21-5 ランドリー・ルーム
「ランドリー・ルーム!」
シノノメの声が高らかに響く.
掲げた左手の薬指で,指輪が青く強く輝いた.
広間にいたすべての人間――自我を失い,シンハの手先として攻撃を仕掛けていた蟻人間の子供たちまでも――吸い寄せられるようにそのまばゆい光に目を止め,瞬時動けなくなった.
同時に,バクン,と部屋のあちこちで妙な音がし始めた.
床から様々な物が生えてくる.
四角い整理箪笥にアイロン台,ドラム式の巨大な洗濯機だった.
ドラム式も縦ドラムに斜めドラム,十台以上はある.その一つ一つが大型冷蔵庫並みの大きさをしている.
さらには,乾燥機や二層式洗濯機もニョキニョキと床から生えて来た.
半分ほど残った天井からはフックとハンガーが生え,縦横無尽にロープが張り渡された.
「な,何が起ころうとしているんだ? シセ,無事か?」
「私は無事です! 殿下,シノノメ殿の魔法でしょうか!? 攻撃が止みました.今のうちに囲みを破りましょう!」
シセとシンバットにとっては,全てが超常現象である.中世世界を生きるNPCが,洗濯機や乾燥機,白物家電など見たことあるはずがない.だが,自分たちを包囲していた蟻人間が,突然の部屋の変化に戸惑う様にきょろきょろと辺りを見回している.
シセは剣を振り回して包囲を突破すると,反対の手でシンバットの手を引き,近くにあった巨大な金属の塊――シセにはそうとしか思えない――大型洗濯機の陰に逃れた.二人とも浅手とはいえあちこちに傷を負っているのだ.
「殿下,ここならばしばらく身を隠せます……えっ?」
シセとシンバットは目を丸くした.岩のように大きな機械の塊は,身じろぎするように震えながら,ゆっくりと動いていた.
プレーヤーたちもこの光景にはさすがに度肝を抜かれていた.
異世界の大広間が,たちまち洗濯室になってしまった.
しかも,洗濯機や乾燥機がブルブル震えながら,ノソノソ,ノロノロと動いている.
洗濯機が脱水や乾燥の時に振動する,あの動きのまま移動しているのだ.動きだけはコミカルで,ぜんまい仕掛けの玩具に似ている.だが,そのサイズは人間よりはるかに大きく,大型の衣装箪笥以上ある.
「先輩,これ……な,何ですか? 大きな洗濯機が歩いてますよ……?」
「シノノメのいつもの奴だろ.あいつ,大真面目に滅茶苦茶やるんだ」
目を丸くしているクヴェラに,苦笑を浮かべながらヴァルナが説明した.
「コインランドリー? 量販店の家電売り場? ……自動洗濯物折りたたみ機まであるし……アイロン台まで?」
アイエルも辺りを見回して呟く.
アイロン台の上のアイロンはシュウシュウと音を立ててスチームを吹き出している.しかも,一体何台あるのだろう.
取り囲むというより,洗濯用の機械の群れは,てんでバラバラに動き回っていた.だが,これは魔法がかけられた石柱が立ち並ぶ迷路,ダンジョンにも似ている光景だと思い当たった.
「ふふ,相変わらずぶっ飛んでるけど,シノノメさんならアリよ.自分の有利な場所で戦う……そういう事ね」
ただ一人,グリシャムだけは小さくうなずいていた.ベルトランと戦ったとき,シノノメが‘王の間’を自分にとって有利な‘システムキッチン’に変えてしまったのを目の前で見たことがあるのだから.
「……下らない……障害物が多ければ,体が小さい方が得,という事か? 一体何を考えているんだ?」
シンハは辺りを見回した.
緊迫の戦闘空間が,変な機械が歩き回る洗濯部屋に一転してしまった.これではコメディだ.あまりに馬鹿馬鹿しいが,何より,シノノメの意図が理解できない.
「それだけじゃないもの! えい!」
シノノメは物干し竿を振った.
棒に引っかけられた子供が三人,一度に宙を飛んだ.
