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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第21章 光は闇の彼方に
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21-6 逆転と暗転

 「馬鹿な……お前たちなど……」

 シンハは自分の脇をえぐる三日月刀を睨んだ.刃先が肋骨に食い込んでいるが,逆にそのせいでほとんどダメージはない.痛みよりも彼の体を瞬時に包んだのは,怒りだった.


 「ただの人間が,超常の力を持つくに人に敵うことなど無いと思ったか! 一寸の虫にも五分の魂と言うであろう!」

 大公シンバットは鋭い目でシンハを睨んでいた.剣の柄を握る震える手とは裏腹に,強い意志を宿した視線だった.恐怖を必死で克服した決死の攻撃である.残念ながら,シンハをほんの少ししか傷つける事は出来なかったが.


 「く……うるさい,虫ケラめ!」

 取るに足らない存在に体を傷つけられた事に憤ったシンハは,右手で剣を叩き折ってシンバットを殴り飛ばした.床に倒れる大公に,あわててシセルニチプが駆け寄る.

 「NPCが……たかがゲームの登場人物キャラクターの分際で……」

 シンハの右わきに刺さったままの小さな剣尖は,月光を受けて鈍く光った.刃を伝って血液に似たピクセルがしたたり落ちる.

 「だが,それで,どうする.このかすり傷で俺が死ぬとでも思ったのか?」


 「くそっ……」

 シンハの軽い一撃も,生身の人間――NPCには重大なダメージとなる.苦痛で呻きながら,必死で体を起こそうとするシンバットをシセは制止した.

 「殿下,無理はなりません!」


 「馬鹿な奴らだ.後でゆっくり料理してやる」

 シンハはわき腹に残った刃の先を抜き取ろうとして,ふと止めた.

 体に潜り込んでいる刀の切っ先は親指ほど――ごく小さい.であれば,刃を抜く事は出血を助長するだけだ.これ以上HP・MPを失う可能性は少しでも避け,シノノメを倒してからゆっくり治療すれば良い.

 「ふふん,お前達が頼りにする聖騎士パラディンも,シノノメも,もうすでに傷だらけだ.俺の敵ではないぞ」


 「おのれ……」

 「……悪魔め」

 シンハは大公とシセに侮蔑の視線を送って捨て置くと,再びシノノメの方に向き直った.


 ……いや,全能の力を手に入れれば,治療すらも不要になるかもしれない.

 シンハは高揚していた.勝利の時を目前に,彼の体を興奮と達成感が包んでいた.

 傷の痛みを全く感じさせない足取りで,シンハは再び歩き始めた.

 その向かう先には当然シノノメがいる.

 後ろは行き止まりで,すすけた広間の壁が逃げ場を塞ぐようにそそり立っていた.

 

 「あなたは,なんてひどい人なの? 王様がどんな思いでここまで来たと思ってるの?」

 シノノメは傷ついた右腕を左手で押さえ,硬い表情でシンハの顔をじっと見た.


 「くだらんな.それよりシノノメ,この勝負はもう俺の勝ちだ.火炎魔法や,水の魔法で俺に勝つことは出来ない.傷つくのが嫌ならば,ゲームオーバーして,ここを去っても見逃してやる」

 希望を捨てないシノノメの目は,シンハにとっては今や悪あがき,嘲笑の対象にしか見えなかった.


 「そんなの嫌.まだ,終わってないもの」

 シノノメは左手をゆっくり下に降ろし,手のひらを合わせた.右腕はもうぶらぶらで,上にあげることができない.身体が揺れるたびに肩の近くに激痛が走る.

 「王様が時間を作ってくれたよ」

 両掌の間に,青白い光球が発生した.シノノメはシンバットの攻撃の間に,魔力を蓄積していたのだ.

 

 「電子レンジとかいう,雷撃魔法か? 両手で包んで作った雷球を敵に叩き込むか,そこから両腕を広げて爆発させる技だろう? だが,その腕ではどちらもできない」

 

 「……そうだよ.良く知ってるね」

 シノノメはそれでもお腹の前で小さな青い雷球を作り続けていた.シンハの言う通り,上がらなくなった右腕では‘フーラ・ミクロオンデ’は発動できない.

