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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第20章 闇のその先へ
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20-1 幻影の宮殿

 離宮の階段は一段一段が低い螺旋階段になっている.

さらにそれを抜けると,アーチ構造がどこまでも続く回廊に出た.通っていくと,合わせ鏡の中を歩いているような気になる.

 壁や床など,基本的な構造は全てカカルドゥアの不思議な新素材――シェルラートでできているようだ.

 どこもかしこもほんのり魔力を帯びて薄紫色に光っている.それを照らすのはやはり魔石の間接照明である.暗いような,明るいような――薄紫色の水族館があれば,そんな感じかもしれない.水槽の分厚いアクリル板を通して届く光に雰囲気がよく似ている.

 一つ奇妙なのは,窓がほとんどないことだった.

あるにはあるが,小さな換気用,あるいは装飾用のもので,‘明かり取り’用の物がない.たまにある鏡はやはり採光用ではなく,ただ屋内を,しかも,ぐにゃりと歪んで映し出す.

 中世世界のユーラネシアでこれだけの建物を作れば,必ず屋内は薄暗くなる.夜でないのに魔石を使うのは非効率的なのだ.どんな富豪の邸宅でも,立派な窓か天窓を設けて開放的な空間に設計するのが普通だ.

 まるで,人工的な灯りでずっと屋内を満たしていたいとでもいうような,不思議な意匠だった.

 

 遠距離攻撃型のアルタイルとヴァルナを先頭に,次がシノノメ・グリシャム・アイエル,そしてやや遅れて大公とシセ,ハメッドが続き,殿しんがりはアーシュラとネム,ハヌマーンだ.


 「もう,シノノメさんったら,どうしてすぐに連絡してくれないのよ.素っ気ないなあ」

 「ごめんね,グリシャムちゃん」

 「もー,友達でしょ? こんなのナイよ」

 「ごめんねー,迷惑かけると思ったの」

 「なんて他人行儀な.罰として,一番いいポーションを没収します」

 「えー? シャトー・寿限無のこと? 呑まね・コンティのこと?」

 「まー,この子ったら,そんな逸品を隠してたのね! シャトー・寿限無と言えば,百合の花びらに降りた朝露を妖精が集めて瓶に詰めたという高級品じゃない! じゃあ,両方で」

 「両方だったら,ウェスティニアのダンジョン二個制覇分の成果だよ! それはちょっとないんじゃない?」

 「ムフフ.アリです」


 歩きながら,シノノメはずっとグリシャムに責められているのだ.

 広間で再会したときは思わず手を取り合って喜んだのだが,その後ずっとこんな調子である.

 だが,二人とも顔が笑っている.まるで,子猫がじゃれあっているようだった.


 アイエルはどうしてもグリシャムのようにできずにいた.

 もちろん,シノノメを責める気持ちなど毛頭ない.記憶の欠落に気づき,この仮想世界の中で誰にも相談できず,たった一人で悩んでいたと思うと胸が締め付けられそうだ.

 そして,実際には彼女は未だに現実世界で目覚めていないという事実.

 今まで通り接していいのか――アイエルは戸惑っていた.


 「アイエルも,この際だからシノノメさんに何かもらっちゃおうよ」

 そんな様子を察したのか,グリシャムがアイエルに声をかけた.

 「えっ! えっ! 私は,そんなの,いいよ! シノノメさんにこうやって会えただけで嬉しいもん」

 アイエルは慌てて両手を振った.

 「ほーら,アイエルはすごい良い子だよ!」

 「むーん,つまらない……」


 「おいこら,ガールズトークは大概にしとけ!」 

 先頭を進むアルタイルが振り向いて声をかけた.

 「全く,緊迫感の欠片もありゃしないな,お前たちは」


 「まー高飛車.いつからリーダーになったのよ」

 グリシャムが舌を出してアッカンベーをした.

 「セキシュウさんがいないから,張り切ってるんじゃない? いいところ見せようとして?」

 「誰に?」

 「誰って……」

 キョトンとするグリシャムを見て,アイエルとシノノメは目を丸くした.グリシャムは何も気づいていないのだ.


 「おい,それと,そこのお猿! お前も鼻歌とか歌うな! ピクニックじゃねえ!」

 「俺? すんません,アルタイルさん,友達承認ありがとうございます!」

 ハヌマーンはすっかり気に入ったアーシュラの‘役立たずアイテム’ゴリアテの盾を背負って,最後尾をついて来る.彼は憧れのスタープレーヤーたちが友達リストに加わり,上機嫌なのだ.


 だが,‘ゲーム’という意味ではハヌマーンの様な参加の仕方が正しいあり方なのかもしれない.

