21-8 魔王の飽食
「内務省国家企画局長,片瀬涼香! 要人暗殺,洗脳,騒乱罪,国家機密情報法違反その他諸々の容疑で,あなたを拘束します!」
クヴェラは肩で大きな息をしながら,倒れたシェヘラザードの首筋にヴァルナのグルカナイフを押し当てた.
シェヘラザードの背中には,かつて彼女がクヴェラに振るった短刀が深々と突き刺さっている.ヴァーチャル・リアリティ機器を通して大脳活動を停止させるプログラムだ.不思議な事に,切り口からは一滴も血液――仮想世界では血液状の細かいピクセルなのだが――は流れていなかった.
「く……軍人などに,何が分かるというの……」
だが,それより驚くべきことはシェヘラザードの様子だった.クヴェラはこの刃物を刺されたとき,完全に体と思考の自由を奪われてしまったのに,シェヘラザードは苦痛に呻きながら体を動かして抵抗しようとしている.手足の自由が利かないせいで短刀を抜くことこそできないが,彼女は意識を保っていた.
「まだ動けるなんて……?」
マグナ・スフィア世界における不干渉の権限,そして半実体の存在という特殊さのせいだろうか.
油断ができない.
二重三重の安全装置,脱出路を確保しているのかもしれない.
クヴェラはシェヘラザードに全神経を集中していた.
だが,‘デリートコマンド’と彼女が呼ぶ赤い光輪が無くなり,とりあえず危険は去った.
シノノメ達が痛む体で助け合いながら立ち上がろうとしていたその時,恐ろしいことが起こっていた.
「ぐわっ!」
声の主はアドナイオスだった.
全員が一斉に振り返る.床に倒れたシェヘラザードも目と首をぎこちなく動かしてアドナイオスの姿を探した.
アドナイオスは,喉輪――シンハの右手で喉をつかまれ,吊り上げるようにして捕らえられていた.
「何てこと……シンハ……」
シェヘラザードは呟いた.
「馬鹿め.お前と言う頸木が無くなった今,そして,俺に敵対するものすべてが活動不能になった今,俺は俺の目的を果たすだけだ」
「ぐぐ……シンハ……」
首を絞められたアドナイオスは呻いた.鈎爪の生えた指がシンハの腕に食い込むが,それで離すシンハではない.
「世界の傍観者よ.その記憶と予知能力を全て頂こう.そして……俺は,全能の存在となるのだ」
シンハの手はゆっくりとアドナイオスの首から顔,そして頭の中にめり込んでいった.
そして,脳に手が達したとき,何かをつかむように前腕の筋肉が緊張した.
アドナイオスの方はビクリと体を震わせる.
「もらったぞ.貴様の,サハスラーラ・チャクラ!」
シンハは,今度はゆっくりと手を引き抜いて行った.
掴みだしたのは,光り輝く薄紫色の球体だ.正確には球ではない.渦巻く雲が寄り集まってほぼ球状になっている,不思議な物体だった.
紫色の光の粒子が糸を引いてアドナイオスにつながっている.
アドナイオスは膝をつき,自分の身体から抜き取られたチャクラを力なく眺めた.
シンハの腕をつかんでいた両手も,だらりと下に垂れ下がった.
「あ……アドさんを,離しなさい!」
シノノメはふらつく足で立ち上がると,左手に持った魔包丁の先をシンハに向けた.
ソフィアの言葉が正しければ,アドナイオスも倒さなければならないサマエルの一部のはずだ.
だが,シノノメは彼(彼女)を守らなければならないと思った.
カカルドゥアに来たばかりの時,励まされたから?
人に危害を加えない存在だから?
カカルドゥア国民にとって神聖な存在だから?
何故かは分からない.ただ,彼女の心がそうすべきだと言っていた.
武術の踏み込みは,突き詰めれば大地に倒れ込む動作に近い.
黒猫丸を構え,シノノメは必死の突きを放った.
「邪魔をするな,シノノメ!」
シンハは難なく避けるとシノノメの足を払った.
シノノメは無様に床に転がった.右肩に再び激痛が襲う.ポーションで回復しかけていたのに,また痛めてしまったようだ.
「うう……」
「フン,その身体で何ができる? お前はそこでおとなしく眺めていろ.もう,お前の勝ちはない」
シンハは喜色に満ちた顔で紫色の球を眺めた.
