20-6 影と炎と
「あっ! あれ! お父さんだ!」
狂気の集団と化した子供達の軍隊――無原罪部隊の中で,マユリは小さく叫んでいた.
クヴェラが思わず周りの子供達の反応を警戒する.
この二人が正気である事はばれていないらしい.というよりも,子供達はそんなことには興味がないようだった.
シノノメやヴァルナ達を睨み,まるでそれ以外の物が見えていない.
充血した眼の瞳孔は暗く大きく開き,口元には薄笑いを浮かべている.まるで,大好物の餌を前にした猛犬だ.
彼らの前には,群青色のマントを羽織ったジャガンナートが後ろ姿を見せている.
背後には,シェヘラザード.そして,いつの間にやって来たのか,赤い頭巾とマントの謎の人物が立っていた.マントの裾から覗く腕は赤か濃いピンクで,鱗が生えている.蛇人間か,蜥蜴人だろうか.だが,何故こんな所に顔を隠して立っているのだろう.
シェヘラザードの視線もまた,広間の奥扉の方に注がれていた.
炎に包まれた女性に対峙する,シノノメとヴァルナ,そしてアーシュラたちが見えた.
ヴァルナはどうやら脚を怪我しているらしい.彼はカラリパヤットの達人だが,あれではあまりにも不利だ.回復魔法や治癒ポーションが効かないのだろうか.五聖賢との戦いは,おそらくイレギュラー,普段のマグナ・スフィアにおける常識を超えたものなのだ.
ヴァルナが水面下で情報収集をし続けた意味が今になって良く分かる.敵の戦力や能力,そして誰が敵か味方かも分からない状況では,他に方法がなかったに違いない.もちろん,だからと言って親衛隊の女の子といちゃつく意味は分からないが.
腰に差した短剣――大脳活動停止キーに手をやった.
これは一つの鍵になる武器の筈だ.
隙を突けば,シェヘラザードに――上手くいけば,五聖賢にも有効かもしれない.
VRマシンによる洗脳や,人間の電子情報化,さらには洗脳による殺人――アメリカ大統領,ジョンストンは洗脳された子供により殺されたという――までやってのけることには,必ず背後組織がいる筈だ.プログラムの開発能力や,世界中に張り巡らせたネットワークがなければこんな事は出来ない.
この短剣は,その組織――協力者が開発してシェヘラザードに与えたものだろう.
ヴァルナの推測が正しければ,シェヘラザードは内務省の局長,片瀬だという.
万が一彼女が天才的なプログラマーかハッカーだとしても,彼女一人の力でこんな物を持てて,さらに那由多システムという巨大なコンピュータシステムに介入できるはずなどない.
彼らが作ったものであれば,彼ら自身にも使える切り札となるかも……
この短剣を,誰に,いつ使うか.
その判断はあまりにも難しかった.
「クヴェラ,お父さんよ.お父さんが来てる!」
賢いマユリは,必死に興奮を隠しながらハメッドの方を指差して囁いている.
なにせ,敵の真っただ中なのだ.
自分達が‘自由意思’を失っていない事を知られれば,おそらくジャガンナートかシェヘラザードの手にかかって再び行動不能にされてしまうだろう.
「戦士でもないのに,どうして来たんだろう? 一体どうやって? 何故?」
戸惑いとも喜びともつかない,複雑な表情でマユリはつぶやき続けていた.
「うん,マユリちゃん,何とかして向こうに逃げよう.でも……」
二人の足には,黒い影が絡みついている.その先はロープの様に伸びて,ジャガンナートの手を通り,彼の影につながっている.
‘影使い’という能力を見るのは初めてだ.
何としても,この影を外さなければならない.おそらく,これはこの‘狂気の子供達の軍団’を支配下に置く手綱の様なものなのだ.
自分でも,暴走を上手くコントロールできていないんだ……
‘紅の鯨号’の船上で,ダーナンが言っていた事を思い出した.
ターミナル・エクスペリメント――臨死の実験――終末の実験.
電子情報に置き換えられた人間が,本能のままに行動するという,古いSF小説だ.
ジャガンナートはこの状態を予想していなかったのだろう.
自分でも結果の予想できない実験に,現実世界の子供を巻き込むなんて……
チャンドラ・シン.
生前はインドの有名な政治家だ.
中国が内部崩壊してくれたおかげで,インドは中国に使わされて来た国防予算を国の発展に回す事が出来るようになった.
自らがインドの階級制度の最下層である,不可触民だったので,カースト制や女性差別など,生涯を差別と偏見との戦いに捧げた,偉大な首相だったと聞いている.
差別は無知と貧困から生じる.そう言って,教育の一般化や社会保障の充実を図ったのだ.子供むけの彼の伝記の日本語版もあるくらいだ.
