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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
カカルドゥア編終章
158/334

心の位階

 「死ね! 跡形残らず,闇に呑まれて死んでしまえ!」

 シンハは絶叫した.

 それは自分の負の感情全てを吐き出すような壮絶な呪いの言葉だった.

 言葉とともに暗黒の生命気プラーナの塊をシノノメに向かって吐き出した.

 炎とも光線とも違う,負のエネルギー体である.


 「うわー! ラブ! 頑張って!」

 「にゃおん!」

 どす黒いいびつなエネルギー波を,空飛び猫はくるりとかわした.

 暗黒のプラーナは,そのまま離宮の隣のオアシスに飛んでいくと,ラージャ・マハール迷宮の巨大なドームを一撃で破壊した.

 それだけでは済まない.さらに直進して砂漠に巨大なクレーターを作り上げた.美しい白亜の霊廟はあっという間に灰色の廃墟となっている.オアシスの樹木は枯れ果てた.


 「どうだ! 闇の生命気プラーナは,正の生命気を吸収し,虚無――死に変える.俺は今,体内でマイクロブラックホールを合成しているのだ!」

 シンハは耳まで裂けた口の不気味な発音で叫んだ.竜のあぎとの奥では,すでに第二弾が作られようとしている.


 ……水晶玉のように……


 シノノメは長い睫毛を動かして一度目を瞑ると,再び自分を包むぬくもりを思い出した.

 祖母の笑顔.

 夫の眼差し.

 抱きしめられた時の温かさ.

 喜び.

 まだ名前も顔も思い出せないけれど……


 自然に口元に笑みが生まれた.

 「まぜる,きざむ,つぶす,何でもできる魔法棒ツァウバー・スタブ! 魔法の手のフードプロセッサー!」

 右手のフードプロセッサーを高く掲げた.ずんぐりした持ち手の先には突起のついた金属棒がついていて,物をかき混ぜたり刻んだりできる,お菓子やスープを作る時の愛用品である.現実世界では電動だが,もちろんこの世界では魔素で動く.


 ……いつも通り,楽しく魔法を使おう.

 魔物も人をむやみに傷つけない,強力だけど,見ていて楽しくなる不思議な力.


 シノノメはフードプロセッサーを振った.先端がくるくる回転すると,集まっていた星たちがきらきらと光りながら渦を作り始めた.

 そのまま空飛猫ラブに乗って空を駆けると,まるで,星がダンスを踊るようだ.

 シノノメを追うように,黒いプラーナの塊が迫る.

 シノノメはフードプロセッサーの先端で暗黒のエネルギーを受け止めた.

 受け止めるや否や,星がプラーナを取り囲んでペタペタとくっついた.

 まるで,チョコレートケーキに星形の砂糖飾りを散らしたようだ.


 「星のバー・ミックス!」

 シノノメの声とともに,棒の先端と星が輝きながら高速回転し始めた.

 赤,白,ピンク,黄色,オレンジ,水色.

 色とりどりの星がグルグルとらせん状に回転すると,暗黒のプラーナは跡形もなく分解されていった.

 さらに,そのプラーナの流れをさかのぼるように渦巻く星々がシンハの方に進んでいく.


 「うわぁぁぁぁぁぁぁ! なんだ,これは!!」」

 もはや,シンハの想像力や理解を超えていた.

 未知の現象が次々と起こる.

 アドナイオスから奪った予測の力も何の役にも立たなかった.

 シノノメの発想力はアドナイオスの予測能力を超えているのだ.

 空を飛んだまま,シンハは星の渦に飲み込まれていた.

 星はシンハを中心にグルグルとめぐり,彼の身体を少しずつ削っていく.

 星に触れると,彼の身体は分解されてしまうようだった.

 キラキラと清らかな鈴の音を散らしながら,細かいピクセルになっていく.

 醜い異形となった手足の先から,徐々に体が無くなっていった.


 「ああっ! 俺の身体が! ……無くなっていく! ……分解される!」

 ついにシンハの身体はゆっくり降下し始めた.

