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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第19章 現実と幻想の狭間で  
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19-4 魔女の嘲笑

 『ユグレヒト,あとどのくらいもたせればいい?』

 『あと――十五分,いや,十分,持ちこたえてくれ』

 『十分か……』

 『……厳しい要望だね』


 にゃん丸とミーアはメッセンジャーで何度目かの時間確認を行っていた.

 にゃん丸はすでにボロボロだった.

 イシュタルの使い魔であるスズメバチは,尻の先から万年筆ほどの太さがある針を発射する.左脚と左の肩をその針で打ち抜かれてしまった.体を打ち抜いてなお,針は地面に突き刺さる貫通力を持っている.

 立っているのは,ほとんど意地だった.全ては奥の手,とどめの一手につなげるためだ.


 「ふうん.猫の坊や,頑張るのね」

 イシュタルは心から感心したように言った.

 彼女の前には懸命のファイティングポーズを取ったミーアがいるにもかかわらず,だ.

 ミーアはほとんどサンドバック状態だった.最初に脚を殺されてしまったので,十分なスピードが出せないのだ.何とか急所に致命的な打撃を喰らう事を避けていたが,腕や肩はパンパンに腫れあがり,HPは激減している.

 時折,鋼鉄の鞭を思わせるイシュタルの長い脚が彼女の身体を叩くと,破裂するような音がする.

それは,猫や子供が昆虫をいたぶる様子に似ていた.

 

 「そろそろ飽きてきちゃった.お終いにしようかしら.あなたは偽物のシノノメだったけれど,なかなか面白かったわ.組技格闘家グラップラーは一対一の戦闘だと確かに強いけど,これくらい実力差があると体に触れる事も出来ないわね」

 イシュタルがクスクスと笑う.

 

 今は家庭を築いて引退してはいるが,ミーアは現実世界でも柔道とレスリングの‘元’猛者だ.ドラゴンを素手で倒したという伝説を持つ,ユーラネシア大陸の戦闘職なら一度は耳にしたことがあるという格闘技術の持ち主である.

 彼女の実力なら,つかむことさえできれば投げや絞め技,関節技を駆使して逆転できる可能性があるだろう.

 だが,イシュタルの言う通り,ミーアは指一本,服のひだ一枚つかむ事が出来なかった.

 イシュタルの着ているのはノースリーブのドレスなので裾が無い.しかも,手足そのものは動きが早すぎてつかめない.狙うとすれば襟かベルトなのだが,イシュタルの方が手足が長いので,ふところが深い.体ごと接近しなければ,決して届かない.

 時間を稼ぐだけではない.シノノメが無事戻ってきたときの退路を確保するためにも,イシュタルを無傷で返すわけにはいかない.


 シノちゃん……

 いつも孤独にしている,コミュニケーション下手な不思議な子.

 それが皆に愛されるようになった.


 脳裏にいつも何かを探しているようなシノノメの横顔が浮かぶ. 

 ミーアは覚悟を決めた.

 

 「仕方がない……にゃん丸,あとは頼んだよ!」

 「えっ! ミーアさん!」

 

 ミーアは動かない足に一度だけしか入らない気合を込め,イシュタルの懐に飛び込んだ.

 目一杯左手を伸ばせば,イシュタルの襟に何とか届く.

 襟をつかんだ.

 布地が引き延ばされ,彼女の形の良い胸のラインがあらわになった.


 「取った!」

 ミーアの顔に一瞬笑みが浮かんだが,次の瞬間,苦悶に変わった.


 「ふふ,残念,あと五センチ距離が足らなかったわね」

 イシュタルの左の爪先が,ミーアの肝臓――右わき腹を深々とえぐっていた.

 「三日月蹴り……綺麗な名前でしょう?」

 三日月蹴り――前蹴りと回し蹴りの中間軌道を通り,しかも中足(親指の付け根)で肝臓や脾臓をえぐる空手の技だ.

 ミーアがイシュタルのドレスを握りしめたまま崩れ落ちて行く.ドレスが音を立てて裂けた.

 「あら,いやだ.恥ずかしいわ」

 女性らしく頬を染め,イシュタルが胸元を隠す.ミーアのことなど最早忘れたと言わんばかりの仕草だった.

 「うう……」

 ミーアは服の切れはしを握りしめたまま地面に前のめりに倒れた.見ると,右のわき腹に巨大な穴が開いている.穴の縁は細かいピクセルとなり,空気に少しずつ溶けて分解されていた.