だが――彼は皮肉なことに,抵抗勢力だった上位階級の人間ではなく,同じ不可触民に暗殺されてしまったのだ.
彼の行動が,宗教的な教義に反するとして,である.
クヴェラはジャガンナートの後ろ姿をもう一度見つめた.どこかその背中は孤独で哀愁が漂っているように思えた.
「クヴェラ?」
マユリが囁きかける.
「何?」
クヴェラは我に返った.今は,感傷に浸っている場合ではない.何とかして内部から敵の力を削ぎ,風谷を助けなければ.
「聖騎士があなたを助けに来てくれてるよ.良かったね」
「え? いや,先輩は,そんな,あれが仕事だから」
クヴェラは真っ赤になり,ベールで顔を隠した.
***
炎の女神,鋼鉄の巨人,そして,狂犬の様に猛り狂う小さな戦士達.
三方向から迫る脅威に,シノノメ達は少しずつ元来た扉の方向へと押しやられていた.
「くそっ……油断しちゃった」
負傷したアーシュラが槍を構えながら呟く.
ハヌマーンは声も出せないのか,ゴリアテの盾を引きずりながら支えていた.
レベル92とはいえ,負傷した風の紡ぎ手,聖騎士ヴァルナ.
植物使い,緑陰の魔女グリシャム.
黒豹のダークエルフ,マジックアイテム使いのアイエル.
宝石使いだが,主職業は商人のハメッド.
強力な攻撃魔法を持たない編み物師ネム.
そしてNPC――仮想世界の人間が二人.
勇敢な女族長,シセルニチプ.
負傷した大公,シンバット.
NPC達は当然,焼き殺されれば復活できない.
だが,プレーヤーとて無事では済まない.
ローゲの炎で受けた傷は仮想世界の回復魔法で治癒しないのだ.
現実世界の脳に,どんな恐ろしい影響を及ぼすのか,全く分からなかった.
――全員の顔にみっしりと汗の玉が浮き始めていた.
どうしよう.
みんなを守りたい.
シノノメは一生懸命考えていた.
けど……
この中で唯一,敵に対して有効である事が分かっている武器は,シノノメの魔包丁‘黒猫丸’だけだ.
だが,たったひと振りの包丁で彼らとどうやって戦えばいいというのだろう.
炎の魔法に洗濯の魔法で対抗したとしても,彼女はおそらく無尽蔵の魔力で燃え続けるだろう.アイエルが放った水魔法の弾丸はあっという間に蒸発してしまったのだ.
……一瞬でも完全に炎を消せば,勝機があるかもしれない.
それに,子供達を傷つけるなんて……
現実世界から連れて来られた子供達は,まるで悪鬼の様な姿に変わっている.
だが,彼らを傷つけた時,どのような影響が現実世界の体に及ぶのだろうか.
まさか,二度と目が覚めなくなるのでは?
だが,彼らに傷つけられたら自分もどうなってしまうのだろう?
同じように二度と目が覚めなくなるのだろうか?
記憶を取り戻すための最後の戦いのつもりが,恐ろしく難しい状況に追い込まれている.
「シノノメさん!」
グリシャムの言葉で,シノノメは我に返った.
「一人で戦おうなんて,考えちゃダメ」
「う,うん……」
シノノメはうなずいた.
いつも頼もしい盟友だが,火の魔法使い相手に,グリシャムの植物の魔法はあまりにも脆い.
「こんな時,ユグレヒトがいれば作戦を考えてくれるのに……」
グリシャムが呟く.
「あっ! そういえば!」
アイエルはアイテムボックスであるウェストポーチの中から巻物を取り出した.にゃん丸の手によりユグレヒトから託された作戦書だ.
「これ,ユグレヒトの作戦書! 自分が先にゲームオーバーになった時のために,って!」
だが,悠長に相談などしている暇はない……
とアイエルが思った矢先,シノノメが右手を高く挙げた.
「はいっ! ティルコーンさん! Frau Tilkorn! ちょっと待って! Bitte, warten Sie einen moment!」
「な,何?」
突然母国語が出てきたせいか,炎の女神ローゲはハトが豆鉄砲を食らったような顔になった.
「降伏しなさい,って言われたけど,私たちみんなで相談する時間がなかったもの.だって,あなた,王様だけに話しかけてたでしょ? 方針を決める時間を下さい!」
シノノメは真面目な顔で言った.
「馬鹿野郎,降伏なんて考えられるかよ! お前,何考えてるんだ!」
ヴァルナが片足で立ちながらシノノメに怒鳴った.
だが,シノノメはヴァルナを一瞥しただけで,真剣にローゲの顔を見つめている.
