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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第19章 現実と幻想の狭間で  
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19-5 砂漠の雨

 「なるほど.刀をも通さぬ氷の意志,そういうことか」

 セキシュウは折れた日本刀の柄を捨てた.

 

 「他に何でも試してみろ.どんな刀でも,槍でも構わんぞ」

 ハデスが笑う.

 彼の身体は大きく変化していた.

 氷の結晶が全身を覆い,頭髪は樹氷となってハリネズミの様に逆立っている.体もふた回りほど大きくなっていた.

 ホッキョクグマと白いハリネズミと人間を混ぜ合わせた氷の彫刻の様な,不気味な怪物になっている.

 セキシュウは何度か鋭い斬撃を彼に加えたが,いずれも傷一つつける事が出来なかった.


 ハデスを中心に冷気が吹き荒れ,辺りの炎は燃えさしを残すのみとなりつつあった.

 暗黒森シュヴァルツヴァルトも,山火事の後の森の様である.

 

 「あの二人を行かせてよいのか? 大した戦力にはならないが,囮くらいにはなるんじゃないか? 一対一で敵う俺ではないぞ?」

 口からは白い冷気を吐き出しながら,ハデスが言った.

 「カミラ――ヴォーダンを離宮の中に行かせたくないのでな.追ってもらったのだよ.それに,一対一で屈服されねば,君のプライド――心は折れないだろう?」


 五聖賢の魔法使いヴォーダンは戦場を離脱して走っていった.セキシュウはハデスを一人で引き受け, グリシャムとアルタイルに彼を追わせたのだ.


 「この俺に一人で勝つ気か? ふん,小癪な……お前の正体は大方,現実世界で昔会った日本人――どうせ狭量な政治家か,金に汚い商人ビジネスマンというところだろう……」

 ハデスは牙になった歯を剥き出しにして笑った.

 「想像はご自由に.しかし,バリシコフ,君はそうやって防御しているばかりかね?」

 セキシュウは静かな口調で挑発した.

 「おのれ!」

 ハデスは冷気を体に纏いつかせながら,鋭いワン・ツーのパンチを放った.一見地味だが,早くて的確だ.セキシュウは一撃目をかわしたものの,二撃目は脇差の峰で受けざるを得なかった.

 受けた脇差は氷結し,刀身が緩く曲がった.

 「ふん!」

 だが,セキシュウは右足で踏みこみ,曲がった脇差で真っ直ぐハデスを突いた.彼にしては少し無謀な攻撃だ.

 「ふっ!」

 勝機である.

 ハデスの目が喜色に輝いた.脇差を持った腕に,蛇のように左手をからめて肩を極め,右手でセキシュウの首をロックしようとする.だが,セキシュウは素早く体を回転させ,さらに突きあげられてきた膝蹴りをかわして距離を取った.

 「逃がすか!」

 ハデスが地面に転がり,前転する.巨体の割に鋭い回転だ.回転してそのままセキシュウの足を取ろうとして来たので,セキシュウは後ろ足を引いてそれを捌き,逃れた.

 「ちっ!」

 ハデスは舌打ちすると,もう一回転して立ち上がり,セキシュウの方に向き直った.

 

 「なるほど,分かった.これは,バエヴォエサンボだな」

 セキシュウは左半身になりながら言った.

 手をゆらりと垂らす自然体だ.流石にシノノメよりも様になっている.

 右の肩を軽く動かしている.表情には見せないが,関節技を外した時に何らかのダメージを受けたようだった.セキシュウはハデスの技を見切るために,腕を囮にしたのだ.だが,一瞬間違えば肩が脱臼するか,下手をすれば引きちぎられてもおかしくない危険な賭けだった.


 「ほう……分かるのか?」

 ハデスがニヤリと笑った.

 「貴殿が柔道とサンボをやっていたのは聞いた事がある.軍隊格闘技をやっていても不自然ではない,ということか」

 不自然でないどころか,かなりの達人である事をセキシュウは見抜いていた.


 バエヴォエサンボとは,ソビエト連邦時代からロシアに伝わる軍隊格闘技だ.コンバットサンボ,コマンドサンボとも呼ばれる.