すかさず洗濯ロープにつけられた洗濯バサミが噛みつき,彼らを宙に吊るしあげた.まるで干されたシャツだが,彼らはジタバタと手足を振って暴れた.
「魔法の洗濯バサミは,捕まえたら離さないから!」
物干し竿がクルクルと回転すると,シノノメを攻撃しようとしていた子供達はたちまち全員‘干された洗濯物’と化してしまった.
「アイエルちゃん,とりあえず剣で動きを止めて!」
「……了解!」
アイエルは気を引き締めなおし,峰打ちで魔法使いの子供が持っていた杖を打ち払った.
すかさずシノノメが飛び込み,棒――物干し竿を振る.
小さな魔法使いは吹き飛ばされ,洗濯機の中に放り込まれた.すかさず洗濯機の扉が閉まり,唸りを上げて回転が始まる.
『おまかせコースで,洗濯・乾燥を始めます』
洗濯機の電子音声が優しい声で報告した.
「乾燥後は,ふんわりキープ!」
『了解しました』
シノノメの命令に洗濯機が答える.
「即効泡洗浄! ナイアガラビート! ナイアガラすすぎ!」
シノノメは子供達を次々と洗濯機の中に放りこんで行った.
立ち位置をほとんど変えなくても,伸縮自在の物干し竿の行く手を,確実に動く洗濯機がフォローする.
部屋のあちこちに置かれた洗濯機は子供をナイスキャッチで飲み込むと,音を立てて作動し始めた.
ナイアガラビートと声をかけられた洗濯機は轟々と音を立てて三人の小剣士に水を注いだ.強力な渦流に巻き込まれ,剣士たちはグルグルと回転する.
薄汚れた魔法のローブを羽織った少年が炎を放ったが,物干し竿を回転させて弾き飛ばし,ついでに魔法の杖も叩き落とした.
「この子は泥んこだから,泥汚れつけおきコース!」
泥んこ魔法使いは縦型洗濯機の中に放り込まれた.たちまち洗濯機が回転する.
「アイエルちゃん,手伝って!」
「うん!」
アイエルは雷撃を切り払い,小さな魔法使いたちを次々に洗濯機の中に放り込んだ.たちまちブクブクと泡を立てて洗濯が始まる.
「布団叩きで,フカフカの布団にしちゃえ! 柔軟剤増量!」
シノノメは右手で物干し竿を操りながら,布団叩きで子供たちをはたいた.たちまち子供布団の山が積みあがる.できた布団はせっせとMP回復中のグリシャムが整理整頓,洗濯機の中に放り込んだ.
洗濯機械たちはシノノメの仲間は攻撃しなかったが,それ以外の人間を追い回すように動き回っている.中には直接子供を斜めドラムの中に飲み込んでいるツワモノ洗濯機もいた.
「馬鹿げている……こんな冗談に付き合っていられるか」
シノノメたちが子供たちの‘洗濯’にかかりっきりになっていると見たシンハは,当初の目的を遂げることにした.シノノメを捨て置き,ジャガンナートのチャクラを奪いに行くのだ.
「ぬあっ!」
ふと背を向けたシンハに,不意に物干し竿が伸びてきた.
シンハは慌てて腕で受け止めたが,受け止めた上腕がびりびりとしびれた.
「残念! そちらには行かせないから!」
見ると,障害物の間を縫うように棒が伸び,正確に自分を攻撃してくる.動き回る機械の隙間に,シノノメの亜麻色の髪が揺れているのが垣間見える.
「な……何という超絶の空間把握能力だ! 動いている物体の間を……この長さの棒で正確に狙うとは……超一流のサッカープレーヤーは,フィールドにいる選手の位置を鳥が俯瞰するように把握しているというが……」
たとえ後ろを向いていても,広間にいる仲間と敵の位置,さらに洗濯機などの障害物の位置を完全に把握しているのだ.それぞれが複雑に独立して動いているはずだ.だが,シノノメの脳はそれを全てフォローしていることになる.
シンハはこの攻撃の意図するところを悟り,青ざめた.