 彼の身体を追うように回転する星たちも一緒に落ちて行く.


 夜空に広がった不思議な光と,突然現れた地上の太陽.

 そして,不吉な暗雲と,それを切り裂く光.

 光に挑む黒い魔獣.

 それが光る星に飲み込まれ,地上に落下していく.


 この不思議な光景は多くの人々が目撃していた.

 シンハの闇の虫から命からがら脱出した戦士たちも,砂漠を行く行商人も,サンサーラに住む人々も.

 誰の目にもその意味は明らかだった.

 正しきもの――光が,闇――魔なるものを打ち倒す.

 それは奇跡の様な,絵画の様な,そして典型的な伝説や物語のようでもあった.


 「くそ,シノノメめ! あと少しだったのに,だが,ゲームオーバーになれば,もう一度やり直して……」

 上半身だけになったシンハはボロボロになった翼を必死に羽ばたかせながら,そんな怨嗟の叫びをあげていた.

 だが,取り囲む星の一つが,ふと形を変えた.

 小さな人型になったそれは,彼の知る人物の姿になった.


 「ナーガルージュナ……」

 

 ……まだ分からぬか.

 少し悲しそうな思念が,シンハの頭の中に流れ込んできた.

 

 ……レベルとは,お前の考える物とは違う.

 

 「俺が何を間違えたと言うのだ!? この仮想世界で,最速で上に上がれる方法を目指したのに!」


 ……レベルとは,魂の輝き.心の位階.


 「何だと? 馬鹿馬鹿しい,こんな電子情報の世界で,ゲームで,心だと,魂だと!?」


 ……それは,大いなる自己矛盾じゃ.

 現実世界に住まうおぬしらの意識とて,脳の電子情報にすぎぬではないか.

 二十世紀末からある哲学者の思考実験を知らぬお前ではあるまい?


 「く……我々の世界が,極めて高度な異世界人のゲームか,あるいは,脳だけのネットワークで,電気刺激を受け取っているだけの世界だとしても,それを見極める術は我々にないという……」


 ……その通り.

 そんな空想科学小説や映画もたくさんあるじゃろう?

 感情も意識も,脳の電子情報,脳内伝達物質の産物とすれば,それはこの異世界とどこが違うのかね?

 この世界を,この世界で生まれた友愛を,子を思う親の心を,人々を慈しむ想いを,愛情を,色受相行識の全てを否定したお主はお主自身を否定したのだ.

 

 「では……俺の方法は……」


 ……分かったかな?

 お前がまだこの世界を所詮ゲームだという認識なら,こう言おう.

 悪しき方法でレベルを上げても,悪い結末――バッドエンドしかないのだ.

 ゲームの主旨に反しているのだから.

 用意された多くの試練クエストは人々を助け,悪をくじくものじゃ.

 そして,世界に平和と正義をもたらすために参加者プレーヤーは戦い,生活する.

 ダークファンタジーというものがあるとしても,何故人々は勇者が魔王を倒す英雄物語に心を惹かれるのじゃろう?


 「くそっ! くそっ! ならば,俺は!」


 ……お主は英雄を生むための絶対悪,魔王への道を選んでしまった.

 この,VRMMOマグナ・スフィアの,ユーラネシア大陸という舞台ステージで,その者に幸せな結末はない.

 お主は五聖賢の力を体に取り込み,多くの生命を傷つけた.

 おそらく現実世界の脳そのものにも多大な影響が出ているじゃろう.


 「お,おのれ……!」

 

 ……なんと清らかな光じゃろう.

 大空に満ち溢れる,歓喜.

 どんな時も正しくあろうと願った,あの娘に相応しい……


 目を細めてうっとりとシノノメの輝きを見つめるナーガルージュナの姿は,ゆっくり消えていった.


 「うおおおおおお!」

 そして,シンハは絶叫とともに完全にマグナ・スフィアの世界から姿を消した.

 あとには,きらきらとダンスを踊るように舞う星たちが残されたが,それもやがてゆっくりと姿を消した.


    ***


 空の光はゆっくりと,シノノメに吸い込まれるように消えていった.

