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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第19章 現実と幻想の狭間で  
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19-2 絶体絶命

 「おのれ,シノノメ,小娘め……」

 ハデスは暗黒森シュヴァルツ・ヴァルトの梢の上に立ったグリシャムを睨みつけていた.

グリシャムの大技,暗黒森シュヴァルツ・ヴァルトは,巨大な植物の塊を放ち,その食物連鎖――生命圏の中に敵を閉じ込めてしまう,自己増殖型魔法である.

 整然と作庭された離宮の前庭は,彼女の森によってほぼ真ん中で分断されている.植物群の先端は離宮の正門扉にぶち当たり,絡みついていた.

 グリシャムとハデスが対峙しているのは,上手かみて側である.森を超えて反対側ではミーアたちがイシュタルや兵士たちと戦っているはずだった.

 こちら側にいた兵士たちはハデスの石人形ゴーレム‘ステンカ’とともに植物に飲み込まれ,行動不能になっている.


 「貴様,ヴォーダン! 何をぼうっと見ている!」

 ハデスは振り返り,石舞台の隅で呆然と黒い森を見つめる魔法使い――ヴォーダンに向かって怒鳴った.

 「やはり軍事経験のない,所詮元‘女’か! 奴隷商売と金儲けに精を出しておればよい! 戦う気がないなら,離宮の中に隠れていろ!」

 ヴォーダンは,生前はドイツの女性首相で,経済学者だった.それにしてもひどい侮蔑だった.


 「侮辱するな! ロシアの独裁者め!」

 ヴォーダンは烈火のごとく怒ると,石舞台を飛び降りて銀の杖を振った.

 「故郷の森に似ていたから,ふと懐かしくなっていただけのこと.フレンメよ,燃え盛れ!」

 くす玉ほどの火球が五つ宙に形成され,グリシャムめがけて飛んで行った.

 「植物の魔法なら,火には弱いはず!」


 炎の玉はグリシャムの立っていた杉の木に火をつけ,彼女自身にも向かっていった.

 「うわっ!」

 だが,あわや当たるという瞬間に空から飛んできた天馬の乗り手が彼女を引き上げて飛び去った.


 「おい,お前,無理するなよ! 大技使った直後だろ!」

 緑衣のエルフ,アルタイルはグリシャムの脇に腕を差し入れ,自分の前に乗せた.天馬はグリシャムを背に乗せると急速に高度を上げて離脱した.


 「無理なもんですか.だから,命令しないでよ」

 グリシャムは背中でアルタイルを押しながら言い返した.

 と,言いつつも,彼女のMPは大幅に減っている.アイテムボックスである肩掛け鞄からポーションの瓶を出し,ラッパ飲みした.

 「やっぱり,シノノメさんのポーションみたいには効かないなぁ……これもレアもの,‘八戒さん’なんだけど」

 茶色い瓶に貼られた豚マークのラベルを見ながら,グリシャムは唸った.


 「この前現実リアルで一緒に飲んだ,‘八海山’は美味かったけどな」

 アルタイルは手綱を取りながら,腕の中のグリシャムを見た.エルフの長い耳の先と,白い頬が少し赤らんでいるようで,可愛らしい.‘酒’型ポーションの効用だ.こんな時だが,思わず抱きしめたくなってしまう.

 「ふっ! ナイナイ.まだまだ修行が足らないわね……酒の道というものは……きゃっ!」


 二人の会話を断ち切るように,離宮の方から銃弾が飛んできた.天馬オルフェウスはユーラネシア大陸最速の乗騎だ.銃の射線を読み,回避しながら宙を飛んでいる.

 尖った巻貝に似た離宮の塔のあちこちからフジツボのような突起が生えていた.銃眼があり,中には対空防御用の銃が配置されているのである.


 「あの銃座というか砲塔というか,さっき射てみたんだけど,手ごたえがない.あの中,どうやら人間はいないぜ」

 「自動で銃を撃っているって言うの? でも,そんなのナイわ.だって,ロボットや複雑な機械はユーラネシアじゃ動かないもの.さっきの蜂だって,クエストに出てくる怪物殺人蜂モンスターキラービーに機械を埋め込んだようなものでしょう?」

 「幸い対空砲火で対地攻撃用じゃない.高度を落として避けられるが,離宮の中で操ってる奴をやっつけないと止まらないぜ.おまけに……おっと,今度はあいつかよ! なんだ? このでたらめな攻撃は!」


 離宮からの対空砲火を避けて高度を落とした天馬に,今度は地上から火炎が襲い掛かってきた.

 魔法使いヴォーダンの火炎だが,さながら高射砲か高出力の火炎放射器だ.