「うわっ!」
休む間もなく物干し竿の先が襲ってくる.
シンハが後ろによろめくと,ドラム式洗濯機が大きく口を開けた.
バクンバクンとドアを開閉し,彼を飲み込もうと追ってきたので,シンハは渾身の回し蹴りで洗濯機を蹴り飛ばした.金属の塊が轟音を立てて倒れる.
だが,背後に張ってある魔法の洗濯紐が腕に絡みついてきた.
「くそっ!」
引っ張っても紐は引きちぎれない.刃物の切れ味を誇る必殺の肘打ちで何とか切断したが,腕の肉がえぐられてしまった.
「ぐぬっ……冗談のような攻撃のくせに……」
えぐれた傷は出血に似たピクセルの粒を放出し,HPが下がっていく.巫医であるシンハは,即座に気の流れを整え,傷を治療した.
「そういうことか……」
この広間の中は,シノノメの罠だらけなのだ.
巨大な洗濯機や乾燥機,自動洗濯物折りたたみ機は動き回り,一種の迷路を作っている.しかも常時地図を作り変える,動く迷路だ.
これでは,シノノメが作ったダンジョンの中に突然放り込まれたようなものだ.ダンジョンならば,ダンジョンマスターこそ最強に違いない.
「ノルトランド王,ベルトランは……こんな状況で戦ったのか」
マグナ・ヴィジョンのネット映像で,ベルトランとシノノメがキッチンで戦っているのを見たことがある.その時はアニメの猫とネズミの追いかけっこを見るようで爆笑したのだが,自分がその立場になってみると微笑すら出なかった.
シノノメはその場の設定・舞台を自分の都合のいいようにすべて書き換えてしまうのだ.こんな能力を相手にしていては,とてもではないが,まともにやって勝てるわけがない.
「いや……スキルというよりも,この奇抜な発想力が脅威なのか.動く家電だと? 超現実主義の絵画に放り込まれたような……まるで,悪夢の中だ」
じっとしていれば,巨大家電は自分――おそらく,シノノメにとって敵と認識した者を押しつぶそうと迫って来る.退路が無くなる前に移動するしかない.軽身功を使って空中を移動しようとしても,洗濯紐が縦横無尽に張り巡らされている.
だが,レベル100を目前にしている今,撤退する気など無い.ジャガンナートのいる方向は分かっている.
ふと目をやると,シンハの意図など分かっていると言わんばかりに銀色の洗濯機たちが立ち並んで壁を作っている.大型の衣装箪笥より大きなそれは,完全に鋼鉄の壁だった.
シンハは自らのふくらはぎを抜き手で突いた.漢方医学の‘ツボ’にあたるマルマンを刺激したのだ.たちまち足の筋肉が膨れ上がり,小さな蛇のように血管が怒張する.
軽く体を沈め,両腕を広げて一気に跳んだ.
洗濯機の筐体のわずかなくぼみに足の指をかけ,壁を垂直に駆け上がった.
彼を飲み込もうとするドアはするりとかわし,手をかけ,洗濯紐に引っかからないぎりぎりまで体を押し上げた.
まるでヤモリか蜘蛛だ.手足が長いので,巨大な昆虫か両生類の様である.
洗濯機は体を震わせてシンハを振り落とそうとする.だが,それで振り落とされるシンハではない.ヨーガと古式ムエタイで鍛えた体術で耐えながら壁をズルズルと上った.
筐体の天辺に手を伸ばし,頭をねじりながら洗濯機の向こう側を窺うと,自分を見上げるジャガンナートと目が合った.
「いたな,ジャガンナート!」
「貴様……!」
シンハはさらに洗濯機の裏側――背面に手を伸ばした.
「あ,シノノメさん! シンハが洗濯機の向こうに行こうとしてるよ!」
アイエルは自分に放たれた火炎を躱し,魔法使いの子供を洗濯機に叩きこみながら言った.子供たちはちょうど自分の弟くらいだ.極力怪我をさせたくないのだが,確かにそういう意味でもシノノメの魔法は最適だった.泡まみれになって回転した子供は,シンハの魔力によって装着された蟻の様な甲殻を剥ぎ取られ――というよりも,洗い落とされ,目を回している.滑稽だが,傷つけることなく完全に戦闘力を奪われていた.