 ’スポーツサンボ’は,日本の柔道・柔術に民族格闘技の要素が加わり(否定する者もいる),投げや関節技などの組技を競うものだ.だが,それとは一線を画し,打撃技を組み合わせた危険な格闘技である.特に関節技には定評があり,相手と組むと同時に関節を破壊してしまう.

 ハデスが見せた前転も,回転に巻き込んで相手の足をつかみ,そのまま引き倒して膝や足首を壊す技だ.同時に踵を下腹部に叩き込むので,極まれば一瞬で戦闘不能になる.


 「ふふ,お前達プレーヤーには参戦時間の制限があるだろう.あとは,HPとかMPという体力のゲージもある.俺たちは無尽蔵だ.このまま徒手戦闘を続ければ,お前の勝ちは無いぞ.だが,そんなに長引かせるつもりはない.素手でお前の身体を引き裂いてやる.ハハハ,俺に恐怖しろ!」

 ハデスは獣人と化した顔で,威嚇するように笑った.


 その姿は威厳ある国家指導者というより,憎悪と欲にまみれた醜い生き物のようにセキシュウには思えた.

 「無様な……いや,哀れなのか.永遠の命を得れば,人は欲望をどこまでも増長させるということか.瞬間に過ぎない人生を,いかに輝かせるかを人は考えるからこそ,意義があるのではないか……」


 セキシュウはハデスを恐れているようには全く見えなかった.

 どちらかと言えば,寂寥せきりょう感漂う表情をしている.

 しかし,そんなセキシュウの態度はハデスをより苛立たせた.


 「うるさい! 俺の攻撃で,お前の脳を破壊してやる.俺の記憶とともに,全てだ!」

 ハデスは大きく踏み込むと,剛拳を放った.さらに,右の前蹴り.

 それはセキシュウの胴体をぶち抜くはずだった.

 が,胸に足が当たった瞬間,違和感に気付いた.

 グニャリとして,手ごたえが無い――日本風に表現するとすれば,まるでコンニャクのような――.

 いきなりセキシュウの肘から先が消えた――様に,ハデスには思えた.

 固めた腹部に,いつのまにか柔らかいセキシュウの左拳が触れている.

 まるで鐘を突く撞木しゅもくのように――腕が揺れた.同時にブルン,と背筋の伸びた身体が震えた様な気がした.


 「ぐわっ」

 ハデスは吹っ飛んだ.身体を思わずくの字に折る.

 体の奥まで突き抜けた衝撃が,背中にまで響いている.

 息ができない.

 電子情報のみとなった体のはずなのに,内臓が捻じれ,臓器そのものが口から飛び出しそうだ.

 

 セキシュウは背筋を伸ばし,そのままゆっくりハデスの方に歩き始めた.

 何の力みもたわみも無い.

 彼は小刻みに口で吐き出すような呼吸をしていた.


 「正直,勝てるとは思っていなかったが……君の言葉でヒントを得た」

 ハデスの冷気が作り上げた凍土を踏みながら,セキシュウは近づいてくる.

 

 「お,お前は俺が恐ろしくないのか?」

 胃液を吐きながらハデスが体を起して吼える.

 「お前は俺に殺されて死ねば,二度と目を覚まさないかもしれぬのだぞ!」 

 

 「もとより,明日目を覚ませぬかも知れぬ身体よ」

 「何だと!」

 巡礼者の様に静かなセキシュウの顔に,ハデスは再び拳を繰り出した.すでに,フォームも何もない.だが,熊が前足を振るような破壊力を持っている.

 セキシュウは,ただ呼吸して歩く.

 口元には淋しげな微笑ほほえみすら浮かべているようだった.

 「今日は死ぬのに良い日だとは,ある武術家の言葉だったか.死中に活,というべきか」

 セキシュウは風に揺れる柳の木の様に体をそよがせ,拳をハデスの腹につけた.

 瞬間,触れた拳から爆発するような衝撃が生じた.同時にいつの間にかセキシュウの足がハデスの膝を外側から踏みつぶしている.


