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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第20章 闇のその先へ
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20-8 夢破れて

 「ヴォーダン! くそっ,どうなっているんだ!」

 ヴォーダン――ローゲは白いガス――気体にすっぽりと包まれてしまった.

 子供達――無原罪部隊イノセント・プラトゥーンを見守りながら,戦いの行方を窺っていたジャガンナートは,強い焦燥感に駆られていた.

 味方である炎の魔術師は,一体どうなってしまったのか.

 勢いよく燃えていた炎は見えなくなった.煙?の中でくすぶっているようにも見えるが……皆目分からない.

 子供たちはまだバラバラに行動し,争うように魔神ジンを倒そうとするのに必死だ.

 かと思えば,ぼんやりと何もせずにそれを眺めている子供たちがいる.

 全く統制がとれていないし,自分の指示も聞かない.

 これでは……訓練された動物以下だ.


 「協力して,前衛と後衛に分かれるとか,回り込んで術者を倒すとか,すればよいのに……そんなことも分からないのか」

 仮想世界に転生してから全てを思うままにしてきた自分なのに,全てが上手くいかない.


 ジャガンナートはふと傍らを見た.

 黒い鋼鉄の塊と化したオシリスが立ちすくんでいる.

 「おい,貴様,何をしている.手伝え」

 だが,オシリスの溶鉱炉の色をした赤い目は,じっとジャガンナートに注がれていた.

 彼の目は常に赤い.だが,何故かそれは怒りに燃えているように見える.

 「オマエハ,子供ノ敵カ?」

 「何だって?」

 ジャガンナートは耳を疑った.

 こんな時に,こいつは何を言い出すのだろう?

 「オマエハ,ナゼ子供ヲ,ヒモデツナイデイルノダ?」

 「これは……彼らは,自己コントロールができない.電子情報化された子供は,どういうわけか自我を保持することができないのだ.彼らが暴れ出しては,我々の方が危ないかもしれないだろう?」


 オシリスは首を傾げて,魔神ジンに襲い掛かる子供の群れとジャガンナートの顔を見比べた.

 子供たちの戦闘はいつまでたっても同じ様相が続くばかりだ.


 「くっ! 馬鹿め! どいつもこいつも,役に立たない! もう一度首に‘影の綱’をかけて……」

もうもうと立ち込める白いガスが何なのかわからなかったが,ローゲの強烈すぎる光は止んでいる.

 壁に取り付けてあった魔石のランプは失われ,今は入ってきた扉の奥,回廊の向こうの窓から差す薄い光が作る影がかろうじて使えるのみだ.

 力不足の影としか言いようがなかったが,無いよりましだ.

 とりあえず,もう一度無原罪部隊イノセント・プラトゥーンを自分の統制下に戻そう……そう思ったジャガンナートが右手を動かそうとした時だった.


 「首ニ綱ヲカケル,ダト!」

 明らかに怒りをはらんだオシリスの声が響いた.地獄の底から聞こえるような重低音が,ジャガンナートの腹を揺らした.

 いかん……こいつは,欠陥品だ.

 人格を電子情報化した至高の人間の筈が,生前の記憶に囚われて,異常な思考傾向になってしまった.

 ジャガンナートがそう思った刹那,彼の顔めがけてオシリスの文字通り鋼鉄の拳が振り下ろされてきた.


 「何をする!」

 ジャガンナートは慌てて後ろに飛び退り,黒い岩石の塊のような拳を避けた.

 頬に熱い物を感じて触ると,血が出ていた.走り抜ける拳風だけで,頬が裂けたのだ.


 「子供タチノ,敵ハ,許サン」

 オシリスは溶鉱炉の色をした口を開き,熱の籠った吐息を吐き出した.

 真っ赤なその目に理性は感じられない.赤い結膜に赤い瞳,その中心には赤みを帯びた黒い瞳孔が開いている.

 

 「よく見ろ! 馬鹿者! 子供たちを害する敵は,奴らだろう! 魔神ジンを放ち,この離宮に攻め込んでいるのだぞ!」

 まともな会話が通じるのか分からなかったが,ジャガンナートはとりあえず子供たちの方――オシリスの背中側を指さして叫んだ.迫りくるオシリスの巨体のせいで,無原罪部隊イノセント・プラトゥーンは彼の背中越し,死角になってしまったのだ.


 「ナニ……?」

 一瞬,黒い鉄の首をねじってオシリスは子供たちの群れを眺めた.だが,彼はそれを眺めるばかりで怒る様子もない.