 しかも,途切れることがなかった.

 「プレーヤーと違って,MPの配分や量を気にしなくてもいいってことね.迷宮のボスキャラよりもたちが悪いわ.どうやったら倒せるの? こんなのアリなの?」

 「ねえよ! くそっ,化け物め!」


 火線の間を天馬は縫うように飛んだ.ほとんどぎりぎりだ.天馬が体を揺らす度に空気が焦げる臭いが鼻を突く.

 そうしている間にグリシャムの‘暗黒森’は盛大な山火事と化していた.

 大量の植物に火が燃え移り,地獄の業火とも言うべき炎が荒れ狂っている.

 前庭にもともと植林してあったヤシの木や石像も,炎を帯びながら爆発するように木っ端微塵に破壊されていった.

 下を覗けば辺りは一面の火の海である.溶鉱炉にも似た地上からの猛烈な熱と煙が,グリシャムとアルタイルを襲った.


 「そんな,なんて出鱈目な威力……!」

 「畜生……ここから全速力で離脱したくなるぜ!」

 アルタイルの額には,熱のせいだけではない汗がびっしりと球を作っていた.

 「離脱なんて駄目よ! シノノメさんのために,時間を稼がなくっちゃ!」

 グリシャムは天馬オルフェウの首にしがみつきながら叫んだ.だが,オルフェウスも汗で体毛が濡れている.

 「分かってる! 植物の壁が炎の壁になっている.奴らを分断する役目がまだ駄目になったわけじゃない.何とか踏ん張るぞ.オルフェウス,頑張れ!」

 アルタイルは時折グリシャムに降りかかる火の粉を腕で振り払い,手綱を握りしめた.


 「くそっ! シノノメめ! 飛び回るな! 当たれ! 当たれ!」

 しかし,ヴォーダンは杖を振り回しながら歯噛みしていた.

 彼の攻撃はアルタイルとグリシャムを十分苦しめているのだが,自分の目標である‘炎で相手を直接燃やすこと’ができないことに苛立っているのだ.

 彼は完璧主義だった.

 自分の目的が思惑通りの手段で予想通りの結果を達成する,ということに異常なまでに執着する.そのためには徹底し,妥協を許さない.


 「ヴォーダンの無能め.どいていろ!」

 ハデスがヴォーダンを無理やり押しのけたので,炎が一瞬止んだ.

 「シノノメは,俺が殺す」

 「シノノメは捕えるのが目的だろうが!」

 「捕らえようとして抵抗したので死んだことにすれば良い!」

 ハデスは強引だった.

 ヴォーダンとはある意味正反対で,目的のためにはどんな手段を取ろうと気にしない.その結果目的であったことがすべて台無しになっても,それを自分の中で正当化してしまう.

 それにしても二人とも,ステイタスの表示‘シノノメ’を全く疑っていなかった.魔法の質の違いや戦術,アバターの容姿など,彼らには関係ないのだ.

 ’電子情報データ‘こそが真実.自らが電子情報である彼らのいびつな認識だった.


 「むう,俺のもう一つの能力を見せてくれる」

 ハデスは腰から両刃の剣を抜いた.

 「永久凍土ヴィエチナヤ・ミィエルズロータより,吹雪ミィティェよ,来たりて剣に宿れ!」

 ハデスが剣を振りかぶって空気を斬ると,吹雪の音がした.

 冷気の塊が発生し,グリシャム達に向かって三日月状に白く染まった空気が凄まじい速さで飛んでくる.

 アルタイルは慌てて避けようとしたが,天馬の右翼がそれに触れると,そこはあっという間に氷結した.

 「いかん!」

 叫ぶ間もなく鷲の翼が氷の粒になって砕け散る.オルフェウスは嘆く様な高いいななきを残し,細かいピクセルになって地上に落下していった.

 グリシャムが魔法の箒を出す暇もなく,二人は地面に激突した.


 「これでいい.ウロチョロ飛び回りおって」

 ハデスは剣を右手で下げながら,ゆっくりと歩みだした.

 彼が踏む地面はたちまち氷結して氷の膜ができる.足の裏には霜柱が立ち,それを踏む砕くジャリジャリという音がした.

 彼の身体は極寒の冷気を帯びているのだ.鎧に白い結露が付着し始めている.砂漠の中で嘘のような光景だった.


 「うう……」

 十メートルはある高さから落下したのに,意外と衝撃は少なかった.グリシャムが目を開けて確認すると,自分の下敷きになっているアルタイルがいた.身を挺して落下の衝撃から守ってくれたのだ.

