19-6 悪魔の覚醒
荒れ狂う雷撃が止むと,雨も止んでいた.
辺りは高熱にさらされ,地面の土が一部ガラス質になっている.
ゴリアテの盾の陰に隠れていたアーシュラとハヌマーンは,そっと顔を出した.
「どうやら,済んだかな」
「アーシュラ,あれ……」
ハヌマーンが怪我していない左手で指差した先には,ケープを羽織ったダークエルフの少女が立っていた.
嵐の後の風が,ごう,と吹く.
風はダークエルフのフードをめくり返し,少女の顔が露わになった.
「あっ! 黒豹のエルフ,アイエルだ」
ハヌマーンはアイエルの事を知っていた.北東大戦の時に,圧倒的不利な状況で,レベル上位の呪いの騎士に逆転勝利した,勇敢なプレーヤーだ.彼の「友達になりたいリスト」上位なのである.
アイエルはまだ泣いていた.
自分も初めから作戦に参加したかったのだが,ユグレヒトがそれを禁じていたのだ.
一度シノノメの魔法‘フーラ・ミクロオンデ‘を使ってから,アイエルはそれを使う’コツ‘の様な物を覚えていた.
練習の成果もあって,シノノメに比べれば威力は小さいものの,何とか再現できるようになった.だが,それには莫大な魔法(MP)をため込むための,非常に長い呪文詠唱が必要だった.
ユグレヒトは彼女を切り札にするため,自分も含めた全員が犠牲になることを決めた.
メッセンジャーのチャットモードでは随時みんなの声が聞こえる.
残忍な五聖賢と圧倒的な兵力の前に苦しんでいる声をずっと聞いていた.
ミーアが倒れ,にゃん丸が傷つき……
一分でも,二分でも早く……
そう思って喉が枯れるまで詠唱を続けていたのだ.
目の前には,体の中央に穴が開いたイシュタルが倒れている.わずかに手足を動かしているが,穴が塞がっていかない.穴の縁はのっぺりと白く,まるで粘土の人形に穴を開けたようだった.いずれにせよ,すぐには戦闘できる状態でない事が分かった.
「にゃん丸さん!」
アイエルは涙をぬぐうと,水晶の結晶が噴き出た大きな岩の方に駆け寄った.
ミーアとユグレヒトは,力尽きてログアウトして行った.
にゃん丸は傷ついた足を引きずりながら,’フーラ・ミクロオンデ’発動直前に避難していたのだ.
岩の,術が発動した側は黒こげになっている.
その裏には岩に体を預けて目を瞑っているにゃん丸がいた.
墨染の忍者装束に,血がついている.
にゃん丸はアイエルの足音にピクリと猫耳を動かし,ゆっくり目を開けた.
「やったね,アイエル」
「うん,うん」
アイエルの目から,折角ぬぐった涙がまたあふれ出た.
「流石に俺ももう駄目だね.本当は,一緒にシノノメさんを助けに行きたかったんだけど」
治癒魔法をかろうじて使えるのはグリシャムだが,彼女は今暗黒森の向こうで別の五聖賢と戦っている筈だ.
離宮の中のシノノメやグリシャムのところまで行くには,HPが足りなかった.彼のHPゲージは流れ出る血液の様に,何もしなくとも自動的に,急速に減少していた.
「誰かがアイエルが勝つのを見届けなくっちゃ,って思ってね」
「うん」
アイエルはにゃん丸の側に座り込んで泣いた.
「これ,ユグレヒトから預かった,巻物.あいつが死んだ場合の作戦が書いてある.アイエルに最初から持たせたら,気にして続行できないだろう,って言われてた」
にゃん丸は懐から唐草模様の巻物を取り出し,アイエルに渡した.
アイエルはにゃん丸の手ごとそれを握りしめた.
「結構痛いけど,脳障害ってどんなのかな.この位なら,負けないよ,きっと」
にゃん丸は猫口――W字の笑みを浮かべた.