「大丈夫! 分かってるから!」
せっせと甲殻を洗い落とした子供を干しながら,シノノメは答えた.
完全にシンハに対して背中を向けているのに,彼の動きを把握しているのだ.
アイエルは今更ながらシノノメの超絶的な‘脳力’に舌を巻いた.
……これが,超改造された脳の力……
だが,現実世界のシノノメは今頃意識のないまどろみの中なのだ.
昏睡状態のシノノメの顔を,アイエルはふと思い出した.
仮想世界の超能力と引き換えの様に,彼女は大切な記憶の多くがない.
……気づいてしまうと,どんなに辛いだろう……
「いくよ! アイロンロケット発射!」
アイエルの感傷を吹き飛ばすように,無邪気で元気なシノノメの声が響いた.
見れば,アイロン台の上に並んだアイロンがシュウシュウと音を立てて水蒸気を噴射している.
「3,2,1,ゴー!」
シノノメの適当なカウントダウンの下,アイロンは広間の上空へ次々と打ち上がった.ドーム状の天井付近で放物線を描いたそれは急降下すると,とがった先端を下にしてシンハに向かって飛んでいった.
ヒュルルルルルル……
風を切る高い音とともに,アイロンがシンハを急襲する.ロケットというよりも,これではまるでミサイルだ.シンハは自分に向かってくる物体を見て目を疑った.
「ぐわあっ!」
シンハの物と思しき悲鳴と,大きなものが床に落下する音が聞こえた.
だが,子供兵士はまだ十人以上いる.どうなったかを確認する余裕はシノノメにはもちろん,アイエルにもない.
アイエルが視界の隅でそっと観察すると,巨大洗濯機の集団がシンハのいた方にごそごそと集まって行っている.
「うわー,あいつ,どうなったんだろ?」
「命中かな? アイロン2号かな? 3号かな? 五発の内,一個くらいは当たったかも.でも,アイエルちゃん,今はそれよりこっちが大事だよ.よそ見しちゃダメ」
「う,うん!」
シノノメはシンハそっちのけで子供たちを洗濯機に次々と放り込んでいる.アイエルもあわてて手伝った.
「二人とも,こっちをお願い! もうヒイラギのトリモチじゃ,限界よ!」
グリシャムが二人に呼び掛けた.子供兵士たちはトリモチで木にくっつけられ,自由を奪われてもなお剣や魔法の杖を振り回していた.興奮した彼らが放つ雷光や炎が破裂するように飛び交い,剣呑なことこの上ない.
「はーい,グリシャムちゃん,待っててね」
シノノメは呑気に答えながら,物干し竿と布団叩きをバトンのように振り回し,最後の子供たちの一群を全て片づけてしまった.
文字通りの‘片づけ’だ.
布団になった子供は整然と積み上げられ,洗濯機の中に放り込まれた子供は清潔感あふれる白い洗濯物となって,吹き込む砂漠の夜風に爽やかになびいている.
「だいぶ片付いたね」
キョロキョロとシノノメは辺りを見回した.
洗濯機は子供を飲み込み,まだノソノソと動き回っている.
少し離れた場所では,アドナイオスがじっと見守っていた.心なしか彼の竜の顔にかすかな笑みが浮かんでいるようにも見える.
「アドさん……」
シノノメがアドナイオスに向かって口を開こうとした,ちょうどその時だった.
「おのれ貴様……東の主婦シノノメ……!」
怒声とともに爆音がして,ピクセルが散乱した.
振り返ると,残骸になった大型洗濯機の上にシンハが仁王立ちで立ち上がり,怒りで目をらんらんと燃やしていた.
アイロン攻撃のせいか,それとも洗濯紐のせいか,はたまた洗濯機たちに押しつぶされたのかは分からない.
彼は体中に傷を負っていた.巫医の力で応急処置をしたのだろうが,それでも間に合わなかったようだ.HPとMPを消耗し,肩で息をしていた.
