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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第22章 仮想世界の彷徨人(さまよいびと)
159/334

22-1 雨の紳士と引きこもりの王

 どこまで行っても乾いた砂地が続いている。

 ゆいは腰を下ろしてため息をついた。

 空はいつの間にか薄ぼんやりと明るくなっていた。

 夜通し歩いていたことになるが、別に疲れているわけではない。


 「変なところ……一体どうなっているんだろう……」


 独りぼっちだと、独り言が増える。

 もう一度辺りを見回した。

 砂の丘陵地帯なのだが、砂漠というのは大げさだ。

 唯は砂漠を実際に見たことがないが、ゲームのカカルドゥアでちょうど体験したばかりである。日中外に出ていると、痛いほどの日差しが肌を焼くのだ。

 オーストラリアの砂漠地帯に行ったことがある夫の話によると、十五分に一度程度水分を摂らないと命にかかわることもあるほど過酷な環境だという。そのせいで蠅が水分を求めて口の中に入ってくるという話を聞いて、震え上がったことを覚えている。


 「これじゃ、砂場……砂丘よね」


 あちこち緑の小さな下草が生えているところも、昔行った鳥取砂丘にそっくりだ。日差しが薄曇りのところも、山陰地方に似ている。というより、空には太陽がなく全体がぼうっと光っていた。

 砂はきめ細やかでサラサラだった。粉砂糖を思い出す。

 そう考え付くと、あちこちに突き出している岩のようなものは菓子パンの形に似ていた。

 唯は立ち上がって一番近くの隆起物――岩のようなそれに触ってみた。

 触ると柔らかく、本当にパンそっくりだ。


 「臭いも……これ、チョココロネなんだ」


 しばらく離れたところにはメロンパンとイギリスパンに似た形の突起が地面から突き出している。

 さすがに地面から生えている物の味見をする気にはなれなかった。


 「変なの。まあ、夢だから当たり前か……」


 菓子パンを見ていると、子供の時のことを思い出した。

 基本的に菓子パンというものは日本にしかない。

 デニッシュやペストリーはあっても、あんパンやクリームパンなどというものは、パンの本場である欧米には無いのである。

 唯が初めて菓子パンというものを見たのは、日本の国際空港のコンビニだ。

 ヨーロッパからやって来て、初めて日本の菓子パンを見たときは驚いた。子供の好きな甘いフィリングが入った、柔らかいパン。しかも、いろいろな形や味があるのだ。

 その後日本のベーカリーカフェに行ったときは感動すらした。

 細いフランスパンに粗挽きのピーナッツバターが入ったパンや、揚げドーナツにチョコレートをコーティングしてカスタードクリームを挟んだパンなどは、今でも大好物である。

 大騒ぎする子供の唯を見て、母が笑っていたのを思い出す。


 ……これは、本当の自分の記憶なのだろうか。

 ふと思う。だが、考えても仕方がない事でもある。

 ナーガルージュナはネットにある情報を再構成して、自分の記憶を作ってくれたのだという。一体なぜ自分が大量の記憶を失うことになったのか、それはまだ理解できていない。


 ……鍵がかかっているんだ。

 

 祖母の姿をしたナーガルージュナなのか、それともやはり自分の記憶の中のイメージなのかは分からないが、確かそう言っていたような気がする。

 夫の顔と名前も思い出せない。

 鍵――何かのスイッチが入れば、全部思い出せるのかもしれない。

 ショーウインドウを覗き込んだ時、自分の隣に立っていた人影。

 食事をしているとき、自分の前に座っていた誰か。

 そんな映像が時折脳裏をよぎっても、それが自分の大事な人であるのかが認識できないのだ。

 

 クラウドサーバにでも沢山思い出を残しておいたら良かっただろうか。

 結婚写真は自宅の納戸の中――記憶媒体クリスタルメモリの中にある。半永久的に安全に保存できるし、メモリ管理料もいらないのでそうしたはずだ。

 だが、今の状態では例え結婚式の写真を見ても夫を夫だと認識できないのかもしれない。

 

 「ダメ、何とかして夢から目を覚まさなくっちゃ」

 

 弱気になりそうな自分を叱咤して、唯は頭を振った。

 この自分の意識が作り出した仮想空間を、唯は夢だと思っていた。

 ‘夢の中の夢’とは、ソフィアが、ヤルダバオートが彼女に告げた言葉だ。


 「だけど、どうやったら覚めるんだろう」

 

