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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第20章 闇のその先へ
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20-9 戦いの行方

 ティルコーン――ある時はヴォーダン,そしてローゲと名乗った至高の人間――ホモ・オプティマス.

 天使の梯子と呼ばれる,薄い光の帯の中,彼女は砕け散っていった.

 最期を見届けたシノノメは頬の涙をぬぐうと,慌てて振り返った.

 

 傷ついた仲間が倒れている.

 グリシャムがしゃがみこんで一生懸命回復魔法をかけていた.シンバットとシセが立ちすくんでそれを 見守っている.ヴァルナは足を怪我しているので,床に座り込んでいた.

 シノノメは急いで駆け寄った.


 そこには,アーシュラとハヌマーンが並んで横たわっていた.

 アーシュラの左手は盾ごと無残にも焼け焦げ,炎の剣に貫かれた右胸からも細かいピクセルが噴き出し,穴は徐々に広がっていた.

 ハヌマーンもひどい.

 ハヌマーンは棍棒で何とか炎を押しとどめようとしていたが,出来る筈がなかった.実際にはほとんど彼自身の体で受け止めた結果になったようだ.

 ふさふさの金毛はあちこち焼け焦げ,真っ赤にただれていた.彼の身体からも細かいピクセルが噴き出して空気中に溶けていく.


 「へへ,シノノメ,やったじゃない」

 アーシュラは呆然と見ているシノノメを見つけ,笑顔を作った.だが,顔はひきつっている.

 「アーシュラ,こんなの……どうして……」

 シノノメはやっとそれだけを言った.

 「馬鹿だね,アンタは.だって,友達だから,当り前じゃないよ.あの時点で,アタシ達怪我をしている奴ら,しかも魔法が使えなきゃ,出来る事はこの位でしょ?」

 「でも……」

 シノノメは泣きそうになった.

 「そうだよ,シノノメさん.俺達には,これしかできる事がなかった.気にしないでよ.マグナ・スフィアは,俺達の大事な世界なんだ.それを壊そうとする奴なんて,絶対に許せない」

愛嬌のある赤い猿の顔は苦痛で歪んでいる.

 シノノメはハヌマーンの手を取った.

 あちこち火傷を折ってはいるが,金色の毛はモフモフでとても柔らかかった.

 「こんなすごい冒険,俺も初めてだったんだ.もし,今度……無事にログインできたら……出来るかどうか分からないけど……また必ず協力するよ.一緒に戦おう.だから……」

 「だから?」

 「友達承認……宜しくね」

 ハヌマーンはいつもの文句を口にすると,にっこり笑い,ログアウトして行った.

 金色の巨体がゆっくりと消えていく.

 シノノメは泣きながら笑った.


 「ふふ,ハヌマーンの奴,やっぱりあたしより持たなかったか.ほとんど直撃だったもんな.だけど,いずれにしろ,我慢比べはアタシの勝ち.これで,剣闘士大会も含めて五連勝」

 アーシュラは消えていくハヌマーンの言葉を聞いて,いつもの人懐っこい笑みを満面に浮かべた.

 「アーシュラ……」

 シノノメはグリシャムの方を見たが,グリシャムはただ首を振った.

 分かっている.

 とても回復できるダメージではないのだ.


 「すごいよね.ネムが,あんなにやる奴なんて」

 アーシュラは首を動かし,編み物を黙々と編んで子供達の動きを封じ込めているネムの後ろ姿を見た.

今では広間の半分ほどは,ネムの編んだ編み物で占められている.あちこちに子供を絡みつかせた,不思議な模様の絨毯が敷かれているようだった.

 「影の正体も見破ったし,あれ……ジャガンナート達は同志討ちしてるんだね.これで,しばらくは一息つけるね」

 アーシュラのHPが急速に減っている.

 全員が隠れるシェルターにしていた,巨大なゴリアテの盾がふっつりと姿を消した.

 「あの盾,役立たずじゃなかったね」

 「うん」

 シノノメはやっとのことで言葉を絞り出した.

 「だけど,ごめん.流石に,これ以上は戦うの無理みたい.この辺でログアウトさせてもらっていい?」

 このままでは自然にゲームオーバー・ログアウトする.だが,引き際を自分で選ぶ彼女の矜持なのだ.