 「アルタイル……」

 だが,彼の体をいたわっている暇はなかった.

 向こうからジャリジャリという,氷を踏みつぶす音が聞こえてくるのだ.

 体を起こして見ると,周囲の植え込みは樹氷となり,ハデスから二人の方に向かって身も凍る冷たい風が吹いてくる.横を見ればまだ暗黒森シュヴァルツ・ヴァルトの火事は続いているのに,その熱が体に届いてこない.

 「冷凍系魔法……こんな灼熱の砂漠の中なのに……アルタイル,しっかりして!」

 とりあえずどんな形でも,ここから逃げなければならない.

 ログアウトして離宮近くのセーブポイントからもう一度やり直すにしても,これだけの暴動が起こっているのだ.前のポイントは敵だらけになっている可能性が高い.とにかくこの場を離脱してログアウトしなくては意味がないのだ.

 ユグレヒトから聞いた情報では,彼ら‘至高の人間’の攻撃は,脳に障害を起こす事もあるという.にわかには信じがたい事実だったが,かつてシェヘラザードによりデミウルゴスの計画に加担させられたグリシャムには理解する事が出来た.

 

 ……彼らは人間の脳に作用するこのVRシステムを使って,何か途轍もなく恐ろしい事を考えている.

 

 グリシャムは自分の下敷きになっているアルタイルを揺り動かした.会えば喧嘩ばかりなのに,最近よく現実世界で会っている.会わなければ何となく互いの事が気になってしまう.

 

 「お前だけ逃げろ……」

 「馬鹿なこと言わないでよ!」

 アルタイルは痛みで苦笑し,かろうじて上体を起こした.見ると,左腕がだらりと力なくぶら下っている.現実世界なら骨折か脱臼になるような大きな衝撃が加わったらしかった.

 これでは彼の得意の弓は使えない.

 「畜生,カッコつけさせろよ」

 「格好で死ぬなんて,そんなのナイ!」

 グリシャムはアルタイルを抱き起こした.アルタイルは首をめぐらせて辺りを見る.燃え盛る炎に囲まれているのに,身を切るような冷風が吹きすさんでいる.特に,退路である筈の正門側には木のアーチがあったのだが,今は劫火のアーチに変わっていた.

立ちあがったところでどこにも逃げ場はなかった.

 「何だこりゃ.寒いんだか熱いんだか分からない世界にしやがって……」

 「皮肉はいいから,脚を動かして!」

 「どこに逃げるんだよ……」

 「いいから!」


 だが,足を震わせてようやく立った時にはすでに,ハデスが五メートルほど前方に迫っていた.

 体に冷気を帯びている.

 彼は口元に冷たい微笑を浮かべていた.だが、氷雪のような薄い青銀色の眼は全く笑っていない.獲物を見つけた狼を連想させた.

 

 「おや……? お前? シノノメではないのか?」

 ハデスは立ち止り,首を傾げた.

 どうやら落下した時にグリシャムは身につけていた隠身術ハイドアンドシークの呪符を落としたらしい.体に経を書かれた耳無し芳一の姿を見失った平家の亡霊の様に,ハデスは二人のいる場所を眺めている.


 「へっ,そうさ. だったら見逃してくれよ」

 対峙するだけで気が遠くなりそうなほどの殺気だ.アルタイルは必死で気力を振り絞り,ハデスを睨みながら言った.


 「いや……これはいい.だったら,貴様らを生かしておく必要は無いという事だ.ヴォーダン,それでいいな?」

 ハデスは獰猛な笑みを浮かべ,後から追いすがって来たヴォーダンに同意を求めた.

 「うむ,我々の事業を邪魔する者は仕方なかろう.」

 ヴォーダンは愛する家族を見る様な優しい笑顔を浮かべて顎髭を撫でると,魔法のワンドを振った.

 銀色の輪が弧を描き,四人を囲んだ.

 「これでお主らはログアウト出来ない.永遠に死に続けるもよし,苦しみ続けるもよし」

 笑いながら歌う様に,いや,まさに歌っている.燃え盛る炎の爆ぜる音を伴奏に,彼はテノールの声で高らかに叫んだ.深い低音がグリシャムとアルタイルの腹を打ち,振動させた.

 

 「人の命を何だと思ってるの!」

 グリシャムは叫んだ.万能樹の杖の先を突きつける.自分の魔法がどれほど効果的なのかは分からない.だが,最後まであきらめない.もう一度シノノメと会うまでは.

 アルタイルも右手につがえる事の出来ない矢を握っている.絶体絶命でも,彼らに一矢報いたい気持は二人とも同じだった.


