表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第21章 光は闇の彼方に
147/334

21-2 獅子の名を持つ魔人

 「俺は,捕食者だ.お前たちは,餌だ」

 シンハはそう言い放つと,ゆっくり順番に,広間にいる全員に鋭い視線を送っていた.

 自分の獲物――食べ物の数を数えているように見える.あるいは食べる順番を決めているのか.

 児童誘拐.

 臓器売買.

 人体実験.

 アメリアとの密輸.

 それら全て影で糸を引き,画策していたのは彼だった.

 全ては自らのレベルを上げるためだという.

 シンハが値踏みする‘獲物’の中には,ジャガンナートとオシリス,そしてシノノメ達だけではなく,シェヘラザードとイブリースも入っていた.


 「ふん,くだらない.ラーフラ,あなたの目的は,ゲームの中での栄光?」

 シェヘラザードは腕を組み,軽蔑する様に言った.彼女の美しい顔は,嫌悪感に歪んでいた.だが,世界的なゲームになりつつあるマグナ・スフィアのスタープレーヤーの中には,プロスポーツ選手並みの人気や収入を誇る者もいるのは事実だ.


 「ふふ,シェヘラザード,お前こそ社会実験ご苦労なことだ.そうやって高みの見物を決め込み,いかにも自分がより高い理想を抱いていると信じる.文系の,文官の考えそうなことだ.机上の空論,絵に描いた餅だ.増大する社会保障費を削減するために,下層労働階級をこの世界に押し込める気か? それとも特殊技能を持たない移民は全て仮想世界に移住させる気か?」

 ラーフラ――シンハは逆にシェヘラザードを嘲笑った.

 

 「お前に何が分かる……」

 シェヘラザードは赤い唇を噛んだ.シンハの言うことは少なからず彼女の意図したことを含んでいるようだ.


 「この仮想世界というシステムで,自分自身を変革する実験をしなくて何が面白いのだ? 参加するからには当然,レベル100を目指すべきだろう.それが俺の目的だ」


 「レベル100?」

 シノノメが眉をひそめた.もちろんレベル上げは大事だ.だが,それは色々な冒険や体験を通して得られる結果だと思っていた.

 むしろシノノメはレベルをあまり上げたくない.運営側から何の説明もないので,レベル100になった結果どうなるのか誰も分からないのだ.

全ての願いが叶うという説,ただ終わりになるという説,一からやり直しになるという説,様々な噂だけがプレーヤーの間で独り歩きしている.

 それが一つの可能性だとしても,シノノメはゲームが終わってしまうのが嫌だった.楽しいファンタジーの世界ならずっと楽しんでいたい.それがゲームプレーヤーとしてのシノノメの信条だ.


 「レベル97.2か.レベル100まであと少し.さて,どういう順番で食うか……五聖賢の残党どもを食ってレベルを上げ,そしてプレーヤーを食い,最後にイブリース……それとも……イブリースが先か」

 シンハは嬉しそうに忍び笑っている.

 だが,その言葉からすると彼の‘捕食’の重要な対象の一人はイブリースの様だ.


 「私は,お前などに食われはしない」

 ふと,そう発言したのはずっと黙っていたイブリースだった.


 「ほう?」

 そう尋ねるのと,ほぼ同時だった.

 あっという間にシンハはイブリースとシェヘラザードの前に移動すると,左の中段回し蹴り――ミドルキックで二人を薙ぎ払った.

 疾風を伴いながら,巨大な斧の様な一撃が走り抜ける.

 咄嗟に‘術’を発動したシェヘラザードの身体をすり抜け,蹴り足の先はイブリースを急襲した.

 足先も移動する姿も速すぎて残像を残すのみだ.だが,イブリースはあらかじめ来る場所を知っていたかのように避けた.

 それでも風圧で彼の赤い頭巾が裂けた.

 

 「やはり今の状態レベルでは無理か」

 そう言うと,シンハはバックステップして再び距離を取った.


 「今の動き……速すぎて見えなかった……ほとんど瞬間移動だよ」

 シンハの背中に狙いをつけていたアイエルは呟いた.隣にいるグリシャムも,魔法を使うタイミングを逸したらしい.思わず二人の目が合った.

 相手の攻撃が始まる時と終わった直後は,こちらの攻撃の絶好のチャンスだ.だが,余りの速さに,その好機を二人とも見逃してしまった.

 

 「これはもう無用ね」

 そう言うと,イブリースは頭巾をとり,床に捨てた.