「ありがとう,にゃん丸さん」
アイエルは胸がいっぱいになり,思わずにゃん丸の頭を抱きしめた.
にゃん丸のHPが黄色から赤になり,ほとんどゼロになる.
「ああ……頑張って良かった.これで,もう怪我が治った気がするよ.アイエル,前から……」
そこまで言ったところで,にゃん丸はスゥっと消えて行った.
ゲームオーバー・ログアウトになったのだ.
にゃん丸が胸の中から消え,にゃん丸の頭の形になった自分の腕だけが残された.
「駄目だ,シノノメさんの所に行かなくっちゃ」
アイエルは涙を再びぬぐって立ちあがることにした.
すると,岩の向こうからひょっこりと愛嬌のある大きな猿の顔が覗いた.赤い顔に,丸い眼をきょろきょろさせている.
「きゃっ!」
「あのー,お取り込みのところ,失礼しますが,友達申請いいですか?」
ハヌマーンの横から,アーシュラも顔を出した.
「アンタ,シノノメの友達でしょ? アタシも友達だよ.一緒に戦おう」
「あなたは……?」
「アタシ,アーシュラ.料理人で,剣闘士.こいつはハヌマーン.剣闘士で,おさる」
「おさるじゃない,武術家だ,ウキー!」
何だか愉快な二人組だった.素明羅の雰囲気とはまた違う,南国カカルドゥアの快活さを持ち合わせたプレーヤーだった.
アイエルは思わずクスリと笑った.
「アイエルです.宜しくお願いします」
アーシュラはにっこりと笑い,手を差し出して来たので握手した.
いい顔で笑うな,とアイエルは思った.人を明るくさせる笑顔だ.
欠落した記憶に気付き,孤独な思いでいただろう唯も,この笑顔に癒されて友達になったのかもしれない,と,ふと感じた.
だが,アーシュラの背後,肩の向こうに驚くべきものが見えた.
「あれ……!」
二人が一斉に振り向いた.
体に穴が開いたままのイシュタルが,フラフラしながら立っていた.風にあおられ,よろめきながら何とかバランスを取っている.
「げっ! あいつ,まだ生きてるのか」
「だけど,あの体じゃもう戦えないでしょ.穴の中にひもを通して縛っておこうか?」
アーシュラの突拍子もないアイデアに,アイエルは驚いた.
とりあえず三人は武器を手に,ゆっくりイシュタルを包囲した.
美しかったイシュタルの髪は乱れ,あちこちが焦げている.衣類も申し訳程度身体にぶら下っているだけだった.
フーラ・ミクロオンデはシノノメが使う最大威力の’電子レンジ’の魔法だ.マイクロ波が叩きこまれ,敵の体内の水分は高振動を起こして沸騰する.
基本的には固いものに囲まれた対象――鎧や,甲皮内,屋内で大きな威力を発揮するのだが,アイエルは実際に見た様子や,雷竜’ベーオ・ウルトロン’をシノノメが倒す様子を見て研究していた.
両手で作る雷球を敵に叩きこめば,発動可能.シノノメらしく,細かいことよりもとにかく’食材のように,両手で包みこむように相手を調理する’意識がポイントである.
「ぐぐ……貴様ら……殺してやる……」
イシュタルが自分を包囲する三人を横目でにらみ,ふらつきながら地面に向かって手をかざした.
蜂の使い魔は全滅した.どうやら地中からサソリの使い魔を呼び出そうとしているようだ.
「気をつけて!」
アイエルはスラリと両刃の長剣を抜いた.柄元に黒豹の頭が象嵌してある.エルフの女王から授けられた魔法剣である.
「穴があいてるから,的が当てにくいな」
アーシュラは槍を握りしめた.
「サソリに要注意だぞ,一二の三,だ!」
ハヌマーンは左手で棍棒を握っている.右手を怪我したので,使えなくなったゴリアテの盾はアーシュラに返したのだ.