 「ぎゃっ!」

 ハデスは衝撃から逃れるために自分から後方に転がった.溶けた凍土が彼の身体を泥まみれにする.彼の身体を覆っていた氷の鎧も蒸散し,元の人間らしい体に戻り始めていた.

 だが,セキシュウの拳から送りこまれた打撃の威力が,腹の中で共鳴するように荒れ狂っている.

 体に力を込めて耐えようとすればするほど苦痛が増した.


 「何だ? 何故お前の突きは,こんなにも俺にダメージを与える? 剣で斬る事が出来ない体なのに,何故?」

 「これは……慈愛の打撃なのだそうだ.遠い昔に習った,君の故郷の武術の技だよ」

 

 ……そう,なのか?

 ハデスはふと思い出した.

 確かに,この衝撃には覚えがある.

 自分の身体が固くとどこおった場所を的確に打ち抜く打撃ストライク.その打ち手の,リラックスした笑顔……


 「若干私流に,沖縄空手や太極拳の弾抖勁も混じってしまったが……この武術はロシア正教の教えに基づき,人を傷つけず,自分を傷つけず,己自身を知り,魂を磨くための‘システム’だという」


 「シ……システマかっ!」

 ハデスは絶叫した.

 自分の脳――魂が,かつて衝撃を受けた時の事を記憶していたのだ.だから,その時のダメージが再生されてしまった.彼は瞬時にそれを悟った.


 システマ――日本の合気道にも似た,旧ソビエト連邦時代から伝わる特殊部隊スペツナズの武術だ. 原型は帝政ロシアの昔から戦士に伝わる伝統の戦闘術だという.


 あなたは,身体に力を入れ過ぎる.

 相手を従わせようと,強引になり過ぎる.

 より柔軟になりなさい.

 自分自身を知り,自分の弱いところを知りなさい.

 真に強くなるためには,善き人になりなさい.

 善き人になれば,豊かな人生に導かれる.

 それがこの武術システマです.


 そんな,まるで司祭の様な事を言うのは,特殊部隊スペツナズの元教官だった.

 その男――師範インストラクターの打撃は腹の奥の奥にまで浸透し,若いバリシコフは一撃で悶絶してしまった.

 ころりと太った丸顔に,いつも温和な笑顔を湛えている彼の顔を思い出した.


 ……力を捨て去れ,だと?

 格闘競技に,他者への愛,思いやりなど不要だ.

 一時いっとき習う事も考えたが,その理念が性に合わずに止めてしまったのだった.


 再び我に帰ると,セキシュウが語り続けていた.静かに流れるその言葉は,どこか哀しげだ.

 「貴君は強権的ではあったが,誇り高く信念のある人だった.自分の国を愛し,良くしようとする人だったと思う.だからこそ使い魔の石人形にもステンカという名前をつけたのだろう? 壁対壁ステンカ・ナ・ステンク.ロシアの伝統武術である半面,冬の農閑期に子供たちや女性も交えて楽しく競い合う集団の遊びであるとも聞いた……これは,君から直接聞いた」

 

 「日本には,‘オシクラマンジュウ’という,よく似た遊びがあると……」

 「そう,私がそう言うと,君は笑っていたな」

 セキシュウは微笑した.


 「お前は……君は,あの……」

 ハデスは思い出した.

 モスクワの大統領官邸で,杖をついた身体の不自由な初老の男に会った事がある.経済と先端技術の援助に関する会合だった.

 彼は日本の情報産業の巨頭で,趣味は武術と聞いた.身体が不自由になっても,まだ好きでやめられないのだと.

 

 『身体が不自由でいて,武術など楽しめないだろう?』

 自分は率直に――揶揄やゆするように言った.

 『閣下,日本の武術の真の目的は,心身を通じて魂を鍛える事です.魂を磨けば,体が衰えても輝き続けるのです』

 『ほう……柔道の精力善用とも違う……? 君は真の武士ということだな?』

 

 よく分からない東洋思想と思い,その時は軽く受け流しただけだった.

 だが,心のどこかに深く残っていた.


 信念.

 魂を磨く.

 ……もっと意味ある事ができなかったのか?

 永遠の生命を得て,何かを残したのか?

 いや,何もない.

 怠惰に享楽的に,私欲に生きただけだ.

