18-12 紫鈴姫の婚姻
竜車を出ると,砂地の地面に向かって踏み段が取り付けられていた.
漆塗りの下駄を履き,裾を持ち上げながらシノノメはゆっくりと段を下りて行った.本物の花魁道中で履く高下駄ほど不安定ではないが,何枚も重ね着している上に帯の結び目が前にあるので,静々と歩くしかないのだ.
下まで降りると,そばにはユグレヒトが跪いていた.
「紫鈴姫の,おなり!」
ユグレヒトが大音声で呼ばわると,市場の観衆から嘆息交じりの歓声が上がった.
「おお,何と美しい!」
市場の中央の道は,離宮に真っ直ぐ向かっている.
「姫,ここからはあちらに乗って参ります」
ユグレヒトは手を差し出しながら,眼で竜車の脇を指した.
見ると,檻の扉が開け放たれ,カゲトラが地面に座っている.その傍らには御者――というべきなのか,猛獣使いが控えていた.顔を伏せていたが,頭から生えた猫の耳が砂漠の風に揺れている.猫人だった.
「にゃんま……」
ユグレヒトは口に指を当て,「しぃっ」と短く言うと,「どうか手をお取り下さい,姫」と言ってシノノメを誘導した.
シノノメはユグレヒトの手を取った.男にしては指が細く,繊細な印象を受ける.シノノメは静々――というか,そうしか歩けないのだが――歩き,尻尾をせわしなく振っているカゲトラの方へと歩いて行った.
シノノメはそっと会話ソフト,メッセンジャーを立ち上げた.
『ユグレヒトさん,でも,どうするの?』
『何がですか?』
『ステイタスだよ.どんなに変装したって,誤魔化せないよ.ほら』
シノノメは白塗りの顔で,門の方に流し眼を送った.
離宮の門の前には,黒の上下に黄色の布帯を締めた聖堂騎士団の戦士が立って,油断なく鋭い視線で辺りを監視している.手には六尺ほどの蛇鉾を持っているが,たたずまいで並々ならぬ武術の腕前と分かる.
『本当にそう思いますか?』
『えっ?』
ユグレヒトは「どうぞ」と言って,カゲトラの背に座るように促した.シノノメが横座りでしなやかな毛皮の上に乗ると,カゲトラはゆっくりと立ち上がった.カゲトラの首には,闘犬の犬がつけるような化粧まわしに似た前掛けがつけられていた.しめ縄があしらわれ,前掛けの前面には黒々と墨書で‘紫鈴’の文字が書かれている.
ユグレヒトの手を離し,シノノメは呟いた.
「ステイタス」
ユグレヒトの頭上に四角いステイタスウィンドウが立ちあがる.
エチゴヤ
職業;商人
レベル50 番頭クラス
「な,何これ!?」
シノノメは思わず姫君らしくない言葉遣いを口にしてしまった.ユグレヒトが意味ありげにニヤリと笑った.
「姫,はしたない言葉はお使い召されないように」
後からついて来たアーシュラがにやりと笑った.
「アタシ達もさっき教えてもらったんだ」
『北東大戦の後に,俺が開発した方術――プログラムなんです』
再びメッセンジャーでユグレヒトの声が聞こえる.
『プログラムとしては難しくないので,多分すぐに審査システムの承認が降りると予想していたんですけど,本当に簡単,あっという間でしたよ』
『これ……ステイタスを書き換える術なの?』
『正確には,違う情報を表示させるんです.その帯の中に俺の書いた呪符を入れています』
「すごい……」
「さあ,姫,参りましょう」
ユグレヒトがそう言うと,カゲトラはゆっくり歩き始めた.のっそりと肩を揺らしながら優雅に砂の道を進んでいく.遠巻きに様子を見ていた群衆が道沿いに立ち並び,沿道に人の列が出来た.
『すごいね,これ.この術があれば,プレーヤー同士で戦うときにも相手をだまして駆け引きをしたり,逃げるときにNPCの中に隠れたりもできるね』
『小技ですけどね.隠身術って呼んでいます』
そう言いながらもユグレヒトはどこか誇らしげだった.
確かに大きな破壊力を生む技ではないが,対人戦においては様々な使い方があるだろう.使い方を工夫すれば,戦術を変えてしまうかもしれない.術の大小よりも,その発想が優れている,とシノノメは感心した.
「猫助,このまま門に向かうぞ」
「はっ,エチゴヤ様」
猫助と呼ばれた露払い――虎の先導係は,恭しく答えた.もちろん彼は忍者のにゃん丸である.だが,シノノメが試しに開けてみたステイタスウィンドウには,
商人
猫助
レベル10 丁稚クラス
と書いてあった.
「紫鈴様,沿道の民にもどうかその美しい顔を見せてあげて下さいまし」
などと,にゃん丸,いや猫助が言うので,優雅に手を振ると,沿道の観衆から大きな歓声が湧いた.主にカカルドゥアの風俗であるアラビア・ペルシア・インド風の服装の人間が多いが,欧風の装束に身を包んだ人間や,中国風や和風の服装に身を包んだ東方からの旅行者と思しき人たちもいた.
ヴァルナは面倒くさそうな顔をして,大きな日傘でシノノメを砂漠の日差しから守り,ハメッドは団扇で風を送っている.二人ともなかなか従者っぷりが板についていた.
『本当にばれないかな?』
『大丈夫です.この術の存在を知るのは,ほんの数人です.そして,堂々としていればその方が安全だ.人間というものはどんなに疑わしくても確信が持てなければ実情報――ステイタスウィンドウに書かれた事実の方を信じるものです.あなたは今,南都の貴族の娘,NPCの紫鈴姫です』
後方をもう一度振り向くと,アーシュラの表情が硬かった.方術の説明は受けたものの,正門が近づいてくれば嫌でも緊張は高まる.が,それでも何とか胸を張ってついて来ていた.