 「シンハ,あなたに私は倒せないわ.私はあなたの行動を予知できるのだから」

 薄紅色の鱗が生えた肌を上気させ,金色の瞳でイブリースはシンハを見つめた.


 「あ! あなた,アドさん!」

 それは間違いなく,バー‘サクラス’でカクテルを作ってくれた竜人だった.進むべき道を見失っていた自分に不思議な助言を与えてくれた竜人,アドナイオスである.

 「アドさん,どうしてそんな人たちの味方をしているの!?」


 「シノノメ殿,イブリース殿を御存じなのか?」

 「王様,この人はサンサーラの町でバーをやっているバーテンダーの人だよ!」

 「何?」

 シンバットはシノノメの言葉に目を丸くした.


 「ふふ,シノノメちゃん,それは私の仮の姿.あのバーは,道標を探している人の前に現れる存在.私の役目は,この世界を見守り,それを記憶し,近い未来を予見して人々に霊言オラクルを与える事なの.善悪に関わりなく寄り添い,絶対平等の監視人,それが私の役目」

 アドナイオスは竜の顔で静かに笑った.男性の様に深い声だが,イントネーションは女性的だ.性別がないという竜人独特の語り口だった.


 「そんな……」

 ‘大事な物は見えないところにある’という,アドナイオスの言葉に救われた事もある.少なからず好感を抱いていたシノノメには,その言葉がとても受け入れられなかった.


 「彼――彼女こそは,絶対の傍観者.時とともに過ぎゆくこの世界を見つめ,記憶し,未来を予知する役目.造物主デミウルゴスの七つのアルコーンの一つ.この世界の神の欠片」

 シェヘラザードの声はひときわ高らかに響いた.

 その声は天上から降って聖堂に鳴り響く,パイプオルガンの音を思わせた.


 「その通り,だからこそ俺は,その力が欲しい.さて,お前を食えばどのくらいレベルが上がるのだろうな?」

 シンハの目が不気味な光を帯びる.


 シンハの目的が何なのか――レベル100になってどうしたいのか分からなかったが,その先には必ず邪悪な意図があるに違いない.絶対に彼の目的を阻止しなければならないと,シノノメは強く思った.

 

 「アドさん,逃げて!」

 「それは出来ないわ.そこに,大公シンバットがいる限り.彼――カカルドゥアという国を通してこの世界を見守るのが私に与えられた役目だから」

 「そんな……」

 だとすると,アドナイオスと,そして,先程まで敵として対峙していたジャガンナートも守らなければならない事になる.

 クヴェラとマユリを連れて帰らせてもらえばいいと言えば,見逃してもらえるのだろうか.いや,シンハや五聖賢のしてきた所業を知っている限り,ただで済むとは思えない.

 それに,シノノメ自身がもはや彼の存在を看過することは出来なかった.

 シノノメはアイエルとグリシャムの方をそっと見た.

 二人とも,シノノメの視線を受けてすぐに頷く.彼女達も同じことを考えているのだ.


 「俺が怖ければ,このままログアウトしても良いのだぞ」

 笑いを含みながらシンハが言う.

 だが,その答えは決まっていた.

 

 「こんなの,ファンタジーじゃない!」

 シノノメがそう叫ぶとともに,攻撃が始まった.

 

 「万能樹の杖! イバラの縛鎖!」

 グリシャムが叫んだ.

 杖からシンハに向かってイバラの森が展開し,彼の手足を捉えようとする.

 

 「ふっ!」

 シンハは床を叩いた.まっしぐらに伸びて来たイバラの蔓草つるくさを防ぐように,床が盛り上がる.四角い石のブロックがたちどころに積み上がり,イバラの進撃を防いだ.


 「これは! オシリスの能力!」

 「言っただろう! チャクラを取り込むとは,こういう事だ!」

 イバラは四角い石のブロックを巻き込みながら,それでも何とかシンハを捉えようとする.しかし,速度を失ったイバラの蔓などシンハの敵ではなかった.

 刃物の様な手足の先が迎撃すると,丈夫なイバラの枝は切り落とされて散乱した.


 「今だ!」

 アイエルはジグザグに前進しながら矢を放った.

 「グリルオン!」 

 シノノメもタイミングを合わせて,反対側からシンハを挟み撃ちしようとする.青い炎の柱がシンハを焼こうと次々立ち上った.