 穴が少しずつ広がっていく.

 急ごしらえの作戦で,ポーションや治癒魔法使いは十分準備できなかった.しかし,もしここにそれがあったとしても,とても回復させることはできないだろう.

 致命傷――ゲームオーバーにつながる傷だった.

 ユグレヒトの情報が確かなら,現実世界の彼女も強い痛みを感じて脳にダメージを受けていることになる.

 

 「ミーアさん!」

 にゃん丸は叫んだ.

 ミーアの必死の気合は,確かにイシュタルの意識を彼女だけに向けさせることに成功した.その隙ににゃん丸は,とっておきの火薬玉を放ち,動きが鈍くなった残りのスズメバチを倒す事が出来た.

 だが……


 「これで,あなただけになったわね.しかも,満身創痍.でも,つまらない.あなたは本格的な忍者の体術――戸隠流とか玉虎流骨指術を使う様に見えないわ.いわゆる,漫画や映画のニンジャでしょう? 私は本物の武術家と戦ってみたいの.このひとは,優れた格闘家だったけれど,武術家ではないわ」

 イシュタルは退屈そうにあくびをした


 「うるさい!この野郎! よくもミーアさんを! HPが減っている相手プレーヤーに,しかも自分の方が圧倒的な力なのに,ここまで無残なやり方で攻撃する意味なんてあるのかよ!」

 ほとんど立っているのがやっとの体で,にゃん丸は体を震わせて怒った.


 「それはゲームのマナーか何か? ふふ,所詮は本当の戦場を知らない平和な国民のお遊戯ね.そんなルール知らないわ.だったら,死になさい」

 イシュタルは手で胸を隠しながら,親指をちろりと舐めた.

 戦闘,そして人間の死は彼女にとって最高の興奮を与えるとでもいうのだろうか.頬を紅に染め,極上の笑顔を浮かべた.


 「ち,畜生! 喉笛に噛みついたって,簡単に死ぬもんか!」

 小さな苦無くないの刃が,あまりにも頼りなく感じられる.恐怖だけでなく,怒りで持つ手が震えた.


 「待て!」

 にゃん丸の後方――ガジュマル林の茂みがざわざわと揺れ,黒い着流しを着た男が現れた.男の周りには小さな紙人形が連なって土星の輪のように漂っている.


 「あら? あなた,そんなところに隠れていたの? 紫鈴姫を連れてきた,素明羅の商人でしょう?」


 「ユグレヒト! 何で出てきたんだ! お前は司令塔だろ!」

 にゃん丸が苦無を構えたまま怒鳴ったが,その声には口惜しさが混じっていた.

 「もう俺が出るしかないだろ? にゃん丸さん」

 「だけど……」


 二人の会話を聞いて,イシュタルは事の次第を悟った.

 「ふうん.あなたが作戦参謀ってことね.全てはこの作戦のためのお芝居か.じゃあ,あのお姫様もあなたの仲間?」

 ユグレヒトはこの問いには答えず,ステイタス‘商人’を書き記していた呪符を破り捨てた.

 「あら……あなたのステイタス……商人だったのに……陰陽師に変わった? 不思議ね……ああ,陰陽師というのは日本の占い師,魔法使いみたいなものでしょう? でも,レベル50? そんなので私に勝てると思ってるの?」

 イシュタルは世間話をするようにしゃべりながら,倒れていたNPCの商人から絹のターバンをはぎとり,胸に巻いた.

 隙だらけなのだが,今のにゃん丸やユグレヒトなら,いつかかってきても叩き潰す自信があるのだ.


 「陰陽師のスキルで,あなたに勝てるとは思っていませんよ」

 「計略と知恵ってことね.でも,私それ大嫌い.参謀は前線に出ないで,作戦の失敗の責任も取ろうとしない奴がいるから」

 イシュタルは顔をしかめた.中東のテロリストであった現実世界の過去を思い出しているのだ.


 「……我々にはまだ,奥の手があるからな」

 ユグレヒトは眼鏡を軽く押し上げ,やや上目遣いでイシュタルの目を睨んだ.


 「奥の手?」

 イシュタルは頬に手を当て,顔を不思議そうに傾けた.何も知らない人間が見れば,ぞっとするほど美しいと思うだろう.無造作に胸に巻いた赤い絹も,美貌の彼女が身に着ければ,まるで意図してあつらえたファッションのように見える.砂漠の風に優雅に揺れていた.