 「アレハ……アソンデ……イル?」

 「遊んでいるだと? 馬鹿な!」

 オシリスの不可解な呟きを聞いたジャガンナートは慌てて体を移動させ,その後ろを窺い見た.

 「何だって!?」

 魔神は忽然と姿を消していた.

 代わりにそこにいたのは,色とりどりの毛糸で編まれた網に体を絡ませ,もがいて逃げようとする子供たちだった.

 確かに遊具で遊んでいるようにすら見える.

 毛糸は剣でも魔法でも切れないらしい.網は方形で,その三つの隅にはそれぞれ一匹ずつ毛糸の蜘蛛がいた.蜘蛛の尻と網はつながっている.

 そして,もう一つの隅にはこの網細工の製作者と思しき魔女がいた.

 ニットの魔女服に身を包んだその娘は,ひたすら編み棒を動かし,今もさらに網を作り続けている. 黙々と生産される網はどんどん子供たちの身体を毛糸で包み,糸玉のようにしていくのだった.

 蜘蛛が餌を捕食する姿に似ている.だが,色とりどりの毛糸でくるまれるその姿はどこか牧歌的で,とても熾烈な戦いの様子には思えなかった.

 「な,何だ? あれは?」

 「オマエガ,子供ノ,敵カ!」

 呆気にとられるジャガンナートに,オシリスは再び鋼鉄の拳を叩きつけた.

 「馬鹿め!」

 ジャガンナートは自分の影の中に沈み込み,猛攻を逃れると,オシリスの影の中からニョキリと生えるように姿を再び現した.

 オシリスは一瞬目標を見失ったが,すぐに振り返って拳を叩きこもうとする.

 当たればジャガンナートといえど,無事で済まない事は明らかだった.


 「このままでは埒が明かぬ.止むをえん,影の力を使うためには!」

 ジャガンナートは両手を上に掲げ,叫んだ.

 「影人形よ! 空を開け! 天を開け!」

 声とともに地響きが起こり,天井と壁の一部が崩れ始めた.

 熱を帯びた砂漠の外気が吹き込み,西に傾き始めた太陽の光が注ぎこんでくる.

 離宮の中にいる自らの分身に指示して建物の一部を壊し,不安定な外光を取り込むことにしたのだ.

 もともとはこれも,誘い込んだ敵を石材で叩き潰す罠だったのだが……

 一転して濃くなった自らの影に,ジャガンナートは命令した.

 「オシリスを捉えよ!」

 黒い影は巨大な手になり,オシリスに襲いかかった.


    *** 

 

 シノノメの前には,バラバラになったローゲ――ヴォーダンの魔法の杖と,白い彫像の様な右手が転がっている.


 「ふう……」

 シノノメは胸に溜まった重い空気を吐きだした.

 

 地響きがして,ふと光が差し込んできた.

 見上げると広間のドーム状の天井の一部が崩れ,上の階の窓から外の明るい陽光が注ぎこんでいる.

 太陽が西に落ち始めたのか,砂漠にしては少し柔らかな日差しだった.

 白いガスと立ち上った粉じんの中を照らす光が,天使階梯(エンジェル・ラダ―)を形作っている.

 廃墟の様になってしまった広間は,どことなく大聖堂カテドラルのようで,荘厳な雰囲気すら漂っていた.

 ふと広間の左手奥を見ると,毛糸のネットで縛りあげられた子供達がもがいていた.

オシリスとジャガンナートは仲間割れしたのか,争っているようだ.

 

 正解だった.

 

 側方からの敵には,主戦力の次,次点をもってあたること.

 ユグレヒトの指示である.


 アーシュラ,ハヌマーン,ヴァルナが負傷し,アイエルとグリシャムがバブルの操作に加わらなければならないのなら,戦えるのはハメッドとネムしかいなかった.

 シノノメは工房の時のオシリスの様子をずっと気にかけていた.


 ……何かよほど子供に関わりがある想いがあるらしい.

 子供に危害を加える人間を異常なまでに憎む姿.

 そして,彼が行動不能となったきっかけはナディヤの子供達の‘化物’という言葉だった.自分が化け物になり果てている事を自覚した時,彼は行動不能になってしまったのだ.

 

 娘のマユリを救いに来たハメッドに,同じような境遇の子供を攻撃するなど出来ようはずがない.

 それに,これは――果たしてクルセイデルが意図した事なのか偶然なのか分からないが――ネムの能力スキルはどこまでも人を傷つけるものではなかった.

 同じ役割をもしグリシャムがすれば,イバラの縛鎖や絞殺しのイチジクで対処してしまうので,子供を苦しめている印象が拭い切れない.


 もしかして……という,シノノメの直感は見事に的を得ていた.