「ふん? 時間稼ぎか? まあ,良いだろう.では,五分やろう.五分間討議して決めるがいい」
ローゲは炎の中で一層輝きを増した銀の杖の両端をつまみ,不気味な笑みを浮かべた.
「ありがとうございます! Vielen Dank! みんな!」
これまた真面目な顔で,シノノメは深々と頭を下げて礼をすると,全員に手招きして集まるように言った.
五聖賢やシェヘラザードに見えないように背を向け,そっとアイエルの手にした巻物を開く.狂犬のようになった子供たちが,異様な唸り声をあげている.
「しかし,主婦殿,何を考えているのだ? ……というか,まさか,本当に相談する時間をもらえるとは思わなかったが」
シンバットが傷ついた額を覆う布を押さえながらシノノメに尋ねた.
「ドイツの人って,あんな感じだよ」
「ドイツ?」
シンバットは眉を顰め,オウム返しに尋ねた.
「我々の世界で,ローゲが治めていた国の名前ですよ」
ハメッドが解説する.
「何でもキッチリキッチリしてるの.それと,交渉事と契約が好き.だから,必ず乗ってくると思ってた.だって,あの人は自分の方が絶対強いって思ってるから.その代わり,時間にもうるさいよ」
意外に冷静なシノノメの分析に,一同は目を丸くした.
「………でも,ここまで来たんだ.俺みたいな飛び入り参加でも,ここでやめるのは絶対嫌だ.子供たちとヴァルナの仲間の命運がかかっているって聞いたから」
ハヌマーンは苦しそうにお腹を押さえながら言った.
「そんなの分かってるよ.マユリちゃんと,クヴェラさんと,子供たちを救って,全員やっつけるんだよ.だけど,みんなで相談しなくっちゃ」
「問題点は,五聖賢を倒す方法が分からないってことだよ.何か急所があればいいんだけど」
アーシュラが唸る.
「うーん……でも,私,分かってきたかも」
シノノメが首を傾げた.
「マジ!」
「まことですか? 主婦様? して,その方法とは?」
シセルニチプ――シセの質問は,全員が聞きたいことだ.
「それはね……うーん,言葉にはしにくいの.でも,私がやっつけなきゃいけない……特に,あのティルコーンさんは」
シノノメは考え込みながら言った.
「とにかく,降伏はしないで,徹底抗戦.これはみんなの総意ね」
グリシャムが頷く.
「とすると,時間がないよ.これ,ユグレヒトの作戦書」
アイエルは全員に巻物の中身を見せた.
自分が倒れた後,五聖賢が三人以上残っていれば,離宮の中に入ってシノノメをバックアップすること.
最大戦力には,最大戦力を当てて突破すること.横の守りは,次点が行うこと.
子供を人質に取られたとき,編み物師の出番があるかもしれない.
作戦は,奇をもって良しとすべし.
……
「……断片的だな.孫子まで書いてあるぞ.」
ヴァルナが唸った.
「うむ,一般的な軍事作戦書というか,覚書のようだ」
シンバットも首を傾げる.彼は王族なので,帝王学の一つとして軍学も修めていた.
「あたしの仕事があるって,書いてあるねー」
ネムは首を傾げた.
「うーん,それにしても,細かい指示がない.きっと,急ごしらえの作戦だったからですね」
残念だが,あまり参考にはならない,とハメッドはため息をついた.
「でも,これ何? ヴォーダンのところに二重丸がしてある.矢印……’ベーキングパウダーとお酢が出せるか?’ なんだ,こりゃ?」
アーシュラが指差した.
「料理のレシピ? 料理と言えば,主婦? シノノメへのメッセージ?」
「いえ,いや,そうだわ! これは! シノノメさん! これ!」
グリシャムは目を輝かせ,シノノメの目を見た.
「え! あ,そうか!」
***
「ふむ,五分ちょうどとは小気味よい」
シノノメたちはまだ円陣を組んでいる.
ヴァルナが一人,片足を引きずりながら進み出た.
「それで,どのような結論になった?」
ローゲは不敵に笑い,右手の杖を斜めに振った.この場を掌握するという意味において,まるで指揮者のようだ.自分の圧倒的有利を信じて疑わないのだ.
「知れたことだ.もとより,降参するつもりならこんな所に来ねー! あんたとシェヘラザードがいくら美人でも,ごめんだね!」
ヴァルナは腕を組み,仁王立ちとなって叫んだ.声が広間に響く.
「ふ,愚かな.では,貴様たちを焼き尽くすだけのこと.貴様らの処分など,私一人で十分!」
轟,とローゲの身体から炎の柱が天井に向かって噴出した.炎の身体は白熱し,赤を超えて白になり始めた.超超高熱である.シノノメの出す青い炎をはるかに超える熱であることは間違いなかった.白熱する光はまるで太陽だった.明るすぎて,影も足元に小さくしかできないほどである.
