表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第21章 光は闇の彼方に
152/334

21-7 シェヘラザードの刃(やいば)

 「どうして……!? シェヘラザード?」

 アドナイオスは呆然としてシェヘラザードの顔を見た.


 「私には,あなた達がその女を可能性とか――まして,希望とか言う事が理解できない.理解できないというよりも,信じられない」

 常に微笑を湛えていたシェヘラザードの口元から,笑みは消えていた.

 「我々の計画は,どうなるの? アドナイオス――デミウルゴスは,サマエルは何を考えているの?」

 シェヘラザードは険しい視線をアドナイオスに送った.


 アドナイオスはシノノメ達の傍で,じっと黙ってその声を受け止めていた.

 シェヘラザードの隣には,ジャガンナートの心臓から奪った光る紅玉を飲み込んでいるシンハがいる.

 ごくり,と音を立てて咀嚼した物が喉を通過すると,シンハの体は変化し始めた.体全体に羊葉植物――シダや,蔓草を思わせる黒い文様が浮き出てきた.全身を走る血管や神経を黒く染め上げた様にも見える.

 今までは人の姿をした魔神――魔人とでも言うべきだったが,体も本物の魔神に変化して行くようだ.そしてそれは,どことなく‘魔眼’に浸食されたノルトランド王ベルトランの姿に似ていた.

 シンハは異形となった顔に,満面の笑みを浮かべていた.

ステイタスを見ると,すでにレベル98.HPもMPもノ―ダメージに戻っている.彼の体には莫大なエネルギーがみなぎっているのだ.

 

 「設定を操作したのね……」

 グリシャムが呟く.


 「さすがグリシャム.ご明察.私に協力するという事を条件にね.もちろん,レベルまで私が操作できるものではないけれど」

 シェヘラザードはグリシャムに冷たい笑みを浮かべた.


 「お前は世界から干渉を受けない代わりに,直接干渉出来ねー.直接干渉出来る手駒を作ったってわけか」

 ヴァルナは片足で立つと,腰に差していたグルカナイフの柄に手をかけた.大脳活動停止ブレインアレストキーが仕込まれた,‘プログラム’だ.

 

 「私を拘束するつもり?」

 シェヘラザードの言葉に同期するように,シンハが軽く腰を落とした.

 「手駒は失礼ね.懐刀と呼んで欲しいわ.彼が私を護る.満身創痍の聖騎士パラディンがレベル98の超戦士に勝てると思うの?」

 「この野郎……」

 睨みつけるヴァルナをシェヘラザードは嘲笑った.

 「今ここにいる誰も,私とシンハを傷つけられない」


 そして,アドナイオスに向き直って言葉を継いだ.

 「さあ,アドナイオス.私はシンハを説得した.彼はもうあなたを傷つけない.だから,我々の計画を進めましょう.二つの世界に秩序と摂理をもたらすの.東の主婦はあなたの別プランには成り得ないから,破棄しなさい.」

 

 「それはできない」

 アドナイオスは短く,きっぱりと答えた.


 「どうして? あなたの役割が傍観者だから? あなたに言えば,他のアイオーン達,サマエルを構成する人格達には伝わるでしょう?」

 

 「そういうことか……」

 いつも眠たげなヴァルナの目が鋭い光を帯びたので,クヴェラは慌てて尋ねた.

 「何か分かったんですか? 先輩……あ,いえ,ヴァルナ様」

 「サマエルシステム……デミウルゴスの正体ってのは,それか」

 「ネットを通じて組織された何らかの集団……じゃ,ないんですか? サマエルって,そもそもマグナ・スフィアの審査システムの名前ですよ」

 「ずばり,サマエルそれ自体が一つの人工知能なんだろうよ.マグナ・スフィアの管理システム,ソフィアとは別個のな.でもって,ネットの中にいるんだ――まさか,人工知能そのものが黒幕とはな」

 「どういうことですか?」

 「サマエルはマグナ・スフィアの中で人格を持ってるんだ.俺達プレーヤーが参加しているみたいな形で――あるいは,ホモ・オプティマスみたいな形で.ノルトランドの宮廷道化師もそうだろ.色々な形でプレーヤー達と接触してるってことか」