 「う,うん,ありがとう」

 「シノノメ,泣いちゃだめだよ.おい! ヴァルナ!」

 「何だよー? ツケをタダにしてくれるのか?」

 ヴァルナはいつものやる気のなさそうな口調で答えた.もちろんそれが彼の本心でないことは明らかだ.

 「アンタ,シノノメを助けて,クヴェラを必ず助けなよ.フラフラフラフラ,女の尻ばっかり追いかけまわして!」

 「……アーシュラ,お前,本っ当にいい女だよな」

 「全く……」

 アーシュラは微笑を浮かべ,目を瞑った.

 だが,頼りない笑いを浮かべるヴァルナの目元は鋭い光を帯びていた.

 情報戦略のプロである彼は,アーシュラのダメージを真剣に心配しているのだ.

 これだけのダメージだ.手足の麻痺もともかく,脳内伝達物質の乱調は避けられないだろう.

 幻覚や幻聴を除去できなければ,下手すれば社会生活が送れなくなる.


 「ねえ,シノノメ,約束してくれる?」

 アーシュラは再び口を開いた.

 「何?」

 「現実世界で,必ず私のカフェに来てね」

 「うん,うん」

 「……どんな事情があるのか知らないけど,シノノメは,きっと大丈夫だから」

 彼女が体に受けた傷から考えると,どれほどの痛みが襲っているのか想像もつかない.だがそれでもアーシュラは笑みを浮かべ続けていた.

 それは,シノノメへの気遣いだった.

 「だって,こんなに友達がいるじゃない」

 シノノメの記憶が欠けているという事を,アーシュラはどれだけ気付いていたのだろうか.だが,アーシュラはそれでも態度を変えず,ずっとそばに居続けてくれたのだ.

 「アンタなら,大丈夫」

 「うん,う……ん」

 シノノメの視界は涙で歪み,目を瞑ったアーシュラの笑顔がぼんやりと映った.

 「またね」

 アーシュラはそう言い残すと,最後まで笑顔のまま,ゆっくりピクセルになって消えていった. 


 「アーシュラ……私が,もっともっと強ければ……」

 そう言って泣くシノノメの肩に,グリシャムは手を置いた.

 「違うよ,シノノメさん.一人一人なんて,みんな弱いの.だから,私たちが……友達がいるんじゃない」

 「うん……」

 シノノメは一生懸命溢れる涙をぬぐった.

 だが,戦いの局面はシノノメが悲しみに暮れることを許さなかった.


    ***


 「うおおおお!」

 野太い男の絶叫が響いた.

 全員が振り向いた.

 そこには,黒い影の帯で床に縛り付けられた黒い鋼鉄の怪物と,体中傷だらけでその傍に屹立する,ジャガンナートがいた.

 「影縛シャドウバインド! おお! 俺が最後の一人になろうとも,貴様らを全員殺す!」

 五聖賢の中でも冷静な印象のあるジャガンナートだが,感情を覆う仮面をかなぐり捨てて咆哮していた.

 彼の後ろには牙を剥く巨大な影の魔神が揺れていた.

 

 「決着がついた……私たちの,次の敵はジャガンナート……」

 アイエルはフルーラ・バブルを爆発させた後,ネムとハメッドのバックアップに入っていた.本人を狙うために炎の魔法弾マジックバレットをクロスボウに装填したが,何が有効なのか分からない.

 二人が戦っている間に,ハメッドは毛糸の網の間を歩き回り,行動不能になった子供たちの顔を見て娘を探していた.

 だが,もうそれもできない.影人形は次々と数を増やし,戦闘態勢を整えつつあった.

 ハメッドは網に足を取られながら慌ててシノノメたちの方に駆け戻った.

 

 「良くここまで来たものですね,シンバット殿下」

 ジャガンナートの後ろで,シェヘラザードが嫣然えんぜんと笑う.


 「すべては,勇敢な戦士たちのおかげだ.全ての真実を私に語り,この国を出ていけ!」

 シセに支えられ,よろめきながらシンバットが叫んだ.

 NPCに過ぎない彼にとって,ヴォーダン――ローゲとの激闘は,想像を絶する異次元の戦闘だったに違いない.