 

 ……それでも,負けない.

 負けてはいけない.

 シンハの技は怖い.

 だが,犠牲になった子供たちや,ナディヤ,この世界に生きる人たち,そしてこの世界を愛する人たちのためにも勝たなければならない.

 そして……必ず,家に帰る.


 シノノメはアイエルの方に視線を向けた.

 彼女はシンハのはるか後方で,剣を杖にするようにすがりながら立っている.アイエルにももう剣を振る力など残っていないのは明らかだった.

 だが,二人は目を合わせて小さく頷いた.


 「画像はすでにネットに出回っている.お前は目立ち過ぎたのだ.対戦する事を念頭に,多くの戦士がお前の技を研究していることなど,お前は想像もしていないのだろう?」

 シンハは口元にわずかな笑みを浮かべながら,腰を軽く落とした.今度こそ油断はもうない.必殺の呼吸と共に最大最速の攻撃をシノノメに叩き込むつもりだった.

 「我が技,受けてみよ!」

 シンハの足が,大地を蹴ったその瞬間だった.


 「アイエルちゃん! いくよ!」

 シノノメは叫んだ.

 「フーラ!」

 シノノメは向かって来るシンハに向かって,左手を差し出した.掌にはテニスボールほどの小さな雷球が乗っている.

 シノノメの掌はシンハの胸に当たったが,逞しい胸筋と小さな掌の間で,雷球はペシャリと虚しく潰れた.


 「その程度の攻撃が効くか!」

 体に流れるわずかな電気の感触を無視し,シンハは右手をのばした.

 長い指がシノノメの白くて細い首を捉える.

 後は引き寄せて,テンカオを叩きこむだけだ.


 アイエルも走り出していた.

 剣を放り出し,息を切らし,体を左右に揺らしながら走って来る.

 シンハは八方目でその様子を一瞬観察した.武術的視野で,視界の隅の敵を捉えるのである.


 アイエルは今にも倒れそうだ.

 どう考えても,彼女から有効な攻撃を受けるとは思えなかった.

 距離からすれば間に合うかも微妙で,当たったとしても素手の攻撃など強靭な背筋が弾き飛ばしてしまうだろう.

 

 ……せいぜいが,俺の体に触れられる程度だ!

 

 シンハは鍛え上げた鋼鉄の膝をシノノメの顔に向かって突きあげた.

 

 「ミクロ!」

 アイエルは突然背中を煽った突風に押され,シンハの背中に右手を当てた.だが,まさに当てたというだけだ.何のダメージも与えられない.


 シンハは構わず攻撃を続けた.大腿の筋肉がたわみ,膝が加速する.

 「死ね! シノノメ!」

 最大威力が発動するまで,0.3秒未満.丹田から発生した威力シャクティが,膝に溢れるのが分かる.

 

 「オンデ!」

 シノノメはシンハの胸に手を当てながら,叫んだ.


 バチン!

 シンハを挟むように,前から左手をあてたシノノメと,後ろから背中に右手を当てたアイエル.

 二つの手のひらの間で,雷光がスパークした.

 思わぬ衝撃に,シノノメの頭を抱え込もうとしていたシンハの手が緩む.

 「ぐおっ!?」


 「デュアル!」

 自由になった体を起こし,手を胸に当てたままでシノノメは再び叫んだ.

 

 その瞬間.

 シンハの体の中で,雷球が爆発した.彼の体を内部からの高熱が襲う.


 「ぐわあああああああ……! うおっ,うおおお!」

 思いもよらない攻撃だった.だが,彼は即座にその優れた頭脳で何が自分に起こったかを推察した.


 ……離宮の外でアイエルが小さな‘フーラ・ミクロオンデ’を使っていた.


 シノノメは使えなくなった自分の右手の代わりに,アイエルの右手を使って魔法を発動させたのだ.

 シノノメの莫大なMPを使えば,アイエルも長時間の呪文詠唱は必要ない.同じ魔法を使える彼女の体に自分の魔力を輻射させ,爆発的なエネルギーを体に送りこんだのだ.