 「そんなことして,何がしたいんでしょう?」

 「おそらくは,‘実体験’を得るためじゃねーかな.ネットに情報と知識は溢れてるけど,自分で体験することは出来ねー.生まれて十歳程度の人工知能が急速に成長するためには,複数の端末から入力するように,いくつかのキャラクターになって経験値をあげた方が効率良いだろ.あの竜人,アドナイオスは言ってみれば‘傍観者’の人格ってわけか」


 「でも,ソフィアはサマエルの事をそんな風に言ってなかったよ……はい,これ,みんなも飲んで.リスクと戦う乳酸菌入りポーション」

 シノノメはヨーグルトの小瓶に似た回復ポーションを全員に配った.全員がヨーグルトの瓶を握っている姿は少し滑稽だが,シンハが復活した今,ダメージを少しでも回復させたかった.


 「おう,頂くぜ.でも,どういう事だ? シノノメ,お前,ソフィアと直接話したのか? ていうか,那由多のAIにそんな明確な人格があるのかよ?」

 一番この問題にうとそうなシノノメが何気なくそんな事を言ったので,ヴァルナは目を丸くした.


 「う,うん.エクレーシアさんは,ソフィアだったの」

 「お前の説明,わけわからねー」

 ヴァルナは頭を抱えた.

 「えーと,私から説明します.私達はエルフの森,エルミディアで女王エクレーシアに謁見したんです.彼女の真の姿はこの世界を管理する人格’ソフィア‘で,私達の装備――シノノメさんの指輪も,その時貰ったアイテムなんです」

 グリシャムがシノノメの言葉を継いで説明した.

 シノノメとアイエルが頷く.


 マグナ・スフィアを管理するコンピュータ,那由多の人格ソフィア.ソフィアはこの世界を生むために,別人格‘サマエル’を産んだ.

 造物主デミウルゴスと名乗るサマエルの暴走こそが,アメリア大陸の汚染やノルトランドの暴走の原因である.

 そして,シノノメはサマエルを打倒するように頼まれた.


 「……そうよね,シノノメさん」

 「うん,そう」

 シノノメはヨーグルトポーションを飲み干し,頷いた.

 だが,シンハの技は五聖賢と同様の性質を持っているのか,受けた傷はなかなか治らない.右腕はずきずきと痛み,未だに自由に動かせなかった.仲間達を見ても,やはり同じ様子だ.


 「さすがグリシャムちゃん,理路整然,簡潔明瞭な説明だな.つまり,俺が探していた答えはこいつが知ってたのか.早く言えって言いたいが,こいつ,何も考えてないようにしか見えないもんな」

 「失礼な!」シノノメはむくれたが,すぐにまた口を開いた.「でも,ソフィアは,サマエルは人間の欲望に興味を抱いた悪い奴だって言ってたの.アドさんはそんな風には見えないよ」


 確かに,凛とたたずむアドナイオスの容姿はどこか神々しくもあった.シンバットが宗主と信じ込んだのも分からないではない.

 いや,むしろアドナイオスこそ彼らの言う宗主,神そのものと考えても良いのかもしれない.善悪に関係なく,争いに干渉することなく,人々の営みをずっと見守り続け,時に霊言とも言うべき指針を与えるのだ.


 「……私も実は,知らずにデミウルゴスの企み――新薬の開発に加担してしまった事があります.とても嫌な経験でした」グリシャムが顔をしかめた.「でも,確かに,シノノメさんの言う通り,あの竜人にはヤルダバオートの様な邪悪さを感じません」

 「そうだね.ヤルダバオートはもっと,そう――悪意の塊みたいだった」

 アイエルはノルトランドの宮廷道化師ジェスターを思い出しながら補足した.

 

 「……審判者としての,サマエルの役割は?」

 シェヘラザードの問いかけは続いていた.

 アドナイオスは降り注ぐ月光の中,静かに彼女の言葉を聞いていた.

 「いかなる可能性も我々は審査する.それは,芽を摘むのではない」

 「あなた達は……私に何を隠しているの? 何故彼女に執着するの?」

 その質問を受けると,アドナイオスはしばらく沈黙した後,ややあって再び口を開いた.

 「今の私にできる答えははこれだけ.……彼女は,可能性.この世界の希望」

 再びその言葉を繰り返すアドナイオスを,シェヘラザードは鋭利な刃物の様な視線で睨んだ.


