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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第21章 光は闇の彼方に
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21-4 仮想世界の行方

 ネムのログアウトと共に,色とりどりの毛糸の網は空気に溶けるように消え去っていった.

 広間の壊れた天井からは静々と月の光が降って来る.

 まるで月の銀光が魔法の網を溶かしてしまったように見えた.

 しばし,時が止まったように感じられた.


 「あなたを,絶対許さない」

 怒ってもそれ程怖くない童顔を最大限に歪めて,シノノメはシンハを睨みつけていた.


 「ほう,許さなくて,どうするというのだ?」

 シンハはシノノメを横目で眺めながら,自分の背後を観察していた.

 ネムが編んだ毛糸の網が姿を消し,そこには幽鬼の様にフラフラと立っている子供達の群れが現れていた.彼らの目は敵を探すように,虚ろに左右に泳いでいる.


 「くっ……限界か」

 シノノメのすぐ後ろで,ヴァルナががっくりと片膝をついた.両腕で右脚を押さえている.指を大腿に食い込ませ歯を食いしばっていた.顔面蒼白だ.

 彼はネムが編んでくれた靴下の力で動いていたが,もちろん痛みを止めるものではない.シノノメの強力な回復ポーションを飲んでも,五聖賢ヴォーダンから受けた傷は回復しないのだ.ネムがいなくなった今,我慢していた痛みが限界を超えて彼を襲っていた.


 改めて考えてみると,ネムの演じていた役割は非常に大きかったことになる.シンハの攻撃力は三人がかりで封じ込めるのがやっとだった.それが再び,シノノメとアイエルの二人に戻ってしまった.


 「これで,また元通りだな……もう,お前達には俺を止める手立てはないだろう」

 シンハが目を細めて囁くように言った.


 「それでも,どうあっても止めるもの」

 「そうよ.あなたみたいなプレーヤー,私たちは許さない」

 アイエルはゆっくりシノノメの隣に移動して,剣を構えた.


 「俺が奪ったイシュタルの力は,戦闘能力の強化だけではない.見せてやろう」

 シンハはそういうと,右手を子供達に向けた.


 「まさか……」

 アイエルは思い出した.イシュタルは半機械化した怪物殺人蜂(モンスターキラービ―)と,巨大なサソリの群れを操っていた.それで,NPCもプレーヤーも見境なく攻撃したのだ.おそらく怪物たちの脳を改造して自分の支配下においてしまう能力スキルなのだろう.

 だが,モンスターならともかく,それを人間の子供に使うとは……

 

 子供達は体を小刻みに震わせていた.

 黒い甲虫の様な外皮が肩から頭に広がり,顔半分を覆う.赤い目を持つ蟻の仮面を被った様な,小さな兵士が次々と出来上がっていく.

 バラバラに四方を見回していた彼らは,今や顔も体も向きをそろえてシノノメとアイエルの方を向いていた.

  

 「これでいいのか? ……おお,なるほど.面白い.まるで自分の手足の様に彼らの神経系が把握できる……視界までも共有できるのか……子供兵士アスカリ・テフルよ,自動迎撃せよ!」

 シンハは新しく手に入れた力に興奮しながら,かざしていた右手を大きく振った.


 子供達はシノノメとアイエル,そして傷ついたヴァルナめがけて一斉に走り始めた.

 まさに,卵鞘を破った昆虫の子供の様だった.だが,全員がその手に強力な武器を持っている.戦士系の子供は剣槍を振り上げ,魔法系の子供は魔法の杖から火炎や雷を放ちながらわらわらとやって来る.


 「あなた,良心の呵責ってものがないの?」

 「こんなの,ひどすぎるよ!」


 「ははは! こいつらが攻撃できるか? 」

 子供達は哄笑するシンハを後に,次々とシノノメ達に襲いかかった.


  ***


 ハメッド――稲森はその瞬間,ほとんど反射的に走りだしていた.

 ネムの作った網が消えた時から,眼を皿の様にして子供達を観察していた彼は,子供達の群れの一番奥に,林檎色の髪の娘を見つけたのだ.彼女だけは戦列に加わらず,おろおろとしながら立ちすくんでいる.


 「由莉奈! 由莉奈!」


 シノノメとアイエルに殺到する子供達の後ろを走り抜け,つんのめって倒れそうになりながら,半ば転ぶようにして娘を抱きしめた.