 まだ,シノノメの身体は輝いている.

 彼女は空飛び猫に乗ったまま,仲間たちのいる広間へと戻っていった.

 猫は肉球で音もなく広間の床にふわりと降り立った.


 「シノノメさん……何が起こったの?」

 グリシャムが真っ先に駆け寄ってきた.

 シノノメを見る目が眩しそうだ.

 「体が光ってるけど……その……大丈夫?」

 アイエルが尋ねた.

 ‘大丈夫’が,体だけの意味だけでないことは,すぐに分かった.

 この二人は,いなくなってしまった自分のことを,きっとずっと心配してくれていたのだ.

 「うん……まだ,思い出せていないことがあるけど……大事なことをたくさん思い出せたから,きっと大丈夫だと思う」

 シノノメが笑って頷くと,アイエルもグリシャムもつられたように頷いた.


 「お前,本当にとんでもないよな.洗濯してたのに,最後の技は何だ? あれ,ミキサーか何かだろ? 普通あそこは,聖なる剣を持った勇者が天馬に乗ってやっつける場面だよな? 猫に乗った主婦が調理器具でとどめを刺すって笑えるなー」

 ヴァルナがヘラヘラ笑って軽口をたたいた.怪我した脚はすっかり治ってしまったようだ.

 「それを言うなら,フードプロセッサーですよ.もう,助けてもらったんだからそんなことは言っちゃダメです.恥ずかしいなあ」

 クヴェラが横目でヴァルナを睨みながら,黒猫丸を差し出した.

 「これ,お返しします.勝手にお借りました.結局,シェヘラザードは逃がしちゃったんですけど……」

 「ありがとう」

 シノノメは光る手で黒猫丸を受け取り,辺りを見回した.

 黒騎士も姿を消していた.

 「あの機械人なら,お前が勝ったのを見届けてログアウトしちまったぞ.あいつ,お前の知り合いか?」

 「うん……それが,よく分からないんだけど……」

 「アメリアにいれば最強だろうに,何でこんなとこに来てるのかな.酔狂な奴だよな」

 「最強?」

 「ああ,あいつの身体も不撓鋼マグナタイトだぜ.核攻撃されようが大出力レーザーで撃たれようが平気だ」

 「あの人のステイタスを見て,シェヘラザードがひどくうろたえていましたけど,どういう事なんでしょう?」

 「うーん,わかんねー.けど,クヴェラ,報告書にしっかり書いてくれ.お前に任せたからな」

 「あっ! 先輩,ひどいですよ! また面倒ごとを押し付ける気ですね」

 「ふっ.お前だけが頼りなんだよ,みくり」

 そう言うとヴァルナはクヴェラの肩を抱き,顎を指で押し上げた.

 「あっ! あっ! また,そんなこと言って! 調子がいいんだから!」

 クヴェラは真っ赤になってヴァルナから体を引きはがした.


 ……少し話がしたかった.

 シノノメはヴァルナとクヴェラのやり取りに笑いながら,黒騎士のことを考えていた.

 彼の機械の横顔を見たときに頭によぎった,‘約束’という言葉が妙に頭の中に引っかかっている.

 ……最強……

 ……彼はなぜ……

 とても大事な,根本的な何かが思い出せていない.


 「シノノメさん!」

 元気な声がしたので,シノノメは考えごとを中断した.

 「マユリちゃん!」

 マユリは光るシノノメをよく動く目でキョロキョロ観察すると,おっかなびっくり両手を取った.

 「うわあ……温かい……」

 「そう?」

 シノノメはマユリの手を握り返した.すると,伝うようにマユリの肘ほどまでが金色に光った.

 「私,シノノメさんが見せてくれた,あのきれいな空を絶対忘れない.そして,このぬくもりも.お父さんと一緒に帰って,また頑張ってみる」

 それを聞いていたハメッドは,後ろで顔をくしゃくしゃにして泣いていた.

 口をパクパク動かし,何とかシノノメに礼を言おうとしているようなのだが,言葉になっていない.

