21-9 記憶の海
遠くでアイエルとグリシャムの声がする.
すすり泣く子供の声も.あれは,マユリだろうか.
体がひどく重くて,何もかもが遠くに思える.
いつか,こんな事があった気もする.
瞼を開ければ――大好きな自分の家のソファの上で――そんなことはないのだろうか.
シノノメは,閉じた瞼を少しだけ開けた.
頬に床の石材がべたりとついている.
視界の隅には,黄色くなったMP/HPゲージが見える.
見る間にどんどん減っている.
シンバットがシセを抱きしめ,何かを叫んでいる.
可哀想なシセは,シンバットを守って頭にひどいけがを負ったのだ.
政略結婚とは言うけれど,きっとそれ以上の気持ち――愛があるに違いない.
だから,あんなに献身的になれるのだと思う.
シンバットの声がとぎれとぎれに聞こえる.
「おお……亡くなった妃は,幼馴染であったが……それもまた偽りの記憶であるという…だが…シセよ……お前に対するこの気持ちは真実のはずだ……」
シセの身体は,ゆらゆらと力なく動いていた.
シンバットは泣いているようだ.
「シセ……どうかもう一度だけ目を醒ましてくれ.カカルドゥア滅亡のこの時,愛するそなたの声が聞きたい.一度だけでもいい.それが私のたった一つの願いだ……」
悲痛な叫びだった.
青年王のあまりにも哀しい愛の告白だった.
シセさん……王様……
意識がまた遠のいていく.
ソフィア,ごめんね.
私,どうしてもアドさんのことは,悪い人だと思えなかった.
だってきっと,アドさんは……
その時,突然鋭い声がシノノメの耳に届いた.
重い眼球を何とか動かし,声のする方を見た.
「シノノメさん! ナーガルージュナを呼びなさい!」
声の主は,シセだ.
シンバットが驚愕している.
腕の中の,すでに意識もないはずのシセは,しっかりとシノノメを見据えて口を開いていた.
黒目がちの目の奥に,深い紫色の輝きが見える.
これは……
シノノメは,左の薬指の感触を確かめた.
エルフの女王,エクレーシア――惑星マグナ・スフィアの管理者,ソフィアの指輪が触れる.
シノノメは朦朧とした意識の中で,ナーガルージュナの名を呼んだ.
***
「シノノメさん! シノノメさん!」
アイエルとグリシャムは,体をえぐるシャドウ・ワームの痛みも忘れて必死で叫んでいた.
ログアウトもできない今の状況で,シノノメがこの世界で‘死ねば’どうなってしまうのだろうか.
彼女の実体的な意識はすべて電脳世界の中だ.
あまりにも曖昧なその存在は,もしかして消失してしまうのではないのだろうか.想像もつかない.
「愚かだな.俺はすでに,全知の力を持っている.シノノメの攻撃パターンなど,予測できてしまうのだ.フルパワーの時ならばまだしも,今の奴が勝てる見込みなど無い」
シンハはつまらなそうに言った.
「ふーむ,やはりレベルはなかなか上がらないものだな.シノノメを倒しても,99.2か」
今の彼の関心ごとは,自分のレベル上げだけだった.シノノメの必死の攻撃ですら,道端の石に躓く程度でしかない.
「あなたねぇ! あなたも,医療関係者でしょう? なのに,どうしてこんなひどいことができるのよ!」
グリシャムは黒い管虫に囚われた手足を滅茶滅茶に振り回しながら叫んだ.
「ほう,賢しいな.俺との会話でそこまで推論したか」
「多分,医者よ! 独特の冷たさ,きっと間違いナイ! でも,あんたみたいな医者がいるなんて,ぞっとするわ!」
シンハはジタバタと暴れるグリシャムを見て,少しだけ愉快そうに笑った.
だが,彼の笑いは瞬時に消えた.
倒れたシノノメの傍に不思議なものを見つけたのだ.
全てを予測できるはずの彼にも予測できない何かである.
影で作った管虫の様なカテーテルに捕らえられていないのは,シノノメと,シンバットと,シェヘラザード,そしてオシリスだ.
シンバットは意味がないというよりも,ほとんどその存在を忘れていた.