 この世界で自分の力に酔いしれ,歯止めのきかない残虐行為を子供の様に楽しんでいたのだ.

 この仮想世界を通じて,現実世界をより良くする……シェヘラザードの言葉だ.

 考えれば,この世界で故国の文化をより愛される物にすることもできた.

 参加しているロシアのプレーヤー達のために,より愛される国を建国することだってできたのではないか.

 欲におぼれ,堕落した自分自身が許せない.

 私は,信念――魂を失った亡霊だ.

 ……私は虚無だ.

 

 「バリシコフ.あなたはここで,かりそめの生を生きて,何を成す?」

 セキシュウは静かに問うた.


 どこかで木の燃えさしが弾ける音がした.

 ヴォーダンの作った火事は,いつしか鎮火して辺りに熱と煙を残すだけになっていた.

 炎が上昇気流を作り,雨が降り始めた.

 砂漠の雨だ.

 豪雨は地面を叩き,セキシュウの肩を顔を,そしてハデス――バリシコフの身体を叩いた.

 バリシコフは,膝をついて天を仰ぎ,石の彫像の様にそこで動きを止めていた.


       ***


 「てりゃあ!」

 アーシュラの鯨包丁を,イシュタルは真剣白刃取りで受け止めていた.

 演武としての真剣白刃取りは,掛かり手・受け手のタイミングが合わなければ成功しない.

 現実の柔術で日本刀を捌く技は,ほとんどが剣を握った手首や肘を制する技である.絶大な切れ味を誇る日本刃の刃その物を受け止めるなどという,リスクの高い事は行わないのだ.

 だが,イシュタルは正真正銘の真剣白刃取り,すなわち刃を両手で挟んで受け止めていた.反射神経と剛力が無ければなし得ない.

 イシュタルの身体が膨れ上がった.

 背中の筋肉――脇の下の広背筋が膨れ上がり,コブラの頭の様な形になった.


 「馬鹿め!」

 イシュタルはそのまま剣を捻った.

 アーシュラも必死で剣を奪われまいと耐える.


 バキン! という音を立て,倶梨伽羅剣――鯨包丁は折れた.


 「こんな奴らが奥の手? 見くびられたものね」

 「ちっ! 馬鹿力め!」

 アーシュラは剣の柄を投げ,鎖分銅を出した.

 鎖はイシュタルの腕に絡みつくが,彼女は易々とこれを引きちぎる.

 

 「畜生,シノノメはどうやってこんな奴とまともに戦ったのよ!」

 「アーシュラ,下がれ!」

 ステップバックしたアーシュラと入れ替わりに,ハヌマーンが水平にした‘ゴリアテの盾’をイシュタルに叩きこんだ.

 だが,イシュタルは華麗にトンボを切ってこれをかわしながら,ハヌマーンの小手を蹴りあげた.

 「ギャッ!」

 ハヌマーンの手首はその一撃でピクセルになって粉砕した.


 「どいつもこいつも,雑魚ばかり! 私がシノノメと戦うのを,邪魔するな!」

 イシュタルは両手を上げて,下に振りおろした.

 

 ブウウン……と,空がにわかに曇って低い音がする.

 雷雲は確かに上空に発生していたが,それだけではなかった.

 イシュタルの頭上に再びスズメバチ――殺人ドローンに改造された怪物殺人蜂(モンスターキラービ―)の大群だった.

 「うげっ!」

 「ウギッ!」

 アーシュラとハヌマーンは思わず攻撃の手を止め,空を見上げた.

 絶望的な数だ.百匹はいないにしても,それに近い.

 

 「ハハハ! 離宮に残っていたザンボーフを全部呼び寄せてやったわ! 針の雨を喰らって,死ねばいい!」

 

 ザアアア……

 針の雨に先行するように,本物の雨が降って来た.

 豪雨だ.

 イシュタルの身体が濡れ,体の輪郭が白いドレス越しに透ける.

 金髪が水を含み,身体にまとわりつく中,澄んだ青い目が残酷な光を帯びているその姿は,ぞっとするほど美しかった.