「さあ,死ね!」
ローゲの声が高らかに響き,熱と光が満ち溢れる.
「行くぞ!」
ローゲが左手を振り上げた.腕が炎の鞭となって伸びる.
「来た!」
炎が彼に届きそうになる瞬間,ヴァルナは後方に宙返りしてゴリアテの盾の陰に隠れた.
一応はユーラネシアでトップクラスの強度を誇る,オリハルコンの盾である.
盾は炎を防いだが,見る見る間に表面が白熱化し始めた.受け続ければ溶解するのも時間の問題だ.
「下らん! 盾のバリケードを作り,その陰にこそこそ隠れることが,貴様らの作戦か!」
ローゲは左手で炎を出しながら,右手の杖を振った.炎の鞭は放物線を描き,上からも横からも盾の裏を狙って襲い掛かった.まさに,彼女は炎の指揮者だった.意のままに炎を操っている.
「鍋蓋シールド!」
シノノメが盾の陰から飛び出し,叫んだ.
防御魔方陣,鍋蓋シールドが空中に展開する.しかし,炎の塊を受けて空中で割れた.
炎の鞭に対する防御力は五分五分だ,しかし,MPに限界がある分,当然シノノメの方が圧倒的に不利なことは変わりない.
「ふふっ! ならば,これはどうだ!」
ローゲが銀の杖を鋭く,細かく振ると,細い直線状の炎が杖の先からほとばしり出た.
炎の剣だ.鋭く直線状に伸びてくる.
「黒猫丸!」
シノノメは右半身になると,魔包丁の切っ先で剣の先――鋭い突きの軌道を反らせた.
炎の剣は刺突剣のように鋭く何度も何度も襲い掛かる.そのすべてを包丁の鎬を使ってシノノメは受けかわした.奇跡的な動体視力と,セキシュウに習った剣技のなせる業だった.
すでに焼け焦げだらけになっていたシノノメの着物はさらにズタズタになっていく.袖は取れ,帯紐ははじけ飛ぶ.
シノノメをこの集団のリーダーとみてか,執拗かつ正確に熱線の剣は襲ってきた.
「グリシャムちゃん!」
シノノメはローゲから目を離さず,盾の後ろで作業を続けるグリシャムの名を呼んだ.
「もう少し!……出来た! 特製のフルーラ・バブル!」
グリシャムが叫ぶ.
彼女はバレーボールほどの風船を作り上げていた.風船玉の中には,粉末と,さらにもう一つの小さなバブルが封じ込められている.
「準備万端だ! 行くぞ!」
全員が一斉に風船を宙に放り投げた.
「それ! 次だ!」
「行け!」
風船玉――バブルはバレーボールかバスケットボールのように投げ上げられると,ゆっくりと浮き上がって空中に漂いながら,また下に降りてこようとする.
見る見る間に数十個の風船が舞い上がった.
「何だ? 大道芸か?」
ローゲは眉をひそめた.
「神聖な戦いで,何をふざけている?」
「ふざけてなんかないよ! ヴァルナ!」
シノノメは熱線を魔包丁で弾き飛ばしながら,ヴァルナに声をかけた.
「よし! 任せとけ! 風よ!」
盾の陰から飛び出し,ヴァルナが叫ぶ.両手を広げ,風を呼ぶ.大気が渦巻き,バブル――風船の群れを次々とローゲの頭上へと運んで行った.
グリシャムの作る風船‘フルーラ・バブル’は,耐熱耐圧である.
ヴァルナはローゲの周囲に風船が集まるように,絶妙のバランスで風のコントロールをしていた.
「何だ? これは?」
熱でバブルが膨らむが,風船があたりに浮いているだけだ.およそ究極の戦いの光景とは思えない光景だ.風船は何かの攻撃を加えてくるというわけではない.
「ふん!」
ローゲが熱線を風船の一つに向かって飛ばすと,弾けて中から粉末と小ぶりの風船玉が飛び出した.何も起こらない.
「煙幕か? 東の主婦,こんなものが私に効くと思うな!」
「よそ見している暇はないよ!」
シノノメは熱線をかわしながら,確実にローゲに接近してきていた.
体を開き,飛び,屈み,ときには側転して熱線の剣を避ける.和服を着ているとは思えない動きだ.裾はほつれ,シノノメの言うところの‘しどけない’姿になっている.可愛い帯はちぎれて吹き飛び,伊達締めだけでかろうじて前が合わせられていた.
すもうすぐローゲから五メートルほどの距離に接近する.
「おのれ! 私に接近したとて,炎の身体は斬っても無駄だぞ!」
ローゲが苛立ったように咆哮する.
それでもシノノメの口元には,かすかな笑みが浮かんでいた.