 何の知識も無く両者の様子を見た時,より子供を辛い目に合わせているように見えるのは,どう見てもジャガンナートだったのだ.


 風を受け,白い気体が徐々に霧のように晴れてきた.

 アーシュラ達の事はとても気にかかるが,まだ戦いは終わっていない.

 シノノメは再びローゲの方に向き直った.

 ボロボロの布切れになった長襦袢ながじゅばんまとい,再び右半身みぎはんみを取って構えた.

 だが,黒猫丸は抜かない.もう必要ないと思っていた.


 ゆっくり一つまばたきすると,白い彫像と化したローゲの全身が姿を現した.

 体のいたるところに細かいひびが入っている.

 まるで壊れかけのギリシャ彫刻のようだ.

 だが,その姿かたちはローマ皇帝の様なヴォーダンの姿でもなく,猛々しい炎の女神の姿でもなかった.

 灰色に近い金髪の,顎のがっしりした中年の女性の姿だった.

 石綿でできている様な質感の,ギリシャの布衣トーガをまとっている.全体的に少しふっくらとしていて優しい曲線を描く,マイヨールの彫刻の様な,古代地中海の彫刻を彷彿とさせる体形だった.

 

 「な……何故……」

 ローゲは石材の様な光沢のある眼球をぎこちなく動かし,シノノメを見た.

 

 「もう,あなたは魔法を使えないよ.杖を無くしたから」

 シノノメは半身を解き,静かに語った.

 「すごく体が熱くなっていたから,あまり動くと,その石の身体は砕け散ってしまうよ」

 

 シノノメの言葉に,ローゲは自分の身体を見回した.

 身じろぎすると細かい破片が体のあちこちから落ちる.

 失った右手の断面も,折れた彫像の様にのっぺりとしている.

 「ね……熱膨張か……あの風船の中から出て来た,気体ガスは何だ……?」

 「ベーキングパウダーにお酢を加えると,炭酸ガスが出るんだよ.台所で火が出たときの,非常用消火器になるの」

 「ベーキングパウダー……ふくらし粉……重曹,食酢……酢酸……二酸化炭素か……」

 

 化学消火剤による二酸化炭素消火は迅速な効果があるため,山岳火災や化学工場の火災,レーシングカー火災の消火に使われている.ユグレヒトはそれを知っていた.

 火と風の魔法使いというヴォーダンの炎を,いかに消すか.

 もちろん消すだけでは相手を倒せないが,炎の力を削ぐことができれば,必ずシノノメは勝機を見出すだろうと彼は信じていた.

 シノノメは台所で使う調味料や小麦粉,片栗粉を手から出すことができる.ベーキングパウダーを出すことができるかはわからなかったが,その主成分,重曹は家庭用の洗剤としても使われる.

ホットケーキなどに混ぜてフワフワにする‘膨らし粉’としてのベーキングパウダーか,それとも洗剤としての重曹か.

 どちらかを出すことができるのではないかと推測し,彼は覚書に書き残したのだ.


 ローゲは石の足を動かし,一歩踏み出した.重く鈍い足音がする.

 体の節々から小さな石の欠片が零れ落ちた.

 「台所用品に負けるとはな……これが……お前たちの空想力というわけか……」

 ローゲが苦笑する.

 「うん」

 シノノメはうなずいた.


 グリシャムは薬剤師だ.化学反応のことに思い至れば,作戦を立てるのは早かった.

 相談を終えて盾の後ろに逃げ込む前から,人垣に隠した状態でシノノメに材料を出してもらい,さっそく仕掛けをこしらえ始めた.

 食用酢――酢酸をつめたバブルを作り,重曹――ベーキングパウダーを詰めたバブルの中に封入する.

どのくらい作れば十分なのかわからなかったが,必死で手を動かした.

 作っては投げ,投げてはヴァルナが飛ばす.それは,おおよそ戦闘とは程遠い行為であった.だが,全員が唯一の勝機と信じて行動したのだ.


 「本当はね,マグナ・スフィアでは,杖がなくても魔法は使えるんだよ」

 シノノメは少し哀しそうにローゲの顔を見て言った.

 炭酸ガスが霧のようにゆっくりと晴れていく.


 「そう……なのか?」

 「うん,あなた,すごく真面目でしょう.前に森で杖を吹き飛ばしたときも,それで魔法が使えなくなっていた.それに,グリシャムちゃんに聞いたけど,空を飛べないんでしょう?」

 「ああ……杖は魔法使いの核心.折れれば使えない弱点で,再びそれを手に入れるためには遠い山へ修業に行かなければならない…….空を飛ぶなんて,人間にできることではない.キリスト教的には,ホウキに乗るのは,悪魔の,魔女の技……北欧神話的には,神々の父オーディンは風に乗り,風とともに姿を現すのみ…….全て,私の固定概念というわけね」

 今度は苦笑ではなく,ローゲは静かで温和な笑みを浮かべた.