 VRMMOマグナ・スフィア.本来はあくまで,誰もが楽しむはずの娯楽であり,仮想冒険なのだ.

 それが,どうしてこんなことになってしまったのだろう.意識不明の犠牲者が現れ,体(脳)の危険を伴う恐ろしいゲームになってしまっている.

 シノノメは少し悲しくなった.

 「ごめん,アルタイル.お猿さんはモフモフだし,許してあげて」


 「モフモフは関係ねえ」

 アルタイルはボソッとそれだけ言うと,再び前を向いてしばらく歩いていたが,不意に立ち止まった.

 「やはりか……」

 「やっべえな.これは」

 ヴァルナもその先を睨んでいる.


 「どうしたの?」

 シノノメが二人の視線の先を追うと,行く手に三つの扉があった.しかも,扉の一つは天井に,もう一つは床についている.


 「ちょっとした迷宮ダンジョンってわけだ.あれの内,多分二つは偽物フェイクだぜ.大公殿下,こんな風になっていたのはご存知ですか?」

 アルタイルはやはり俳優である.世界観を大事にして言葉を選びながら,シンバットに尋ねた.


 「いや……ここは,昨日まで普通の階段だった.面妖な……これは一体どこにつながっているのだろう?」

 「おまけに,天井をよく見ろよ」

 ヴァルナが指さす.天井にへばりつくように階段があった.しかも,その先は外の方に続いている.

 「幻影(マーヤ―)か……」

 シンバットがつぶやいた.

 「仙人,聖賢リシは幻術を使うとよく言うが……」


 「本物のダンジョンが昨日の今日で急にできるわけないし……大公殿下の言う通り,一種の目くらましなのかな」

 アイエルも首を傾げる.

 「うん,この変な光をずっと見ていると,何だかくらくらするような気がするよ」

 シノノメはうなずいた.

 グリシャムは万能樹の杖を掲げ,何かを計測しているように見える.

 「杖がさっきから,びりびり振動しているんです.建物全体に,とてつもない魔力が蓄えられているのが分かります.あ……」

 「どうしたの? グリシャム?」

 「アーシュラ,今,誰かが後ろを通った?」

 殿しんがりのアーシュラを中心に,一斉に全員が後ろを振り返ったが,誰もいない.

 「突き当りの鏡の中を,子供のような小さな影がよぎった気がしたの」

 言いながらグリシャムは目を細めた.


 「鏡の中? 子供? 由莉奈? ――マユリ?」

 子供と言えば,やはり自分の娘のことを連想せざるを得ない.ハメッドは目を凝らしたが,鏡には歪んだ室内が映っているだけだ.


 遅れがちなネムがせっせと編物を編んでいる.

 「もう,魔法院の落ちこぼれさん! 寝坊助ネム! きちんと警戒してよ!」

 グリシャムがネムを叱った.ネムはとろりと眠そうな目をしている.

 「えー? 一応,みんなが迷わないように毛糸を垂らしておいたんだけどー……迷宮と言えば糸玉,糸玉と言えば迷宮でしょー?」

 ネムはギリシア神話,ミノタウロスの迷宮ラビリンスの真似をしていたらしい.


 「それは,これのことか?」

 アルタイルが毛糸の端を拾い上げた.それは,一番右側の扉の中へと続いていた.

 「古典的な迷宮の破り方は,どーやら通用しねーらしーな」ヴァルナが唸る.「ぶっ壊しながら進んでみるか?」


 キャハハハハハ……


 どこかから,子供が笑うような声が聞こえてくる.


 「子供の声だ……もしや,由莉奈?」

 「いえ……,あれは,男の子の声です」

 シセが首を振った.

 「うん,私もそう思う.シセさんは耳がいいんだね」

 「主婦様,私の部族は,男女とも森の生活,狩りが基本なんです.耳も目も,都市の民に比べれば利く方だと思います.ですが,今……向こうの廊下の角を子供の影が走っていきました」

 「え……なんだか怖いね.私,モンスターは怖くないけど,幽霊とゴキブリは嫌いだな……」

 シノノメは再び辺りを見回した.

 不気味だった.何か得体のしれないものに囲まれている気がする.

 そう考えると,薄紫色の照明が拍動するようにちらついているような感じもする.まるで,魔物の体内――腹の中に入り込んでいくような気持ちになってきた.


 「シセ姫,大事ないか?」

 「はい,お気遣いありがとうございます.殿下こそお気を付けください」

 シセはさっきからずっと剣の柄に手をかけている.魔物が現れれば,即座に抜いて大公を守るつもりなのだ.


