っちゃうね。手を出して」
唯はエイポップの口を女性の腕に押し当てた。
女性はびくりと一瞬腕を引いたが、恐る恐る唯の言葉に従う。
エイは布団掃除機のように、ざらざらと音を立てながら大小のステイプルを吸い取って行った。
すっかり全部吸い取ったが、女性の腕には無数の穴が開いたままだった。
「まだ痛そうだね……そうだ、ちょっと待ってね」
唯は両手を合わせて胸の前で抱きしめるようにすると、目を瞑った。
とても温かい気持ち。
かけがえのない、あのぬくもりを思い出すのだ。
しばらくすると、唯の両手の中には赤い小さな星が浮かんでいた。
「これをあげるね」
「……!?」
星はキラキラと光芒を残すと、女性の口の中に飛び込んだ。
温かい光が女性の胸の中で輝いた。
光がすべて消えたとき、腕の傷はすべて消えていた。
「良かった。あなた、アーシュラに似てるね……」
微笑む唯のその言葉に、女性ははっと目を見開いた。
「あなた……」
***
「シノノメ!」
千堂奈緒は、VRPIのベッドから飛び起きた。
***
「一体何が起こっているのか、どうやらそろそろ総括と分析が必要なようだ」
精神科の毛利は病院用の携帯端末を操作してスクリーンに画像を転送した。
電子カルテのリストが宙に浮かび上がる。
カンファレンスルームには神経系合同カンファレンスに参加する三つの科、神経内科、精神科、神経外科の医師や臨床心理士たちが並んで座っていた。
全員が口をへの字にして、首をひねっている。
精神科の研修医、吉川が経過報告を読み上げる声が妙に大きく部屋に響いた。
「伊達和彦さん。四十六歳男性。重度の妄想を伴う、統合失調症にて入院。一昨日のVRPIの第三回起動で、突然全快――いや、それは言いすぎかな。とにかく、幻覚幻聴が全く消失した。現在は少量の抗不安剤を使っているが、それもほとんど不要と言っています」
「次、神経内科から。鳥井先生が不在ですので、私が代わりに説明します。こちらは三十二歳の男性――えー、まあ、作家の竜崎さんって言った方が早いですよね。今朝突然閉じ込め状態から回復して、意思疎通が可能になりました」
医長の仲村がつっかえながら説明した。
彼は四角い顔で髪の毛が少し薄く、研究肌の上司、鳥井とは正反対の印象である。
「脳内のセロトニン濃度の正常化を認め、ええ……すでに、部屋で新作の執筆を開始しています」
「いや、もうダーッと行きましょうよ。慢性疼痛の二十八歳のOLは痛みがけろりとなくなるし、同じく十六歳の高校生も回復。四十五歳の主婦もいたな。あ、そうそう、歌手の日高さんも、昨日痛みが無くなったって言ってた。焼けつくような痛みだって言ってたのに」
神経外科の西田が笑いながら言った。半ばヤケクソとでもいう雰囲気だ。
「……全員、VRゲーム後に神経障害を発生して、VRPI後に奇跡の回復……」
毛利が唸った。
「回復は、でも、良いことですよね」
谷安が務めて明るく言った。
「でもな、谷安君。患者さんが良くなるのはうれしいが、何が起こっているのか分からないのでは困る……例えば、また突然悪化するかもしれないし、それが予想しがたいという事になる」
毛利は慎重に言葉を選びながら言った。鳥井がいない今、彼がこのカンファレンスで一番の年長だった。
「原因は……しかし、もう皆さん分かっているんですよね」
谷安がそう言うと、医師たち全員が部屋の隅で黙って座っている黒江の顔を見た。
黒江はそれまで黙ってモニタに写るカルテの文字を追っていたが、自分に集まる視線を受け止めてわずかにたじろいだ。
医師たちはしばらく黙って互いを見つめ合い、誰が真っ先に言い出すか牽制するようにしていたが、ややあって毛利がとうとう口を開いた。
「やれやれ、私がこの荒唐無稽な話を切り出さないといけないようだな。……黒江先生の奥さんが、パブリックスペースを通って他人の意識の中に入り込み、治療し回っているなんて」
そう言うと彼は大きなため息をついた。
「でも、そうとしか言いようがないんですよね。全員の患者さんの視覚野の画像記録を見ると、確かに唯さんに似た女性が映ってました。私、全部チェックしましたから。で、その女性がえーと、あの……」