綿を手繰るように動かし,自分の口元に引き寄せていく.口を開き,至高のエネルギー体を頬張ろうとしたその時.
「いいえ……シンハ,あなたは負けるでしょう」
虚ろな目になったアドナイオスが口を開いた.
「何を言う? 死にぞこないめ」
シンハの手が一瞬止まった.
「今更予言か? いや,お前の願望だな? ……先ほど言っていたな.シノノメの物語がどうとかと.だが,現実を見るがいい」
床の上で魔包丁を握り,必死で体を起こすシノノメを見下ろしながらシンハは言った.
「私の……最後の予言……」
アドナイオスはそれでも言葉を続けた.
「空に……大輪の花が咲くとき……あなたは負けるでしょう……」
それだけ言うと,アドナイオスは瞼をゆっくりと閉じてシンハの足元に前のめりに倒れた.
「アドさん!」
シノノメは叫んだが,アドナイオスの身体は二度と動くことはなかった.
シンハの手には渦を巻く紫色の発光体――今や,それは球と言うよりも尾を引く小さな竜の姿に似ていた――が,残された.
「ハハハ,空に花が咲くだと? あり得ない.そんなことがあるならば,星々が地上に降り,舞い踊ることすらあるだろうな!」
シンハは大笑しながら,そのままアドナイオスのチャクラを口にした.
ゆっくり味わうように口に運び,飲み込む.
ただそれだけの姿だが,その異様さに圧倒され,全員が目を奪われていた.
シンハの身体が急速にその形を変えていく.
黒い文様が浮かび上がりながらも,人間のそれであった肌に鱗が生え始めた.
黒くて細かい,蛇の様な鱗だ.
鱗は全身を覆い,両手足の指に鈎爪が生えた.
肘と膝の先端は皮膚を破り,黒い剣のような突起が突き出してきた.
そして,その顔――頭部が一番不気味だった.
後頭部にもう一つの顔が生えたのだ.
鼻づらが突き出たそれは,明らかに竜の物だった.
黒龍だ.
アドナイオスの顔を黒く染め,より獰猛にして後頭部に無理やり張り付けたように見える.
竜の顔は顎を開き,だらりと青黒い舌と鋭い牙を見せた.
開いた目の瞳は,アドナイオスの物と同じ金色だ.
自分の身体が不気味な姿に変わっていっても,シンハの顔は笑みを浮かべていた.
勝利の美酒か,それとも危険な麻薬に酔っているようにも見える.
瞳孔が開き,瞳は赤くなった.
両耳の上に,らせん状の突起が生え始めた.突起はどんどん伸び,捻じれた非対称の角が出来上がった.
「……悪魔……いや,魔王だ……」
か細い呼吸をしているシセを抱きしめながら,シンバットはつぶやいた
「まさに……魔王……悪夢を見ているようだ」
ハメッドが震えながら言った.彼はさっきから何度もメニューウインドウを確認している.シェヘラザードのシステム操作がまだ解除されていないのか,相変わらずログアウトはできる状態になっていない.
身体全体もどんどん大きくなっていた.
もともと二メートル近い身長だったシンハだが,すでに三メートルを超えていた.手足のバランスもそれに合わせるように大きくなっている.マグナ・スフィアに巨人族はいないのだが,ダンジョンのモンスター,それも階層ボスクラスに近い大きさに達していた.
「レベルが……でも,98.8?」
グリシャムは魔法の杖にすがって立ちながら,シンハのステイタスをチェックしていた.
マグナ・スフィアの様々な物,各々に立ち上がるステイタスウインドウだが,レベル表示は二けたが基本で,高位レベルプレーヤーに限っては小数点以下が表示される.
カウンターのように目まぐるしく急上昇していた小数点以下の数字だったが,徐々に勢いを失って止まり始めていた.
「うおおお!」
禍々しい魔王となったシンハは,月と星を背に叫んだ.
咆哮が夜の砂漠に響き渡る.
空気がびりびりと振動した.
「くそ,この体であいつと一戦やらかせっていうのかよ.冗談きついぜ」
ヴァルナが右脚をかばいながら立ち上がった.
「先輩,どうしましょう? 片瀬を一時的に開放しないと,私たちもログアウトできません! システムにロックがかかってますから!」
クヴェラは一瞬シェヘラザードの傍を離れて小走りにやって来た.
「あいつが俺たちに協力してくれると思うか?」
「いえ,到底……」
シェヘラザードに逃げられ,自分たちはログアウトできないままシンハに始末される.それは想像しうる最悪の結果だ.