 「そう.童話や神話の魔法使いと一緒なの.だから,きっとこうすると魔法が使えなくなると思ってた」

 そういうシノノメの口調はどこか悲しそうで,寂しそうだった.

 

 「ふふ,ふ……お前たちに,想像力,では,完敗だな」

 ローゲはよろめきながらもう一歩踏み出した.


 「だが,どうする? こんな,私でも,まだ,生きているぞ.粉々にしても,時が来れば,再び復活する.お前は,どうやって私を滅する?」

 石の顔をぎこちなくゆがめ,ローゲは笑った.

 

 「滅するとか,それは,どうでもいいよ.でもね,私,あなたに伝えたいことがあるの」

 シノノメの口調はあくまで静かで,眼の色は哀しみを帯びていた.


 「どうでも,いい,だと? 伝えたいこと,とは……?」

 シノノメは,意外そうに尋ねるローゲの顔をじっと見つめた.

 秀でた額に,理知的な灰色の目.

 温和な微笑をたたえる唇.

 骨格のがっしりした,意志の強そうな顎.

 それは確かに,シノノメの記憶の中にあるものだった.


 「やっぱり,間違いない.私は,二十年くらい前に,あなたに会ってるよ.ティルコーンさん」

 「何……お前に?」

 

 「私,子供のころ,アルザスにいたの」

 「アルザス……アルザス暴動か!?」

 ローゲの目が大きく見開かれた.

 「他国からの難民を排斥する勢力と,アルザスの独立派が結びついて大規模なテロに発展した……観光客に被害者も……美しい,可愛らしい童話の様な街並みも破壊され……」

 心から悲しんでいることが分かる,痛々しい口調だった.


 「……うん,うちも,その時,お父さんがいなくなってしまったの.お祖母ちゃんとお父さんで,小さなオーベルジュをやってたんだけど……」

 シノノメは固い表情で頷いた.

 彼女のとび色の薄い瞳に,ローゲの白い顔が映りこんでいた.それは,彫像でも五聖賢でもなく,ただの一人の淋しそうな中年女性であるように見えた.

 

 「それは……」

 何と言ったらよいのか分からない.

 ローゲは痛ましそうに眼を伏せ,口ごもった.


 「あの時,あなた,もう首相じゃなかったけど,町にお見舞いに来てたでしょう?」

 「そう……哀悼の意を表しに……一個人として行きたいと思ったの.アルザスはフランスだが,ドイツの文化を持つ町だし,知人もいる. EUの難民政策に関しては……私にも色々考えるところがあった……人道的には全て受け入れてあげたくとも,それもできなかった……一体何が正解だったのか……」

 ローゲは目を細め,遥かな昔を思い浮かべているように見えた.パラパラと顎の一部が小さな破片になって落ちた.

 

 「あの時,小さなお花をあげた子,覚えてる?」

 「あ……ああ……そういえば,そういうことがあった……罵声が飛び交う中,爆破現場を慰問に行った私に……亜麻色の髪の……とび色の瞳の……小さな女の子……」

 ローゲ――ティルコーンの目が,シノノメの姿をぎこちなくとらえる.

 シノノメのさらに向こう――廃墟と化した広間の光景に,記憶の中にある焼け焦げた無残な街並みを見ていた.

 ピンクのワンピースを着た,少女の事を思い出した.

 まだ幼稚園ほど――四,五歳だった.

 少し東洋系の血が入っているので,幼く見えるのかもしれない,と思った.

 少女は白い小さな手を出すと,手に乗るほどの小さな白い花束を差し出したのだ.

 どうしていいのか分からず戸惑った挙句,屈んで受け取った事を覚えている.


 「あれは,私」

 「お前……だが……何故……? 私が難民を大量に受け入れたせいで……治安が悪化して,あなた達国境地帯の人たちも……観光地だったから,テロの標的にも……あなたのお父様もその被害にあったというのに?」

 ティルコーンは目を見開いた.シノノメの告白に心から驚いている様だった.

 シノノメが頷く.


 「あの頃の私には,意味が分からなかったけど,お祖母ちゃんにそうしなさいって,言われたの」

 「お祖母さまに?」

 ティルコーンは眉をひそめた.この不思議な力を持つ娘は,一体何を言おうとしているのだろう.