 「くそっ! だ,だが! うおおお! 氷結ザミルザーニ!」

 咄嗟にシンハはハデスの氷の魔法を発動させた.マイクロ波で振動し,高熱を帯びた体内の水分子を冷却し,エネルギーを抑え込む.

 強力な五聖賢の魔法を使えば可能のはずだ.

 だが,上手くいかなかった.

 右のわき腹で異常な高熱が発生し,それはシノノメの送りこんだエネルギーをさらに増幅させて巨大な稲妻を放っていた.

 電子レンジの中に金属を放り込めば,どうなるだろうか.

 彼は忘れていた.

 シンバットが決死の気合で突き出した,カカルドゥア王家伝来の刀の切っ先を.


 バリバリバリバリ.

 シンハの身体に潜り込んだ金属は,すでに高熱を帯びて放電し始めていた.花火の様に激しく火花を散らす雷光の柱が,彼の右胸を貫いている.冷却はもう間に合わない.

 シンハの体はあっという間に吹き上げた炎に包まれた.


 「ぎゃあああああああああ!」

 

 「ひゃっ!」

 「うわっ!」

 シノノメとアイエルは慌ててシンハの身体から離れた.

 炎に包まれたシンハは数度くるくると舞う様に足をもつれさせてよろめくと,ばったりと床に倒れた.

 シンハは炎に包まれたまま,体を二三度痙攣させて動かなくなった.


 「ふう……」

 シノノメは大きなため息をつくと,へたへたと床に座り込んだ.

 ステイタスをチェックすると,まだシンハは生きているようだ.流石の頑健さだった.だが,シノノメにはもう止めを刺す力など残っていなかった.

 見れば,アイエルも同じなのか,シンハを挟んで反対側に尻もちをつく様にして座っている.

 フーラ・ミクロオンデ・デュアル.

 もともとはアイエルのアイデアだ.

 シノノメの魔力に親和性を持つようになったアイエルが,シンハを何とか挟み撃ちできるタイミングがあれば,使えるのではないかと発想した技だった.

 もちろん,練習などしたわけではない.一か八かの賭けだった.

 もし発動しなかったら……今頃,床に倒れているのは自分だった筈だ.

 同じ気持ちなのか,目が合ったアイエルと一緒に思わず苦笑した.


 「シノノメさん! 大丈夫?」

 グリシャムが駆け寄って来て手を差し出した.

 「ありがとう,グリシャムちゃん」

 シノノメは手を取り,よろめきながら立ち上がった.


 アイエルは自力で立ち上がり,くすぶって煙を上げるシンハを恐る恐る避けながらシノノメのところにやって来た.とはいえ,少しふらついている.

 「シノノメさんの魔素エネルギーって,やっぱり強力だね.私も少ししびれちゃった.でも,あいつ,まだ生きてる.どうしよう?」

 「もう,これ以上何かする力なんてないよ」

 シノノメは小さく首を振った.

 「そうね,みんなナシ.それに,もう……シンハはHPもMPゲージも黄色に反転してどんどん自動的に減ってるわ.このまま放っておいても,勝手にログアウトになる.それもアリでしょ」

 グリシャムが頷いた.


 「よー,お疲れさん.でも,まだ残りの仕事が残ってるぜ」

 声をかけてきたのは,クヴェラに肩を借りたヴァルナだった.

 「もー,ヴァルナは肝心な時に全然役に立たないね」

 シノノメはそう言ったが,ヴァルナはヘラヘラと笑った.

 「そんなことないですよ.私,一生懸命シンハに手を伸ばしたけど,手が届くタイミングじゃなかった.後ろから風に押されてタイミングが間に合ったのは,あれは……」

 アイエルがそう言いかけると,ヴァルナは口に指を当てて片目を瞑った.

 「また,先輩はそういうところで格好つけて!」

 クヴェラが睨みつけた.