まさに三人が一斉に飛びかかろうとした瞬間,イシュタルの後ろにいつの間にか一人の人物が立っていた.
「え?」
「どこから現れたの?」
「……あいつ,王宮特別顧問の……ラーフラだ!」
その男は,突然出現した亡霊――あるいは,死神のように見えた.
黒いフードとマントで体をすっぽりと覆った,背の高い人物だ.服の外に出ている肘から先には,細い筋肉がみっしりと付いている.顔はフードと面布で隠され,冷徹な目だけが覗いていた.
彼がそこに立つのを,三人とも――いや,そこにいる誰ひとり目で捕らえる事が出来なかった.すぐそばにいるイシュタル自身も,ハヌマーンの言葉で初めてその存在に気付いたのだ.
「ラーフラ! ちょうど良いところに来た.今まで何をしていたの? こいつらを倒すのを,手伝いなさい」
イシュタルの口調には非難の言葉と裏腹に,味方が来たという安堵感が籠っていた.彼女は今までの圧倒的な自信を完全に失っているのだ.
だが,ラーフラはその言葉をまるで聞いていないようだった.
「ラーフラ? あっ! ぎゃあっ!」
彼は面布に少し指をかけて引き下げると,いきなりイシュタルの首に噛みついた.喉深くに口が食い込んでいる.身の毛がよだつ光景だった.
「きゃあ!」
「うわっ!」
アイエルとアーシュラはその不気味な光景に思わず声を上げた.
イシュタルはラーフラから必死で体を引き剥がした.
細く白い首は口の形にえぐれて赤い肉が見えている.
「……!」
イシュタルは口をパクパクと鯉の様に動かして何かを言ったが,声が出ない.
しゅうしゅうと息の漏れる音がする.
声帯を食いちぎられてしまったのだ.
肉を噛むクチャクチャという音がする.
ラーフラはイシュタルの喉の肉を咀嚼すると,ごくりと音を立てて飲み込んだ.
「ぐ,食人鬼なんてキャラクターは選べないぞ!」
ハヌマーンが恐怖で毛を逆立てながら叫んだ.
イシュタルは喉を左手で押さえ,何かを言い続けている.
口の形からすれば,裏切り者,とか,何をする,とか叫んでいるのかもしれない.
「甲状腺および副甲状腺――ヴィシュッダ・チャクラは頂いた.臍チャクラは失われたようだが,その他はすべて頂こう」
面布の下が不気味に動く.
ラーフラは逃げようとするイシュタルにゆっくり近づいていった.
アイエル達三人は思わず後ずさりしたが,突然の異常事態に目が離せなかった.
政府側の人間が何故五聖賢を攻撃するのだろう.
仲間割れしたのだろうか.
男の言っていることの意味は何なのだろう.
一体目の前で何が起こっているのか,全く理解できなかった.
「シェヘラザード殿からの依頼だ.イシュタル,お前はこの世界で得た利益を,中東とヨーロッパのテロ組織の援助資金にしていたらしいな.あれほど現実世界との関わりを断てと言っていたのに」
「……!」
イシュタルが右手を振り回しながら,必死で何かを言おうとしている.後ろには石の柱がある.もう下がる場所は無い.
「弁解は無用だ.もう,お主はこの世界には不要とのことだ.処分は私に一任された.……お前は私の糧となれ」
ラーフラはゆっくりと両手を上げた.
拳を軽く握り,顔の横に挙げる.左前で,腕で顔を囲む三角形を作るような構えだ.肘の先端が黒く光り,鍛え上げられていることが分かった.
「……!!」
イシュタルは突然前に飛び出すと,右の拳を放った.
神速のストレートである.満身創痍の彼女の必死の抵抗だった.
だが,拳が顔に叩き込まれようとする瞬間に,ラーフラの身体はくるりと回転してイシュタルの背後へと移動した.
