18-13 騒乱と混乱
NPC,紫鈴姫になりすましたシノノメは,観客の視線を浴びながら静々と舞台の上を歩き,一番下手――客席から見て左手に立った.上手には大公と五聖賢,そして先に呼ばれた姫たちがいる.
側室として大公の後宮に新たにやって来た姫君,あるいは令嬢は,シノノメを入れて五人だった.五人はまるで品評会のように一列に並ばされ,それぞれが同じ様に侍女や従者を数名連れている.
だが,男性が混じっているのはシノノメたちだけで,他の側室の従者はすべて女性だった.
貴族や豪商達が石舞台の下に並んでこちらを見ている.時折好奇の目が女性たちに注がれることもあったが,彼らの目は主に若き大公シンバットに注がれていた.
よく見ると客に混じって飲み物や食べ物を給仕する踊り子姿の少女達がいた.きっと乾杯の準備だろう.あの中に混じってヴァルナ親衛隊の女の子もいるのだろうか.まさか彼女達のアイドルが髭面になって石舞台の上にいるとは思わないだろうな,とシノノメは思った.
それにしても,豪商や貴族たちのきらびやかなことはどうだろう.各々が日の光を受けて反射している装身具や,光る金の刺繍を施した衣装で着飾っている.
カカルドゥアの光と影がここにも……
中世世界に近代的な経済を持ち込めば,社会格差は広がるばかりだという,ナーガルージュナの言葉をシノノメは思い出した.
シンバットは演説を続けていた.朗々とした美声だ.力強く,聞く人の耳に心地よい.彼自身は爽やかな好青年で,きっと見た人はみな好感を抱くだろう.太い眉に光る白い歯,通った鼻筋に黒いよく動く目を持っている.
「……今,カカルドゥアに多くの国が同盟を求めている.我々の大きな力を求めているのだ.我々は,二つの力を持っている.一つは,言うまでも無く国是である商業である.経済は大きな武器となる.食物や資源の価格操作,買い付けは,富が富を呼ぶ」
シノノメの隣に立っていた,毛皮のケープを羽織った娘の表情が曇った.栗色に赤い光が混ざった珍しい髪の色をしている.黒目がちで,すらりと伸びた肢体から若い牝鹿を思わせる,美しい少女だった.
装束からして北方,つまりはノルトランドの国境付近の山岳地帯から来たのだろう.シノノメの知る限り,あまり豊かな地域ではない.食糧となる作物を買い占められたのか,それとも鉱物の利権を奪われてしまったのか.経済戦争を仕掛けられ,カカルドゥアに保護を求めざるを得ない状況に追い詰められたのかもしれない.砂漠に似合わないケープは,せめてもの部族の誇り,花嫁衣装なのだろうか.
彼女の表情とは対照的に,魔術師ヴォーダンは満足そうに顎髭を撫でていた.彼もシノノメの正体には気づいていない.欧米人には東洋人や黒人の顔が区別しにくいというが,まさかここに自分の腕を折った張本人がいるとは思いもしないのだろう.
ヴォーダンは魔法を使うが,より得意なのは商業による領土拡大なのだ.現実世界で死ぬ前はドイツの首相,さらにその前は経済学者だったという.近代経済の市場理論を使えば,中世世界の経済など容易く支配することが可能だ.
いくら商業国家とはいえ,あくまで仮想世界の倫理コードがある.人身売買は禁止されているはずなのに,北方からは奴隷に等しい身分となった人々がやって来ている.大公はそれを知っているのだろうか.
青年王はすがすがしい笑顔を浮かべて聴衆に語りかけた.
「そして,経済だけではない.我々は,今,真に強大で偉大な国家になろうとしている」
大公の言葉に合わせるようにハデスとイシュタルがそれぞれ右手と左手を挙げた.それに呼応して,前庭の左右から鬨の声が上がる.
貴族や豪商などの賓客を囲むようにして武装した戦士達が立ち並んでいた.客達を守る目的なのか,それとも彼らに自分達の武力を見せつける目的なのか,恐らく両方なのだろう.
聖堂騎士団とは,カカルドゥアの警察の様なものと聞いていた.だが,剣闘士と一緒になって鎧を着け,完全装備をしたその姿はどうみても軍隊だった.
ハデスとイシュタルの指示の下,武力で国土を拡大しているのだ.
新たに征服した地域を植民地にして生産物を搾取し,安い価格で商品を手に入れる.あるいは,圧倒的な商業力で自分達の製品を売りつけ,その地域の経済を乗っ取ってしまう.
ノルトランドの武力制圧は,確かに脅威だった.しかし,‘経済’は人々の生活も完全に支配する,ある意味,より過酷で凄惨な物だった.
大公が演説を終え,右手を高く差し上げるとシンバットの名前を連呼する声が鳴り響いた.