 

 「畜生……やっぱりかなわないのか……」

 アーシュラは槍を構えた.だが,普通の槍先でイシュタルを刺せるとは到底思えなかった.アーシュラが持っている中で一番強力な武器,鯨包丁が通用しなかったのだ.

 「痛てて……HPがだいぶ減ってるよ……」

 ハヌマーンは顔をしかめながら,使える左手だけで盾を構えた.

 

 「死にたくなければ,道を開けなさい」

 雨にぬれた赤い唇で,イシュタルが命令する.


 「やなこった.それだけはやだ! シノノメは友達だ.あいつのために戦うって決めたら,通すのがアタシの意地だ!」

 「俺にだって,意地がある.ハヌマーンはアジアのヒーロー,孫悟空のモデルだぞ!」

 アーシュラとハヌマーンは大粒の雨に身体を打たれながら,一緒になって叫んだ.


 「ならば,死ね!」

 イシュタルは両手を天に掲げた.


 「君達!」

 その時,ユグレヒトの声が響いた.

 「ありがとう!」

 降りしきる雨の音の中,彼の唐突な感謝は不思議に凛と通った.


 「何っ!?」

 イシュタルが,思わず振り返る.それ程にユグレヒトの声は希望に満ちていた.

 この状況で,何に希望が持てるというのだ.

 イシュタルはそれを不快に感じた.

 彼女は現実の戦闘の絶望的な状況を知っている.勝てる見込みも無いのに,虚勢の様な,あるいは宗教がかった根拠のない希望を唱える人間に嫌悪感を抱く.

 

 「この期に及んで,無様ね!」

 イシュタルの意志に反応して,一番低空まで降りて来ていたスズメバチ達が針を放った.

 ユグレヒトの身体を十数本の太い針が貫く.ほとんど,ナイフの滅多刺しと同じである.彼の身体に不気味な黒い突起が生え,細かい血液状のピクセルが噴き出した.

 だが,ユグレヒトは刺されながらも,そろえた二本の右手の指をイシュタルに向けていた.

 ユグレヒトは口から血を噴き出しながら笑っている.

 

 「狂ったか? お前など,一番弱いから放っておいてやったのに!」

 

 瀕死のユグレヒトは指から小さな紙人形――式神を二体放っていた.

 二枚の紙片は,宙を飛び,イシュタルの目を覆った.

 一瞬視界が無くなる.


 「くっ! こんな目くらましなど!」

 イシュタルは手で無理矢理式神をはぎ取った.美しい瞼に爪の痕がついたが,それは一瞬で消える.

 だが,視界が戻った瞬間,彼女が見たのは目の前に立っているダークエルフの少女だった.


 緩くウェーブした黒髪に,褐色の肌.

 グレーのケープを羽織っている.

 フードを被ったその顔は,涙を流していた.

 少女は大事そうに――何かを抱えるように胸の前で手を合わせていた.

 手の中には,光る青白い球体があった.

 指の隙間から小さな雷電が線香花火の様に宙に弾け散っていた.

 少女の桃色の唇は,ずっと動いていた.

 「……風の精霊シルフェよ,火の精霊サラマンダーよ,我が手に宿れ.我が手に宿りて,我とともにあれ,我と共に敵を打ち滅ぼせ……」

 呪文の詠唱だ.

 少女は何時間それを唱えていたのか,声が嗄れ,唇がカサカサに乾いていた.


 「これが……俺達の,奥の手だ.飛び入り参加の,仲間と,勘違い,するんじゃ,ないぜ,イシュ,タルめ……」

 ユグレヒトはゆっくりと崩れ落ちて行く.激痛に耐えながらも,その顔ははっきりと笑っていた.

 「シノ,ノメさんの,技だ……喰らえ……」


 「何っ!?」

 ‘シノノメ’という言葉に,一瞬イシュタルは反応した.


 「行け,アイ,エル……」

 ユグレヒトは瞼を閉じた.


 そして,ダークエルフの少女は泣きながら叫んだ.


 「フーラ・ミクロオンデ!」

 

 アイエルの手からイシュタルに向かって,巨大な閃光がほとばしり出た.

 それは降り注ぐ雨を蒸発させ,空に漂っていたスズメバチの群れを焼き払ったのだった. 

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