シェヘラザードの身体は,半透明な幽霊のようで,カテーテルが刺さらない.
オシリスも鋼鉄製の身体なので,固くて刺さらない.
シノノメは魔包丁で影を切り刻んだ後,倒れてピクリとも動かなかったので,無視した.
そのシノノメの顔の近く,床の上に青い光る輪ができていた.
どことなくシェヘラザードの作る赤い輪に似ている.だが,禍禍しい赤ではなく,清冽な印象を受ける青だ.
青い輪の中から,ゆっくり何かが浮き上がってきた.
緑色の甲皮と小さな角のある,小柄な人型の何か.尻には短い尾がある.
「お前は……もしや! 何故!?」シンハはその影の正体を知っていた.「ナーガルージュナ!」
竜人ナーガルージュナは全身を広間の中に現わすと,ゆっくりと辺りを見回した.
倒れたままのシノノメを見つけて優しい笑みを浮かべた後,杖を突きながら一歩踏み出して輪の外に出た.
「ふむ……何ということじゃ……」
ナーガルージュナは抜け殻になってしまったアドナイオスの身体と,黒い魔王になったシンハを交互に見比べた.
「哀れな事よ,アドナイオス……中立がかような結果となるとは……」
「ナーガルージュナ! こいつら,マジでやばいぞ! どうして出てきた? お前でも敵わないかもしれねー! お前が死んだら,苦行林の子供たちはどうすんだよ!」
ヴァルナが叫んだ.
「そうじゃな……だが,儂が出なければならない状況じゃな……」
ナーガルージュナは杖を突いてゆっくりシンハに近づいて行った.
「苦行林……? その姿……竜人……あなた様は,もしかして,本当の宗主様ですか?」
シンバットはシセを抱きしめながらも片膝をついて平伏した.
「やめよ.大公よ.儂はただの竜人の乞食坊主.宗主に真も偽もない.儂とアドナイオスは双子で生を受けたのじゃ.儂のまたの名を,ヤオーと言う」
ナーガルージュナは温和な笑顔を浮かべた.
「ヤオー様……何と……しかし……」
「アドナイオスは人々を見守り続け,儂は零れ落ちた人々を慈しみ,救い上げる.それが我らの役目」
「では……!」
一瞬,シンバットの目が希望に輝いた.だが,ナーガルージュナは哀しそうに首を振った.
「儂は幾分かの力を持っておるが,その娘を死の淵から救うほどではない」
「そんな……」
「それが,自然の摂理じゃ」
ナーガルージュナが杖でヴァルナを縛めていた管虫を撫でると,バラバラと細い糸が切れるように崩れ落ちた.
「た,助かったぜ」
ヴァルナは片足を引きずりながらも自由になった手足を動かして礼を言った.
ナーガルージュナはクヴェラのシャドウ・ワームも同じように解除したが,クヴェラはフラフラしていた.ヴァルナに比べてレベルが低いクヴェラは,生命気を同じように奪われても,消耗が激しいのだ.
「それで,何をしに来たのだ?」
頭上から降ってくるように傲慢なシンハの声が響く.
「おう,シンハよ……かような姿に変わってしまうとは……」
小学生ほどの身長しかないナーガルージュナは,玉座に座ったシンハを見上げてため息をついた.ナーガルージュナの顔はひどく哀しそうに見えた.
「これは,俺の臨んだ姿.……久しいな.お師匠殿」
「まだ儂を師匠と呼ぶか……」
「えっ!? 師匠? ナーガルージュナ,こいつ,お前の弟子だったのかよ?」
ヴァルナが目を丸くした.
「シンハにヨーガや瞑想法,マルマ医術を教えたのは儂じゃ……」
「不肖の弟子だな.東洋医学を実践し,身に着けるには大いに役に立った.だが,お前の所にいては,NPCや弱いプレーヤのための慈善活動ばかりだ.それではレベルは上げられないと,そう悟ったのさ」
シンハは野太い声で笑った.
「レベル……か.お前は,大きな勘違いをしている様じゃ」
ナーガルージュナはゆっくりと首を振った.