 「迷宮って言うより,まるでだまし絵ね.上に上ると思った階段が下に降りていたり,窓の外が壁だったり……そういえば,さっき,上から下に噴出している噴水があった……」

 「エッシャーとかの絵ですね? あれはしかし,三次元では再現できないものばかりです」

 グリシャムの言葉をハメッドが補足した.


 ギイ……と,音を立てて床の扉が開いた.一行が注意しながらそっと覗いてみると,その向こうに見えるのはなぜか青空だった.

 

 「何だこりゃ? 今度はどこでもドア?」

 アーシュラが槍で空間を掻きまわしてみた.だが,空の向こうには誰もいない.雲の向こうを小さな黒い鳥が飛んでいるのが見える.


 「ふん,ルネ・マグリットの絵画の様と言ってほしいね」

 天井の扉が今度は開いて,言葉とともに黒い人型の影がにゅっと垂れ下がってきた.

 影は見る見る間に色を変え,色の浅黒い男に変わった.


 「ジャガンナート!」

 ハメッドが叫ぶ.

 濃い二重瞼に黒い瞳,厚い唇.間違いなくマユリをさらっていった男,ジャガンナートその人である.だが,横から見るとまるで紙のように薄かった.


 「このやろっ!」

 アーシュラはジャガンナートの胸めがけて槍をつきこんだ.だが,その先端はまるで水を突くようだ.紙を差すほどにも手に伝わる感触が全く無かった.

 「何これ!? 全然手ごたえがない!」


 「この姿は私の‘化身’――アヴァターラである.ジャガンナートはこの世を支配する神の名.お前たちに勝ち目はない.立ち去れ.さもなくば,死より恐ろしい目にあうだろう.マハーバーラタによれば,かつていにしえの時代,インドラプラスタと呼ばれる都には,見る者の知覚を惑わせる幻影(マーヤ―)の魔宮があったという.私の作ったこの宮殿は,まさにそれである」

 ‘平面’状のジャガンナートは,詩を吟じるように言った.


 「へっ! 今更よく言うぜ.子供たちと,うちの部下――クヴェラを返しやがれ! 鎌鼬かまいたち!」

 ヴァルナは素早く手刀てがたなにした右手を振り,風の魔法を放った.真空の刃はジャガンナートを二つに切り飛ばしたが,またすぐにつながってしまった.

 アルタイルも矢を放ったが,まるで手ごたえがない.

 グリシャムは剣を変化へんげさせた‘黒豹のクロスボウ’を構えたが,それを見て撃つのを中止した.


 「子供たちは……返すわけにいかぬな.彼らは,自分の意志でこの世界を選んだのだ.つらい現実世界に戻して,どうするつもりだ?」

 ゆらり,と揺れながらジャガンナートの化身は言った.

 その動きはどこかぎこちなく,まるで東南アジアの影絵のようにも見える.


 「自分の意志などと……いいから,私の由莉菜ゆりなを返せ!」

 ハメッドは悲鳴にも似た声で叫んだが,そんな姿をジャガンナートの目は冷たく見つめていた.

 「私の国は……結局,二十一世紀の半ばになってもカースト制から脱却できず,死ぬよりも辛い人生を歩んでいる子供たちもいる……その子たちが全てこの世界に転生できれば……どんなに幸せだろうか……」

 

 「それとこれは,話が違う.ジャガンナート,この様な悪の巣窟,魔窟を築きおって,何のつもりだ! 子供らを開放して,我が国から立ち去るがいい!」

 シンバットが叫んだ.

 

 だが,ジャガンナートは口元に静かな笑みを浮かべるだけである.

 「ならば,力づくでそうさせてみよ.上まで上がってくることだな.魔術師ヴォーダンも,鋼鉄の男オシリスもいる.上がって来れれば,だが」

 ジャガンナートの化身は嘲笑うかのように,上下に揺れた.


 「もう,怒った! 思わせぶりで,勝手なことばかり言って! 子供たちを返しなさい!」

 シノノメはそう言うと,右手を振り上げた.

 「グリルオン!」


 ドカンと音がして,回廊に青い火柱が立った.


 「うわっ!」

 パーティーメンバー全員が,思わず声を上げる.

 だが,シノノメの火の魔法‘グリルオン’は,燃やす物がなければ長時間は威力が続かない.一瞬凄まじい熱と爆音が発生したが,すぐに消えた.


 「あれっ!?」

 グリシャムが驚いた.

 三つの扉がすべて消え,回廊の奥に新しい入口がある.それは全く普通の階段だった.

 「おかしいな……何も手ごたえがなかったのに……」

 シノノメ自身も自分の手と建物の壁を見比べている.