 

 そして,あることに思い当たった.

 「待て……お前,ステイタスが商人から変わっていた……もしかして,シノノメも!? ……あの姫か? それとも侍女か!?」

 イシュタルの口元から笑みが消えた.


 「まさか!」

 イシュタルは自分がやって来た離宮の方を振り返った.

 「もう,中に奴がいるのか!?」


 「さて? どうかな?」

 ユグレヒトが呟く.悪魔のような敵に彼はぎりぎりの精神的勝負を挑んでいた.

 「くそっ! お前たちなど相手にしている場合ではない!」

 イシュタルが離宮に向かって走り出そうとした,ちょうどその時だった.


 「うりゃああああああああああ!」


 馬鹿でかい気合が突然斜め後ろから聞こえてきた.

 イシュタルは慌てて振り返った.


 「もしや,シノノメ!?」

 造園で配置された岩を吹き飛ばし,石像を破壊しながら,冷蔵庫並みの大きさを持った丸みを帯びた方形の盾が,自分に向かって突進してくる.

 盾が突進してくるという言い方は奇妙なのだが,盾があまりにも大きいせいで,後ろに誰がいるかわからないのだ.盾は少し金色を帯びた銀色である.

 まるで暴走するラッセル車かブルドーザーだ.しかし,これだけの速度で運ぶとなると,相当な大力の持ち主だろう.華奢なシノノメではありえない.


 ――だが,明らかに自分に敵対する者だ.

 「誰だ?」

 イシュタルは体を翻し,猛進してくる盾に自分から向かっていった.

 「ふんっ! こんなもの,へし割ってやる!」

 渾身の力で左のミドルキックを放った.キックボクシングの蹴り方だ.スイッチ――足を踏み替える動作と重心移動により,体当たりに匹敵する力積ダメージを相手に加えることができる.


 巨大な釣鐘を鳴らすような鈍い音が響いた.盾は無傷である.異常に丈夫な素材でできているようだった.

 そして,それを支える持ち手も衝撃に耐えきっていた.少し後ろに揺らいだだけで倒れない.

 

 「あっ!」

 イシュタルは目ざとく気づいた.持ち手の指が,盾の下側にかかっている.それは……

 ブン,と空気を切る音を立て,盾がぐるりと回転した.

 「でりゃあっ!」

 盾を操っていたのは,身長二メートルほどの金毛の人猿ワーエイプ――ハヌマーンだった.長い腕を使い,まさに猿のように器用に盾を空中で回転させる様子は,中国拳法カンフー映画で,拳法家が武器にする椅子机の様だ.

 両手でくるくると盾を回転させ,薙ぎ払い,叩きつける.金剛力とアジア武術の技を持ち合わせた,ハヌマーンだからこそできる攻撃だった.


 「へへっ! 役立たずアイテム,ゴリアテの盾の面目躍如だ!」

 まるでジャグリングである.

 ハヌマーンを中心にオリハルコン製の盾は生き物の様に高速で動き回る.アーシュラが両手で運ぶのがやっとだった役立たずアイテムに遠心力が加わり,四隅の角は風を切ってうなりを上げた.時折イシュタルが反撃して盾を蹴ったり殴ったりしてもびくともしない.


 「くっ! 何だ? この丈夫な盾は? だが,こんな大振りの攻撃など私に当たるものか!」

 盾がブウウウンと音を立て,グルリと回転して脚めがけて打ち込まれてきた.イシュタルは攻撃をかいくぐり,宙に飛びあがった.

 「死ね! 猿め!」

 白くて長い脚が跳ね上がり,ハヌマーンの赤い顔にまさに叩き込まれる瞬間,彼の背中から赤い髪の戦士が飛び出してきた.

 「性悪女! これはアタシの船の仇だ!」

 鯨包丁‘倶梨伽羅剣’を大上段に構えたアーシュラだった.彼女はこの瞬間のため,ハヌマーンの背中にしがみついていたのだ.

 「食らえっ!」

 「貴様! あの時シノノメといた……!」

 「アタシの名前は,アーシュラだ!」

 アーシュラはイシュタルめがけ,渾身の力で剣を叩きこんだ.

 

    ***


 「生き証人はここにおります!」

 ハメッドはユグレヒトからもらった札を捨て,広間の中央に歩みだしていた.