 唯はふと自分の左手を見た。

 左手の薬指には、青い燐光を放つ銀色の指輪が嵌っている。


 「これ……!?」


 自分の結婚指輪ではなかった。

 エルフの女王エクレーシア、ソフィアから授けられた‘拒絶の指輪’だ。

 まるでゲーム世界から持ち帰ったかのようだ。

 そもそも、ソフィアからもらった時この指輪は右の薬指にはめたはずだ。

 左手に嵌めそうになって、‘ソフィアと結婚しちゃうから’と思い直して右手に嵌めなおしたのを覚えている。

 

 「夢とゲームがつながっている?」


 そんな馬鹿なことがあるだろうか。では、マグナ・スフィアで体験した冒険の数々もただの夢だったのだろうか。

 グリシャムもアイエルも、自分の夢の中の存在とでも?

 とてもそうとは思えない。

 VRMMOマグナ・スフィアは、いつもテレビでも盛大に宣伝されている。

 何が現実で何が虚構なのか。

 どこからどこまでが夢なのか。

 いったいいつからこの夢の中の世界にいるのだろう。


 ゲームの中でしていたように、右手をかざしてみた。

 たちまちメニューウインドウが起動された。

 マグナ・スフィア・ログインの文字が空中に現れる。

 さらにアイテムボックスと魔法のメニューバーまで空中に浮いている。

 ‘グリルオン’と叫べば、たちどころに炎が発生しそうだ。


 「一体どうなってるの……?」

 唯は眉をひそめて首を傾げた。

 しばらく空飛ぶメニューバーを眺めていたが、何の解決になるわけでもない。

 悩んでいると、砂を踏む足音が聞こえてきたので振り向いた。


 「あっ! 雨の紳士だ!」

 唯は慌てて近くにあったイギリスパン――のような岩?の陰に隠れた。

 いつの間にか辺りには、唯が思い出した菓子パンがにょきにょきと生えて不思議な岩場――あるいは、パンの森とでもいうようなものになっている。

 その向こう、まだ砂丘のままの緩やかな丘を越え、‘雨の紳士’がやって来た。

 辺りをきょろきょろと見回している。

 昨日の夜から――といっても、夜なのか昼なのかよく分からないが――この不思議な人物がやって来るのは、もう三度目になる。


 ‘雨の紳士’とは唯がつけた名前だ。

 きっちりネイビーのスーツを着込んでいるのだが、頭の上に小さな雨雲が浮かんでいて、絶えずそこから豪雨が下に降り注いでいるのだ。

 雨雲は時々雷を放ったりもする。雨のせいで、顔は見えない。

 肩は雨でびしょぬれだが、スーツはいつも乾いているのが不思議だ。

 雨の紳士は丘陵の上に上がったかと思うと、今度はパンの岩場を覗き込んで観察している。その様子は少しせわしない。

 まるで何か焦っているようでもある。


 「誰かを探しているのかな……まさか、私?」


 別に危害を加えそうにも無いのだが、かといって話をする相手としては異様と言うしかない。

 何となく気まずい気がして、三度とも唯は身を隠していた。

 雨の紳士はしばらく砂地を眺めると、がっくりと肩を落としてまた丘の向こうに去っていった。

 唯はいなくなったことを確認すると、そっとパンの影から出た。


 「とにかく、ここにいても駄目ね」


 唯は再び歩き始めた。


    ***


 「やっぱりだめか……」

 黒江はVRPIのシートの上でため息をつきながら、ゆっくりヘッドセットを頭から外していた。

 「これでもう三度目……困ったことになりました」

 モニターを眺めていた谷安は、組んだ腕の中に抱えていた電子パッドを褐色の指で操作し始めた。彼女は東南アジア系のハーフで、臨床心理士である。

 「セーフハウスが無くなってしまったのが痛いっすね。だろ、マリーン」

 VRPIを操作する臨床工学士である、国島が言った。

 口調は軽いが、彼は優秀な技師だ。

 そして、口調ほどに表情は軽くなかった。

 「そう、あそこが恐らく、唯さんの安住の地、心の安定を保っている場所なの。あの中に訪れる人を黒江先生と認識していたわけだから、それを失うと……認識できなくなってしまう」