ソーク・クラブ(回転肘打ち)だ.ラーフラの右肘がイシュタルの後頭部を打ち抜くと,彼女の身体はその場にぐったりと崩れ落ちた.
「馬鹿な! 俺達があれだけ苦労したのに,一撃で!?」
ハヌマーンは丸い目をもっと丸くして驚いた.
だが,驚きも冷めやらぬうちに,ラーフラはイシュタルの身体を小脇に抱えると,あっという間に姿を消した.
やはり,その動きを目で追う事はほとんど出来なかった.
どちらかに走り去ったようなのだが,風で梢が揺れているだけだ.
アイエル達三人は辺りを見回した.
暗黒森の火事がすっかり収まって,広場の向こう側が見通せるようになっていた.
焼け焦げた森の向こうに立っているのは,セキシュウだろうか.彼はひざまずいた男を見下ろしてじっと立っていた.
「消えた……としか言いようがないね.なんてバカみたいなスピードなの? あいつは,一体何者なんだろ……」
アーシュラが槍を担いで唸った.
「俺の知ってる限りじゃ,大公おつきの特別顧問のはずなんだけど……でも,これでイシュタルがいなくなったんだから,良い方に考えようぜ」
ハヌマーンが務めて明るく言った.
「あの,皆さん……私,見たんです」
アイエルがおずおずと二人に話しかけた.
「何を?」
「一瞬しか見えなかったけど……あの人のステイタスウィンドウ……レベルが96ありました」
「何だって!?」
アイエルの言葉に,アーシュラとハヌマーンは一緒になって驚いた.
公式には現在,レベル95以上のプレーヤーはウェスティニアのクルセイデルとシノノメだけのはずなのだ.
「本当のお化けかよ……」
本物の幽霊を目撃した後の様に,三人は青ざめながら顔を見合わせた.
***
血に飢えた聖堂騎士の腕には,不気味に光る黒い輪がはめられていた.
完全にシェヘラザードに操られている.
離宮の広間は凄惨な虐殺の現場となっていた.
宮廷衛士たちが殺された後も,わずかに抵抗する素振りを見せた大臣や廷臣が次々と始末されていった.
NPCの遺骸はプレーヤーのようにピクセルになって分解されない.
惨たらしい姿はさらに残された人々の恐怖を煽った.
「プレーヤーたちが操られている……? お前,片瀬,脳に介入したのか? 最悪の違法行為だぞ.」
ハメッドがシェヘラザードの本名を呟きながら呻く.
「ハメッド――いや,稲森社長.あなた自身は第五世代なのね? まあ,アナログだこと.これはデミウルゴスが開発し,あなたの会社が販売しているプログラム‘シックスセンス’のおかげよ」
騎士団員は,獣人も人間もシェヘラザードの後ろを固め,家来になったように付き従っていた.狂気を宿した目で威嚇するように広間の人々を睨み,手には返り血を帯びた凶器を構えている.
オシリスはというと,逆に電源の切れた人型ロボットのように,うつろな目で立ちすくんでいた.
「こんな時でも世界観を壊さない様にNPCに話を合わせてあげるなんて,あなたたちは理解に苦しむわね」
シェヘラザードは肩をすくめて苦笑し,狼狽するシンバットを見た.
「シェヘラザード,お前は何者なんだ? 踊り子ではないのか?」
シンバットは未知の恐怖に小刻みに震えていた.
「ふふ,殿下.私は,物語の語り手.このマグナ・スフィアのね.貴方達のような物語の登場人物ではないの」
「何のことか,さっぱり分からない……一体何が目的だ? 私の命か? この国か?」
「お話しても分からないでしょうね.でも,この実験ももう終わり.五聖賢のほとんどが役に立たなかった.真面目に仮想世界で働いてくれたのはヴォーダンとジャガンナートだけ.その他の人間は結局生前の記憶に固執して,自分の欲望のままに振舞った.今頃,ラーフラが後始末をしていることでしょう」
シェヘラザードは少し哀しそうに言ったが,そこにいる者たちには――ヴァルナを除いて――誰にも彼女の言葉の意味が理解できなかった.