 離宮の外では激しい戦闘がまだ続いているらしい.

 先ほどは誰が発したのか,絶叫が聞こえた.

 対照的に,離宮一階の扇形の広間は水を打ったように静かになっていた.


 「そなた……確かに,ハメッドだ. ナジーム商会の前・会長ギルドマスター……何故そのような,素明羅の商人の様な姿に? なぜお前がここにいるのだ? 横領のためにギルドを追放されたと聞いていたぞ」

 誰ともなく,廷臣の一人が呟くように尋ねた.


 『まずいぞ,シノノメ.あのオッサン,自分から正体をばらしちまった』

 『もう,色々な悪いことを隠しているのが嫌になったんだよ.マユリちゃんのお父さんに任せてみようよ』

 『任せるったって……』

 『うん,奥に忍びこむタイミング,どうしよう?』


 紫鈴姫しれいひめとその従者に変装したシノノメとヴァルナは,少なからぬ動揺を隠しながらメッセンジャーでそんな密談をしていた.

 ちなみに侍女役のネムは,‘我関せず’で黙々と編み物を編んでいる.ある意味完璧な侍女の演技カモフラージュといえないことはない.


 「私は」ハメッドは少し考えて言葉を継いだ.「身分を偽って紫鈴姫様の御一行に拾って頂いたのです」

 

 「な,何ですって! あちき,そんな事は知らないでありんす!」

 シノノメは調子を合わせ,わざとらしくならない程度に驚いて見せた.思わず衣装の雰囲気でくるわ言葉を使ってしまったが,誰もそのことには気にしていないようだ.

 『大根役者……』

 ヴァルナだけが白い目で見ていた.

 

 「シンバット殿下,私は,そこなシェヘラザードと五聖賢とともに,アメリアとの密貿易,不正な人身売買に関わっておりました.アメリアの機械人は,子供たちの臓器を自分たちに取り込んで体を強化するのです.我々はならず者を雇い,商品にするために幼い子供たちを誘拐していました」

その声は広間中に響いた.

 ハメッドは背筋を伸ばし,真っ直ぐ前を見て立っていた.

 「何だと! 貴様! この悪魔め! それでよくおめおめと姿を現したものだ! 何をしにここに来た!」

 若い青年王は激高して近づくと,ハメッドの胸ぐらをつかんだ.

 だが,ハメッドは臆することなくシンバットの瞳を見て言った.

 「私のかけがえのない……最愛の娘は不治の病に侵されております.治療薬を得るためには協力せよと,彼らに話を持ち掛けられたのです」

 

 「娘……不治の病……?」

 シンバットの手の力が若干緩んだ.

 

 「ですが,だからと言ってこれだけの罪を犯したことが許されるわけではありません.結果,その報いに……ジャガンナートに娘を連れ去られてしまいました.その時,やっと目が覚めました」

 「何と……?」

 「ジャガンナートは,つ国の子供たちをこの世界に誘拐しているのです.悔やんだ私は彼らへの協力を断った結果,ギルドの長を解任されました」

 シンバットはハメッドの襟を離し,手を下ろした. 


 「なれど,お主も奴らの一味ということであろう!」

 広報官のメスメッドが叫んだ.広間の壁が共鳴してびりびりと振動する.


 「メスメッド様,畏れながらあなたは何故この事実を知らなかったのです?」

 ハメッドが静かに問うた.

 「それは……私のところには情報が入ってこなかった……」


 「そこにおられる廷臣のご歴々! 特に,財務官ユリアント殿,通商大臣ワーリー殿! 事務次官リドワン殿! 知らぬとは言いませぬぞ! 情報を操作し,全ての罪をシノノメと聖騎士ヴァルナになすりつけ,私財を肥やしているのはあなた達でしょう!」

 ハメッドは良く通る声で叫んだ.

 名前を呼ばれた廷臣たちは体をビクリと震わせた.


 「私は,娘を返していただくためにここに参りました.馬鹿な親である私の濁った眼を覚ましてくれた娘を,何としても取り戻さねばなりません.その一念で忍び込んだのです.そして先ほど,シセ姫様にこのことを大公殿下に申し上げる勇気をいただきました.――これまで,私は娘を救うという目的のためにどれほどの非道な所業を行ってきたことか……」

 ハメッドはシセの方を振り返った.まだ床にひざまずいているシセの表情は固かったが,その眼に微笑みを含んでいるように感じられた.