 「このままだと、彼女と意志疎通が取れなくなる……」

 「……」


 意思疎通とまではいかなくても、昨日までできていた仮想世界での唯との会話。

 それが失われたことに、黒江は焦りと恐怖を感じていた。

 自分の手の届かない場所に、唯の意識が行きつつあるように感じる。

 彼女の肉体は、すぐ手の届く場所にあるというのに。


 「……うーん、システムをいじって先生のアバターを変えることはできるんスけど、それをしたって意味がないっスよね……?」

 国島は額に皺を寄せながら言った。

 「そうです。これですね」

 谷安はパッドを操作して画像を映し出した。

 唯が‘雨の紳士’と名付けた姿が映っている。

 「唯さんの視覚野では、先生がこんな風に……肩から上が……なんでしょう? 雨? ノイズが入ったみたいに認識できない人になっているんですね」

 「つまり、僕を認識していないわけか」

 「……そういうことになります」

 「チクショウ、こんな時、鳥井先生がいたらなあ。あんな奴だけど……」

 国島は左手を右拳で殴りながら言った。

 神経内科の科長、鳥井は博識で抜群の分析力を誇る優秀な医師だ。少し研究者気質で怜悧な印象を与えるが、脳神経系の知識において、この病院で右に出る者はいない。おそらく国内、世界でもトップクラスの医師だ。

 確かに、鳥井なら優れた解決方法を提示してくれそうな気がする。


 「鳥井先生、どうかしたんですか?」

 うつむいていた黒江は顔を上げて尋ねた。昨日の夜から唯の意識にアクセスすることにかかりきりで、全く他のことが手についていないのだ。

 黒江の視線を受けて、谷安と国島は顔を見合わせた。

 「鳥井先生、倒れられたんですよ」

 「倒れた?」

 「昨日、自宅で……VRゲームのプレイ中だったらしいんですけど」

 「VRマシンの?」

 「鳥井先生がマグナ・スフィアをやってたってのは、ちょっと意外だけどな」

 国島は伸びをしながら言った。 

 「国島君! 不謹慎でしょう!」

 谷安が睨んだので、国島は肩をすくめた。彼はあまり鳥井のことが好きではなかった。

 「だけど、マグナ・スフィアのプレイ中にぶっ倒れた奴って、これで何人目だっけ? みんな相当なゲーム中毒だぜ。鳥井ニモイ先生なんて、自分の専門領域の患者になっちまったわけじゃん」

 「そうなんですか?」

 黒江の治療対象は外科手術が必要な患者である。薬物治療中心の患者には疎かった。

 「ええ、今精神科と神経内科にたくさん患者さんが来てます。毛利先生なんか忙しすぎて悲鳴を上げてますから。みんなマグナ・スフィアに参加していた人ですけど、そのうち先生にも紹介が来るかもしれませんよ」

 「そうなのか……でも、神経伝達物質の過剰分泌は、手術で改善できないでしょう?」

 「ゲームで受けた怪我の痛みが取れなくなった慢性疼痛の人とかもいるんです。痛みを取るために硬膜外電極チップの埋め込みとか依頼されるかもですよ」

 「精神科の先生たちは、とりあえずVR症候群ってことにしておこうなんて言ってたっス」

 「VR症候群……」

 「VRマシンに何らかの原因があるんじゃないの? 国島君、あなたもマグナ・スフィアにはまってるんでしょう? 大丈夫なの?」

 谷安が国島を横目で見た。

 「もう発売されて五年も経ってるんだぜ。大丈夫に決まってる。何かあったらとっくに厚生省と消費者庁が大騒ぎしてるだろ」

 

 そんな二人の会話を聞きながら、黒江はもう一度VRPIのモニターを見上げた。

 モニターの中には、どこまでも続く砂丘を歩く、唯の視界が見えた。

 

   ***

 

 ふと、空気が震えた。

 唯はそんな気がして、思わず空を見上げた。

 相変わらずの曇り空だ。

 砂地に軽く沈む足の感覚を確かめながら丘の上に立って見下ろすと、突然全く趣の違う風景が広がっていた。


 「村……公園?」


 目の前に急に現れたのは、不思議な窪地だった。

 公園の広場に似ている。中央に小さな池があり、コンクリートなのか一枚岩なのか――光沢のない白い平坦な地面で、放射状に道が伸びていた。そのうちの一つは、唯がいる砂地に続いている。