 「では……こうしましょう.その可能性を私が消す.シンハ!」

 シェヘラザードの言葉が終わるのが早いか否か,シンハは彼女の隣から姿を消した.

 と思えば,あっという間にアイエルの前に立っていた.


 「あっ!」

 アイエルが剣を抜く暇もなく,シンハはアイエルの大腿を重いローキックでぶち抜いた.ズン,という重い音がすると,アイエルはその場に崩れ落ちた.さらにそのまま体を移動させてグリシャムの腹を殴った.流れるような動きで,グリシャムも膝をついて倒れる.

 

 「てめぇ!」

 ヴァルナがシンハに飛びかかる.

 傷ついた脚でカラリ・パヤットの連続蹴り――カールを放ち,さらに体を低くして掌打を放った.獅子の型と呼ばれる技だ.脚に激痛が走るが,ヴァルナも必死だった.

 「ハハハ,聖騎士,遅いぞ!」

 「先輩!」

 シンハは軽々と攻撃をかわし,援護に入ったクヴェラとともに肘打ちで薙ぎ倒した.ぱっくりとヴァルナの額は切れ,鮮血に似た細かいピクセルが噴き出す.クヴェラは玉突き状にヴァルナに突き飛ばされると,そのまま床に突っ伏した.

 

 「黒猫丸!」

 シノノメは慌てて魔包丁を取り出し,左手で振った.だが利き手でない攻撃,しかも消耗が激しい体では精彩を欠く.虚しく空を切り,代わりにシンハの膝蹴りが深々とみぞおちに突き刺さった.思わずそのまま倒れそうになる.

 シノノメは包丁を握りしめて必死に体勢を立て直そうとしたが,息が出来ない.どうにも力が入らなかった.シンハを睨みながら,ずるずるとその場にしゃがみ込むように膝をついてしまった.

 「か……は……どうして……」


 「とどめを刺さないのか? か?」

 シンハは震えあがりながら自分を見ている稲森親子と,床に倒れた瀕死のジャガンナート,そしてシンバットとシセを睥睨しながら答えた.

 「それは,シェヘラザードの注文だ.だが……」

 シンハは言いながら,黒い刺青が入ったような不気味な体を翻した.

 「虫けらめ,お前は死ね」

 刃物の切れ味を持つ必殺のソークがシンバットに襲い掛かる.

 「殿下,危ない!」

 シンバットの頭部に肘が触れそうになる瞬間,シセルニチプは飛び出した.

 シンハの黒光りする肘は,シンバットの代わりにシセのこめかみを撃ち抜いた.

 バットで殴るような鈍い音と,鉈の様な分厚い刃物が物にめり込む嫌な音がした.

 「ああ……」

 NPCの身体など,レベル高位のプレーヤーの必殺技にとっては紙も同然だ.大型の自動車にはねられたのに匹敵する衝撃が彼女の身体を襲っていた.シセは目と耳,鼻と口から血を吹き出し,ぼろきれの様に倒れた.

 「シセ!」

 シンバットは身を挺して自分を守ったシセを慌てて抱き上げた.シセはぎこちない目の動きで,自分の身体を抱きしめるシンバットの姿を追った.

 「殿下……御無事で良かった……」

 口から泡を吹きながら,シセはかすれた声でやっとそれだけを言った.

 「何故……何故,私をそこまでして……」

 シンバットはシセの手を取ったが,シセはもう握り返す力を持っていなかった.

 「殿下は覚えておいででないでしょうが……昔……部族の谷に狩りにおいでになった時から……お慕い申し上げておりました……」

 そういうシセの目は,もう何も映していないように見えた.

 

 「ふん,美しい愛情か.メロドラマだな.所詮まやかしの記憶に過ぎぬ.しかし,興が削がれた.お前の始末はやめておこう」

 「おのれ,シンハ,貴様は鬼か! 人の心はないのか!?」

 嘲笑うシンハをシンバットは睨みつけた.


 「人の心……なるほど.仮想生命体にそれを言われるとは,愉快だ.おい,シェヘラザード,これで良いのか? 全員身動きが取れなくしてやったぞ」

 シンハがそう言うと,シェヘラザードは優雅とも言える足取りでシノノメ達の方に歩いて来た.