 「だから,お願い.いつか,必ず,現実世界で会ってね.私は枯れ木みたいなやせっぽちで,こんなに元気じゃないと思うけど……」

 「大丈夫.きっと会ったらわかるよ」

 「あ……あり……とう……います」

 父親ハメッドは何とか声を絞り出しながらそれだけ言うと,娘の肩を抱いた.

 二人は手を振りながら,ログアウトしていった.


 「……私はこれで,本当に良かったのだろうか……」

 そう言いながらシノノメに話しかけてきたのは,ジャガンナートだった.

 彼の身体も,シノノメの星が入ることによって修復されたのだ.

 ただ,影を操り子供をこの世界に留めおく不思議な力は失われていた.

 「助けてもらって,素直に礼を言うべきかもしれない.だが,この世界でこうやって生きながらえていることそのものが,自然に反することだ.それに,私は多くの罪を犯した」

 ジャガンナートがうなだれると,シノノメの放つ光が,顔に濃い影を作った.

 「私の‘星’は,悪いところを治してしまうもの.シンハは悪いところだらけだったから,消えちゃったんだと思う.そこには,私の意図はないよ」

 「では……」

 ジャガンナートは顔を上げた.その大きな目は心なしか潤んでいた.

 「あなたがそうやって生きているっていう事は,あなたのその部分は良いものなんだと思う.だから,もしそう思って反省してるのなら,罪を償えばいいよ」

 「おー,罪を憎んで人を憎まず,かよ.それが良い.そうすれば俺たちも情報収集に困らねーからな.いや,神様仏様,シノノメ様だ」

 「失礼な!」

 茶化すヴァルナを少しにらむと,シノノメははるか後ろに控えている二人に顔を向けた.

 シンバットとシセルニチプだ.二人ともひざまずいてこうべを垂れている.


 「王様,顔を上げて,立ってよ」

 「そんな……恐れ多くてとてもできませぬ.シノノメ様は宗主様と一体となり,魔王を打ち破られた.まさにヴァルナの申す通り,神に等しい存在……いや,真の神でございます」

 「その通りです.私に至っては,この命を救われました.意識を失っている間に,私の口からナーガルージュナ様のお名前がでたと殿下からうかがっております.まさに神秘の出来事,これまで数々のご無礼をなにとぞご容赦ください」

 「もう,困ったな」

 シノノメは二人の手を取ると,引っ張り上げて立たせた.

 「こ,これは……」

 「困ります……」

 とはいえ,光り輝くシノノメに手を取られては拒むこともできなかった.

 「王様,でも,大丈夫? アドさんも,ナーガルージュナさんももういないし……私には気持ちが少しわかるの.王様の記憶は……」

 少しためらいながら,シノノメは尋ねた.

 「その事は,王家の秘事として私の胸に納めます.宗主様がおられず,この世界がかりそめの世界で,外つ国人とつくにびとの創造物であるとしても……こうして,私たちは生きているのです」

 そう言うとシンバットは力強くシセの手を握ったので,シセの頬は赤くなった.

 「……そうだね.その気持ち,とても大事だと思う」

 シノノメは仲良く見つめ合う二人を見て,微笑ましくなった.

 「ね,ジャガ……何とかさん,この二人を助けてあげて.そして,カカルドゥアをみんなが住みやすい良い国にして」

 「ふふ……了解した.恐らく,私はもう不死の存在ではない.この命続く限り自分の知恵を振り絞り,カカルドゥアを見守ろう」

 神々しい今の姿と天真爛漫な言葉のギャップに,ジャガンナートは苦笑しながら頷いた.

 

 シノノメは再び友人たちの方を振り向いた.

 ヴァルナとクヴェラは一足先にログアウトしていた.

 確かに,クヴェラは意識不明になってから長い.なんだかんだ言ってクヴェラを気遣っているヴァルナなのだ.

 メッセンジャーに‘じゃーな’と一言だけ残して去るやり方も,いかにもヴァルナだった.