 「私のお祖母ちゃんは,とても素敵.知的で,お料理が上手で,何でも知ってる自慢のお祖母ちゃん.そのお祖母ちゃんが,貴方は,偉い人だって言ってた」

 祖母の温かい記憶に包まれ,哀しげなシノノメの口元には小さな笑みが漏れ出ていた.

 

 「偉い人? どういうこと……?」

 「『結果は,良くなかったかもしれない.でも,人として,困っている人たちを助けてあげようとしたって.正しい理想のために働いたので,間違ったことはしていない.人に悪口を言われる筋合いなんてない,きっと心を痛めているから,お花をあげなさい』って……そう,お祖母ちゃんは言ったの」


 「理想のために……」

 ティルコーンは目を伏せて口ごもったが,またすぐに口を開いた.

 「でも,結局ね,私は‘国を愛する’と自称する人々に殺されたのよ.暗殺……頭を銃で撃たれてね.その前にVRシステムの被験者になる話があって,結果としてこうやってこの世界に転生したわけだけれど」

 自嘲的にそう言いながら,はかなげな笑みを浮かべた.

 「すぐに心に湧いて出たのは,絶望と憎しみだった.理想を理解されなかった怒りと,政治家としての後悔.そして……奴隷売買に,経済戦争を始めた……挫けた理想の恨みを,この世界で晴らそうとしてしまったのね,私は……」

 そう,自分が仮想世界で行った事は,生前の自分の行為――理想の否定だったのだ.

 ティルコーンの胸に,ひときわ大きな亀裂が入った.それはまるで,彼女の心が砕けたかのように見えた.


 「理解されなくて,夢破れて……」

 シノノメのくぐもった声に気づいたティルコーンは顔を上げ,再びシノノメの顔を見た.

 そして,彼女の顔に釘付けになった.

 「それでも,あなたは美しかったのに……あなた,かわいそう」

 シノノメの目から,細い涙が流れていた.涙は白い頬を伝い,床にきらきら光る雫を作って落ちて行った.

 

 その涙を見た瞬間,ティルコーンの両目からも涙が溢れ出ていた.

 

 ああ……

 私は……私の死を悼んでほしかったのか.

 憐れんで……

 共感して……

 私の生き方を肯定してもらいたかったのだ……

 ‘それで良かった’と.

 そして,憎悪ばかりとなった今の感情に,いなと言って欲しかったのだ.

 

 ティルコーンは泣きながら,笑顔を浮かべていた.

 電子情報の人間――ホモ・オプティマスとなってから初めて――胸の奥から何か熱い感情が湧き出して来ることが分かった.それは身を焼き焦がす敵意の炎ではなく,温かく自分の身体を濡らすもののだった.

 幼い少女――シノノメが渡した,小さな白い花を思い出した.

 手のひらに載るほどの,儚くも優しい植物.

 それを受け取った時の重さとも言えない重さ.


 身体が崩れていく.

 だが,不思議に幸福感に満ちていた.

 セキシュウに自分の正体を見透かされた時の様な,暗い絶望と恐怖ではなかった.

 ‘至高の人間’になったと言いつつ,どこか胸の奥に空虚なものを抱えている様な気がしてきた日々.

 もう,抱える心も胸も,すべて電子情報にすぎないというのに.


 ああ.

 私は今,満ち足りている. 

 

 天使階梯(エンジェルラダ―)――聖ヤコブの梯子が自分と,彼女を照らしている.

 ゲーテのファウストだ.

 私欲を捨て,最後に理想に生きたファウスト博士は,こう言うのだ.

 『とどまれ,時よ.お前は美しい』と.

 禁じられた文句を言ってしまったがために,理想の成就を見ぬままに,彼は死ぬ.

 彼の魂は悪魔メフィストフェレスとの契約で,地獄に持ち去られるはずだった.

 だが,浄化された彼の魂を,天使が迎えに来るのだ.

 天使の撒く薔薇の花弁に,悪魔の体は焼け焦がされ……


 もう一度シノノメを見る.

 着ていた日本のキモノはボロボロで,焼け焦げた白い下着――長襦袢ながじゅばんを纏っている.

白い服の襟に模様がついている.

 確か,半襟はんえりと言ったか……美しい襟飾りを縫い付けるものだ.

 半襟には,あの小さな白い花にも似た模様が描かれていた.


 そうだ.

 あの時,言うのを忘れていた.


 「花を……ありがとう……」

 

 ヴォーダン――ローゲ――そして,今,カミラ・ティルコーンに戻った彼女は,満面の笑みを浮かべながら砕け散って逝った.

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