 「ご協力感謝するわ.シンハ」

 シェヘラザードは美しい右腕をすんなりと頭上に伸ばし,月の光をその掌で受ける様に開いた.

 ブウウン……と唸るような音がして,彼女――そして,シノノメ達の頭上に赤い光の輪が浮かび上がった.


 「あの輪っかは……」

 「間違いない.嫦娥を消去デリートしてしまった能力スキルだ」

 シノノメとヴァルナは痛みに喘ぎながら顔を見合わせた.


 「何……? 輪の向こう側が見えない?」

 アイエルが呟いた.痛みで大腿が千切れそうなのだが,その痛みをも凌駕する驚くべき光景だ.

 輪の中は完全な闇で,壊れた離宮の壁も,夜空の星も何もない,ぽっかりとした完全な虚無なのだ.

 輪は直径五メートルほどに広がると,シノノメ達の頭上,空中にふわりと浮かんでいる.


 「ヴァルナさん,シノノメさん,これは何ですか?」

 ハメッドは娘を守る様に抱きしめた.

 「これは……」


 「消去指令デリートコマンドよ.この世界ではこういう輪状に見えているけど,電子情報を消しさるもの.この中に呑み込まれたものは無――虚無になる」

 シェヘラザード自らがハメッドの問いに答えた.


 「無? このアバターが,っていうこと?」

 「残念ね.ダークエルフのお嬢さん.あなたが今持っている記憶も全て消えるわ.現実世界で記憶と自我を失ったあなたが数日後に誰かに発見される,といった様な感じになるでしょうね」


 「お前,試した事があるんだな?」

 ヴァルナはシェヘラザードを睨んだが,シェヘラザードの口元には微笑が浮かんでいる.


 「記憶を……」

 シノノメは戦慄した.記憶が無くなる恐怖は嫌というほど知っている.これ以上失ってしまうなんて,絶望的にも思える.

 それに……喧嘩したまま,仲直りだって出来ていないのに……

 夫の顔も名前も忘れてしまったのに,声も忘れてしまうんだろうか.

 いや,それどころではない.シェヘラザードの言葉が本当なら,自分が誰かも何もかも忘れてしまうのだ.


 「まずい……」

 全員が慌てて辺りを見回した.だが,視線に先んじるように広間の出口はガラガラと音を立てて崩れた.天井も壁も壊れ,今や砂漠の空に浮いたテラスのようになってしまっている.


 「このステージは,終わりにするの.貴方達の退路は全て絶ったわ.飛行アイテムも,召喚獣もロックした」


 「輪の届かない範囲に,バラバラになって逃げましょう……!」

 グリシャムの思い付きで,シノノメ達は四方に散ろうとした.痛む体の一部をかばいながら,必死で這い,転がって逃げようとする.しかし,赤い輪はプレーヤーとシンバット達を追う様に直径を増した.

 

 「これ以上は仕方がない! 残念ですが……皆さん,もうログアウトするんです!」

 そう言いながらメニューバーを空中に立ちあげたハメッドの声は,しかしすぐに悲鳴に変わった.

 「コマンドが無効になっている! ノン・アクティブだ!」

 「お父さん,私,メニューが立ちあがらないよ!」

 「何だって?」


 「逃げ場はない,と言ったでしょう」

 シェヘラザードは目を細めてうろたえる人々を眺めた.

 

 「私も廃棄処分と言うわけか」

 ジャガンナートは床に倒れたまま,頭上に浮かぶ赤い輪を睨んだ.

 「チャンドラ・シン首相.あなたはとても素晴らしかった.本当は生かしておきたいの.でも,仕方がない.あなたのこの世界での命はもう長くない」

 シェヘラザードは冷徹に言い放った.

 「シェヘラザード! 私は良い.だが,シセの命だけは助けてくれないか!」

 プレーヤー達の様子から,‘赤い光輪’が降りてくればどうなるのか悟ったシンバットが叫んだ.その胸にはぐったりしたシセが抱えられている.

 「あら,美しい自己犠牲ね.でも,駄目よ.どうせその女性は助からない.そうでしょう? シンハ?」

 「頭蓋底骨折だ.現実世界でも助けられる可能性は高くない.中世世界のユーラネシアでは絶望的だ」

 シンハは断定的な口調でそう言うと,一瞬シノノメの方を見た.