 道があるという事は、出口があるのかもしれない。

 不思議に思いながらも、唯はその道を進んだ。


 広場の中央――丸い池のほとりは、ぐるりと白い石の壁で囲まれている。

 水は少し淀んでいた。中央に噴水があれば、本物の公園だ。

 そんなことを考えながら、唯は池の周りを歩いて八方に伸びる道を見た。

 どれかが出口につながる道なのだろうか。

 道も色々だった。

 黄色い煉瓦で舗装された道。

 アスファルトで舗装された道。

 泥だらけの道。

 よく見れば、門の様なものがある道もある。

 一番左の道は、遠くに人影が見えるような気もする。


 「どれにしよう?」


 少し気になるのは、一番右手の道だった。キッチリと敷き詰められた石畳で、深い霧の中に続いている。中世ヨーロッパの町並み――ノルトランドの首都、アスガルドをふと思い出す。

 遠くの方は霧に霞んでいるが、街並みらしきものが見えた。

 自宅――今となっては、夢なのかもしれないが――に闖入してきたヤルダバオートのことを連想して、少し震えた。

 だが、行ってみよう。

 唯は石畳の道を歩き始めた。

 霧の中をしばらく歩くと、小さな尖塔と、その間を塞ぐように取り付けられた鉄柵の門があった。

 軽く押すと、軋む様な、どこか人間の悲鳴にも似た音を立てて門は開いた。

 乳白色の空気は冷気を帯びている。

 唯は羽織っていたロング丈のカーディガンの前を合わせて閉じた。


 「本当に……ノルトランドに来たみたい」


 辺りを見回せば、重厚な梁を渡した西洋家屋が並んでいる。

 呼べば、可愛らしいウサギの耳がついたウサギ人たちがやって来そうだ。だが、町は閑散としていた。 というより、人の気配がない。

 ミッドガルドはベルトランの圧政のせいで荒んでいたが、それでも建物の中で息をひそめて過ごす人々の気配や、残飯を求めてさまよう野良犬やカラスの気配、生き物の気配があった。


 もしかして、と思った唯は建物の裏手に回ってみた。


 「やっぱり……」


 砂のように消えていった自分の家の近所、その近辺にあった建物にそっくりだった。

 映画か芝居のセットのように、通りに面した部分だけが精巧に作られていて、その裏はがらんどうなのだ。ただセットと違うのは、それを支える構造材が何もなかった。

 クリスマスケーキの上に載っている、ウエハースかチョコレートでできた家を齧ってそのままにしたようだ。よくこんな構造でバランスをとって建っているものだと思う。


 「夢だから、当たり前か……」


 それにしても静かだ。

 そう思った矢先、町の奥の方からどやどやと騒がしい音が聞こえてきた。

 悲鳴のような声も聞こえる。


 ……何だろう? 

 夢の中とはいえ、怪物に出くわすのはごめんだ。

 ひょっとしたらこれは悪夢で、怪物が自分を襲いに来たのかもしれない。


 唯は建物の形をした壁の裏に、身をひそめた。

 騒がしい声と足音は、徐々に近づいて来る。足音から想像すると、五、六人の人が石畳を走っているように思える。

 ちょうど出窓があったので、カーテンを少し開けて通りの様子を窺った。

 息を切らせて石畳の道を走ってきたのは、小太りの中年男性だった。

 中世の街並みには全く似つかわしくない、濃紺のジャージを着ている。

 しかも、裸足だった。


 「はあ、はあ……」


 無精ひげの浮いた顔には汗がしたたり落ちていた。

 唯が隠れている建物の前で立ち止まると、振り返った。


 「お前たち、もう、いい加減に、しろよ!」


 男は自分が走ってきた方に向かって、悲鳴のように叫んだ。

 出窓には少し角度がついている。カーテンをもう少しだけ開けて、唯は男の叫んだ方向を覗いた。


 「あれは……ヤルダバオート!?」

 