「畜生,よし,そのグルカナイフ返せ.シンハの頭にぶち込んでやる」
「ちょ,ちょっと,それはまずいでしょう! 民間人ですよ?」
クヴェラは慌ててヴァルナのナイフを背中に回して隠した.
「でも,あいつをやっつけないと安心して片瀬を締めあげられねー!」
「それはそうですが……」
「ふむ?」
だが,強大になった自分の身体とステイタスを見て,シンハは首を傾げた.
……おかしい.
まだレベル98台だとは.
「何かが足りないのか?」
シンハは鱗の生えた自分の手を眺め,辺りを見回した.
娘と一緒に壁の隅へ後ずさりしているハメッドの足元に,倒れたジャガンナートがいる.
「なるほど,まだチャクラを奪い足りぬか」
シンハは歩き始めた.
彼にとってはゆっくりのつもりでも,一歩ごとに建物が振動し,砂塵が舞い上がる.
脚に黒いオーラがまとわりつき,吹き上がる.
「まるで瘴気だわ!」
毒ガスを連想したグリシャムは慌てて口と鼻を袖で覆った.隣にいたアイエルはわずかに吸い込んだらしく,咳き込んでいる.
「貴様ら,邪魔だ」
シンハが無造作に手を振ると,行く手に立ちはだかろうとしたクヴェラとヴァルナは吹き飛ばされた.
「駄目です,先輩! パワーが段違いです.奴に致命傷を与えるなんて,無理ですよ」
握ったナイフがあまりに小さく,頼りなく思えた.
「こ,こうなったら逃げよう」
ハメッドは一か八かアイテムボックスから空飛ぶ絨毯を出した.
シンハとシノノメの超戦闘により,広間の天井には大きな穴が開いている.シェヘラザードの影響力が薄まった今,空から飛んで逃げられるのではないだろうか.
「もしかすれば……地の果てまで逃げれば,シェヘラザードのシステムロックは外れるのかもしれん」
絨毯は果たして,ふわりと浮かび上がった.
「マユリ,乗るんだ.あそこが抜けられるなら,他のみんなも召喚獣で逃げる手もある」
「え,でも,駄目よ,お父さん! 逃げても,現実世界に戻れないんだもの! あちらの世界の身体がダメになったら……」
マユリはもしかしたら電脳世界で生き続けることができるのかもしれないが,現実世界に戻れなければ他の人間は――父親も,死んでしまうかもしれない.
「構わん.お前が生きていてくれれば,それでいい」
「そんなの,嫌!」
マユリは父にすがって泣いた.
シンハはジャガンナートの足元に立ち,彼を見下ろしていた.
虫の息のジャガンナートは必死で瞼を押し上げ,シンハを睨んでいた.
「何という,醜い,姿だ.お前の,心の姿に,相応しい……」
「何とでも言え.地獄の魔王が冥土から迎えに来たとでも思え」
シンハはジャガンナートに手を伸ばした.
だが,ふと手を止めた.
ジャガンナートの額に宿る紫色の光と,頭頂の薄紫色の光.
すでに弱弱しい.
……これを奪ったとして,どのくらいレベルが上がるのだろう.
「なるほど.これはつまらんな」
一言そう呟くと,シンハは仁王立ちになって空を仰いだ.
しばらく瞑目すると,彼は辺りに神経を集中させた.
広間の中.
そしてさらに,塔の中.
驚くべき感覚の広がりだった.
超知覚とでもいうべきなのだろうか.
アドナイオスの‘傍観者’としての能力か.
「おお……これは……素晴らしい」
カカルドゥア全土の生き物の鼓動.
赤子の産声.
市場の賑わい.
老人の吐息.
風の音.
波の音.
全てが,手に取るように知覚できる.
「‘全知’とは,このことか……塔の中に……新たな侵入者がいる……ふふ,広報官のお触れで,集まってきた傭兵どもか……」
シンハの口元に笑みが浮かんだ.
「おおおおお!」
再びシンハは夜空に向かって吼えた.
声が出るのは人間の口からだけではない.後頭部の,竜の口からも獣の雄叫びが吐き出された.
彼の身体が一気に膨らんだような錯覚を覚える.
と,ぞわりと床が動き始めた.
「きゃあっ!」
アイエルの足元にわだかまっていた影から,無数の黒く細い糸が伸び始めた.