「カカルドゥアに永遠の栄光を!」
「シンバット殿下を褒め称えよ!」
「五聖賢を敬え!」
轟音にも似た拍手と歓声が砂漠の空に響く.
そして,乾杯の杯を打ち合わせる音が幾万の鈴の音の様に響いた.
石舞台の上にいる令嬢たちは,声に身をすくめるように体を縮こまらせている.シンバットが意識しているのかいないのか,この大歓声は彼女らの出身国への‘絶対者カカルドゥアに従え’という無言の圧力だった.
「こんなの,ファンタジーじゃない……」
シノノメは思わず呟いてしまい,扇子で口元を隠した.後ろにシェヘラザードがいるのだ.ここでばれてはユグレヒトの作戦が台無しだ.段に上がる直前に概略を教えてもらった.だが,聞く限り本当に成功率の低い,ギリギリの作戦であると思う.急ごしらえで準備したからだろう.
……最強になって,みんなを守る,なんて誓ったのに……
結局,仲間たちに助けられている.しかも,随分な無理をさせている.シノノメは申し訳ない気持ちでいっぱいになった.
ユグレヒトはカゲトラ達と一緒に石舞台の脇に控え,じっと会場全体の様子をうかがっている.
ふと目があった.
ポン.
メッセンジャーのメールモードが立ちあがった.
『シノノメさん,そろそろ始めます』
『うん……色々ごめんね,ありがとう.でも……どうしてみんなこんなに……こんな私を,助けてくれるの……?』
ユグレヒトの返事はしばらく返って来なかったが,ややあって返信されてきた.
『それは,みんな……あなたの事が,大好きだからですよ』
何度目かの黒い影が快晴の空を舞う.
巨大な猛禽,ロック鳥だ.
ロック鳥が旋回する緩やかな輪の軌道に,白銀の糸の様な直線が突然閃いた.
「うわあああ! あれを見ろ!」
拍手していた貴族が,空を指差して叫ぶ.
ロック鳥が一羽二羽と,次々地面に向かって落下してくるのだ.召喚獣は倒されるとピクセルになって砕け散るが,地上に激突する速度よりも遅い.
セスナ機ほどもある巨大な鳥の死骸が前庭に墜落してきた.
ドン.
同時に,シノノメから見て左手の植え込みが爆発した.もうもうと煙を上げている.音と煙の割に被害が少ないので,忍び玉,つまり忍者が使う煙幕弾に違いない.素明羅皇国の戦士達には見慣れた武器,というよりも撹乱用の道具だ.にゃん丸が行動を開始したのだろう.
爆音に驚いた幻獣達が暴れ始める――紫鈴姫が乗って来た虎が走りまわって,一角獣を追い回していた.巨大な幻獣達の鬼ごっこは,流石の衛士達も手に負えない.というよりも,腕に覚えのある聖堂騎士がカゲトラを取り押さえようとするのだが,カゲトラは上手に身をかわして逃げ去り,群衆の中を走り回るのだ.爆発の混乱にさらに拍車をかける役回りだった.
「虎だ! 助けてくれ!」
貴族や豪商たち,あるいは彼らをもてなしていた宮殿の召使たちが右往左往して逃げ惑う.よく見るとその中にはヴァルナ親衛隊のメリノも混じっていた.
「おい,こら! 猫助! 猫助はどこへ行った! 虎を捕まえなさい!」
ユグレヒトがうろたえる演技をしている.
爆発は小規模に園内のあちこちで断続的に起こり,群衆の恐怖をあおった.乗り手を失ったロック鳥と魔法の絨毯が後から後から落ちてくる.
誰かが「無差別テロだ!」と叫ぶ声がする.
「うわあっ!」
「逃げろ!」
落成式の祝典は,あっという間に大混乱に陥った.ほとんどの客が,NPCもプレーヤーも,商人であって戦士,戦闘職はいない.こんな事態に巻き込まれる経験など皆無なのである.警備の衛兵たちがなだめようとするが,来賓の観客達は,我先に正門へと向かい,逃げようとした.
闖入者を妨げるためにしっかりと閉ざされていた正門は無理やり開け放たれ,雪崩のように人々はあふれ出た.
「おのれ! 何者だ!」
イシュタルは上空を睨むと,叫んだ.
彼女の意志に反応して使い魔である蜂が次々と飛んで行った.先遣隊として飛んで行った小型のミツバチに続き,離宮の窓からも大型のスズメバチが飛んでくる.それぞれ形は蜂だが,小鳥とバスケットボールほどの大きさがある.
彼女の視野は蜂たちと共有している.いくつもの眼は,撃ち落とされる巨鳥の中,超高速で飛び回る白い影を捉えていた.
機械化蜂が追いすがる.だが,白い影は圧倒的な早さで飛ぶので追随を許さない.