 薄紫色の壁は炎のために変色してあちこちに煤がこびりつき,魔石のランプが割れていた.だが,壁や柱はもちろんびくともしていない.


 「三枚の扉全部,偽物だったっていうことか? とにかく,気を付けながら行こう」

 アルタイルは床に落ちていた自分の矢を見つけて言った.

 何かがおかしかった.彼の矢も,的を外せば矢筒に自動的に戻るマジックアイテムのはずなのだ.

 一同は,奥へと進んだ.

 だが,その後ろを黒い影法師がゆらりと追いかけていた.


     ***


 由莉奈マユリは,今日も与えられた個室を出て‘遊戯室’と呼ばれる共用の部屋に歩いて行った.

 ‘今日’というのも変だ.

 あれから何日経ったのだろう.

 父の屋敷で,‘自分なんかいなければいい’と言ったところは覚えている.何となく,ぼうっとする意識の中でジャガンナートに連れられ,気づけばここにいた.それは全て夢の中の出来事であったようにも思える.

 空腹も感じない.

 眠気もない.

 寒くもなく,暑くもない.

 苦痛という苦痛は何もなかった.

 外にも出ていないので,朝か夜かも曖昧だ.ただひたすらドーム状の空間は薄紫の光――照明ではなく,壁や天井そのものが光を発している様なのだが――で照らされ,包まれている.

 不思議な感覚だった.

 こうして,体の感覚はしっかりあるのに夢の中にいるような気がする.

 だが,ひどく自分の体の実感に乏しかった.


 騎士の鎧を付けた小学校の低学年ほどの男の子が二人,部屋の真ん中で剣を振り回して遊んでいる.

 チャンバラごっこかと思ったら,剣がやけに鋭く光る.

 まさか,真剣?

 そう思った瞬間,一人の子の剣が対手の腕を切り落としていた.負けじと切られた子も相手の腕を切り落とす.

 どさり,と音がして二つの可愛い腕が剣を持ったまま床に転がった.


 「きゃっ!」

 マユリが思わず声を上げると,男の子二人は不思議そうに自分を見た.

 「あ,危ないよ! 痛くないの?」

 「別に……」

 「別にって……」


 スルスルと黒いものが床を這うように,音もたてずに近づいてきた.染みか油を流したようなそれは,男の子たちに近づくと‘ぬっ’と宙にせり出すようにして伸び上がり,二体の人型をとった.

 人型というには,すこし無理がある.

 ペラペラで,ずっと横顔なのだ.鼻が前に長くせり出し,頭の後ろにも輪のようになった角のような妙な突起がついている.手足は細く節くれ立ち,肩が横に飛び出ていて何だか昆虫の様だ.

 少し――怖かった.


 その二体の‘人型’は男の子たちに近づくと,二本の腕を拾いあげた.元の場所に戻してさすったり撫でたりしているうちに.また腕は動くようになった.

 「コレ,無理ハイケマセンヨ」

 人型はそうさとしたが,男の子たちはまた真剣のチャンバラごっこを始めた.

 「やだ!」

 「だってつまらないんだもの!」

 危ない.後ろに座っている少女に当たりそうだ.


 マユリは思わず悲鳴を上げた.そして,気づいた.その女の子は良く知っている子にとても似ているのだ.


 「六華りっかちゃん!」

 マユリは思わず走り寄り,少女の手をつかんで引き寄せた.男の子たちはそのまま剣を振り回して奥の方に走っていく.

 少女は薄桃色の魔法使いの衣装を着ていた.髪の毛の色は紫色だが,間違いなく一緒にVRゲームをしたことがある少女,六華だ.

 彼女はマユリより二つ年下で,‘軟部肉腫’と呼ばれる特殊ながんの治療のために同じ部屋に入院していたことがあるのだ.先日,ゲームをしているうちに意識不明になってしまい,今もマユリの隣の部屋でずっと眠っているという.

 六華はぼんやりとマユリの顔を見た.

 「六華ちゃん,私よ.由莉奈.覚えてるでしょう?」

 「ゆりな……」

 「そう,マユリでもいいよ」

 「わたしは……スノウ……」

 「そう,‘六花’は,雪のことだから,その名前なんだよね? 知ってるよ」

 だが,六華は虚ろな目でマユリを見るだけだった.まるで夢を見ているようだ.

 「楽しいクエストに,また出かけなくっちゃ……」

 そう言うと,にっこりと笑た.

 「クエスト?」

 「そう,敵を倒すの.みんな弱くて私は無敵だから,簡単.魔法の一撃で,みんなやっつけちゃうの」

 そこだけ妙に流暢で,生き生きしていた.

