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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第20章 闇のその先へ
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20-4 劫火と颶風

 「うーん……」

 爆風に飛ばされ,尻もちを突いたシノノメは目を開けて体を起こし,辺りを見回した.

 シノノメは咄嗟とっさに‘まな板シールド’を展開したので無傷だったが,辺りはもうもうと煙が満ち溢れ,壊れた扉の破片が黒こげになって飛び散っている.

 それは火事というレベルではなかった.まるで,幼いころにヨーロッパで目撃した,爆弾テロ事件の現場を彷彿とさせた.

 もはや,自分の部屋や宮殿を破壊しても何の躊躇もないという意思表示なのかもしれない.

 慌てて仲間たちの姿を探す.

 アイエルとネム,アーシュラはシノノメの後ろにいたので無事だった.

 黒煙の中でせき込んでいるヴァルナの声がした.彼は風で真空が作れるので,炎の直撃を避けたのだろう.

 煙が流れて行くと,‘ゴリアテの盾’の端が見える.ハヌマーンとシンバット,シセはあの影に隠れているに違いない.

 グリシャムは……フルーラ・バブルに包まれ,床に倒れた仲間の名を呼んでいた.

 「アルタイル! アルタイル! しっかりして!」


 シノノメは慌てて立ち上がると,グリシャムに近づいた.

 床に横たわっているのは,左半身が消し炭の様に焦げたアルタイルだった.

 石畳の上に,血液の様に液状に見える細かいピクセルが流れて行く.

 手足の先端は真っ黒に炭化してポロポロと崩れ落ちていた.


 「くそっ……あと,一秒早く矢を放っていたら……」

 アルタイルは顔の火傷を負っていない側を動かし,苦しそうに言葉を絞り出した.

 「黙って! ポーションを飲んで!」

 グリシャムはポーションを出して回復魔法をかけようとしていたが,ステイタス表示のHPゲージはもう赤に変わり,ほんのわずかしか残っていなかった.

 例えシノノメが超高級ポーションを飲ませたとしても,とても回復させられないことは明らかだった.

 「あなたが体で炎を受けたから……私はバブルを展開して助かったのに……こんなのナイ……」

 グリシャムはどうする事も出来ず,アルタイルの右手を握った.

 「セキシュウの様にはいかないな……麻痺とか,残らなきゃいいんだが……」

 「アルタイル……」

 「ばーか,泣くなよ」

 「な,泣いてなんてないわよ!」

 そう言うグリシャムの目は今にも涙がこぼれそうだった.

 「シノノメ……」

 「な,なに!?」

 「いいか,奴は,恐らく上にいる.天井に気をつけろ……」

 「わかった! 必ず仇を取るよ!」

 シノノメは力強く頷いた.

 「祥子,現実世界で,また一緒に酒を飲もうぜ……」

 そう言い残すと,アルタイルはゆっくりピクセルに分解されて消えて行った.


 過激な脳への刺激が繰り返されると,脳内で分泌される神経伝達物質――脳内ホルモンの量が異常になる.

 薬物中毒はまさにそれだ.その結果,幻覚を生じたり,うつ病になってしまうのだ.

 現実世界のアルタイルにどのような影響が出ているのか分からない.だが,彼の身体が受けたダメージは,シノノメも見た事がない物だった.

 剣で斬られたり,竜にパクリと食べられたりするのとはわけが違う.

 現実世界で重大な事故や災害に遭った時の様に,リアルで,とてもむごたらしかった.


 「ひどい……許せない!」

 シノノメは黒煙たなびく中,立ち上がった.

 隣にはヴァルナが立っている.彼にとってもアルタイルは古くからの盟友だ.

 「行くぜ.風でこの煙幕を吹き飛ばす.多分,今向こうにもこっちが見えてね―」

 彼の言葉には静かな怒りが込められている事が分かった.

 「逆に言うと,影使いは術を使いにくいってことになりますね.同じ弓使いとして,アルタイルさんの仇を取ります」

 アイエルも怒りに燃えた目でクロスボウに矢を装てんし,構えた.

 「よーし!」

 言うが早いか,ヴァルナは右手を斜に振った.

 一陣の風が巻き起こり,煙の隙間が出来る.

 ドーム状になった円形の広間の中央に,天井を向いて口を動かすヴォーダンが見えた.

 煙が晴れると,ふたたび彼の重厚な歌声が聞こえてくる.