吉川は研修医なので、上司に面倒な画像のチェックを押し付けられたようだ。だが、そこまで言ったところで声が小さくなった。「……魔法で悪夢をぶっ飛ばしちゃってました……」
最後の方は蚊の鳴くような声になった。
「……魔法って、あまりにも非科学的すぎるだろ。漫画やアニメじゃあるまいし」
西田が呟く。
「だが、現実の映像を見る限りそうとしか表現できないよ。マグナ・スフィアのゲームのままだぞ。あれだ、グリルオンだっけ。うちの子供がハマってたまに真似してる奴だ」
毛利が唸った。
「普通は会話したり、説得したりなんですけどね……」
谷安が端末を操作して、件のシーンをズラリと映し出して見せた。
炎の魔法を操る女性。
風の魔法を操る女性。
包丁で魔物を切り刻む女性。
布団掃除機で痛みの元を吸い取る女性。
亜麻色の髪に、とび色の瞳。
画像はやや粗いが、どう見ても病室で横たわっている黒江の妻だった。
「本人は自分の夢の中だと思い込んでいるようです」
「他人の意識――あるいは、脳に直接働きかけることができるとでもいうのか……?」
西田が呟くと、全員が再び押し黙った。
そうとしか思えないのだが、その原理を誰も説明することができないのだ。
モニタにはその間にも唯の活躍とでもいうべき雄姿が次々と映し出される。
カンファレンスルームの重苦しい雰囲気とは対照的で、どことなく滑稽だった。
「人の意識の中に入るというのは、そんなに異常なんですか?」
黒江はおずおずと口を開いた。
「異常も何も、精神の境界ってものがあるんだ。普通、我々がコミューンと呼ぶ共同エリアの、パブリックスペースまでしか行けないはずだよ」
仲村が眼鏡をとって目頭を押さえながら言った。
「あの、殺風景な池みたいのがある所ですね?」
「ああ、これではまるで、境界が無くなった――壊れてしまったようだ。彼女の精神は、マグナ・スフィアの中に入るのと同じように他人の意識の中に出入りしているように見える」
仲村は眼鏡をかけなおし、それだけを一気にしゃべった。自分で自分の言っている言葉に確信が持てないようだ。
「境界が……壊れた……」
「それこそ、脳のプログラムを書き換えたようにね」
「自分の意識には戻って来ないのでしょうか……そして、悪影響は?」
黒江がそう言うと、毛利が電子端末を操作し始めた。
「実はその事で、懸念することがある」
「と言いますと?」
黒江の背を嫌な汗が伝う。
「これを見てくれ。これは、唯さんの脳地図でなく精神地図だ。意識の世界を模式化したものだが……」
大きな氷山が水に浮いている様な絵が出てきた。
それを見た谷安が小さな悲鳴を上げた。黒江には専門外過ぎてよく分からなかった。
「彼女の脳内伝達物質の濃度と電気活動を下に構成したものだ。この氷山に当たるものが人間の意識を、脳活動全体を示している」
水面の上に出ている氷はごくわずかで、ほとんどが水の中に沈んでいるような印象を受ける。
水面のあたりを彷徨うように、毛利の使うポインタが指の震えに合わせて動いた。
「水面……意識境界線の下が無意識界、フロイト的に言えばイドやリビドーにあたる部分で……彼女の脳活動の多くは現在こちらにあることになる」
いつも物腰の柔らかい毛利の表情が険しくなった。
「無意識の中には、生に向かう衝動、生きようとする本能とともに、人間が根源的に持っている破壊衝動……死の欲動……つまり、自分を殺そうとする衝動がある、という。これはもともと心理学の世界の話だったが、脳科学の進歩とともに科学の文学的表現として受け入れられるようになった。人間の大脳活動は辺縁系の活動を抑制するからね。下行抑制系ニューロンのことは君も知っていると思う」
カンファレンスルームは静まりかえった。
全員が神経系を専門とする医療従事者だ。不吉な言葉を予感しながら、ゆっくりうなずいていた。
「だが……」
毛利の言葉は途切れ途切れで、歯切れが悪い。それが黒江の心中を配慮してであることは誰の目にも明らかだった。
「もちろん、経過を見なければ分からないが……」毛利は慎重に言葉を継いだ。「セーフハウス……安住する自我を失った今……無意識界に深く落ちれば」
毛利はごくりとつばを飲み込んだ。
「破壊衝動あるいは……死に囚われて戻って来れない……」
毛利の言葉に、黒江は凍り付いた。