 いや、違っていた。

 人工知能サマエルが身をやつしていた、宮廷道化師ヤルダバオートの扮装に似ていたが、ヤルダバオート自身ではなかった。

 全身を覆う衣装の色は左右非対称で、赤と緑だ。

 赤ちゃんのロンパースのように、全身がつながっていた。

 さらに、先に房飾りと鈴のついた突起を三つ持つ頭巾を被っている。

 おどけた道化の格好なのだが、顔が異様だ。

 真っ白で、落書きの様な黒い穴が三つ開いていて、それぞれが目と口の配置にあるだけだ。鼻は穴だけ小さな穴がぽつんと二つ、隆起がない。

 丸いボール紙に黒いクレヨンで書きなぐって、適当に作った面とでもいうのだろうか。

 ムンクの‘叫び’の絵にも似ている気がする。

 白面の道化たちは四人いて、輿こしを担いでいた。その上には、椅子が括り付けられている。

 古ぼけた白い猫脚の椅子で、背もたれには敗れた赤いビロードが張られている。

 お世辞にも立派とは言い難い。

 しかも、椅子には腕輪と足かせがついた鎖がぶら下がっていた。

 道化たちが輿を上下に振ると、鉄の鎖がジャリンジャリンと音を立てた。


 「王よ、玉座に着き給え!」

 「我らが王よ!」

 「王は玉座へ!」

 「玉座こそがふさわしい!」


 四人の道化は口々に叫んだ。

 よく見ると逃げている男の手足には赤い傷跡があった。どうやらあの椅子に縛り付けられていたところを、逃げてきたらしい。

 「私を追ってきた怪物じゃないみたい……だけど」

 ひとまずほっとした物の、何か気になる。唯は注視し続けた。


 「くそっ!」


 男は素早いとは言い難い動きでモタモタと身を翻すと、道化たちに背を向けて逃げようとした。

 だが、道化たちは輿を担いだまま追いかけていく。

 やがて白い枯れ枝の様な指がついた手がするすると伸び、男をからめとった。


 「うわあ! チクショウ、離せ、離せ!」


 男は必死で叫んだが、植物の様な腕が手足に絡み付いて抵抗できなかった。一本は男の太った首と胴をきつく絞めあげていた。


 「ぐ……苦しい……」

 「お前が望んだことではないか」

 「玉座を望んだのはお前だ」

 「孤高の王を望んだのだろう」

 「誰とも交わらず、見下ろすことを望んだのはお前だ」

 

 男の顔は蒼白になっていった。


 「誰か……助けてくれ」

 「王に助けなどいらぬ」

 「王は支配し、君臨する者」

 「王よ、輿に乗りたまえ」

 「王よ、玉座へ」


 道化たちは狂ったように言葉を繰り返していた。


 「ちょっと、待ちなさい!」


 乳白色の空気を切り裂くように、良く通る女性の声が響いた。

 四人の道化も、そして囚われていた男ですらも動きを止め、声の主を見つめた。


 「嫌がってるじゃない! 放してあげなさいよ!」

 「お……お前は?」

 「何者だ?」

 