「何がだ? レベル,すなわち,強さだ.単純明快ではないか.そして,俺はもうすぐこの世界の真理を手に入れるのだ.叡智の結晶,全能の知識.何とも胸が躍る」
「ナーガルージュナ,ですって……? あれが,もう一つのアルコーン,ヤオー?」
シェヘラザードはかろうじて動く首を動かし,ナーガルージュナを見ていた.
ナーガルージュナは杖を振り,次々にシノノメの仲間たちを開放していく.だが,いくら開放してもシンハに見合う戦闘力を持っているものなど誰もいなかった.
「お前にできることと言えば,人々を助けることのみ.攻撃することもできないNPCである貴様に,何ができるというのだ?」
シンハは笑い続けているが,シェヘラザードにはどことなく固さが感じられた.ナーガルージュナが持つ力を警戒しているのだろうか.
「いかにも.儂ができるのは,守ること.そして,逃げ道を作ることや逃げ場所を与えること.七つのアルコーンの欠片,アドナイオスと儂の二人ができるのは,ささやかな救いのみ.アドナイオスはその言葉で,儂はその行動で」
「慈愛……の人格なのね.くっ……アスタファイオスか,サバタイオスの力を借りるか……」
シェヘラザードは体をよじり,ズルズルと壁の方に移動した.
徐々に彼女の身体を貫く短刀の効力は減じているようだった.
「……ヴァルナよ」
ナーガルージュナは一番傍にいる,顔なじみに話しかけた.
「お主には今までの礼を言わねばならぬ」
「何だよ? 急に」
「そして,お前にしか頼めぬ.お前なら,シンハから儂らを守ることができよう.しばしの間――彼女が再び目を醒ますまで」
そう言うと,ナーガルージュナは意味ありげに大きな眼球を横に動かした.
「あ……えっ? それは?」
戸惑うヴァルナをよそに,ナーガルージュナは天を仰いだ.
「ソフィアよ.儂もアドナイオスも,お前を信じる.彼女が真に我々の希望とならんことを」
そう言うと,ナーガルージュナは杖を捨てて倒れたシノノメの方に走っていった.
「ありがとう,さらばじゃ,ヴァルナ!」
「おい,あっ!」
ナーガルージュナの身体が,緑色の光る粒子になった.
粒子は輝きを増すと,シノノメの腹部にぽっかりと開いた穴に入って行った.
しばらく光はそこで渦を巻くと,ゆっくりと体に溶け込んで見えなくなった.
腹の穴は完全に消失し,後には倒れたシノノメだけが残された.
「どうなってるんだ」
「どうなってるの……?」
ヴァルナとシェヘラザードが同じ呟きを少し離れた場所で別々にしたかと思うと,シノノメの身体はゆっくりと光を放ち始めた.
***
シノノメが再び目を開けると,そこは温かい遠浅の海の上だった.
海か,と言われるとよく分からない.
温かい水の上を自分は裸で漂っているのだ.
身体のどこにも痛みを感じなかった.
目の前には,雲一つない青い天蓋が広がっている.
オゾンのせいか,端にいくほど濃い青と薄紫が入り混じっている.
心地よかった.
「シノノメ殿,シノノメ殿」
誰かが自分を呼ぶ.
シノノメは少しだけ顔を傾けた.
死海には行ったことがないが,こういうものかもしれない.
頭を動かしてもなお,自分の身体は心地よく水の上に浮いていた.
「誰?」
水の上に,小柄な人物が立っている.
「ナーガルージュナさん……」
ナーガルージュナはシノノメの顔を見ると,優しく笑った.竜人だが,猿のように皺だらけになる.
「頑張ったけど,勝てなかったよ……シンハは,子供たちにひどい事をしていたの」
ナーガルージュナは頷いた.
「それに……私,分からなくなっちゃったの.ソフィアは,サマエルは悪い人工知能だって言ってたけど……アドさんを見ていたら,そうはとても思えなかった.アドさんを殺すなんて,私にはできないよ.それに,アドさんは,あなたの兄弟なんでしょう?」
ナーガルージュナはシノノメの言葉に再び頷いた.
「姉妹が正しいのかな? ラージャ・マハールの裏門に,竜人の双子の赤ちゃんの絵があったから,きっとそうだと思って……」
「すべては,シノノメ殿の感じたままが正しい」
ナーガルージュナは水面の上をゆっくり歩いて,シノノメに近づいて来た.