 「お? クヴェラ,ヤキモチか?」

 「そっ! そんな筈ないでしょう! それより,残りの仕事をちゃんとしましょうよ! ……結局,片瀬シェヘラザードにも逃げられたし」

 クヴェラは少し赤くなりながら,フンと鼻息を立てた.


 「確かにそうだね」

 シノノメは右腕を押さえて頷くと,広間の反対側に目をやった.

 広間の中はシノノメの‘ランドリールーム’発動のせいで,あちこちに巨大な洗濯機が転がっている.いくつかはシンハに破壊されて横倒しになっていた.

 その向こうに,林檎の様な赤い髪の少女と,ペルシア風の商人,そして色の浅黒い背の高い男が立っていた.

 マユリとハメッドの稲森親子と,五聖賢最後の生き残りであるジャガンナートだ.

 そして,動きを止めた洗濯機械の間を,綺麗に洗濯されて小ざっぱりとした子供達がフラフラと歩いている.

 「そうか,子供達を現実世界に帰してあげなくっちゃ」

 アイエルは子供達を眺めた.中には自分の弟くらいの年頃の子どももいる.今頃現実世界で意識を失っていると思うと,胸が痛くなった.

 「でも,どうやって? もう,私達に戦う力なんてナイよ」

 グリシャムが首を傾げる.

 「相手もボロボロだけど,こっちもね……」

 「一応ああ見えて,穏健派だぜ.話し合ってみるってのはどうだ?」

 「話し合い? ホモ・オプティマスに対してですか?」

 ヴァルナの鷹揚な提案に,クヴェラが目を丸くした.

 「でも,それしかないよ.行こう」

 シノノメがそう言って歩き始めたので,仲間達も後を追う様に歩き始めた.


 洗濯機やアイロン台の残骸を避け,まだ床に倒れている彫像の様なオシリスを避けて近づいていくと,ジャガンナートは青ざめた顔色でマユリと何かを話しているところだった.

 傍らには,それを見守るハメッドがいる.


 「……では,君は私と一緒にこの世界に残ることは望まないのか?」

 ジャガンナートはシンハに体の一部を奪われたせいで,肩を大きく動かして喘ぎながら,それでも真摯にマユリを見つめている.

 黒い大きな瞳は相手を催眠状態にかけるための魔眼ではなかった.彼の思い描く至高の人間‘ホモ・オプティマス’の理想をマユリの中に見ているのだった.


 「……」

 マユリはうつむいて床を見つめていた.ジャガンナートの問いかけにどう答えたら良いのか困っている.


 「どうしてだい? 君は,現実世界でとても苦しい病気と闘わなければならない.こちらの世界に移住しても,お父さんに会う事もできる.君が望むならば,この世界で成長して歳を重ね,好きな仕事についたり,家庭を築く事も出来るのだよ」

 ジャガンナートは近づいてくるシノノメ達に一瞬視線を送ったが,攻撃の意思が無いと見て話し続けた.チャクラを失い,死期が近づいている事を悟った今の彼にとっては,マユリとの対話こそが重要だった.


 「意識を電子化することが,この世界への移住などというのは,まやかしだろう……」

 ハメッドが心持ち小さな声で呟くように抗議した.


 「そうか? 何が現実で,何が虚構だ? この世界に息づく生き物にとっては,この世界そのものが真実だ.稲森氏,もう人類は認めるべきだ.我々は電子世界に新しい生命と世界を創造したのだよ.ゲームという名を借りて誕生したこのマグナ・スフィアは,人工の生命圏なのだ」

 ジャガンナートはそういうと,大きく咳き込んだ.

 「私にはもう時間が無い.だが,子供達を幸せにしたいという想いはまことだった.夢の様な建物で永遠に幸せな時を過ごせるように……」


 「そんなの,本当に子供達が幸せかなんて,分からないじゃない」

 三人の会話を聞いていたシノノメは思わず口を開いた.

 他の仲間は黙ってジャガンナートの言葉に耳を傾けている.


 「シノノメさん……」

 マユリはシノノメの声を聞いてほっとしたのか,戸惑いながらも顔をあげて小さな笑みを見せた.