 「何と……何ということだ.そうか……ハメッド,お主を許すことはできぬが……よくぞ申してくれた」

 シンバットはひと言ひと言を噛み締めるように発しながら,ゆっくりと右手を挙げた.

 「衛兵! 聖堂騎士団の諸君! シェヘラザードとオシリス,並びにユリアント,ワーリー,リドワン,そしてそれに連なる者どもを捕縛せよ! その者たちは,カカルドゥア千年の栄光の歴史に泥を塗った! 極刑に処す!」


 「はっ!」

 再び衛兵は蛇行する蛇のような剣――クリスナイフを構えなおした.

 今度は全員が躊躇していない.切っ先はぴたりと喉元に突き付けられている.

 「承知!」

 聖堂騎士団も同じ様に行動した.彼らの武器はカランビットナイフや,両刃剣ダガー,グルカナイフ,半月刀,そしてフィリピン武術のカリ・スティックだ.いつでもオシリス達に必殺の一撃が加えられるように構えをとった.

 「悪即斬!」

 彼らの信条はこの国の正義を守ることだ.真の悪人たちの卑劣な犯罪が明らかになった今,怒りに燃えている.

 そして,名指しされた廷臣たちは逃亡を防ぐために縄で縛られると,がっくりと肩を落とした.


 だが,剣の切っ先が白い皮膚にわずかに食い込んでさえいても――シェヘラザードの微笑は変わらなかった.

 「ふふ,何という茶番でしょう.カカルドゥア千年の歴史? まだ十歳にも満たない王が,何を言っているのかしら.作られた歴史と記憶を与えられ,信じ込んでいるだけだというのに……」

 

 「何,何のことだ!?」

 シンバットだけではない.その場にいたNPC達全員がシェヘラザードの言葉に耳を疑った.

 

 シェヘラザードはゆっくり右手を挙げた.

 光沢のある白い蛇が月光を浴び,空へ昇っていく姿にも見える.

 舞を始める前のように優美で攻撃の意図を含まない動作だ.

 それは,無抵抗を示す仕草にも似ていたため,衛兵たちはただ見守るばかりだった.

 手が上に上がりきった時,パチン,とシェヘラザードは指を鳴らした.

 同時に手首に着けた金の腕輪がシャランと音を立てる.

 すると,彼女の手首から空間に向かって赤い光の輪が波紋のように広がった.

 

 「な……」

 不思議な光景に,一同の動きが止まる.まさに池に石が投げ落とされた直後の様に一瞬の静寂が訪れた.


 「ぎゃあっ!」

 だが,突然の悲鳴にその静寂は破られた.

 聖堂騎士団の一員――虎人の男の持ったグルカナイフが,衛兵の首を切り裂いたのだ.

 あっという間だった.

 広間のあちこちに次々血飛沫が噴き上がる.

 十人の騎士団員はつむじ風のように動くと,自分たちの倍以上の数の衛兵を瞬く間に全員殺していた.

 ある者は喉を突かれ,ある者は心臓を突かれ,ある者は腎臓を……全てほぼ一撃だった.

 戦闘のプロ集団である彼らにかなうNPCの戦士など,この国のどこにもいない.

 正義を守るはずの彼らの目は赤く充血し,瞳は金に輝いていた.その光には狂気が宿り,理性の欠片も感じられない.シェヘラザードとオシリス以外の人々を,獣が獲物を探す様な眼で睨んだ.

 

 「きゃ……」

 「ひぃ……」

 広間にいた人々は,あまりに唐突に始まった凶行に感情がついていかず,声を失った.

 ややあって,絶叫と悲鳴が巻き起こった.

 「うわあああ!」

 「人殺しだ!」

 「聖堂騎士団が謀反だ! いや,乱心した!」

 「助けて!」

 我先に逃げ出そうとする人々の退路を塞ぐように,聖堂騎士団が立ち塞がる.しかも,入口の扉は外から鍵をかけたようになって開かない.

 広間の中は完全な恐慌パニック状態になった.


 「こ……これは? 一体,シェヘラザード,貴様,騎士団に何をした!? お前は魔女か!? 悪魔なのか!?」

 シンバットがかすれた声でようやく叫ぶ.


 「さあ,もう,この物語はお終いにしましょう」

 シェヘラザードはゆっくりと広間の中央に歩み出ると,その美しい唇を両側に引き上げて笑顔を作った.

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