まるでチンアナゴの群れか,イソギンチャクの触手だ.反射的に剣で薙ぎ払って切ろうとしたが,切れない.
「これは……影の攻撃!?」
グリシャムはその正体に気づいた.だが,ジャガンナートの物と随分様子が違う.人形の形も,剣の形もしていない.強いて言えば,ネムを屠った悪魔の様な‘針の影’によく似ていた.だが,直線状でなく,髪の毛や豚の尾のようにくねっている.
太さは直径二ミリあるかないか.先端が鋭く尖っていた.
「気持ち悪い! あっ!」
黒い糸はイトミミズのように足に絡みつき,ブーツを覆って体を上ってきたと思うと,皮膚に潜り込んだ.
「痛い! 痛い!」
グリシャムはたまらず床に倒れた.倒れると今度は,手に黒い糸が絡みついて来る.
「ぎゃあっ!」
全身を襲う痛みとおぞましさに思わず叫んだ.
風に乗って――あるいは床の石材を伝って声が聞こえる.
「ぎゃあああ……」
「うわああああ……」
それは,塔の中に満ち溢れる恐怖の絶叫だった.
シンハはその声に耳を傾けているようだ.彼の顔には美しい音楽を聴いている様な陶酔感が浮かび上がっていた.
「こんなの,ナイ……一体,何をしたの……?」
痛みは次第に和らいできたが,手足の自由は奪われたままだ.見れば隣にはアイエルが同じように転がっている.
「うおお……」
ハメッドは娘を肩車して守ろうとしていたが,膝まで黒い糸に覆われていた.空飛ぶ絨毯に乗って空に舞い上がるより早く魔性の管虫は親子に襲い掛かっていたのだ.
「こいつ……め.負けて,たまるかよ……」
ヴァルナとクヴェラも床から動けないでいた.ヴァルナは膝立ちで必死に立ちあがり,ナイフを振り上げようとしている.だが,その右手にも長い黒い紐が絡みついていた.彼はその下半身ほどにまで黒い紐に覆いつくされている.必死の形相だった.
「大丈夫だ.血管の中に入れば,痛みは楽になる」
シンハは黒い腕を組み,全員の様子を冷徹な目で観察していた.
「血管……? そうか,この管虫みたいなもの……脳や心臓の検査や治療に使う,カテーテルみたいなものなのね」
グリシャムの職業は,薬剤師だ.合成樹脂の極細の管を,血管内に通して病気の場所に到達させ,造影検査や治療――血管を広げたり,穴をふさいだり,動脈瘤をつぶしたりする治療は見知っている.最近はカテーテルの先端に有線コントロールのナノロボットをとりつけ,血管内手術もできるのだ.
「ほう.良くわかったな.この世界は想像力に勝るものが勝つ,と言う奴だ.ジャガンナートの牧歌的な技とは違い,より有効で実戦的だろう? シャドウ・フォガティ・カテーテルというのはあまりに直接的だな.影線蟲とでも呼ぶ方が詩的でこの世界向きかもしれない」
「き,気持ち悪い……何か吸い取られている様な気がする……」
「おう,ダークエルフの娘.お前はなかなか鋭い感覚を持っているじゃないか.その通りだ.お前たちの生命気を吸い取っているのだ」
「生命気……」
シンハはクイズの正解を答えられたような,無邪気な笑顔を浮かべた.それはむしろ一層悪魔的で恐怖を引き立てた.
「現在,この塔の中に傭兵集団,冒険者,様々なプレーヤー三百二十五人いる.広報官メスメッドが,シンバットの救出に一億イコルの賞金を懸けたようだ.今,その全員から生命気を頂いている.とるに足らない奴もいるが,なかなかレベルの高い奴もいる」
「……私からのチャクラだけでは,不足と考えたのだな……」
ジャガンナートが体中を影線虫に覆われながら,言った.瀕死の彼だが,眼光は鋭い.
「ハハハ,お前たち,なかなか冴えているぞ! そうだ.この離宮は言ってみれば,俺のダンジョンになったのだ.不用意に入れば,俺のシャドウ・ワームに命を奪われる魔宮だ」
そう言いながら,シンハは自分のステイタスウインドウを確認した.
「ようやくレベル99か.まだ足りぬ」
やれやれ,と肩こりに悩んでいるかのように首を左右に振ると,手を床に向けた.