 

 「じゃあ,みんな,もう帰ろう.私,夕飯の支度しなくっちゃ」

 「うん,シノノメさん,すぐまた会おうね」

 「必ずだよ」

 アイエルとグリシャムは,まだ光っているシノノメと握手した.

 シノノメの手の中に二人のぬくもりが広がった.

 「うん……それで……」

 シノノメが口ごもったので,アイエルとグリシャムは次の言葉を待った.

 「二人とも……いつか……現実世界リアルで会ってくれる?」

 アイエルとグリシャムは顔を見合わせた.

 「ダメ?」

 「とんでもない! そんなことあるわけナイ!」

 「絶対,絶対会おうよ.私,楽しみにしてるから!」

 「ありがとう.二人とも……」

 シノノメは万感の思いを込めて,そう言った.

 カカルドゥアに,助けに来てくれたこと.

 エルフの森で,迎えに来てくれたこと.

 ノルトランドの戦いで,ベルトランの宮殿でそばにいてくれたこと.

 主婦ギルド,マンマ・ミーアに来てくれたこと.

 友達になってくれたこと.

 そして,ずっと友達でいてくれていること.

 たくさんの感謝は,とても言葉で言い表せなかった.


 「私たちも」

 「こちらこそ」

 三人とも,満面の笑顔になった.

 アイエルが,まず手を振りながらログアウトしていく.

 グリシャムが,ウインクしながら去っていく.

 そして.


 「あ,一言だけ忘れてた」

 シノノメは自分たちを見送っていたシセとシンバットのところに駆け戻った.

 「な,何でしょう? シノノメ様?」

 「主婦様??」

 シンバットもシセも驚いて何度も瞬きした.

 「二人とも,末永くお幸せに!」

 「……は,はい.ありがとう存じます」

 「主婦様,ありがとうございます.その祝福のお言葉,生涯の宝といたします」

 シセは娘らしく頬を染め嬉しそうに微笑んだが,シノノメはさらにシンバットの胸に人差し指を当てて言葉を継いだ.

 「それでね,王様」

 「はっ!?」

 光る指を持つ女神の託宣である.

 緊張して言葉を待つシンバットに,シノノメは悪戯っぽく笑った.

 

 「一夫多妻制は,許しません」

 シンバットのひきつった笑いと,シセの幸福そうな顔を見ながら,シノノメはログアウトした.


  ***


 目を開けてソファから体を起こし、VRマシンを頭から外す。

 唯は辺りを見回した。

 いつもの部屋の中の風景だ。

 すでに日が暮れて、バーティカルブラインドの隙間から夜気が忍び寄って来る。

 月夜だった。

 唯はソファから立ち上がり、ブラインドの紐を引いて外を見た。


 ……やっぱり。

 いつもの月だ。

 少し欠けた満月で、ウサギの形が表面に踊っている。


 唯はブラインドを閉めると、ため息を一つついた。

 ロング丈のカーディガンを羽織り、階段を下りる。

 唯の家のリビングは二階にある。

 一階の廊下を歩いて、玄関に着いた。

 ドアノブに手をかけ、もう一度ため息をついた。

 刹那、アイエルとグリシャム、マユリの顔が脳裏をよぎる。

 

 ……約束だもの。行かなきゃダメだ。


 力をこめると、ドアがガチャリと音をたてて開いた。

 唯は、玄関から外へ出た。

 二階から見たのと同じ月が夜空に浮かんでいる。


 ……だが。


 唯は辺りを見回した。

 不思議な光景だった。

 二階の窓から見える家が数軒立ち並んでいるのだが、その向こうにあるはずのマンションも、小学校も、駐車場もない。

 カカルドゥアの砂漠の様な茫漠とした砂地がずっと広がっていた。

 三軒向こうの家は、半分しかない。


 ……夢の中で夢を見ている様なものだ。


 ヤルダバオートと、魔王シンハの言葉が蘇る。

 

 ……どうして、ずっと気づかなかったんだろう。


 「私は、……目を覚まさなくっちゃ」

 

 唯は自分の家に背を向けて歩き始めた。

 背後で、家が砂の様にゆっくり崩れ去って、消えた。

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