 アイエルの魔法弾は雷と炎をシンハに浴びせかける.シンハは凄まじい体捌きで移動すると全ての弾を避け,さらにシノノメの炎も避けた.

 だが,これがシノノメの戦法だ.魔法で牽制して接近し,強力な近接兵器――フライパンや刃物で止めを刺す.

 そして,シノノメの戦い方を理想とするアイエルもほぼ同じである.二人の女性プレーヤーは双子の様に息を合わせて近づいていった.


 「メタモルフォス!」

 アイエルの‘黒豹のクロスボウ’が‘黒豹の剣’に変化する.柄頭に黒豹の頭が彫られた,黒光りする両刃の剣だ.

 「百万度ポワール!」

 シノノメの灼熱のフライパンが空気を切り裂いてシンハに迫る.

 フライパンの平たい部分ではなく,横の尖った所を相手に向けている.少し滑稽だがシノノメにとっては容赦ない攻撃なのだ.


 「ははっ!」

 シンハは笑いながら右腕で剣のしのぎを払い受け,シノノメの攻撃をかわした.

 アイエルの剣が決して遅いわけではない.普通のプレーヤーなら一刀のもとに斬り倒されるだけの鋭い剣勢だった.だが,シンハの動きが尋常ではないのだ.

 シノノメもアイエルも,攻撃を一度では終わらせない.

 すぐに武器を翻してシンハの胴を狙った.

 体幹は大きく狙いやすく,守る側はかわし難い急所である.特にアイエルの剣は鋭いスピードでいわゆるツバメ返しの軌道を描いていた.

 「とった!」

 「えい!」

 シノノメとアイエルは勝利を確信し,シンハの胴に攻撃を叩き込んだ.だが,シンハはヴァルナと見紛う跳躍力を見せると,一気にシノノメ達の頭上まで跳び上がった.

 全く予備動作がなかった.

 足首の力だけで跳び上がり,彼は空中で両足を畳んでいた.

 細身だが,百九十センチ近くある.宙に舞い上がった様子は,怪鳥か巨大なコウモリを彷彿とさせた.

 

 「空中に逃げたわね! 万能樹! 竹林槍衾バンブー・ジャベリン!」

 グリシャムがすかさずシンハの着地点を読み,竹林を発生させた.竹林といっても,先端は竹の子状か斜めにそぎ落とされた竹である.竹槍が床から生えてくるのだ.

 シノノメと親友二人ならではの巧みな連係プレーの連続だった.

 しかし,宙に舞い上がったシンハはふわりと体を広げると,尖った竹の先に爪先で着地した.自分の体重が落下する重力加速度を完全に殺してしまったのだ.

 

 「そんな!」

 「軽業師みたい……」

 「あんなことができるなんて……!」

 シノノメ達はその光景を見上げて絶句した.


 シンハは尖った竹林の上を爪先で渡り歩き,やがて片足で立つとその上に胡坐をかくように座った.

 「中国の気功師には,軽身功という技がある.ルーツであるヨーガ,チャクラの技を究めた行者サドゥならば,これくらいできて当たり前だ」


 「苦行林にいた人たちみたい……」

 シノノメが呟いた.苦行林の行者たちが自分の身体をイバラの中に放り込んだり,釘を体に刺したりしている様子を思い出していた.


 「ほう,奴らを知っているのか」

 シンハは少し驚いたという顔をした.

 「そうだよ.私,苦行林の奥の,榕樹精舎っていうところに行ったんだもの」

 シノノメがそう言うと,シンハは少しだけ顔をしかめた.

 「だが,奴らは単なる甘えた自傷行為を繰り返すだけの引きこもりどもだ.仮想世界なら,どんな苦行もできるからといって,自分の身体を痛めつける遊びをしているだけだ.引っかき傷の様なリストカットを繰り返す甘えた社会不適合者と同じ輩だな」

 吐き捨てるように言うシンハの態度に,シノノメは少しだけ違和感を抱いた.


 この批判の言葉は,あの人と似ている……


 「もしかして,あなた,ナーガルージュナさんを知ってるの?」

 「ふふ……懐かしい名を聞く……だが,お前には関係のない事だ」

 シンハは尖った竹の上に胡坐をかいたまま,両手を組み合わせて臍の前に構えた.

 「オーム!」

 腹の底を震わせる深い音色がシンハの口から発せられると,一瞬彼の身体が赤熱化した様な錯覚を覚えた.

 すると,竹林が炎に包まれ一瞬で灰になった.