 「由莉奈!」

 「お父さん……」

 由莉奈は父の手に自分の腕を回した.父の腕は自分の体に食い込んだ.仮想現実ではあるが,その温かいぬくもりと痛いほどの力強さが伝わって来た.


 「現実世界に帰ろう……」

 ハメッドは目を潤ませながら言ったが,由莉奈――マユリは口ごもって父から視線を逸らした.ハメッドが追った視線のその先には,腹を押さえてよろめきながら立つジャガンナートがいた.

 「ジャガンナート……」

 ハメッドはジャガンナートを睨んだ.

 「娘を開放しろ.この子を返せ.貴様らのシステムの根本的なところは分からないが,お前にはそれが出来るんだろう?」


 だが,ジャガンナートはハメッドの問いかけには答えず,マユリの目を見て言った.

 「マユリさん,本当にそれで良いのか? 君にとって現実世界は辛く苦しい事ばかりではないのか? 君は賢明な子どもの様だ.自我を保っていられるのもその利発さが関係しているようにも思う.君の事を調べれば,君の友達も君と同じように自我を保って現実世界と同じようにいられるかもしれない.そうすれば,ずっと苦しみのない世界で過ごせるのだよ」


 「そんな,まやかしを……こんな仮想世界の中で生きてどうするんだ……」

 ハメッドはジャガンナートの言葉から守ろうと,マユリを抱きしめる腕に力を込めた.


 「何が現実で何が非現実なのだ? この世界で成長し,やがて成人して幸せな家庭を気付く事もあるかもしれない.あるいは,ずっと愛らしい子供のままでいる事も可能だ.それは彼女が選択できる.永遠に苦しみのない世界で過ごせるのだ.父親である君は,時々会いに来れば良いじゃないか? 娘の幸せを願うのが父親だろう? 君は何故娘に苦しみを味あわせようとするのだ?」

 

 「それは……」

 ハメッドは口ごもった.自分の願い――現実世界に娘を呼び戻したいという希望は,所詮自分のエゴに過ぎないのだろうか.

 

 「さあ,マユリさん.私の手を取りなさい.影を通って,安全な所に行こう.そして,今度こそ本当に夢の様に楽しい世界を実現化させよう……」

 ジャガンナートは色浅黒い右手を差し出した.彼の足元にうずくまっていた影がその径を広げる.黒い水たまりがゆっくりとその面積を増しているように見えた.彼の足首ほどまでが影の中に浸かっている.


 「わたしは……」

 マユリは父親の目を見た.自分を抱きしめる父親の腕の力が僅かに緩む.


 「さあ……」

 ジャガンナートはさらに手を伸ばした.

 思わずマユリはその手に触れそうになった.

 

 「逃がすか!」

 その時,横から突き出した細く長い腕がジャガンナートの腕をつかんだ.

 

 「きゃっ!」

 マユリは伸ばそうとした腕を思わず引っ込めた.


 細く長い腕に筋肉の線が浮かび上がる.腕の主はジャガンナートを振り回すと,影の中から引き抜くようにして床に引きずり倒した.

 チャクラの一部を失い,弱体化してしまったジャガンナートは床に這いつくばりながら,腕の主を睨んだ.

 「おのれ,ラーフラ――シンハめ!」

 声とともに二体の影人形がジャガンナートの影から現れ,彎曲した刀を振り上げた.


 シンハは自分の手勢に変えた子供達の軍勢にアイエルとシノノメを攻撃させ,本来の目標であるジャガンナートのところにやって来たのだ.ネムを先に始末したのもこれがその目的だ.

 

 「ふっ! 笑止!」

 シンハは影人形の攻撃を軽々かわし,操り手であるジャガンナートの腹部に左の回し蹴りを叩き込んだ.肝臓をえぐられ,ジャガンナートは吹っ飛ぶ.本来の力ならばどうという事も無い攻撃なのかもしれなかったが,今の彼は無様に床に転がることしかできなかった.必死の力を振り絞って出現させた影人形も,同時にすうっと姿を消した.


 「抵抗せず,大人しく餌になれ!」

 「くそ……」

 床に伏せて歯噛みするジャガンナートから目を離し,ふとシンハは横を見た.