先ほどまでの不遜な表情は鳴りを潜め,憤怒そのものといった表情である.
「これが,究極の戦いの姿とでもいうのか? こんなおふざけムードの,リアリティを無視した戦闘が?」
「だって,仕方がないじゃない.魔法はともかく,体術じゃあなたの方が大きいから私は不利だもの.マグナ・スフィアの世界じゃ想像力のある人が一番強いんだよ」
シノノメは小首を傾げながら,さも当たり前,というように言った.
それは確かに,戦闘の真理だった.平等の条件で戦うなど,スポーツの世界でしかありえない.生存競争であれば,少しでも自分にとって有利な状況で戦う事――環境を武器化することこそ,最も重要なことなのだ.
だが,それはゲームプレーヤー達を時として苛立たせる.
「想像力……第六感というか,ほとんど超能力と言ってもいい直観力と,状況把握能力.昏睡状態の筈なのに……超接続の脳とは,こういう事か……」
シンハは目を細めて呻くように言った.
「何のこと?」
シノノメは尋ねたが,シンハは口を閉ざして眉間にしわを寄せ,その無邪気ともいえる顔を睨んだ.
「それって……」
グリシャムとアイエルは思わず一瞬目を合わせた.
シンハの言葉には,シノノメの本当の姿を知るものしか知りえない事実が含まれている.
……この人,一体何者なんだろう.
シノノメさんの――唯さんのことを何故知っているの?
二人は同じ疑問を抱いた.
「くそっ……だが,俺は,必ずこの世界の頂点に立つのだ.シノノメ! 貴様が俺の前に立ちはだかるのならば,お前を葬るより道はない! 俺と勝負しろ!」
激痛の波に耐えているのか,シンハは何度も体を震わせながら叫んだ.
シンハは鳥のように腕を広げ,深い腹式呼吸を繰り返した.
体外から取り入れた気――生体エネルギーを体に巡らせているのだ.彼の身体は薄く光を帯び始めた.
「ナーガルージュナさんに習ったのと一緒の呼吸法?」
シノノメは布団叩きをアイテムボックスにしまって物干し竿を構えなおした.
「何をする気? メタモルフォス!」
アイエルは剣をボウガンに変化させ,慎重にシンハに狙いをつけた.
「想像力が最強を決めるというならば……我が叡智の結晶,思考力の粋を見るがいい!」
シンハの両手両足を,剣のように鋭い突起がついた氷の鎧が覆った.
「喰らえ! 音速の攻撃を!」
シンハはそう叫ぶと,風のような速さでまっしぐらにシノノメに突進してきた.
「くっ!」
アイエルが五連射した弓と魔法弾はことごとく弾き飛ばされた.
「無駄!」
シンハが右手を一閃する.爆音とともに,床と壁,そして天井が裂け,アイエルは吹き飛ばされた.
「きゃあっ!」
「アイエルちゃん!」
閃く左手が,間髪を入れずシノノメを襲う.
「あっ!」
シノノメはかろうじて物干し竿で受け止めたが,物干し竿は音を立てて曲がった.
「武器を……」
アイテムを取り換えたいが,その間もなくシンハの右足が,左足が,膝が,肘が間断なく襲ってくる.
「死ね! シノノメ!」
シンハが手足を振るたびに,爆音と重振動が発生し,床は割れ,天蓋は吹き飛んだ.張り巡らされた洗濯紐は切れ,吊るされていた子供たちは床に叩きつけられた.
「シールドを……何て早さなの!」
シノノメは小さな鍋蓋シールドとまな板シールドを張り続けたが,防戦一方だ.魔法を使う隙が無い.直撃は何とか驚異的な動体視力と身体感覚で避け続けている.
「こ……これが,レベル95以上の戦い……」
クヴェラがなすすべもなく呆然と呟いた.彼女の方に床材の欠片が,そして壊れた洗濯機の破片が飛んでくる.シンハの周りに竜巻が発生した様だった.