 「やっ!」

 アイエルがヴォーダンに向かって矢を二連射した.

 それを合図に,全員が部屋の中に飛び込んだ.

 ハヌマーンは盾を頭上に掲げて,シンバットとシセを守りながら走る.


 ヴォーダンの影がついっと立ち上がり,アイエルの矢を受け止めた.ジャガンナートの姿は見えないが,どこからかこの戦いを監視して援護しているのだ.


 「あの影,都合のいい時に実体化できるんだ!」

 アイエルは言いながら三射,四射を放とうとした.


 「アイエルちゃん! 上! まな板シールド!」

 シノノメはそう叫びながら,アイエルの頭上に降って来た火炎の塊を弾き飛ばした.

 二人は炎を飛ばして来た敵の姿を目で追った.


 「これが,アルタイルの言ってたやつね!」

 「……化け物め!」

 「何という禍々しい姿だ……」

 奇しくも全員が,一瞬その光景に釘付けとなった.

 ドーム状になった高い天井から,太陽の様な熱と光が降り注いでくる.


 彼らがそこに見た物は,とぐろを巻いた炎の竜だった.

 炎竜ではない.

 西洋の‘ドラゴン’的な,恐竜に似たフォルムではなく,東洋の蛇の様に長い竜の身体だ.

 だが,決定的に違うところは,その身体が炎その物で出来ているところだった.

 炎の頭に,長い炎の蛇体.

 炎の目に,炎の牙.

 炎の背びれに,炎の尾.

 それがドームの空中でうねうねと渦状に蠢いている.

 高い天井なのではっきりした大きさは把握しがたいが,頭の大きさだけで二メートルはある.

 炎の竜――というよりも大蛇は,巨大な口を開けてシノノメ達に炎の舌と牙を見せつけた.

 そして驚くべき事に――人語で喋った.

 「はははは! どうだ! この圧倒的な力は!」

 ひと言声を発する度に,口から熱と炎が噴き出す.

 広間に響くその声は明らかにヴォーダンの物だった.

 逆に,部屋の中央で歌を歌う‘人間の姿をした’ヴォーダンは抜け殻の様に炎蛇を見上げていた.

 「人間の身体は,すでに小さすぎる.これこそ真に,偉大な私に相応しい姿だ!」


 炎蛇と化したヴォーダンの放つ光は,シノノメ達の足元に黒い濃い影を作りだしていた.影の先がもぞもぞと動いたかと思うと,宙に立ちあがる.

 インドネシアの影絵人形に似た姿を形作ったそれは,手に黒い影の剣を持っていた.


 「影人形たちの刃はただの影ではないぞ.お前たちを傷つける死の刃だ!」

 

 その声とともに,敵の一斉攻撃が始まった.

 シノノメは振り返る形で黒猫丸を一閃させ,自分の影を真っ二つに斬った.

 

 そこかしこで剣戟の音が響き渡っていた.

 実体化して傷つけようとする瞬間,影の刃は普通の剣で受け止める事が出来た.だが,反撃に移ろうとすると影人形は手ごたえのないただの影に戻ってしまう.


 「しつこいなー! さいの目切り! 銀杏切り!」

 影をも斬る事が出来る黒猫丸はまだ‘まし’だった.しかし,シノノメがどんなにバラバラにしても次の影人形が現れるのだ.


 「あわわー影がこっち来るよー」

 「くそっ! 魔神ジンを呼び出すチャンスがない!」

 「ハメッドさん,ネム,危ない!」

 シノノメは二人を襲う影人形を切り払った.戦闘力の低い二人を守りながら戦わざるを得ない.

さらに,そのシノノメに火炎の雨が降り注ぐ.

 小千谷縮おぢやちぢみの和服が焦げ,白いエプロンに黒いすすがこびりついた.

 

 「こいつめ! 水魔弾ウンディーネ・バレット!」

 アイエルがシノノメを援護して,水色の魔法弾を炎蛇に打ち込んだ.

 炎には水,の定石通りだ.

 しかし,炎蛇の高熱は水魔法の弾丸をことごとく蒸発させてしまう.

 まさに焼け石に水だった.


 「ちくしょー,こいつらめ,どーすりゃいーんだよ!」

 グルカナイフで影の刃を受けながら,ヴァルナが叫ぶ.


 「こんにゃろ,ぶっ飛ばしてやりたいのに!」

 アーシュラは防戦一方だ.モルゲンステルンで影の刃を受け続けている.