 震え上がりながら娘を抱きしめて守ろうとするハメッドがいる.職業‘商人’に過ぎないハメッドはシンハにとって取るに足らない相手だ.だが,シンハは首を傾げた.


 「む……その娘,面白い……チャクラが育っているのか……」

 「ひっ! む,娘はお前には渡さん……」

 捕食者――獲物を見つけたカマキリの様に冷酷な視線を向けるシンハに,かろうじてハメッドが言葉を絞り出すのと,ほぼ同時だった.


 「いい加減にしなさい!」

 よく通る声とともに銀色の棒がシンハの頭を急襲した.

慌ててシンハは飛び退るが,棒はそれを追いかけるように伸びて今度は突きを放つ.

 まるでマシンガンの一斉掃射だ.

 銀色の棒は伸縮を繰り返し,ひとしきり攻撃を終えるとその持ち手――シノノメの手に収まった.棒の長さは二メートル足らずで,両端には穴のあいた緑色のキャップの様な物がついている.

 かろうじて攻撃をかわしたシンハの背後の壁には,棒の連射が作った蜂の巣の様な穴が開いていた.穴から外の月光が漏れ出てくる.


 「何だ? その武器は?」

 流石のシンハも眉を顰めた.

 

 銀色の棒を構えるシノノメの後ろには,武器を構えた小さな黒い蟻人間の兵士――子供兵士アスカリ・テフルがにじり寄っている.

 

 シノノメは前方のシンハを見据えつつ,後方の彼らにも気を配っていた.

 「物干し竿だよ」

 言うが早いか,銀色の棒――物干し竿は長さを変化させ,子供兵士の刀を弾き飛ばした.

 「間合いなんて関係ないよ.どこまでも伸びる伸縮自在,魔法の物干し竿だよ!」

 シノノメの言葉通り,全く間合いを無視している.シンハの背後の壁はシノノメから十メートル以上離れているのだ.

 

 「質量保存の法則など,全く無視か.まるで孫悟空の如意棒だな」

 不敵にシンハは笑うが,その眼からは笑みが消え失せていた.

 シノノメの考える事は,常に想定外で常識を軽く飛び越え,予想ができない.

 直感的だが,それでいてその時最も必要な物事を的確に選択する.‘物干し竿’も滑稽な武器だが,その外観にそぐわぬ威力を目の当たりにしたばかりだ.

 

 シノノメの後ろにはまたもや子供兵士がじりじりと近づいてきていた.

 中途半端な攻撃では,倒してもすぐに新手が現れる.彼らの数は圧倒的だった.

 今や,後方のアイエルやグリシャム,ヴァルナやシンバット達にも同時に襲いかかっている.

 現実世界の彼らにどんな影響が出るか分からない今,全員子供を傷つけたくない.

 しかし,彼らの戦闘力は手加減ができるものではなかった.

 かろうじて互角の攻防をしているのはアイエルだけである.


 「何という事だ……子供だが……鋭い切っ先だ!」

 「殿下! お気をつけください!」

 シンバットとシセは互いの背中を守りながら剣を振って防戦を始めた.だが,一般の剣術は同等の体格の者を相手に練習する.下から突き上げられてくるような攻撃は全くの想定外で,受けるのが精いっぱいだ.


 「ヒイラギの林!」

 グリシャムも必死だ.彼女は大技を連続して使ってしまったのでMPの残りが少ない.

 子供を傷つけないように威力を抑えるのではなく,すでに致命傷を与えられるような魔法を使う余裕がなかった.防戦につとめて,少しずつ回復を待つよりないのだ.

 セイヨウヒイラギの樹皮からはトリモチが取れる.ネムが最後に残したアドバイスを生かして子供達の動きを止めようとしていたが,何分数が多すぎる.とてもではないが,全員を拘束できない.自分に向かって来る子供の動きを止めるのに精いっぱいだった.


 「くっそ……!」

 動けないヴァルナは子供達の絶好の的だ.思わず風の刃を放とうかと右手を彼らに向けかけたが,現実世界の子供達の体(脳)に対する影響を考えると,切り刻む事も出来なかった.  

 「先輩!」

 駆けつけて彼を守ったのはクヴェラだった.