「石壁!」
ハデスの技だ.床から現れた四角い石のブロックが積み重なり,優雅な玉座が出来上がると,そこにシンハは座った.黒い彫像のように膝を組み,顎に手を当てて考え込んだ.その姿は,まさに本物の魔王だった.
「これでもまだレベルが上がりきらぬとなると,100になるのはどうするかな.そうだ……イシュタルの技を使ってみよう.飛蝗の群れを大量発生させて,全土に放つのだ.無差別に生命気を集めれば,もう1レベルくらい上がるかもしれん」
「飛蝗だと!?」
シセを抱いたシンバットがその言葉を聞いて叫んだ.彼はシャドウ・ワームに捕らえられていなかった.
大量発生した蝗の群れは,中世,時には現代においても大災害だ.農作物を壊滅的に喰らい尽くし,難民と飢饉を生む.
それをシンハは人間に対して放つというのだ.
それは,カカルドゥア公国という国そのものの破滅を意味していた.
「お前は,カカルドゥアを滅ぼす気か? これ以上,何を望む? それだけの絶大な力を得て,何をする気だ?」
「おう? これは,シンバット殿下ではないか」
左右の角を揺らし,クスクスとシンハは笑った.
「お前のことは完全に忘れていたよ.まあ,お前の生命気などもらっても腹の足しにもならないからな.ゆっくりここで,滅びゆくこの国の最期でも眺めてくれ」
「貴様……!」
「カカルドゥア全土,NPCとプレーヤー,人間・人型生物全部合わせて五千万人ほどか.良いな.それくらいなら,レベル100になれるかもしれん」
シンハは額に指をあてて呟いた.‘全知’の力で,瞬時に人口まで数えたのだ.
「そうよ……殿下の仰る通り……あなたは,こんなひどいことをして……レベル100になって,どうするというの? 色々な噂が流れているけど,最後はどうなるのか分からないはずよ!」
グリシャムが首だけを動かして叫んだ.
「そう,全ての願いがかなうという噂も,何も変わらないという噂も色々だよ.それに,たとえ全ての願いがかなうとしても,所詮この世界の中だけのことじゃない!」
アイエルは拘束されたまま手を握りしめた.
みるみる自分の力が奪われていくのが分かる.
このままゲームオーバー・ログアウトができるのかわからないとなると,命も危ないのかもしれない.だが,その前に同じプレーヤーとして彼の存在がどうしても許せなかった.
仮想世界の話かもしれない.しかし,個人の願いを満たすために,人間を食うなどということを考え付くなど,どうかしている.
「その通りだ……それで本当に願いがかなうなら――私はとうの昔にそれを目指している.私には――どうしても叶えたい願いがあるのだから」
ハメッドは娘を抱え上げて影の管虫たちから守りながら,声を絞り出すようにして叫んだ.
「ふふ,ハメッド――いや,サイナップス社の稲森社長,君の願いは娘の病気を治したい,だろう? だが,それが本当にできるとしたらどうする?」
「な,何……?」
「ジャガンナートがやったような,姑息的な電子疑似人格にしてこの世界で生きながらえさせるのではないぞ.それは所詮,育成シミュレーションゲームのようなものだろう」
「ほ,本当にできるのか?」
ハメッドは恐怖と痛みを忘れ,目を大きく見開いた.
「無理よ!」
「出来るはずない!」
グリシャムとアイエルが声を上げる中,一人ヴァルナだけが鋭い目でシンハを見ていた.
「それが本当の全智か……」
「いやいやいや,お嬢さん方は意外と頭が固いようだが,さすがはヴァルナ君だな」
シンハは求めていた回答が得られたせいか,満面の笑みを浮かべた.
月影の中,異形のシルエットがその笑みを悪魔的に見せる.
「那由多――ソフィア型サーバはすでに,世界六か国にあって同時並列演算もリンクして可能だ.単にゲームに使われているだけじゃねー.政策決定や住民基本台帳,骨髄バンクに健康情報,社会インフラの多くを担ってる.このマグナ・スフィアっていう惑星を所有するっていうだけじゃなく,ネットワークのある限り,全世界の電子情報を掌握できる……」
ヴァルナはシャドウ・ワームに足を取られながら,床を前に進んでいった.時に引きちぎり,あるいは自分の身体から管が抜け落ちる.気が遠くなるほどの痛みに耐えているに違いない.彼を包んでいるのは強烈な怒りなのだ.