 「くっ! 剣は受けられるが,こちらの攻撃は全く効かない!」

 「殿下! 無理は禁物です!」

 シンバットとシセは,ハヌマーンの盾に隠れながら影人形に一撃を加えようと必死だ.だが,悲しいかなプレーヤーに比べ一般人ともいえるNPCの攻撃は通用しなかった.

 

 「みんな,あの炎蛇を倒すのよ! そうすれば,光が弱くなって影人形達も勢いを失うはず! きゃっ! フルーラ・バブル!」

 グリシャムは影の攻撃を避けるため,体の周りに泡の防壁を張り巡らした.

 得意の植物の魔法は全く影人形達に通用しなかった.泡の中は安全だが,これでは攻撃することができない.せいぜいできるのは,泡の外に杖の先を出して,回復魔法をかけるくらいだ.


 「なるほどグリシャムちゃん! 分かったぜ! 俺に任せろ! シノノメ,俺の影を頼む!」

 ヴァルナは鍔迫つばぜまりで自らの影と斬り結びながら叫んだ.

 「うん,アイエルちゃん,ちょっとネムとハメッドさんを守って!」

 「了解!」

 シノノメは一旦ネムとハメッドの側を離れ,ヴァルナの影を一刀のもとに斬り倒した.まるで紙を切るように二つになって床に崩れ落ちる.

 

 「よしっ! 風よ! ヴァーユ・アニラ・マールト・ガンダヴァハ! 空界のあるじよ,我が手に宿れ! 砂塵嵐サンドストーム!」

 ヴァルナは大きく両腕を広げ,各々螺旋の動きを描いてから両手を合わせ,炎蛇に向かって突きあげた.


 ブワッと音がして,広間に巨大な空気の流れ――上昇気流が発生する.


 「みんな,適当にどっかにつかまってろよ!」

 大雑把なヴァルナの指示が届く前に,すでに全員が壁沿いの柱の陰にゆっくりと移動し,避難し始めていた.

 「ウキャ! ハヌマーンは風の神様の子供なんだ! こんな風に負けるか!」

 ハヌマーンはテントか防風林の様に盾を立て,シセとシンバット,そしてハメッドを守っている.

 

 「ヴァルナの奴,ホントに滅茶苦茶だね!」

 アーシュラは槍を床に突きたて,愚痴った.

 紙の様に薄い影人形は風に揺れ,まともな攻撃が出来なくなった.


 「うひゃー,あたし飛ぶー」

 ネムは毛糸で柱に体を結び付けているが,風にあおられて宙に浮いている.


 ヴァルナが作り出した風の渦は荒れ狂い,砂埃と影人形,広間にあった全ての物を巻きあげ,炎蛇に叩きつけた.

 だが,飛んできた物はすべて炎蛇が焼き尽くした.

 焼き尽くしたものは粉塵となり,さらに舞い上がって砂嵐となる.

 そうしてついに,ヴァルナを目とする台風――大嵐が形成された.

 「へっへっへ! 来た来た来た! 行くぜ!ヴォーダン!」

 ヴァルナの顔に不敵な笑みが浮かぶ. 


 「ヴァルナって,本当に適当なんだから! これじゃ味方まで吹き飛ばされちゃうよ! コルト・ランジェ! アイエル,これに体を結び付けて!」

 「うん! ありがとう!」

 シノノメは超強度を誇る洗濯ロープを取り出し,自分とアイエルをつないだ.それでも十分ではない.二人一緒でも風に巻き上げられ,炎に吸い込まれてしまいそうだ.

 「こっちよ! 丈夫な樫の木を生やしたから,これにつかまって!」

 グリシャムが手を伸ばし,洗濯ロープの端を捕まえた.

 三人はロープを木に巻きつけ,必死に風に耐えた.


 暴風は一層勢いを増し,猛り狂う.

 だが,それに対抗するように炎は燃え盛った.


 「そんな炎,風で吹き飛ばしてやるぜ!」

 「下らん! やれるものなら,やってみるが良い!」

 ヴァルナの叫びに呼応するように,炎蛇となったヴォーダンが吼えた.

 

 轟々と風と炎が音を立てた.

 微細な粉塵が巻き上がり,辺りは薄暗くなった.影人形達は全て消えていく.

 すでに視界は無い.