「正しい……でも,私には大事な人の記憶が無い.経験や,記憶が欠けているから,気持ちだけで動いてしまう」
「では,NPC――マグナ・スフィア生命圏の人間達はどうかね? 彼らの記憶も……まやかしじゃ」
「そう……だから,私は,あの人たちに近いんだと思う.きっとそれは,妖精と同じなの」
「妖精?」
「うん,妖精には,魂がないの.だから軽くて,浮付いた行動をとってしまうんだって.そして,死んだら大気に溶けて無くなってしまう.でもね,人間に愛してもらって,魂を分けてもらうと,魂の重さをもらって――人間になって,天国にも迎えてもらえるんだよ」
「それは,そなたの祖母殿から聞いた話かな?」
「そう……私には,何もない.気づいたの.この世界で手に入れたものがとても大きいから,この世界が無くなってしまったら,私がいたっていう事もなくなってしまうんじゃないかって,時々不安に思う」
ぬるま湯の様な水の中で,シノノメは自分の身体が熱を帯び始めているのを感じた.
ナーガルージュナはいつの間にか水面からシノノメの胸の上にちょこんと飛び移って座っていた.だが,猫ほどの重さも感じなかった.
「だから,この世界を守りたい.そして,この世界を好きな人も守りたい.そして,そう思えるのは,きっと……」
シノノメは口ごもった.
ナーガルージュナは目を瞑ってシノノメの言葉を待っている.
「顔も思い出せない,あの人への気持ちがあるから.あの人の記憶.思い出せなくって苦しくって,辛くって,それでも,持っていたい暖かい気持ち」
涙が目から溢れてきたので,シノノメは両手で目を塞いだ.
「思い出せない……か」
ナーガルージュナはぽつりと言った.
「ユング心理学的に言えば,記憶や経験を下に,人々の心の中で行動指針を示す存在――男性ならば老賢者,女性ならば太母.理想の存在であり,超えていかねばならない存在.そなたの祖母殿はそれに近かったのであろうな.だが,お主は心の欠片を喪失してしまった……」
ナーガルージュナの言葉の意味は,シノノメには理解できなかった.
しばらく沈黙した後――それは,ずいぶん長い時間であったように思えたが,ほんの一瞬であったかもしれない――ナーガルージュナは,目を開いたシノノメの顔を覗き込んでいた.
「それでは,儂が――お主の欠片になろう」
そう言うと,ナーガルージュナはにっこり笑い,光の残滓を残してシノノメの前から姿を消した.
「ナーガルージュナさん!?」
シノノメは水面の上で体を起こした.
だが,突然風景が一変した.
心地よい海と空は消え去り,真っ暗になったかと思うと,様々な光景が浮かんでは消え,流れては消えた.
シノノメの頭の中を大量の情報が駆け巡る.
それは,目の前に高速の早送りで流される画像のようでもあり,また,マルチスクリーンの映画の中に入ってしまったようでもあった.
シノノメの身体は,大量の情報の海の中で翻弄され,揺り動かされ,上昇しまた下降した.
「あ……あ!」
頭が痛くなる.
莫大な量の何かが自分の頭の中に流れ込んで来るのを感じる.
……シノノメ.あなたに実体験としての経験を与えることは難しい.だが,その記憶を作ることはできる.ネット上に残るあなたに関する情報をもとに,頭の中で経験――というよりも,記憶として再構築しましょう.
「え!? ナーガルージュナさん? どういうこと?」
その声は,ナーガルージュナのようでもあり,もっと女性的でもあった.
それは,シノノメの知っている声に似ていた.
情報の波が押し寄せる.
防犯カメラに映るシノノメの映像,小学校の記録,図書館で借りた本.
クラウドサーバに残された,家族の写真.
学生時代の動画.
シノノメが失った経験が,記憶情報として再構築され,再び注ぎ込まれていた.