 「私はこの世界って,とっても好き.ずっとファンタジーが終わらなければいいって,いつも思ってる.でも,それは現実の生活があるから楽しいんだよ.そこに待っている人がいて,帰る場所があるから.だから,きっと楽しいの」

 そう言いながらシノノメは,思い出せない夫の事を思い浮かべていた.


 「では,シノノメ.君に問おう.現実世界で行き場のない人間は,どうすればいいのだ?」

 ジャガンナートは真剣な視線をシノノメに向けた.

 

 「……分からない.……でも,行き場……場所っていうのは……自分で見つけるものだと思う.人から与えられるんじゃなく……逃げるのでもなく……」

 シノノメは考えながらそう答えた.

 シノノメ自身,決して全てが幸せであったとは言えない少女時代を過ごして来た.だが,人生の旅路の果てに今の幸せを見つけたのだと信じている.

 途切れ途切れのその言葉を聞くマユリは,ハッとしたようにシノノメの横顔をじっと見つめていた.

 「マグナ・スフィアにいる人たちや生き物は,みんなもう本当に生きているんだと私は思う.それは賛成.だって,思い出があって,歴史があって,みんな夢や感情も持っているもの.だけど,それなら,ここに住んでいる生き物にひどい事をして自分の幸せを得るのは間違っていると思う」


 「……それは……」

 今度はジャガンナートが口ごもる番だった.

 建物を建設する労働者達がどのような状況であったか,彼は知りつつ見過ごして来た.

 ヴォーダンやハデスの植民地拡大政策の犠牲になった難民が,半ば奴隷となって働いているのを全く知らなかったとは言えない.

 なにより,彼の母国インドは英国の植民地になった歴史があるのだ.何が起こっているかを理解しつつ,それには耳を塞ぎ,目を瞑ってきたのだ.

 まさに,シノノメの言うとおりだった.

 電子情報化した自分のことを生きているというのならば,同じ電子情報の生き物に苦痛を与えていいという無法があろうか.

 それは大きな矛盾だ.


 「……つまり,我々は……あなた達の創造物であるということか?」

 一同が口を閉ざす中,一人そう質問したのは,シンバットだった.

 「失礼,主婦殿や戦士諸君にお礼を述べようと思って来たのだが……ジャガンナートの話を聞いてしまった」

 彼はシセルニチプを伴って,いつのまにかシノノメ達の後ろに立っていた.

 聡明な青年王はジャガンナート達の会話を注意深く聞いていたのだ.


 「それは……」

 クヴェラが困った様に言った.

 「……こんなのナイわ.NPCにこういう設定に関する話は伝わらないはずなのに……」

 グリシャムが小さく囁く.

 「マグナ・スフィアのルールが……変わったっていうこと?」

 アイエルが首を傾げた.

 「デミウルゴスが変えたのさ」

 ヴァルナが何かを考えながら,ぽつりと呟いた.


 「神話にある.我々は,偉大な神が眠る間に見る,夢の中の世界に住んでいるのだと.宗教学者や哲学者の説だと思っていたが……だが,我々には結局それが現実なのか夢なのかを判別する術はない.偉大な神のみ,世界を俯瞰できる存在のみが知りうる事であると哲学者は言っていたが……」

 シンバットは腕を組み,考え込んでいた.彼は帝王学と共にカカルドゥア一流の学者から教育を受けている――という設定なのだ.

 「殿下,無学な私には到底理解できませんが……外つ国の人々とは,神のみ使いということでしょうか?」

 「シセ……そうだな……だが,それ以上に我々にとっては辛い真実なのかもしれぬ……シェヘラザードの言葉の秘密とは,これなのか……? 」

 シンバットは額に皺を寄せた.彼はゲーム‘マグナ・スフィア’が始まって以来,初めて自分達の真の姿を自覚するNPCになろうとしていた.


 「……思考する存在,それこそ意思ある者.そうか.私は大いなる勘違いをしていたようだな」

 ジャガンナートは黙考するシンバットを見ながら,小さくため息をついた.

 「思考を失った子供達は,解放しよう」

 ジャガンナートはそう言うと,震える右手を差し出した.