 彼はそれでもよくこの状況に耐えていた.

 

 「私は真実しか語っていないのだけれど……心外ね.五聖賢――人格の電子化実験において,結局成功したのはジャガンナート一人だった.傑出したリーダーシップや人望,社会的地位があっても,品位を保つことは難しいのがよくわかったわ.そして,残念だけれど子供たちも失敗……」

 「何のことだ……?」

 シンバットには,シェヘラザードの言っていることがまだ分からない.自分たちの生きている世界は,彼らにとってゲームに過ぎないのだということを理解できていないのだ.そして,それは本来,ゲームの中で意識すらされないものの筈だった.

 シンバットとシセが剣を抜く.

 それに続くように,グリシャム,アイエル,ヴァルナも戦闘態勢をとった.

 

 「ふははは! 理解する前に,眠るがいい!」

 ジャガンナートは両手を振った.

 再び影人形たちが迫ってくる.回廊を上がって来た時と同じだ.攻撃の一瞬だけ実体化し,攻撃を受けるときは文字通り影のように手ごたえが無くなってしまう.


 「ジャガ何とか! もう,終わりよ!」

 シノノメが言った.

 彼女はボロボロになった襦袢を脱ぎ,洋服に着替えていた.

 ノースリーブのニットハイネックに,スカーチョを履いている.腰には藍染のカフェエプロンを付けていた.

 「シノノメさん?」

 シノノメのTPOを無視したファッションはいつものことなので,二人はもう驚かない.グリシャムとアイエルが驚いたのは,その言葉だ.

 終わり,というのはどういうことだろう.

 恐らくマグナ・スフィアで唯一のスキル,‘影使い’に対抗しうる秘策を,シノノメは見つけたというのだろうか.

 

 「グリシャムちゃん,森を出して! アイエルは,土魔法の玉!」

 「う,うん! 森?」

 森と言われてグリシャムはどうするか迷った.杖を持って束の間考える.

 シノノメの意図は何だろう.

 「グリシャム,なるべく葉っぱが大きくって,密な奴よ!」

 アイエルはシノノメの意図を察し,要望を補足した.

 「あ……! はい!」

 「こちらは準備完了!」

 アイエルは素早く土魔法の黄色い弾丸を左手に握り,クロスボウに装填していた.


 「何が終わりだというのだ!」

 

 ジャガンナートが言うより早く,シノノメは間合いを詰めていた.

 黒猫丸で十人ばかりの影を切り捨て,右手は素早くフライパンを持ちかえている.

 「百万度ポワール!」

 灼熱のフライパンを振るが,ジャガンナートは自分の陰に潜り込んで隠れた.まるで瞬間移動のように影から影へと移動するのだ.

 「馬鹿め!」

 ジャガンナートは編み物を編んでいたネムの陰から姿を現した.


 「あわわ!」

 ネムは目を瞬いた.

 「危ねえ! 鎌鼬かまいたち

 どうすればいいのかわからず,固まってしまったネムを見て,ヴァルナがすぐに風のやいばを放った.

 だが,ジャガンナートはすぐにネムの影の中に沈み込んで姿を消した.

 次はシンバットの影の中から姿を現す.

 大公の危機にシセは剣を振ったが,再びあっという間にジャガンナートは姿を消した.

 「あうっ!」

 シセの剣先はシンバットの大腿を浅く傷つけた.

 「も,申し訳ありません,殿下!」

 シセはうろたえた.だが,次に現れた場所はシセの影の中だ.

 「きゃあっ!」

 シンバットが剣を振った時には,またジャガンナートは影に潜り込む.


 「ははは! お前たちは私に触れることもできない! 食らえ!」

 影人形と,影の中から現れた黒い手が空中に伸びた.影人形は鋭い影の刃を構え,黒い手の指先は鋭く尖っている.

 「影に貫かれる気持ち,味わってみよ!」

 ジャガンナートはハメッドの影から出現すると,一歩出て腕を組み嘲笑った.


 「今だよ! 二人とも!」

 シノノメは合図とばかり,フライパンを振った.

 「万能樹の杖! 広葉樹林!」

 「行けっ! ノームの弾丸!」

 グリシャムが杖を振ると,広間に鬱蒼とした森がたちどころに発生した.