 火の粉が飛び散り,風が体を吹き飛ばそうと荒れ狂う.

 離宮の建物が,ミシミシと音を立てた.

 世界の終りと見紛う,壮絶な炎と風の戦いが始まったのだ.


       ***


 その頃,クヴェラとマユリは六華りっかの後を追って歩いていた.

 子供たちは自室を出,遊戯室を抜けると,まるでレミングのようにぞろぞろと回廊を同じ方向に向かって歩いていく.

 それぞれが,戦士や騎士,魔法使い,僧侶など様々な衣装に身を包んでいた.

 ただ,どの子供も目つきは虚ろで,歩き方に生気がない.

 クヴェラとマユリもそっと列に加わった.

 クヴェラは小柄で身長は百五十センチと少ししかない.

 なので,中学生くらいであれば彼女よりもよほど身長が高い子がいる.その後ろに隠れれば,ほとんど違和感がなかった.


 「クヴェラ,小柄でよかったね」

 「うーん……ちょっと複雑な気もするけど……」


 二人とも踊り子の衣装だ.

 クヴェラは腰に短剣を差していた.シェヘラザードが自分の胸に突き立てた,‘大脳活動停止ブレインアレストキー’のプログラムが具現化したものである.衣裳部屋にちょうど良い鞘があったので,それに入れていざという時の護身用にすることにしたのだ.

 武装していると怪しまれるかと思ったが,周りの子供たちの方がよほど重武装だ.甲冑に槍,剣,魔法使いの杖と,ありとあらゆる武器を手にしている.


 子供たちはぞろぞろと歩き,大きめの部屋――広間とでもいうべき部屋に入って行った.

 どうやら,階下では大きな戦闘が行われているようだ.

 時々ミシミシと壁が揺れ,爆発音のような音も聞こえる.

 だが,子供たちの虚ろな目はただ前に向けられているだけだった.

 子供たちの人数は,五十人ほどだろうか.日本はおろか,世界中から連れて来られたのかもしれない.

 ハロウィンの集会が始まる前のような光景である――ただ,全員が無表情で,誰も喋っていないことを除けば. 


 「誰を待っているんだろう?」

 「あっ! 来たわ」


 マユリが小さく指さした.広間の奥――別室に向かうドアが開き,髭を生やした色の黒い男がやって来た.男は子供たちの真正面に立つと,群青色のマントを翻し,口ひげをひねりながら口を開いた.


 「諸君,私が分かるね?」

 誰も返事がない.

 「ジャガンナートだ.君たちを,この苦痛の無い世界に連れてきた案内人だ」

 ジャガンナートの言葉は少しため息交じりだった.


 「ふむ……やはりそうなのね」

 そう言いながら,もう一人の人物が部屋に入ってきた.

 真珠のような光沢を持つ肌の黒髪の美女――シェヘラザードである.

 シェヘラザードは金の装身具を揺らしながら,何かを考えていた.

 シェヘラザードの言葉は,自分自身に向けられたもののように聞こえた.

 「経験や,記憶の量が少ないことが原因なのか……自己同一性を保つことが難しいようね」


 「そうだな.シェヘラザード.残念ながら,私たちが思い描いていた至高の人間とは違うようだ.だが……それは,君たち恵まれた国の人間の言葉かもしれないよ.たとえ麻薬に侵されている様な夢の中と言えど……苦痛の無い世界にいることの方がどれほど良いだろう」

 「苦海にいるよりは,ですか?」

 「それは日本の仏教徒の言葉だったな.苦海.そうだな,まさに現実世界は苦痛に満ちた大海のようなものかもしれない」

 「この実験も失敗でしょうか?」

 「いや,私はまだ諦めていないよ.思考能力の高い子供はこうならないかもしれないし,偽の記憶を植え付けるという手もあるだろう.そして,経験と記憶はこれからこの世界で獲得していけばいい」

 「しかし,そうなると彼らそのものは当初の状態から変質してしまうでしょうね……」

 「それもまた,道だよ.……見ていたまえ」


 二人は謎めいた会話をしていたが,子供たちはぼんやりとそれを眺めていた.

 しかし,クヴェラは自分の推測が,彼らの考えとかなり近いという印象を受けた.


 ……やはり.

 一個の人格を形成するためには,記憶や経験が重要だ.

 仏教的に考えれば,‘本当の自分’自我などというものは存在しないのだという.何故なら,外界の様々な刺激を受け取って,‘自我’は変化し移ろいゆくものだからだ.