「シノノメさんを援護したいけど……これじゃ,近づくこともままならない……」
「無理だ.今は俺が作る風の壁の陰に隠れてろ.衝撃波……ソニック・ブームが発生してるな.奴の音速の攻撃,名前だけじゃない.本当に手足の先端は音速を突破してるぜ」
ヴァルナは片膝をつきながら,両手を前に掲げ,クヴェラを自分の後ろに来るように促した.
「音速を? 人間の身体なんて脆いもの,音速を超えたら壊れてしまいますよ!」
「だから,あの氷の鎧で手足を強化したんだろう.しかも,無呼吸連続攻撃.ヨーガで鍛えて強化した身体能力に,ハデスの魔力とイシュタルのパワー.とんでもない化け物だ」
「無呼吸連続? ……そうか,シノノメさんに魔法を使わせる暇を与えない気なんだ.単純な身体能力なら,苦行に近い鍛錬で鍛えた強靭な肉体,しかもあの体格差……」
「ああ,シノノメの勝ち目はないぞ……」
「ふう,ふう……」
見る見る間に物干し竿がぐにゃぐにゃになっていく.シノノメの頬を汗が伝っていた.エプロンもすでにズタズタだ.
「あっ!」
ついにシノノメの右の肩口に,シンハの回し蹴りが炸裂した.
まな板シールド越しではあるが,あまりの威力にシノノメはたたらを踏んでよろめいた.
「危ない! 万能樹の種!」
グリシャムは床に伏せながら杖を振った.
もうあまり大きな魔法は使えないが,少しでもシノノメを助けたい.
小さな楕円形の粒はシンハの足元に届くと,緑色の植物を生やした.
罠のような形の植物は,シンハの右足に食いついた.
「ハエトリソウ!」
「笑止!」
シンハの声とともに氷の鎧が棘を伸ばし,植物を一瞬で引き裂いた.
「好きなようには,させない!」
わずかにできた攻撃の間を狙うように,アイエルの魔法弾――火炎弾が飛んできた.だが,狙いが甘い.アイエルの左手はだらりとぶら下がっている.先ほど吹き飛ばされたときに負傷したのだった.かろうじて動く右手で操作するクロスボウの弾丸は威力と精度に欠ける.
シンハは無造作に左手で火炎弾を振り払った.
氷の鎧の表面で,炎の弾丸が蒸散する.
……奴に残った仲間と言えば……
残りMPのわずかな魔女.
負傷して歩けない風使い.
見習い騎士.
ボロボロのダークエルフ.
戦力外の商人とその娘.
……どう考えても,この戦力で今の俺に勝てる筈はない.
シンハは右足を回旋させ,巨大なハエトリソウを踏みにじって引き抜いた.
シノノメは右腕を押さえて後ずさりしている.
足元には折れた物干し竿が転がっている.
攻撃の手ごたえからすれば,右の上腕骨を骨折しているはずだ.
……シノノメの最大魔法と言えば……確か,両手で発生させる‘電子レンジ’の魔法とやら.だが,遅い.そんな発動時間の長い魔法など役に立つはずがない.
そして,利き手の自由を奪った今,彼女に勝ち目はない.
「終わりだ! シノノメ!」
シンハは咆哮して歩みを進めた.
目前の敵,シノノメに集中する.
シンハが狙う技はただ一つ,シノノメの首に手をかけ,必殺最強の膝蹴りを叩きこむことだけだ.レベル95を超えた今,たとえ相手がシノノメでも致命的な一撃になることは確実だ.
シンハは右手を伸ばした.
シノノメの身体が後ろに揺れる.だが,髪に手が触れる.
「死ね!」
シンハの顔に喜悦の笑みが浮かぼうとするその瞬間,彼はわき腹に鈍い痛みを感じた.
「な,何!?」
シンハはシノノメを捕えようとする姿勢のまま,立ち止まった.
右の脇腹に,湾曲した刃を持つ剣が突き刺さっている.
「こ,これは……?」
剣の持ち主を目で追った.
「我が国と国民を傷つける悪魔め!」
そこには,震える両手で剣を握り,必死に突き出す大公――シンバットがいた.