「あああああああああああ!」
***
気づくと、シノノメは祖母と向かい合って座っていた。
祖母――マリエルは眼鏡をかけ、編み物をしながら揺椅子に座っている。
自分は――小学生ほどの少女に戻っていた。
シノノメ――唯の父親は、アルザス動乱と呼ばれる大規模テロの際に行方不明になった。
だが、それは正確ではない。
父には他所に愛人がいたのだ。
失踪という事にして、彼は自分の家族を捨てた。
自らの母と、妻と娘と息子を動乱の町に残し、逃げていたというのが真実だった。
経営状態が悪化した家業を継ぐのが嫌だったのか、料理の腕に自信を無くしたのか――
それとも、単に唯たちが嫌になっただけだったのか。
これに憤ったのは、実の母であるマリエルだった。
オーベルジュを売却し、資産を孫たちに渡して、テロが続くヨーロッパから避難させようとしたのだ。
だが、唯の母も自分たちだけが逃げることを良しとしなかった。
料理人として、また経営者として、一人の女性として彼女は義母を尊敬していた。
一緒に日本に移住することを提案したのだ。
日本に移り住んでからも、祖母は唯達親子に生活を頼ろうとしなかった。
「自分の食い扶持くらい、自分で稼ぐわ」
日本語がある程度できたマリエルは、そう言って料理教室や料理本の執筆を行っていた。
言葉の細かいニュアンスなどが分からないときは、唯も良く手伝っていた。
愛する、尊敬する祖母だ。
「ねえ、お祖母ちゃん」
記憶の中なのか今の自分自身なのか――はっきりしないまま、唯は口を開いた。
「……悪い心を持っている人といると、とても苦しくなるの」
唯の目や髪の色は田舎では目立つ。
家庭環境――ヨーロッパからの一種の難民であることも含めて、いじめの対象になることがあった。
それでも毅然としていると、もっと疎外されることもある。
‘いじめられているの?’と尋ねるかと思っていた祖母は、全く違う質問をしてきた。
「どうして苦しくなるの?」
「それは……」
唯は少し考えた。
いじめそのものも嫌だったが、それよりも嫌なのは……
「悪い心の人といると、私も悪い心――憎んだり、怒ったりの気持ちになるからかな。どうすればいいの?」
「それはね」
祖母はそう言うと、編み物を編む手を止めて、唯の顔を見据えた。
「水晶玉のようになればいいのよ」
「水晶玉?」
「そうよ。水晶玉の光は、色褪せない。どんな汚れがついても、拭けば元通りだもの」
「……?」
訳が分からくなった唯の顔を見て、祖母はにっこりと笑顔を浮かべた。
***
再び,風景が流れた.
気づくと,シノノメは黄色い落ち葉が降り積もる秋の森の中に座っていた.
迫りくる夕闇の中,誰かが歩いて来る.
初老の女性だった.
「マリーお祖母ちゃん……」
シノノメの祖母の姿をしたその人物は,落ち葉を踏む音を立てながら近づいて来る.
薄い水色のショールを揺らし,屈んでシノノメに微笑んだ.
先ほどの思い出よりも,幾分若返って見える.シノノメがずっと幼い時の祖母の姿だ.
その微笑みは,祖母の物でもあり,またナーガルージュナの物のようにも思えた.
「ごめんなさい.私は,あなたが一番欲しい思い出を取り戻して上げることはできなかった.でもそれは,あなたの中に鍵があるの」
少し哀しそうに祖母は笑った.
鍵……
……私の一番欲しい記憶.
それは,もちろん,一番大事な人の思い出だ.
シノノメの心のなかで,少しだけ哀しみがうずく.
「でも,忘れないで.あなたが思い出すとき,私は,あなたの中にいる」
そう言うと祖母は一冊の本をシノノメに手渡した.
「これは……」
シノノメはそのタイトルを見た.
よく覚えている.祖母が好きな小説だ.
フランス人の祖母は,この本を読んでこう言っていたのだ.
――まるで,これは私たち二人みたいね――と.
その小説の名は――‘西の魔女が死んだ’――.
参考文献:
西の魔女が死んだ 梨木香歩 新潮文庫
グノーシスの神話 大貫隆 講談社学術文庫
怒らないこと1,2―役立つ初期仏教法話 アルボムッレ・スマナサーラ サンガ新書
ユングとオカルト 秋山さと子 講談社現代新書