 「お父さんとお母さんが心配しているよ! 早く目を醒まさないと!」

 マユリは六華の両肩をゆすった.

 だが,ふとマユリは六華の瞳を見て凍り付いた.

 まるで闇の底――暗い沼の奥だ.

 「お父さん,お母さんって,何?」


 マユリは六華を離すと,慌てて部屋の外に駆け出した.

 部屋の壁にはまるで壁紙の模様のようにさっきの平面人間――人型が立っている.立っているというよりも壁に映り込んでいるようだ.

 彼らは目をじろりと動かしてマユリを見た.


 「わっ!」

 マユリは脇目も振らずにとにかく走った.

 いくつの部屋を過ぎても,薄紫色の光はぼんやりと屋内を照らしている.

 五つ目を数えたところで,マユリは止まった.

 全速力で走ったのに,息切れ一つしていない.

 ふと,部屋の奥を見た.

 扉は開いているががらんとして,窓一つない.

 床に何かが転がっている――人形?

 青い髪に,ヒョウ柄の白いフワフワの耳がついている.豹人だった.白い毛なので,多分ユキヒョウだ.

 父のギルドにも出入りしていた,聖堂騎士団の制服を着ている.だが,腰に巻きスカートの様な布を巻いており,見習いの証の白い帯を締めていた.

 自分と同じか少し上くらいの背恰好に見える.大きなアーモンド形の目は開いたままで,頬は陶器のように白く膨らんで,つるりとつやがあった.中性的で,少女のようにも少年のようにも見える.

 きっと見習い騎士の人形だとマユリは思った.

 だが,なぜこんな所――離宮の最奥に,こんな物が放り出されているのだろう.


 「ちがう.人形じゃなくって,人なんだ……死んでいるの?」


 恐る恐る近づいて観察すると,胸に光るナイフが突き刺してあった.

 よく見ると死んでいるようには見えない.ゆっくり息をしているようだし,目は虚ろだが頬にも血色がある.

 マユリは祖父の死に顔を見たことがあるが,蒼白のそれとは全く違った.


 「このナイフ……何だろう.魔法のアイテムかしら」

 ナイフの柄は金でできており,赤や緑の宝石が象嵌してあった.武器ではなく,装飾品か美術品のように見える.

 もともと旺盛な好奇心が刺激されると,自分の頭がはっきりし始めたのを感じた.

 ……ゲーム的に言えば,封印されているってこと? でも,この子が何故?

 胸の鼓動が早くなった.

 マユリはゆっくり手を伸ばし,ナイフの柄を握った.


 「う……」

 豹人の子供は小さくうめいた.

 「えい!」

 マユリは手に力を籠め,一気にナイフを引き抜いた.ナイフは緩く湾曲した小さな三日月刀だった.

 

 「先輩!」

 豹人の子はそう叫ぶと,ガバッと体を起こしてあたりを見回した.

 「君は……誰?」

 マユリの姿を見つけると,何度も瞬きをして尋ねた.

 「私,由……マユリ」

 一瞬本名を答えそうになり,マユリは慌ててハンドルネームを口にした.

 「マユリ……私……僕,どうしたんだろう? ここはどこ?」

 「ここは,カカルドゥアのサンサーラ離宮よ.あなたはこれを胸に刺されて,ここに倒れていたの」

 マユリはナイフをクヴェラに見せた.

 「そうか……君が助けてくれたんだね.ありがとう.くそぅ,あの時,シェヘラザードにやられたんだっけ……」

 「シェヘラザード?」

 マユリの頭の中でいろいろな事実がつながり始めた.

 病院の入院生活が長く,推理小説や空想小説を読むのが好きな彼女は,同じ年頃の少女に比べると,理論的に物事を組み立てたり推理したりするのが得意なのだ.


 シェヘラザード.

 父といつも何か秘密の商談をしていた,不思議な女性だ.

 きれいな踊り子の姿をしているけれど,ゲームの中だけでなく,現実世界でも何か大きな力を持っている様だった.


 ……私の病気のことをちらつかせて,悪いことをするようにお父さんをそそのかしたのは,あの人かもしれない.

 アングリマーラや,あの黒頭巾の人ともつながっているのかも.

 ……とすると,この子はシノノメさんの敵の敵?


 「あなたは,誰?」

 「僕はクヴェラ.聖騎士ヴァルナの見習い騎士.……マグナ・スフィア――カカルドゥアに潜む,悪者を倒すために戦っていたんだ」

 クヴェラは少女の様な顔を引き締め,マユリの目をみつめた.

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