「私たちはどうするのですか? シェヘラザード様?」
廷臣――リドワンと呼ばれた太った男が揉み手をしながら尋ねた.彼はNPCでありながらデミウルゴスに共鳴して人身売買を行い,私腹を肥やした男である.
「そうね……こうしましょう.本日,カカルドゥア政府で革命がおこり,現大公と大臣は全て追放された.彼らは自分の国民をアメリアに商品として輸出し,国境の村々を侵略して奴隷を手に入れ,巨万の富を得ていたが,悪事のすべてが発覚したのだった」
シェヘラザードは考えながら,しかし澱みなく淡々と言った.
「革命だと? 追放? 一体,どういうことだ? 私たちはどうなるのだ?」
顎髭を生やした,ユリアントが金切り声を上げた.
「簡単.今回のことを知る人間は,みんないなくなればいい.舞台から退場してもらうの」
シェヘラザードが言い終わる間もなく,ユリアントの喉にはクリスナイフが突き刺さっていた.衛兵の持っていた剣を,聖堂騎士が投げたのだ.
「うわああ!」
「きゃあああ!」
広間に悲鳴が上がる.
再び何人かが逃げ出そうとしたが,聖堂騎士に取り押さえられた.
武術を修め,さらに腕輪の力で身体能力を強化している彼らに,一般のNPCが勝てるはずはなかった.
「殿下には,指一本触らせぬぞ!……ぐわっ!」
そう言ってシェヘラザードにつかみかかろうとしたスーリヤは,即座にナイフで腹をえぐられた.
「スーリヤ! スーリヤ! 貴様,シェヘラザード,悪魔め!」
シンバットは床に倒れた家令を抱き起こしたが,腹の傷は深くズボンが真っ赤な血で染まっていた.絞り出すような声でシェヘラザードを非難したが,彼女は微風ほどにも気にしていなかった.
「抵抗しなければ,今すぐには死なせないわ」
シェヘラザードがそう言うと,操られた聖堂騎士達はぴたりと動きを止めた.まるで人形の様だ.
「今後は……そうね,新王が即位して,新しい王朝になることにすればいい.民主制に移行することも,この中世世界ではできないでしょう.ここで起こったことは全部忘れてもらうか,みんないずれまとめてデリート……消去しないとね」
シェヘラザードは淡々と,他人事のように言葉を重ねていた.
消去という言葉が禍々しく聞こえたのか,頭に丸い帽子をかぶったクリル姫は侍従と抱き合って泣き始めた.
「ちょっと待った! 僕みたいなプレーヤーはどうなるんですか!?」
ニャハールが挙手して言った.
騎士団を刺激しないように,背中を壁にぴたりとつけていたかと思えば,床に頭をこすりつけるようにして土下座した.
「見逃してくださいよ! シェヘラザードさんに全面協力,新王朝の樹立に尽力しまっせ! 獅子奮迅の平身低頭,もう,何もかーも,貴女の言う通りにしますから! こうなったら人身売買でも麻薬貿易でも何でもします!」
「ふふ,猫人が新しい王朝で大公になるのも,面白いかもしれない」
シェヘラザードが微笑する.
「ホンマでっか!? マジ? 僕,めっちゃ貴方の言うこと聞きますよ!」
ニャハールは鼻息を荒くして飛び跳ねた.
「下種な奴め……!」
なりふり構わぬ取り入り方に,広報官メスメッドが思わずつぶやいた.
「馬鹿な! あ奴が大公など,そんな資格があるものか!」
ハメッドは唇を噛み締めてニャハールを睨んだ.腕には幼いころからの腹心の部下,スーリヤの冷たくなった亡骸が抱かれている.彼の怒りは爆発寸前だったが,それを今発露しても刃の餌食となるだけなのは理解していた.