 森は見る見る間に天井まで伸びあがり,穴の開いたドームをふさぎ始めた.

 さらに,その木と木の間を土魔法の弾丸が狙う.

 土魔法の弾丸は壁に当たると,見る見る間に膨れ上がって新しい土壁を作っていった.


 「生い茂れ! もっともっと!」

 グリシャムが叫ぶ.

 「塞がっちゃえ!」

 アイエルがクロスボウを連射する.


 「な,何をする気だ? ……そうか! しまった! だが!」

 予測だにせぬ事態に,ジャガンナートは辺りを見回した.

 「影人形よ! 壁を壊せ!」

 できなかった.絡まった植物は石材を補強し,すでに影人形程度の力では破壊できぬほどの強靭な壁となっていたのだ.


 木と土は壊れた離宮を補修するように壁と天井を塞いだ.

 さらに森から生えたツタは窓を覆いつくす.

 明るい陽光は失われ,広間は再び薄暗い闇に包まれていった.

 どこかでカサカサと植物が音を立てる.

 そして,広間は闇に落ちた.

 

 息遣いだけが聞こえる.


 「影の境界を無くせば,私は逃げられないと見たか……だが,愚かだな.お前たちも私の姿を補足できまい.私は影という大海に潜り,潜んでいるのと同じだ」

 やがて,ジャガンナートの静かな声が響いた.

 「今からでも私に下れば,許してやる.シンバット殿下,シセルニチプ姫.貴方達はか弱い一般人だ.私に永遠の従属を誓えば,国を治める力を貸してやる」

 人を酩酊させるような,自信に満ちた深い声だ.逆に,相手の不安を惹起させる.

 言葉で暗示をかけ,他人の心を操るのは彼がマユリをさらう時に見せた技だ.

 彼のもう一つの能力スキルと言えるのかもしれない.

 「ふふ,不安だろう.畏れろ」

 ジャガンナートの声は,闇のどこからでも聞こえてくるように錯覚する.

 耳元でささやかれると思えば,広間の遠くから聞こえるようにも思える.

 大きいと思えば小さく,高いと思えば低い.

 

 「殿下……」

 「化け物め……案ずるな,シセ」

 恐怖に身を寄せてきたシセの肩をシンバットは抱いた.

 アイエルとグリシャムは自分の鼓動が早くなるのを感じていた.

 ジャガンナートの深い声が響く.

 「私はお前たちの周りのどこにでもいて,どこにでも出現できるのだ.どうかね? 神のようだと思わないかね?」


 「ふーん.そう? でもね,やっぱり.影人形は出せなくなるんでしょ?」

 闇の中,凛としたシノノメの言葉が響いた.


 「だから,どうした.いざとなれば,私自らの手で貴様を縊り殺すのみ.お前は,どうやって私の姿を知るのだ!」

 シノノメが自分の思うように動揺しないせいか,怒りを含んだ声で闇の中のジャガンナートは叫んだ.


 チチチチ……小さな舌打ちの音がする.


 「馬鹿め! 東の主婦! 死ね!」

 ジャガンナートがそう叫ぶのと,シノノメのフライパンが風を切る音がするのは,ほぼ同時だった.

 「百万度ポワール!」

 爆音がした.

 「ぎゃあっ!」

 次に,叫び声が響いた.

 「そこっ!」

 再び音がした.

 「ぐっ!」

 今度はくぐもったうめき声が聞こえる.


 「一体,これは……何が起こっているの?」

 ジャガンナートの能力は確かに優れているが,あまり攻撃力は高くない.それでもジャガンナートの絶対的な優位を信じていたシェヘラザードはつぶやいた.

 介入するつもりはない.

 所詮ジャガンナートすらも実験対象の一つに過ぎないのだ.

 だが,一介のプレーヤーに過ぎないシノノメの特異な能力には,いつも煮え湯を飲まされてきた.

 全くの闇の中,何も見えない.ひたすら鼻を突くような植物――樹木の湿った臭いがする.

 さすがの彼女も気にせざるを得なかった.


 「シノノメが勝っている……」

 そう一言つぶやいたのは,隣に立っていた赤い頭巾の人物――イブリースだった.