「くっ! 何だ? ジェット戦闘機並みの速度ではないか!」
イシュタルが美しい唇を噛み締めた.
白い影からミサイルにも似た鋭い白銀の光が放たれ,丸くなったスズメバチが一匹,空から落ちて来た.石舞台の上に落ちたそれには,銀色の矢が突き刺さっていた.
「弓矢だと? 金属外骨格を貫く矢など,この世界にあるのか?」
イシュタルが空を睨む.
大公が近づいて,矢を抜き取った.
「これは……オリハルコンの矢尻! 射手は放浪のエルフ,アルタイルか!」
「大公殿下,危険ですわ! お下がりください! 今,エルフとおっしゃいましたか?」
大公に話しかけるとき,イシュタルの口調は女性らしく改まった.
「アルタイルはユーラネシア最速の乗騎,ペガサスに乗る弓の名手です!」
「……となると,狙撃される可能性があるぞ! イシュタル!」
ハデスが叫んだ.彼は石舞台の下の地面に向かって,さっと手を振った.
地面から白いブロックを組み立てたような人形が現れる.壁と呼ばれる,ハデス専用のゴーレムの兵士たちだ.
石人形たちは隊列を組み,大公の前に壁を作った.
「ジャガンナート! 奴らを迎撃しろ!」
「もとより承知だ.離宮の防衛システムを起動させる」
ジャガンナートはハデスに命令されるよりも先に群青色のマントを翻して離宮の中に走り去っていった.
石舞台の上から楽師が飛び降り,我先に逃げ去っていく.警護についていた聖堂騎士と近衛兵達はシンバットを守るために槍を構えて円陣を組んでいた.姫たちのうち数人は怯えてその場に座り込んでいる.
「一体,何者だ? 余を狙う気か? 近衛兵たち,姫君たちも守るのだ!」
シンバットが身を乗り出して叫ぶ.
「件のテロリスト,シノノメ一味でしょうか? 殿下,お下がりください! ええい,前庭の混乱は,あの虎のせいか! 爆発に怯えたんだな.誰か,早く仕留めてしまえ!」
司会をしていた広報官,メスメッドが叫んだ.
「仕留めた者には,褒美を取らす! 思いのままぞ!」
その言葉を聞いてまず走り出したのは,剣闘士達だった.見ると,以前アーシュラの船の上で対戦したハヌマーンもいる.彼も腕に黒い腕輪を着けていた.
獣人系の戦士たちは目を赤く充血させ,牙を剥いて口から泡を吹いていた.工房を防衛していた衛士達と同じだ.第六世代のプログラムが彼らの脳に何かの変調をもたらしているのだ.
黄金の毛皮を輝かせてまず一番に飛びかかったのはハヌマーンだった.棍棒を振りかざし,ジャンプが頂点に達しようとしたその瞬間,彼はしかし何者かに突き飛ばされた.
「グルグル……」
獣じみた声を上げ,四つん這いになったハヌマーンが自分を攻撃してきた敵を見回す.その様子は虎になったカゲトラよりも獣じみている.
そこには,法衣姿の逞しい僧侶が立っていた.両手には緑色に光る手甲をはめ,拳には鉄甲を握りしめていた.顔は覆面で覆い隠しているが,おさげの髪と胸のふくらみから女性であることが分かった.
「ウキ?」
だが,ハヌマーンは首を傾げた.
女性のステイタスには‘シノノメ’と名前が書いてあったからだ.
前に戦った時には確かもっと華奢で小柄だった気がするが……
だが,そんなハヌマーンの疑問を吹き飛ばす勢いで僧侶は殴りかかって来た.まるで暴風だ.おそらく,群衆に破られた正門の衛士を倒して侵入してきたのだろう.
ハヌマーンと僧侶の激突に,あおりを食った数名の剣闘士が吹き飛ばされた.
「シノノメだ! 現れたぞ!」
そう叫んで僧侶に殺到する兵士たちを,本物のシノノメは石舞台の上から見ていた.どう見てもあれは主婦ギルドの団長,ミーアである.ユグレヒトの隠身術で,シノノメに成りすましているのだ.
一人で大丈夫だろうか……
シノノメは走って行きたい気持ちを必死で抑えた.五聖賢は脳障害を起こすほどの攻撃力を持つという.そのこともすべて承知で助けに来てくれたに違いない.
だが,一人ではなかった.群衆の中を跳ね回る,黒い忍者姿の猫人がいる.にゃん丸が忍者の正体を現し,地面を転がるようにして剣闘士たちの足を薙ぎ払っていた.
にゃん丸は時折五人に分裂していたので,分身の術を使っているようだ.
「にゃん丸さん……」
「おのれ,シノノメめ!」
イシュタルが叫んだ.彼女は敗北を思い出し,怒りに燃えていた.ミーアの方を睨んでいる.あれほど体格差があるのに気づかないのは不思議な気もするが,怒りで我を忘れているのだろう.