 掌の上に,小さな金色の粒が現れる.彼が手を開いて振ると,金の粒は泡のように小さく弾けて空気に溶けていった.

 それと同時に,辺りを彷徨っていた子供達は一人,また一人と消えて行った.シノノメが洗濯ひもにつるしあげた子供も,布団になってしまった子供も全てだ.

 だが,手の中に最後に光る小さな金色の粒が一粒だけ残っていた.


 「マユリさん,あなたは,本当に良いのか?」

 ジャガンナートはその最後の一粒を愛おしそうに見つめると,再びマユリに声をかけた.

 シンバットとシセ以外の全員がマユリを見つめた.


 「……うん」

 マユリはもう一度考えた後,大きく頷いた.

 そして,シノノメ達の顔を確かめるように見ながら言った.

 「私には正直言って,自分の行き場を見つけるとか,まだ分からない.でも,帰るところは,きっと,お父さんのいるところ.それに,思うの.マグナ・スフィアにいれば,私は苦しい事は無くなるかもしれない.でも,そうすると,きっと……」

 マユリは父親を見た.

 ハメッド――稲森は今にも泣きそうな顔でマユリの顔をじっと見つめている.

 「きっと,お父さんが,幸せじゃなくなるの.そうしたら,私は幸せじゃなくなるの」

 その言葉を聞いた瞬間,ハメッドの目からは涙がこぼれ落ちた.

 「だから,私は帰る.私の本当の行き場を,自分で見つけるために」

 「ああ……」

 マユリ――由莉奈のその言葉を聞いた瞬間,稲森は崩れ落ちる様に膝をついて娘を抱きしめ,声をあげて泣き始めた.

 マユリはそっと父の逞しい手に腕を回して抱きしめ,シノノメの顔を見た.

 これで良いよね,と確認するように.


 「……自分で見つける……」

 それは,自分自身が言った言葉をマユリがなぞったものだった.

 シノノメは微笑みを返しながらも,思い出さなければいけない何かを感じていた.

 シノノメの頭の奥で,小さな鈴の様な音がする.

 軽いめまいと頭痛を覚え,シノノメは頭を振った.


 「大丈夫? シノノメさん?」

 グリシャムが声をかけた.

 「う,うん……」

 シノノメは頭を振って頭痛を散らした.横では感激屋のアイエルがもらい泣きしている.


 「シノノメ」

 不思議な低い声の主は,竜人アドナイオスだった.彼(彼女)は静々とプレーヤー達に近づくと,ゆっくり口元に笑みを浮かべた.鱗の生えた両腕を開き,それはあたかもプレーヤー達を祝福しているようでもある.

 「あなたが勝つと予測していたわ.あなたこそは,我々の希望」


 「私が希望? でも,それはアドさん……あなたは……」

 世界の傍観者なんて言わずに,助けてほしかった.

 それに,前から聞きたい事がある.

 竜人っていうのはとてもレアな人種だって聞いたけれど……

 ラージャ・マハールの霊廟で見た,あのレリーフは……

 シノノメが苦笑を浮かべて,アドナイオスの金の瞳を見つめた時,それは起こった.


 「うがあああああああ!」

 悲鳴を上げたのは,ジャガンナートだった.

 足下の影から長い腕が伸び,その腕がジャガンナートの心臓に当たる位置に潜り込んでいる.

 腕は巨大なムカデの様にぞろぞろと動くと,赤く輝く光球をつかみだした.


 「心臓のチャクラ,アナハタ・チャクラは,頂いた!」

 聞き覚えのある声が広間に響く.

 全員が声の方向に目を向けた.


 「馬鹿な……」

 「あの状態から?」

 誰も,どうやって,とは言わなかった.

 声の主――復活したシンハは,自らの影の中に右腕を潜り込ませていた.長いかいなをゆっくり引き抜くと,ジャガンナートの心臓からえぐり取った光球チャクラをつかんだ長い指が現れた.

 そして,その隣には,真珠の様な肌をもつ美しい女が佇んでいた.

 シェヘラザードは,美しい顔を憎悪に歪ませていた.

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