 「我々選ばれし永遠の存在にとって,お主らの命など虫ケラ同然だ!」

 「我々は何をしても罰せられる事は無い.咎められる事も無い.我々は,至高の存在なのだから!」

 そう叫んでハデスとヴォーダンが再び歩き始めた時,グリシャムとアルタイルの奥側――正門に向かう側の炎が揺らめいた.


 「強欲.それで身の滅亡を招いたというのに,まだ止められませんか? バリシコフ閣下?」

 炎の中に男の影が映る.

 生前の自分の名前を呼ばれ,ハデスの歩みが止まった.


 「そして,傲慢.愛するオペラを歌いながら,殺人を犯すのかね? カミラ?」

 男は体に舞い降りる火の粉を降り積もる雪の様に払うと,目深に被った陣笠を押し上げ,言った.


        ***

 

 「そ,それはまことか?」

 避難した離宮の中で,シンバットの声は震えていた.

 テュルク族,オキクルミ支族の族長,シセルニチプは形の良い顎を引いて頷いた.

 「……北部の森という森の木々は伐採され,鉱山の利権は奪われ,大人も子供も強制労働に駆り出されています.女・子供は奴隷として売られているのです」

 シセルニチプ――シセがシンバットに直訴していたのは,カカルドゥアの光と闇――経済格差の結果犠牲になっている北部の人々の事だった.

 彼女の澄んだ声が広間に響く.

 シンバットだけでなく,居並ぶ廷臣たちも色を失っていた.

 まだ少女と言っても良い年頃のシセだったが,その声は堂々として聞く者の胸を打った.

 

 「奴隷に売られる? どこへだ?」

 「ここ,サンサーラの都にはすでに奴隷の闇市が立っております.奴隷になるならまだ良い.ハラワタを抜き取られ,アメリアに売り飛ばされている子供までいるのです」

 「そんな……人間のハラワタを売る? アメリアの奴らはそんな物を買ってどうするのだ? いや,我が国民に,そんな悪魔の様な商売をする奴がいると言うのか?」

 シンバットの顔からさわやかな笑顔はすでに消え去り,土気色になっていた.

 「先日,‘工房’とやらから我々の村に逃げ帰って来た子供達の言葉です.子供達はエプロンをつけた不思議な女性と聖なる竜人の御方に助けられたと申しておりました.どうして年端も行かぬ子供達がこのような残酷な嘘を申す事がありましょうか?」


 この言葉には広間にいた一同全てがどよめいた.工房はカカルドゥアの製薬研究所で,それをシノノメ達テロリストが破壊したというのが公式の発表だったからだ.


 「エプロンをつけた不思議な女性……って,私の事だよね.でも,すごい展開になってきたな.どうしよう?」

 シノノメはさっきから,この勇気ある少女に感心しながら話を聞いていた.

 もちろん,顔にはどんな感情も出せないが,改めて聞くと国境地帯の状況は余りに悲惨だった.思わず怒りが出そうなときは,扇で優雅に隠している.だが,離宮の奥へと忍び込むタイミングがつかめずにいる.

 「どうしよう? ったって,しばらくは様子見するしかねえ.だけど,俺の名前は上がらないのかな.ちょっとは俺も助けたのに」

 ヴァルナは相変わらず何も考えていないように見える.

 シノノメは小さくため息をついてハメッドの様子をうかがった.

 彼は拳に爪が食い込むほど固く両手を握りしめていた.

 仮想現実とは言え,自分の犯した罪の大きさ,そして,引いてはそれが最愛の娘を奪われる結果になってしまった事を激しく後悔しているのかもしれない.瞬きもせずに彼はシセを見つめていた.


 「シ,シセルニチプ! 殿下のおん前で,嘘をついておるのではあるまいな! そんな事は報告に上がっておらぬ! 偉大なる第五十七代大公殿下が,百年前に奴隷制度を撤廃なさったのだぞ」

 美声が自慢の広報官,メスメッドの言葉は震えていた.

 だが,シセの言葉が嘘であるとは彼自身が思っていなかった.

 シセの言葉はそれ程に明瞭で,理路整然としている.そして,このような――下手をすれば投獄されるかもしれないような直訴の仕方を選んだことからも,嘘であるとは到底思えない.メスメッドは恐ろしい事実を信じたくないだけだった.


 「私の一命に代えてもこれは嘘ではございませぬ.北部諸氏族が連名で何度も嘆願書を送りましたが,何もお返事をいただけませんでしたので,私が直々にご意見申し上げるほかないと存じ,こうして参った所存です」


 「な……何も返事を? 余……私は何も聞いていないぞ……」

 シンバットは喘ぐようにしながら,やっとのことで返事した.