 シンハは炭となった竹がボロボロと崩れ落ちる速度に合わせるかのように,ゆっくりと降下して降り立った.

 「原初の真言マントラで体を活性化させれば,体温を炎のごとく変える事も可能だ」


 「何という高いシャクティ……生命気プラーナだ……」

 シンバットが畏怖と感嘆が入り混じった声を上げた.

 「殿下,それは何ですか? 私には,妖術師の様にしか思えませんが」

 シセが眉を顰めながら尋ねる.シセは北方の住民でカカルドゥアとは文化的基盤が異なっている上に,内陸の奥地に住んでいるため,あまりプレーヤーと接する事がない.

 「人間の体内に宿る生命力,根源的な力だと聞く.苦行と瞑想の末に,あの様な力を手に入れるのだそうだが……あそこまでの力は,私も目にするのは初めてだ」

 「そうです,外国とつくに人間プレーヤーでもあの様な強さを得る者は一握りです.しかし,あの力を奴は悪魔の様な方法で手に入れたのです……」

 ハメッドは無力感にとらわれながら,必死でその眼をネムの作った毛糸の網に走らせていた.モゾモゾと動く毛玉がいくつも見える.

 クヴェラはあの一つに隠れていた.

 もしや,自分の娘もあの中にいるのだろうか.

 飛んで行って毛糸をまさぐり,しらみつぶしに探したい.だが,その前には‘魔人’シンハが立っている.

 すっかり狩られる側と化したジャガンナートも,毛糸の網に足を取られて倒れ込み,怯えるようにしてシンハとシノノメ達の戦いを見つめていた.


 シノノメとアイエルは再び距離を取り,武器を構えていた.


 「黒猫丸! 魔包丁,燕三条白包丁!」

 シノノメは武器を持ち替えていた.彼女が持つ最強の武器で勝負をかける気なのだ.黒と白の包丁を一本ずつ両手に持ち,じりじりと間合いを測る.

 彼女の動きのベースは日本武術,特に小太刀なので,両の包丁は順手握りだ.胸ほどの高さに構え,二つの切っ先をピタリとシンハに向けていた.


 「ふうう……」

 アイエルは八相の構えに似た上段で,剣を構えていた.剣先はぴたりと天を向いている.

 シノノメに再会するまでに一生懸命セキシュウに習った,剣術の構えを生かした物だった.もともと彼女は子供の時に地元で沖縄空手を習っている.古流の空手には薩摩示現流剣術の理合いが入っていると言われるためか,上達は早かった.

 いつかシノノメの様に,あるいはシノノメの背中を守れるくらい強くなりたいと,ずっと思っていた彼女の努力の賜物でもあった.

 左前にした足の指に意識を集中し,飛び込むタイミングを狙っている.


 「チクショー,俺は役立たずかよ.女の子の前なのに」

 そうぼやいているのは,ヴァルナだった.右足を負傷し,自慢のフットワークが生かせない.同じ聖堂騎士同志,以前からの因縁のあるシンハを前にして何もできないのは悔しかった.

 シェヘラザードは恐らくジャガンナートとオシリスを回収しようとしているのか,それともアドナイオスと深い関わりがあるせいか,ここを立ち去る様子はない.だが,抜け駆けして彼女を捕まえられる状況でもない.

 とにかく,一部の例外はあるにしても,女性を守るのはヴァルナのモットーだ.それが今や,シノノメ達三人娘に守られる立場である.


 「聖騎士パラディン,情けないネー」

 編み物を編みながら言っているのはネムだ.そう言う彼女も,今はたいして役に立っていない.しかし決してそれで悪びれる事は無く,寝ぼけまなこでシノノメ達を眺めていた.

 「ネムに言われたくねーよ.お前,ホントに編み物好きなんだな」

 ネムは赤い毛糸でまた何か新作を編んでいる.

 「うん,好きー」

 ネムはへらへらと笑った.

 「待てよ……そうだ,ちょっと,こんなの作ってくれないか?」

 ヴァルナはゴニョゴニョとネムに耳打ちした.

 「えー? そんなの作れるかなー?」

 「いや,ネムなら作れる.マグナ・スフィア最高の美人編み物師なら」

 「えー? そーかなー?」

 そう言いながらもネムの両手は高速で動き始めていた.


  ***


 ジャガンナートは目の前で繰り広げられ始めた,想像を絶する戦いに肝を冷やしていた.