……お医者さんみたい?

 まるで,診断するような言葉遣いだ.どこか,仕事の時の夫にも似ている.

 シノノメが怪訝な目でシンハを見ると,シンハは慌てたように目を逸らせた.


 「カカルドゥア大公家もこれで断絶するの.シンバット殿下も色々な事を知り過ぎている.前に言ったでしょう? 予定通り,この物語は終わる」

 シェヘラザードの言葉に従う様に,光の輪はゆっくりと高度を落とし始めた.

 シンハはその傍らを離れて腕を組み,その様子を興味深そうに眺めた.

 

 「うわっ!」

 「怖いよ!」

 「くそっ! ここまで来たのに!」

 「こんなのナシよ!」

 「うーっ!」

 ハメッドの悲鳴,マユリの恐怖の声,アイエルとグリシャムの叫び,そしてシノノメの唸り声が響く中,声を顰めて喋っていたのは,ヴァルナと,そしてばったりと顔を床に伏せて倒れたままのクヴェラだった.


 「先輩?」

 「いいか,千々ちぢわ,もう少しじっとしとけ.死んだふりだ」

 ヴァルナは腹帯につけたグルカナイフを,そっと背中越しにクヴェラに握らせた.

 「こんな重要な役目,どうやって……」

 クヴェラの手は震えている.今にもナイフを取り落としそうだ.

 「馬鹿,俺達の中でお前が一番ダメージが少ないんだ.お前,アーニスもできたよな」

 アーニスとは,二本のスティックを操るフィリピンの伝統実戦武術だ.

 「ですけど,それが……?」

 「あれこれ相談する暇はねー.察しろ.お前なら出来る.お前は俺の切り札だ,みくり!」

 下の名前を呼ばれたクヴェラは,びくりと体を一回震わせ,ナイフを力強く握った.


 赤い光の輪はゆっくりと降下し続けていた.

 ハメッドはしゃがんで娘を抱きしめた.輪はすでに成人の頭ほどの高さとなっている.

 ジャガンナートは床の上でゆっくりと目を瞑った.

 アドナイオスはその光景を見て首を振ると,哀しそうに言った.

 「シェヘラザード……あなたは間違っている.それでも,この物語は終わらない」

 「何故?」

 「この物語は,シノノメの物語なのだから」

 「何!?」


 「今だ!」

 シンハがシェヘラザードの背後,死角に入る.

 シェヘラザードの意識が,完全にアドナイオスに奪われる.

 その二つがそろった瞬間,ヴァルナは叫んだ.

 ヴァルナの声に反応するように,しなやかにクヴェラは立ち上がった.

 これほど踊り子の衣装が似合う動きは無い.小柄な彼女はあっという間にシェヘラザードの背後に移動すると,クヴェラに託されたグルカナイフを心臓めがけて突きたてた.

 

 「うっ!」

 一瞬遅れてシェヘラザードが反応する.

 グルカナイフの切っ先は見えない壁に遮られ,空中で止まった.

 「防衛省のプログラムといえど,所詮人が作ったものなど!」

 シェヘラザードの顔が余裕の笑みを浮かべようとした次の瞬間,凍りついた.

 「ぐっ……ぎゃあっ!」

 右腕のナイフに完全に隠された軌道で,クヴェラの左手に握られた第二の刃が,シェヘラザードの腹の後ろ――腎臓の位置に深々と突き刺さっていたのだ.

 シェヘラザードはそのままその場に崩れ落ちた.

 同時に,赤い輪が空間を裂く高い音を立てて弾け飛ぶ.


 「お前……」

 シンハから見ると,クヴェラの動きはシェヘラザード自身の身体で完全な死角となっていた.突然シェヘラザードが倒れてクヴェラが登場したように見える.彼はわずかに驚きの表情を見せた.


 「こ……これは」

 ……見おぼえがある.

 床に倒れたシェヘラザードは,首をねじって自分の背中に突きたてられた刃物を見た.豪華な象嵌と宝石が意匠された柄,ギラリと光る鋭い刃.

 見間違えるはずはなかった.

 それは,かつて自分がクヴェラの胸に突き刺した短刀――デミウルゴスの開発した大脳活動停止ブレイン・アレストキーだった.


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