「ふん,冗談よ.あなたは金ですぐ裏切る.信用できないわ.無一文がまた無一文に戻る.奴隷っていう職業に落ちてみるのも楽しいかもしれない」
「そんな!」
「いいえ,それはある意味本質.何故ニートになったり,働きたいというくせに労働意欲がない人たちがいるの? 何故社会資源が彼らのために使われるの? それはね,彼らが自由意思で生きていく能力がないからよ.もともと能力がないのに,メディアは自由だ平等だと幻想を教える.初めから奴隷の人生があれば,彼らはきっと喜んで受け入れる.そんな下らない人間たちが,現実世界の負の感情を発散させる吹き溜まりにこの世界はなりつつあるわ.貴方はどうなの?」
シェヘラザードの顔から微笑が消え,能面のようになった.瞳の奥に闇の深淵を宿しているようだ.
「ぼ,僕は……」
ニャハールが口ごもった.
「さあ,もう下らない会話も,お終いにしましょう」
シェヘラザードが手を叩いた.
ビクリ,と騎士団員が血に染まった腕を上げ,血を吸った刃物が鈍く光った.
「革命の開始.じゃあ,まずは貴方から.ニャハール」
「ええっ!」
騎士団員の一員――大柄な人豹の男が,進み出てきた.手には刃渡りの大きい青龍刀を持っている.一目で首切り処刑人を彷彿とさせた.
ニャハールは床に座り込んだまま後ずさりしたが,肩をがっちりと二人の騎士に押さえつけられた.
「だって,そんな風に処刑しやすい姿勢をしているのだもの.私,それに蝙蝠みたいに誰にでも取り入る裏切り者って嫌いなのよ.貴方,シノノメと一緒に行動していたのに,金目当てに彼女の動向を密告したでしょう?」
「僕は人一倍お金が好きなだけで,悪気はありませんよ.だって,所詮ゲームじゃないですか.それに,でも,ゲームオーバーになったって無駄ですよ.ログアウトしても,またログインすればいいし……」
ニャハールはじたばたと抵抗したが,もちろん逃げることはできない.
「あの刀には大脳停止システムを組み込んでおいたわ.下手すると脳死になるかもしれない.あなたは色々知りすぎたわ.調子に乗って離宮の中に入って来ず,普通に逃げればよかったのにね」
シェヘラザードはため息を一つついた.
「の,脳死!! た,助けて!」
ニャハールは強く頭を押さえつけられ,額が床に着いた.首を切る処刑の姿勢だ.彼はマグナ・スフィアを始めてからずっと商人なので,体が傷つくようなクエストの経験はほとんどない.襲ってくるであろう痛みと恐怖に,猫髭と猫耳が細かく震えた.
人豹の重厚な足音がゆっくりと近づいて来る.広間の人々の悲鳴が聞こえる.ニャハールの処刑は,彼らへの見せしめでもあるのだった.
ポンーー着信です.
その時,頭の中で電子音が響いた.メッセンジャーが立ち上がったのだ.
ニャハールは頭を伏せたままの姿勢で,かろうじて動かせる手を動かし,メッセージを受信した.
「だ,誰やねん,こんな時に……」
『ニャハール! ニャハール!』
音声会話モードだ.その声は,懐かしく,それでいてニャハールが聞きたくない声でもあった.
「あっ!」
『助かりたかったら,私の言うことをよく聞きなさい!』
「社長! シノノメ社長!」
ニャハールは絨毯に顔をこすりつけながら,シノノメの名前を呼んだ.
いつもシノノメの物語にお付き合いいただき,ありがとうございます.
少し物語のストックができましたので,
12月23日~25日と,12月31日~1月3日は連続アップ予定とします.
なお,通常の火曜日更新も継続します.
年末の忙しい時ですが,お楽しみいただければ幸いです.
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