 子供は小さな大人ではない.

 年数をかけて,一個の人間に成熟していく生き物だ.成長過程では様々な刺激――五感や,失敗・成功などの数々の経験――を受け取る.

 それは,すべて肉体を通して行われる.

 肉体は,行動を起こす出力アウトプット装置であると同時に,膨大な情報を脳に入力インプットする装置でもある.

 入力された情報量が十分でない子供を肉体から分離すれば,‘自分’が保てなくなってしまうんだ……


 ふと,シェヘラザードが子供たちを眺めた.

 クヴェラは慌ててベールで顔を隠したが,どうやら気づかれなかった.

 シェヘラザードはまだクヴェラのことを男で,奥の間に放り込まれていると思っているのかもしれない.


 「諸君! それでは,君たちの好きなゲームの始まりだ!」

 ジャガンナートが声のトーンを上げて高らかに宣言すると,突然子供たちがときの声を上げた.

 「ゲーム!」

 「ゲーム!」

 「クエスト!」

 どの子供も突然目がらんらんと輝き,体を縦に揺らして一斉に叫ぶ.槍や杖を持つ者は,武器で床を激しく叩いている.


 ……そうか,刺激がないから,刺激――ゲームの中での‘イベント’に熱狂するんだ.

 渇望と言ってもいい.

 学校生活も,友人関係も,親子関係も――さらに言えば,視覚,聴覚,嗅覚,触覚,味覚,嗅覚――さらに,さらに言えば体の位置感覚も,温度覚も,痛覚も,内臓感覚も,平衡感覚も,圧覚も……実体を伴うありとあらゆる感覚が,ゲームの中でしか受け取れなくなってしまったから……


 クヴェラの背を冷たいものが走った.

 ……ジャガンナート達は,まるでゾンビのような生き物を作り上げてしまったのではないだろうか.


 ふと,マユリを見た.マユリは困ったような顔で周りを見ていた.

 その中には,彼女の友達だという六華もいた.桃色の可愛らしい魔法使いの衣装に身を包んだ少女が,‘ゲーム’という言葉に目を血走らせて興奮している.


 「ゲームの始まりだ! さあ,敵は階下のヴォーダンの間にいる! 敵は手ごわい.主婦とかいう女,悪に染まった聖堂騎士,剣闘士,魔法使いにダークエルフ.人猿ワーエイプに,人間の剣士もいる! だが,君たちは,無敵の軍隊だ!」

 ジャガンナートは右の拳を天につき上げて叫んだ.


 芝居がかった仕草だ.どこか滑稽で,子供番組の司会者を思わせる.

 だが,それは同時に,道化クラウンの様なもの悲しさを漂わせていた.


 「おお!」

 子供たちが歓呼で応える.

 「進撃だ! 敵を打ちのめせ! 右向け右!」

 「おお!」

 子供たちは本物の軍隊のように足並みをそろえ,右向け右をした.

 あわててクヴェラとマユリも真似をする.

 ジャガンナートが左手を軽く動かすと,二体の影人形が現れた.

 影人形は壁一面を占める鉄の扉に手をかけ,ゴロゴロと音を立てながら開けた.


 「行け! クエストだ! 我々の敵をせん滅せよ! 侵入者を殺せ!」

 ジャガンナートが群青色のマントを翻して駆け出した.

 「わあああ!」

 子供たちは顔に満面の笑みを浮かべながら,ジャガンナートに続くように我先に走り始めた.まるでそれは,楽しい祭りか,かけっこでもしているような様子だった.


 「クヴェラ,どうしよう?」

 「とりあえず,ついて行くしかないよ.きっと,ヴァルナ様たちが下に来てるんだ.チャンスを見て,助けなくっちゃ.そして,脱出する.君は?」

 「私は……」

 マユリはためらっていた.

 答えを出すことにか,それとも現実世界に戻ることにか.それはクヴェラにも分からなかった.

 だが,今は彼らとともに行くしかない.

 二人は突き進む子供たちに交じって走ることにした.

 

 広間はあっという間に空っぽになり,シェヘラザード一人が残された.

 影人間たちが,‘どうなさいますか’とでも言うように彼女を見ている.


 「ふん……これでは,とても……人間とは言えない」

 シェヘラザードは首を振りながらそう言うと,ゆっくりとその後を追って回廊へと進んでいった.

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