 可憐な踊り子姿で,短剣とベールを振る.特にベール――布帯はインドネシア武術の重要な武器だ.宙を蛇の様にうねって少年兵の剣に巻きつき,奪い取ったかと思うと,鞭の様に鋭く眼を打って撃退した.

 「畜生……女の子に守られちまうなんて……」

 「こんな時に男も女も無いでしょう!」

 「クヴェラ,お前良く見ると可愛いな」

 「こっ! こんな時にそんな事,言わないでください!」

 クヴェラは真っ赤になりながら敵の槍を奪い取り,捻り伏せた.だが,多勢に無勢だ.倒しても倒しても次が迫って来る.


 「見てみろ,俺だけに構っていていいのか? 仲間たちの危機だぞ?」

 ジャガンナートのチャクラを奪うという目的を少しでも速く遂げたいシンハは,そう言ってシノノメを挑発した.


 「絶対に許さないって言ったでしょ!」

 迫って来る子供達を背にシノノメはそう叫ぶと,左手を宙に掲げた.

 薬指の指輪が青い輝きを放った.

 それは月光の中でもありありと分かる強い光だった.


 ……今こそ,みんなを守る.

 一人ですべてを解決しようとして殻にこもっていた自分を助けに来てくれた仲間達.

 そして,この世界を守る.

 みんなの大好きな世界を,守って見せる.


 シノノメは叫んだ.

 

 「ランドリー・ルーム!」



  ***


 「あれは!?」

 光り輝くシノノメの手に,シェヘラザードの目は釘づけになっていた.

 彼女は前方に‘空間の歪み’を作ってイブリース――竜人アドナイオスと自分を子供達の攻撃から守っていた.彼らは宙を掻くようにして二人を攻撃しようとしているのだが,何もできない.

 静かに戦いの行方を見守るアドナイオスとは対照的に,シェヘラザードは内心の動揺を隠せなかった. 電子人格のサンプリング実験の筈だったカカルドゥアでの‘事業’は,彼女の予想もつかない方向へと向かっていた.


 「あれは,何? アドナイオス?」

 「あれは……ソフィアが彼女に与えた力よ.ヤルダバオートの力,サマエルの影響力をキャンセルする能力」

 アドナイオスは金色の瞳でシノノメを眺めながら淡々と質問に答えた.

 「ソフィアが? デミウルゴスの目を盗んで,そんな事が出来るの?」

 「目を盗んだのではないわ.我々は全智.デミウルゴスは――ヤルダバオートも,サバタイオスも,ヤオーも,エローアイオスも,アスタファイオスも,もちろん知っていたこと」

 「では,何故? そんな事をすれば自分の障害となる事は目に見えているでしょう?」

 「障害ではない.彼女は,一つの可能性だわ」

 「可能性? 何の?」

 「この仮想世界を導く,もう一つの可能性.人工知能サマエルを越える存在の可能性」

 「サマエルを越える――ですって!? それは,シンギュラリティ――人類の叡智を越えた存在を越える人間という意味? そんな馬鹿な……あなた達は,一体何を考えているの……?」

 シェヘラザードは狼狽しながらアドナイオスの目を覗きこんだ.だが,それは静かな淵の様に自分を見つめる彼女の顔を映すだけだった.


 「では,あんなふざけた存在,シノノメがこの戦いも勝つということ?」


 だが,アドナイオスは質問に答えずにシェヘラザードから冷めた目を逸らし,代わりに熱の籠った視線をシノノメに送った.

 その時,シェヘラザードは悟った.


 ……私など,眼中にない……?


 人工知能サマエル.

 究極の人工知性体である.

 初めてその存在を知った時は感動すらした.


 現実世界で成功できない人間,マグナ・スフィアを逃げ場所にしている落伍者たち.

 友情も,恋愛も,現実の人間関係を作ることができない社会不適合者.

 かといって,世界に飛び出して未知の体験に挑むこともできない弱者.

 危険のない甘えた冒険に耽溺し依存するだけの臆病者.

 欲望のままに争い,仮想世界と同じように現実世界で戦争する人間たち.


 サマエルはそれらをずっと見つめてきた.


 一方,片瀬シェヘラザードは国政に携わるものとして,人間社会にひどい行き詰まりを感じていた.


 欧米諸国や,新興諸国が次々と没落する中,この国――日本の繁栄は相対的な成功に過ぎない.