 この闇の中では,そのイブリースの姿すら見えない.

 「何ですって? 見えるの?」

 「いや……数分前に予測した」

 目を凝らすと,闇の中に赤熱したフライパンが見えるような気もする.


 「ちっ……止むを得ない.話を書き換えましょう……」

 そう言うと,シェヘラザードは両手を打ち鳴らした.

 シャン,と彼女の両の手首につけた腕輪が鳴った.


 赤い光が闇の中に走る.

 葉が散るはずのない常緑広葉樹の木が,突然葉を散らし始めた.

 木がしおれ,枯れていく.

 森が死んでいく.

 再び広間に光が戻り始めた.


 広間の中央にジャガンナートはかろうじて立っていたが,フラフラで今にも倒れそうだった.

 そして,その横には,腰に手を当ててフライパンを下げているシノノメが,すっくと立っていた.

 

 「何故……何故,こんなことができる……夜目が効くのか……いや,違うな.まさに真の闇だったはず……」

 強い打撃を受けて失神寸前のジャガンナートはつぶやくように尋ねた.

 

 「私,真っ暗でも音で場所が分かるの」

 ふん,と鼻息をひとつ出してシノノメは言った.

 「エコーロケーションよ! 舌打ちの反響で,相手の場所を把握できるの!」

 シノノメの言葉をグリシャムが補足した.視覚障碍者が身に着けることがある,特殊な立体把握能力だ.


 「エコーロケーションですって? そんな……何で一介の主婦がそんな能力を持っているの?」

 その言葉に反応したのはシェヘラザードだった.

 「特殊な魔法と,異常に優れた身体感覚,ヤルダバオートを拒絶する能力,それに,エコーロケーション? 東の主婦……一体,何故? ……そうか,だからデミウルゴスがあなたに興味を示すのね……東の主婦,シノノメ……あなたこそが,この仮想世界最大の謎……」


 仮想世界で冷酷な実験を重ねる,シェヘラザードにも理解できない能力.

 それは全てシノノメが負ってしまった大きな脳障害と,それを救おうとした夫の激情にも似た愛情の結果だということは,シノノメ本人も知らない.

 シノノメという奇跡を生んだのが,そんな理性的でない感情であるなどとは,片瀬シェヘラザードには,予想すらできなかった.


 「洗濯紐コルト・ランジェ!」

 シノノメは洗濯紐を取り出し,ジャガンナートを捕まえておくことにした.倒す方法が分からない限り,これしかない.影の中に逃げても,どこかに紐でつないでおけば動けなくなるかもしれないと思った.


 「そうは,させるか!」

 ジャガンナートが血を吐きながら叫んだ.

 足元の影の中から,シノノメめがけて剣の形をした影が伸びていく.

 シノノメは慌てて飛び退った.

 「ふん,持久戦になれば,我々は絶対負けないのだ!」

 「シノノメさん,危ない! あんた,しつこいよ!」

 アイエルがクロスボウを構え,魔法弾を放ったが,これはさすがに影がからめとってしまった.

 「鳳仙花の種!」

 鋭く放たれた,グリシャムの種も影には効かない.徹甲弾並みの威力がある種を,実体化した影の先端が弾き飛ばした.

 「鎌鼬かまいたち! 五連発!」

 ヴァルナが死力を振り絞って風を放つ.わずかにジャガンナートの群青色のマントの先を切り落としただけだった.


 「はははは!」

 不敵に笑ったジャガンナートはその時,ふと妙な気配に気づいた.

 自分の斜め後ろに誰かがいる.

 敵は前方にいる八人だけのはずだ.

 シノノメ.

 魔法使いグリシャム.

 ダークエルフ,アイエル.

 編み物をしている変な魔法使いの娘.

 風使いヴァルナ.

 戦士の数にも入らない,商人ハメッド.

 NPCが二人.シンバットと,妃候補の娘だ.

 何だろう.この違和感は.

 向けられた明らかな殺気と,うなじがヒリヒリする様な危険な感覚.

 ほんの少しだけ――後ろを見た.


 「お,お前は!?」

 叫んだ瞬間,ジャガンナートは自分の腹をその男の‘腕’が通り抜ける熱を感じていた.

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