 四人の道化は輿を石畳の上に投げ出すと、黒い穴だけの口で異様な声を出した。猫が喧嘩するときの威嚇音に似ている。

 どうせ夢なのだ、と思っているところもある。だが、目の前でこんな弱い者いじめ――集団で意地悪をしている化け物など、唯には許せなかった。

 唯は右手の親指、中指、薬指を合わせ、ぐるりと捻って叫んだ。


 「グリル・オン!」


 道化たちはたちまち青い爆炎に包まれた。


   ***


 「どうでしょう? 何か変化はありましたか?」

 黒江がVRPIのヘッドセットを外すと、臨床心理士の谷安マリーンが声をかけてきた。

 「いや……特には」

 黒江はため息交じりで答えた。

 不細工にいくつもコードがついたヘルメットの様な形のヘッドセットは重い。膝の上にのせて、モニターを見上げた。

 モニターは全部で六個ある。唯の視覚野の映像を直接映し出すものや、脳地図、そして唯の意識の中に入った黒江の視野を映し出すものなど様々だ。

 黒江の視覚野を映し出していたモニターは今、ブラックアウトしていた。


 「コミューン、パブリックスペースにつなげば、何か変化があるかもしれないと思ったんですが……」

 「先生の奥さんの病状って、すっごい特殊っスからね。一回であきらめるのは早いっすよ」

 国島が黒江を慰めるように言った。

 「これは、……小規模な多人数参加型ゲームのようなものなんですよね」

 「そうです。複数の患者さんの意識をつないで、客観的に互いを見つめることで良い影響を得ようとする集団心理療法の手技です……」


 この病院が誇る‘VRPI’という機械は複数ある。

 医師や療法士が治療者の意識を覗き、分析したりセラピーに応用したりするための物だが、機械同士で接続することもできた。

 黒江は精神科の医師と相談し、唯の意識を複数の患者とつなげてみることにした。

 接続された患者は、共同体コミューン公空間パブリックスペースと呼ばれる共同の仮想空間で話し合いをしたり、社会生活の疑似体験をしたりすることができるのだ。

 何か新しい刺激が、少しでも良い結果をもたらさないかと考えた末の試みだった。


 「何とか村とか、友達系のコミュニケーションゲームみたいなものッスね」

 国島の例えは感覚的だが、的をついている。

 黒江は頷いたが、谷安は不満そうだった。

 「また、国島君はそういう軽薄な例えにしようとする。私たち心理士が一度中に入って唯さんに声をかけてみましょうか?」

 「ありがとう、谷安さん。あの……」

 「何ですか?」

 黒江は一つのモニターをじっと見ていた。

 「あれは、何ですか?」

 「あれ?」

 国島と谷安が黒江の視線を追う。

 唯の視野を映し出しているはずのモニターは、火事の様な劫火を映し出していた。


   ***


 和彦は、ゆっくり目を開けた。

 少し頭を動かし、横、そして天井を見る。

 壁も天井も白い。

 枕元にある酸素吸入バルブと、ナースコールの配線。

 静かに垂れ下がっている、ベージュ色のカーテン。


 ああ……病院のベッドの上だ。

 まるで霧が晴れたように頭がはっきりしていた。

 そうだ。

 俺は、変な声が聞こえたり、変な映像が見えて――怯えて叫んだり、逃げたりしていたんだ。


 今考えると、はっきり幻聴や幻覚であったことが分かる。

 顔を触ろうとして、手首の動きを妨げられた。

 首を起こして見る。

 手足に白いベルトが取り付けられていた。

 抑制帯と呼ばれる物だ。

 自分で体を傷つけたりする恐れのある患者をベッドに――言葉は悪いが、縛り付けておくものだ。


 ああ、そうか。

 俺はヤルダバオートに似た道化に追いかけられて……窓から飛び出そうとしたんだっけ。


 人の気配がして、頭を横にねじった。

 母親が引き戸を開けて病室に入って来る。

 目を開けて自分を見ている息子に一瞬たじろいだように見えたが、ため息を一つついてベッドサイドの椅子に座った。

 横顔をみると、ずいぶん憔悴しているように見える。

 母親はがさがさと音を立てて持ってきたビニール袋を開けると、四角いタッパーウェアを出した。半透明の箱の中には、リンゴが入っているようだ。

 リンゴは自分の好物だった。


 「母さん……」


 和彦が声をかけると、母親はタッパーを取り落とした。

 「お前……和彦? 私が分かるの?」

 母親は怯えているようでもあった。

 「そんなに俺はひどかったのか……」

 母親は立ち上がって和彦を見下ろした。複雑な感情が見て取れる。

 長年引きこもって、家族につらく当たってきた息子だったのだ。

 それがゲーム中に錯乱状態となって暴れれば、こんな風な反応をしても当たり前だろう。

 見捨てられても仕方がない気もするが、そうしないのはやはり母親だからなのか。

 和彦はわずかに胸の奥にこみ上げてくるものを感じた。


 「すまないが、これを外してもらえないか? 医者か看護師に頼めばいいよな?」

 「え、ええ……」

 和彦が目で抑制帯を示して見せると、ぎこちなくうなずいてナースコールのボタンを押した。

 小さな呼び出し音と、「はい行きます」と答える女性の声が聞こえてきた。

 しばし、母親の動きがそのまま止まる。

 何と声をかければいいのだろう。

 しばらく黙って考えた後、和彦は再び口を開いた。


 「その……今まで、色々、苦労をかけて、ごめん」

 そう言うと、母親の身体がビクンと動いた。

 ベッド柵を握り、肩を落として震えている。すすり泣きしているようだった。


 「それと……頼みがある」

 和彦は一瞬目を瞑った。

 ノルトランド王だった時のこと。

 栄光の日々と、最後の戦い。

 そして、今見た自分の混濁した意識――夢なのか、それとも幻覚なのか分からないが、その中に現れた女性のことを思い出した。

 よく似ていた。

 亜麻色の髪。

 とび色の目。

 あの魔法、そしてあの動き。

 彼女は自分の妄想の町と怪物を、一瞬にして焼き払って去って行った。

 彼が知っている姿よりも年上に見えたが……

 間違いない。

 東の主婦、シノノメだ。


 「俺のパソコンを、病院に持ってきてくれないか。急いでやらなければいけないことがある」


 かつての‘人間の王’ベルトランとして。

 和彦は病室の白い天井を睨んだ。

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