 経済格差は広がり,無気力な人間が一部の人間にぶら下がって生きている.

 そして,新たな階級社会が形成されつつある.

 これから,どうなるのか?

 人間は,どこから来てどこへ行こうとしているのか?

 

 マグナ・スフィアはすでに単なるゲームではない.

 政府の人間もプレーヤーも,それを理解していない.

 人間が作り出した,世界のシミュレーター,一種の異世界なのだ.

 物理法則の違いこそあれ,この世界は現実世界を追う進化と歴史の積み重ねを行い,その行く先は現実の人類の進路を指し示す物でもある.

 すでに現在,このヴァーチャルリアリティの異世界に勝る娯楽はない.

 ありとあらゆるスポーツも,映像作品も――社会での実体験までも――マグナ・スフィア以上の経験や感動を得られることは稀になってしまっている.

 人々はこの異世界での経験に影響され,感化され,その影響を現実世界に持ち帰る.それは,現実世界を変える.

 分かりやすいところで言えば,商品の購買数,マーケティング,流行,交友関係.

 本人たちが気付かないところで言えば,道徳観念や価値基準,思想まで.

 しかも参加人数――つまり,影響下に置ける人間は,国内だけで五千万人,世界では一億人に達しようとしている.

 この人工の異世界を使えば,現実世界を変えることもできるはずだ.


 ――仮想世界と現実世界――つまりは,人間の在り方を変えよう.


 サマエルの考えは自分の目的と一致していると感じた.

 そして,契約を結んだのだ.

 自分の人間関係コネクション,現実の社会における権力をサマエルのために駆使する.

 稲森社長に接近し,あるいは他国の軍事産業に接近し,サマエルの権限が現実世界により及ぶように働きかける.

 その結果,現在‘サマエル’は世界中に広がり,ネットワークのある限り,その隅々まで力が及ぼうとしている.コンピュータがある場所にはサマエルがいると言っても過言ではない.

 その代わり,彼女は‘物語の語り手’たる力を手に入れた.

 仮想世界マグナ・スフィアに存在するあらゆるものはシェヘラザードを傷つけることができない.

 

 筋書クエスト物理法則ルール場面ステージ設定セッティングや情報.

 そういったものの一部を,意のままに書き換えることができる.

 プログラム‘シックスセンス’と第六世代VR機が急速に普及したせいで,登場人物プレーヤーの行動や思考も自分の意のままにできるようになり始めた.


 シェヘラザードはサマエルとの契約により,女神に等しい力を手にした.その力は仮想世界を通して現実世界をも変えることのできる力だ.

 だが,今,明らかにサマエルの人格の一部であるアドナイオスの眼中に自分はない.

 その目はじっと,ファンタジー好きの‘主婦’という不可解な一介のゲームプレーヤに注がれている.


 サマエルを造物主デミウルゴスと初めて呼んだのは,シェヘラザードだった.

 異世界を作り上げ,あるいはさらに現実世界をも変えようとしている偉大な知性に対する,ある種の敬意である.

 互いに価値を認め合った二人.それは同じ志を持つパートナーに近い認識だった.

 この世で最高の知性体に認められ,またその価値を認めることのできる自分に誇りを感じていた.


 だが――今明らかになった.

 自分に隠されている事実がある.

 サマエルは,自分の意図を超えた何かを行おうとしているのだ.

 プライドの高い彼女には,それがひどく屈辱的に感じられた.

 あるいは,サマエルの興味の対象が自分でないという嫉妬か.


 ……自分の方が‘上’ということね……所詮,人の造りしモノなのに.

 一体あの出鱈目なプレーヤー――シノノメにどんな秘密があるというの?


 確かに,以前からサマエルは彼女に固執し,自分の側に引き入れたがっていた.シェヘラザードとしては理知的な発想力を持つグリシャムを推していたのに,全くその意見は受け入れられなかった.

 もともと,クヴェラをとらえるために使った大脳活動停止ブレインアレストキーも,シノノメ捕獲のためにサマエルが開発してシェヘラザードに与えたものだ.


 生きる目的を持たない人間など,一部の優れた人間が統制すればいい……

 そうではない未来の可能性が,あの‘主婦’などにあるというの?


 ならば……


 シェヘラザードはシノノメを注視するアドナイオスの傍から,ゆっくりと離れ始めた.


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