「くそ,てめー,殴り飛ばす……」
「もっと浪漫ある言い方をしてほしいね.一匹のミジンコの体内から,全人類のDNA情報まで,全てを私が把握し,掌握できるのだ.おそらく,病気ならばありとあらゆる原因を導き出すことも可能だろう.これこそが,本当の至高の人間――この世界にとっては神とでもいう存在ではないかな?」
「神だと? お前が,神だと!?」
シンバットは叫んだ.
「我々の命を虫ほどにしか思わず,人を食らう鬼が,神になるというのか!?」
シンバットは泣いていた.涙が,彼の腕の中の目を閉じたシセの顔にぽたぽたと落ちた.
「私は悟った! 私に与えられたのは偽りの記憶,あなた達は私たちの造物主なのだな? だが,造物主なら生まれた命を好きに奪って良いというのか? いや,それだけではない.この世界の全てが嘘だとしても,ならばそれを自分の意のままにして良いというのか? 我々の感情はどうなる? 愛は? 友情は?」
「シンバット……お前は,大した男だな.いや,私は感心しているよ.仮想生命体の君がそこに思い至るとはな.だが,我々の世界も含め,人間が把握する‘この世’というものは,すべからく脳の電気生理現象だ.私にとっては,この世界の中の事物全てが虚無.全ては,自分自身を神に高めるための階梯なのだ」
シンハは淡々と宗教家のように言った.すでにシンバットの様な‘小さな存在’は気に掛ける価値もないといったような口ぶりだった.
「……その願いが,かなえてもらえるなんて保証はあるの?」
「シノノメさん!」
「シノノメ!」
月の光の中,今まで黙っていたシノノメが右肩を押さえながら立っていた.
左手には魔包丁‘黒猫丸’を握っている.
消耗が激しいのか,肩で息をしていた.
「おう……マグナタイトのナイフか.それなら確かに,俺のシャドウ・ワームも切ることができる」
シンハが感心したように言った.
シノノメの足元の床は,鋭い刃物で切り刻まれた跡がついている.
不撓鋼,マグナタイト.
この世界の外の物質であるとされ,マグナ・スフィア世界のあらゆるものに勝る金属だ.
シノノメは自分の身体を襲う影の管虫全てを切り捨てたのだ.
小さく,鋭く,最小限の動きでできるだけ体力を温存し,切断する.それを何百回も繰り返したのだった.
「虫は,嫌い……こんなの,ファンタジーじゃない.神様になるなんて……その願いが,かなえてもらえるなんて保証はあるの?」
シノノメはゼイゼイとあえぎながら,もう一度質問を繰り返した.
「君にその質問を尋ねられるというのは,これはまた奇遇としか言いようがないな」
シンハは意味ありげに答えた.
「だが,その答えは,‘ある’だ.過去,一度だけ,レベル100に到達したプレーヤーが,那由多システムの全てを一人で利用したことがあるのだ」
「一人で……?」
シンハの言葉はよく分からない.
だが,彼のことは許せない.
彼は全てを否定した.
この世界で生まれた友情も.
愛情も.
私には,記憶が無い.
一番大事な人の名前も,顔も思い出せない.
今では,生まれてきてからの多くの記憶をなくしていることを知っている.
一番の友達は,この世界で出会った人たちだ.
NPC――この世界の人たちは,私に似ている.
虚構の記憶に虚構の体験.
そして,この世界で積み上げた数々の感情.
それを否定されたら――私自身が,空虚で空っぽの存在になってしまう.
だから,この人たちを守る.
そして,この世界で出会った私の友達を守る.
シノノメは,最後に残った力で,突進した.
魔包丁は左の手で小さく小脇に抱える.
黒猫丸なら,触れれば切れる.
届け……
シノノメは疾風の様な速さでシンハに肉薄すると,逆袈裟に魔包丁を振り上げた.
シンハは無造作に立ち上がった.
ひどく遅い動きであるように見える.
だが,次の瞬間――シンハの前蹴りは,シノノメの腹部を深く鋭くえぐっていた.
魔包丁が,床に落ちた.
シノノメは前のめりに倒れた.
腹に大きな穴が開いているようだ.
細かいピクセルが後から後から噴き出し,空気に溶けて消えていく.
「シノノメさん!」
泣くような,悲鳴のようなアイエルとグリシャムの声が聞こえる.
瞼が重くなる.
……晩御飯の支度に,間に合いそうもないな……
シノノメはゆっくりと目を瞑った.