 先程まで自分を追い詰めていたシノノメ達が,今や自分を守るためにラーフラ―シンハと戦っているのは,何とも皮肉な状況だった.

 不思議な魔女の出した網の上にはあちこちに毛玉が出来,モゾモゾと動いている.捕われた子供達が抵抗しているのだろう.ほころびて手足が飛び出すと,これまた魔女が編んだ毛糸の蜘蛛がやって来ては,ほころびを繕っている.

 ジャガンナートは子供に勘定されていないせいか,網に足を取られて倒れたものの蜘蛛は近づいて来なかった.


 「何という能力だ……」


 思えば,彼らの想像力は自分の常識からすれば滅茶苦茶である.

 ホームウェアを着て調理器具で戦う主婦に,編み物を編む魔女.

 さらには,森を生やす魔女に,魔法の弾丸を撃つ半妖精ダークエルフの娘.

 そして,人間を食う事で自らを強化する魔人.


 「だが,これが本来の想像力なのかもしれぬ……」


 影を使うという能力を思いついたものの,ハデスやイシュタルの様な戦闘能力は発揮できなかった.自分の想像力は,学生時代のもう一つの夢だった建築家の知識を生かして,この離宮を立てるのが関の山だった.

 砂漠の巻貝という美しいコンセプトは,要塞としては余分なのだ.だが,王の居城,そして子供の城と聞いた時,自分の美意識を込めたかった.

 現世で辛い思いをしている子供達に,夢の国を与えたかったが,結果は上手くいかなかった.

 電脳化した後,自我を保つためには何が必要なのだろう.

 両親か,学校か.

 いずれにしろ,ここを脱出しなければ.

 シェヘラザードなら何か手段を持っているのかもしれないが,間でシンハと東の主婦達が戦っている.

 下半身に上手く力が入らない.影の中に入るのも,上手くいかない.このふらつく足では向こう側に走ることなどできそうにない.


 ……チャクラか.


 ジャガンナートは生前インド人だったが,ヒンドゥー教徒ではない.

 不可触民ハリジャン――ヒンドゥー教の身分カースト制度で最下層の出身である.自分の出自を否定するために,宗教を捨てた.だがもちろん,ヒンドゥーの教義や概念は知っている. むしろ,理論武装して生きて来たために,普通よりも詳しいかもしれない.

 チャクラはヒンドゥー教――インドではよく知られた存在だ.ヒンドゥー教徒の女性が額につけるビンディーは,額のチャクラ,アージュニャーにちなんだものだ.

 おそらく,腹部のマニプーラか,臍の下のスワディシュターナチャクラを取られてしまったのかもしれない.

 ……いずれにせよ,このままでは奴の餌だ.

 ジャガンナートは必死で両腕に力を込め,脚に絡まった毛糸を外して立ち上がろうとしたが,上手くいかなかった.

 「あっ」

 毛糸の網の上なので,それで怪我する事はない.だが,子供を巻き込んでいる毛玉の上に倒れかかってしまった.


 「きゃっ!」

 可愛らしい,小さな声がした.

 見ると,少しだけ毛糸がほころんでいる.白い細い指と,利発そうな目が覗いていた.


 「き……君は……?」

 ジャガンナートは毛玉を作る赤や青の毛糸を引っ張ってほどいた.ほどなく顔が現れる.

 赤いリンゴの様な色の髪に,細面の東洋系の顔.ナジーム商会の元・会長ギルドマスター,ハメッドの娘だった.


 「きゃっ! ジャガンナート!」

 娘は自分の顔を見ると,怯えた様な声を出した.

 無理も無い……自分をさらった人間なのだから……と,考えた瞬間,ジャガンナートはある事に思い当った.


 「き,君は,私や自分の事が分かるのか!?」

 「クヴェラにここに隠れているように言われたのに,見つかっちゃった……どうしよう……」

 娘は問いには答えず,手足を縮こまらせ,出来るだけ毛玉の奥に隠れようとしている.

 怯えた子猫の様で愛らしい.絶体絶命の時ではあったが,思わず顔がほころんだ.

 ……私のやって来た事は,無駄ではなかった.

 ここに,唯一と言えるかもしれないが,この計画の成功者がいる.

 ジャガンナートは生命の根源力――プラーナ――クンダリニーが宿ると言われる,会陰の‘根のチャクラ’ムーラダーラにありったけの力を込め,立ち上がった.


バレンタインデーなので、本日は2話連続アップします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