 「畏れながら殿下,数名の使者は森で亡き物にされておりました.殿下の御耳に届けたくなかった奸臣かんしんがいる事に間違いありませぬ」

 シセはひざまずいたまま,ただ強い意志を宿した目でシンバットを見つめている.


 「ぬっ! 二週間前,サンサーラ宮の排水溝で死んでいる北方系の男が見つかったが,何も持っていなかったので身元不明だった.まさか,あれも……?」

 家令のスーリヤが手を打った.彼はいわゆる王族の執事――大公家の会計や召使などのすべてを取り仕切る役目だ.ふと思い当たる事実に,たちまち顔色が蒼白になっていく.


 「それが私と同じ髪の色でしたら……それは我が兄,シュプランカでございましょう.兄は……私の代わりに族長を継ぐはずでした」

 この言葉を口にした時,シセの目が初めて少女らしく潤んだ.


 「何という事だ……私は盲目であった……」

 シンバットは苦悶の表情を浮かべてうなだれかけたが,すぐに体を起こして一喝した.

 「ニャハール!」

 シセの言葉に何の興味もなさそうな顔をして壁にもたれかかっていたニャハールは,突然名前を呼ばれて直立不動になった.

 「はっ! はい?」

 「お主,カカルドゥア最大の商業ギルド,ナジーム商会の会長ギルドマスターであろう! このような非道な商売を知っていたのか?」

 「いやいや,滅相もございません! 私はこの前代替わりしたばっかり.前の会長がアコギな商売していたかーもしれませんが,清廉潔白,明朗会計が僕の信条でござりまする!」

 ニャハールは全力で両手――前足を振った.

 

 大公は怒りに満ちた大股で荒々しく歩くと,今度はシェヘラザードに詰め寄った.

 「では,シェヘラザード! お前はどうだ! お前は知っていたのだな? 五聖賢を私に引き合わせ,工房を作ったのも,お前だ.オシリス,あなたもか!? そして……イブリース殿,あなたも,あなたもご存じだったのですか?」

 激しい怒声で始まった青年王の言葉だったが,赤い頭巾をかぶった人物の方を向いた時何故か途中で調子を変え,最後の方は悲哀に満ちているように聞こえた.

 「ええい,こ奴らを,拘束しろ!」

 シンバットが震える指でシェヘラザードを指差すと,衛兵たちがクリスナイフを抜いて突きつけた.NPC達の様子を見て聖堂騎士団プレーヤーの護衛兵もしばらく顔を見合わせていたが,同じように武器を構えてシェヘラザードとオシリスに迫った.

 ギラリ,と光る刃物にシセとシノノメ以外の姫達から小さな悲鳴が上がる.


 自分の身体に突きつけられた数十振りの刃物を眺めながら,シェヘラザードは悠然と笑って腕を組んでいた.豊かな胸の谷間が影を作る.

 彼女の濡れた瞳は床にひざまずいたシセをじっと見下ろしていた.これまでじっとシンバットの顔を見つめていたシセだったが,シェヘラザードの視線を受けて思わず眼をそむけた.シェヘラザードの瞳の中に呑み込まれそうな錯覚を覚えたからだった.


 「でも,証拠はどこにあるの?」

 シェヘラザードは整った赤い唇を開き,一言だけ言葉を発した.


 「君たちには理解できないかもしれないが,工房では新しい薬で病気の子供達の治療を行っていたのだ.非人道的な扱いをしていた研究者たちは私が制裁した.人身売買については知らなかった……」

 オシリスはホールドアップするように軽く両手を上げ,弁明している.巨体の彼の方がシェヘラザードよりもよほど動揺しているように見えた.


 「シセさん,あなたの言葉以外の確かな証拠はどこに?」

 さらにもう一言.シェヘラザードの言葉は場を支配する.

 魔笛の様に心地よい彼女の声が広間に響くと,目を虚ろにしたメスメッドがその言葉に頷いた.

 「そうだ,証拠はどこだ? 証拠がなくては,信じられぬ……」

 「証拠……」

 「そうだ,証拠は?」

 動揺した衛兵たちは,突きつけていた剣の切っ先を下げた.

 なにせ,彼女の正体を知らない者にとって,シェヘラザードはただの美しい踊り子なのだ.装身具以外武器になるような物は何も持っていない.オシリスも凄まじい体格はしているものの寸鉄を帯びていなかった.


 「証拠なら,ここに生き証人がおります!」

 広間に大きな声が響いた.

 「お,おい!」

 ヴァルナが思わず声をかけた.

 その声の主はハメッドだった.

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