彼女が右手を振ると,式典会場の地面がもこもこと盛り上がり,中型犬ほどもある巨大なサソリが十体現れた.サソリたちは毒の鈎針を振りかざし,地面をゾロゾロと歩いてミーアとにゃん丸,カゲトラを包囲すべく進み始めた.剣闘士や聖堂騎士団などお構いなしで,進行方向に存在する者はすべて両腕のハサミと毒針で排除していく.
***
「お,少し攻撃が緩くなったぜ」
上空でイシュタルの蜂と空中戦を繰り広げていたアルタイルはつぶやいた.手綱を引いて天馬オルフェウスのスピードを若干落とし,旋回して地上の様子を窺った.長い金髪と若草色のフードが風になびいた.
「どうやら,イシュタルが地上で使い魔を出したせいみたい.今がチャンス……ユグレヒトから連絡が入ったわ」
アルタイルの後ろから声がした.彼は天馬に二人乗りしている.
「よし,そろそろ行け!」
「そんなの分かってる.高飛車のアルタイル,命令しないでよ」
「お,おい! 命令してるわけじゃ……」
言いながらアルタイルは天馬を急降下させた.
天馬は未だ前庭の内外を逃げ惑う群衆の頭上を飛び越えた後,ミサイルを放つように高速の塊を射出した.
***
「何だ!? あれは!」
ハデスとイシュタルは自分たちの方に向かって飛んでくる,その深緑色の塊を見て同時に叫んだ.それはまっしぐらに石舞台の方に向かって飛んでくる.
シノノメにだけはその正体がわかった.
超高速で魔法の箒を駆り,飛んでくる深緑色の魔女.
緑陰の魔女,そして,自分のかけがえのない友達.
グリシャムだ.
「ステイタス……シノノメだと!?」
ハデスがグリシャムのステイタスを見て驚愕した.
「ここにもシノノメがいる? そんな馬鹿な!」
グリシャムの進攻を阻むべく,彼は反射的に石人形を展開し,前方に壁を築き上げた.
その叫びが聞こえたのか聞こえなかったのか,箒の上のグリシャムの口元は笑みを浮かべていた.
そして,叫んだ.
「暗黒森!」
箒の先端から,森があふれ出る.
イバラとツタが絡み合い,絡み合った場所から巨大な針葉樹林が生まれ,直線状に発生した植物の波,塊が石舞台の方に向かって怒涛の勢いで増殖した.
森は兵士とイシュタルのサソリを飲み込み,前庭の植栽を飲み込み,さらにハデスの石人形に絡みついた.
イシュタルは慌てて退避する.森――増殖し続ける大量の植物の群れは,イシュタルとハデスの間を分断するように伸びてきた.
「壁にはツタよ!」
グリシャムの声に勢いを得たように,森は石人形を砕き,石舞台にからみついてさらにハデスへと迫った.ハデスは慌てて剣を抜いてツタを薙ぎ払う.グリシャムは箒を宙で一回転させ,自分が作った森の梢の上に立った.
ふと石舞台の上のシノノメと目が合う.
グリシャムはシノノメの視線を見つけると,にっこりと笑い返した.
シノノメは泣きそうになった.
その笑顔を見ていると,シノノメの全て――欠落した記憶も何もかもを受け入れているとグリシャムが言っているように思えたからだ.
「紫鈴姫,ここは危険だ! 家令のスーリアが案内する.早く中に入りなさい!」
固唾を呑んで見守っていたシノノメは,その声で現実に引き戻された.見るとシンバットが自分の肩を強い力でつかんでいる.太い指が着物越しに肩に食い込んでいた.
「痛い……」
「火急のことにて失礼」
シンバットは謝った.見ると,他の姫たちは次々と,侍女たちと一緒に離宮の中に避難している.
「私の従者も良いでしょうか?」
「無論だ.通常外部の男は立ち入り禁止だが,そんなことを言っている場合ではない.スーリア!」
「はっ」
スーリアと呼ばれた中年の男は素早い身ごなしで近づくと,ハメッドとヴァルナ,そしてネムも一緒に入るように誘導した.
「殿下も避難してください! イブリース様もすでに中におられます」
「分かった!」
シノノメは飾り下駄を履いているので走ることはできない.裾をからげて一生懸命駆け足する彼女を見て,シンバットは横抱きにした.
「重ね重ね失礼,姫!」
そう言うとシンバットはシノノメを抱き上げ,離宮の中に駆け込んだ.
シノノメの右足から下駄が落ち,石舞台の固い床にぶつかって高い音を立てる.
そして二人が中に飛び込んだ後,黒檀の扉が厳重に閉ざされる重い音が響いたのだった.