ネムはいつもの眠たそうな目である.
シノノメはふと気付いた.
『でも,これって――輿入れって言ってなかったけ? 誰の? 私,そんなの嫌だよ!』
シノノメは思わずカゲトラの背中の毛を力強く握りしめた.突然背中を襲った痛みに,カゲトラの首筋の毛が逆立った.
「大公殿下は,大変聡明で美丈夫でいらっしゃいます」
ユグレヒトは苦笑しながら答えた.
もしかして,この格好で後宮の中に入り,クヴェラとマユリを助け出せとでも言うのだろうか.だが,もし夜までチャンスが無くって大公が寝室にやって来たら? いや,それとも時代劇みたいに寝所に呼ばれるのだろうか?
貞操の危機だ.
例え仮想世界の中でも,浮気なんてしたくない.ランスロットに求婚されたって断ったのだ.
カゲトラの背中を降りて,走って逃げようか.
シノノメは足をバタバタさせ始めた.
『ヤダヤダ,王様って,確か奥さんがいるじゃない! 愛人になるなんて,ヤダ! それに,私には一生を誓った人が……』
「ちょっと待って下さい,落ち着いて」
ユグレヒトはびっくりして思わず声に出して言った.
「そんな事には,決してなりません」
正門は徐々に近づいてくる.誰が聞いているか分からないので,ユグレヒトはメッセンジャーを使ってシノノメに説明した.
五聖賢――至高之人間と呼ばれる電子情報を実体とする人間達は,圧倒的な力の持ち主だという.どれだけシノノメが強くとも,五対一の戦いになっては勝てないだろう.
『ですから,‘事’を起こすのは,式典が終わって,お姫様が離宮の中に入ってしまってからでは遅いのです』
夜になれば,五聖賢も大公たちと一緒に離宮の中に入ってしまう.
比較的警備が手薄な夜は,一見隠密行動に向いているように思える.だが,シノノメの戦力を考えた時,それは全く逆になる.
何故なら,一般の兵士がどれだけいようと――数万人とかでなければ――シノノメにとってはあまり問題にならないからだ.しかも,市中の噂では五聖賢は全く眠らない,睡眠が必要ないという.
クヴェラとマユリの救出に向かった時,五人全員と同時に戦わなければならない状態となる――それこそ最大の窮地,最も避けねばならない状況なのだ.
今回の作戦の肝は,彼らの力をいかに分断するかにある.それができるのはこの式典の間をおいて他にない.
「そうか……そうね」
シノノメはコクリと頷いた.
『策はあります.俺に任せて下さい』
ユグレヒトは厳しい顔で,しかしシノノメに微笑んだ.
「止まれ!」
相談しているうちにシノノメ――いや,紫鈴姫一行は離宮の正門前に着いた.
門番の聖堂騎士は蛇鉾を交差させ,カゲトラの行く手を阻んでいる.
彼らは不躾にジロジロとシノノメを見つめていた.
時折頭上に視線が走るので,ステイタスウィンドウをチェックしているらしいと分かる.
シノノメの胸は早鐘の様に鳴った.だが,シノノメが優雅に微笑みかけると,二人ともだらしない笑みを浮かべた.
どうやら正体はばれていない様だ.
「お前たち,何者だ?」
右側の兵士が問い質した.よく見ると手首に見覚えのある黒い腕輪をはめている.第六世代ナーブスティミュレータにバージョンアップさせる,‘シックスセンス’である.機械大陸の言葉が分かるようになり,身体能力を上げると言われているが,実際には脳のプログラムを書き換える危険なものであるという.
「こんにちは,南都の商人エチゴヤと申します.姫君,紫鈴様をお連れしました.すでにお聞き及びの事と思いますが」
ユグレヒトが言うと,門の中から明るい笑い声が聞こえて来た.
「ニャハハハハ! エチゴヤはん! こっち,こっち!」
「ああっ! これはニャハール殿! この度は誠に有難うございます! これで当店も南方貿易で一気に優位に立てます!」
ユグレヒトは声の主に頭を下げた.腰が折れそうなほど深いお辞儀だ.
……ニャハールですって!
シノノメは慌てて胸元から扇子を取り出すと,顔を半分隠した.
「ニャハーッ! そのお方が紫鈴姫でんな! エチゴヤはんもやりますな! 昨日突然連絡をいただいた時はどーしよーかと思いましたが,お姫様を輿入れさせて,日の昇る勢いのカカルドゥア中央政府と図太いコネを築く! いやー,あんたとはええ商売の話が出来そうや!」
ニャハールが落ち着きなくカゲトラの周りをグルグル跳ねまわるので,シノノメは恥じらっているふりをして一生懸命眼を伏せた.だが,ニャハールはシノノメに気付くそぶりはなかった.
多分商談の事で頭がいっぱいなのだ.そんな時彼は他の何も見えなくなってしまう.ニャハールの性格を知るシノノメは少しほっとした.
ニャハールがとび跳ねる様はまるでカンガルーだが,しばらく見ないうちに随分でっぷりと肥っていた.ナジーム商会の新・会長に指名され,おそらく有頂天なのに違いない.
前会長であるハメッドも素知らぬ顔で団扇を仰いでいるが,彼にも気づいている様子はない.
……心の目で人を見なさいって,ニャハールが言ったくせに.
余りにニャハールが気付かないので,シノノメは思わず噴き出した.
「おや,お姫様はご機嫌ですな! さあさ,中に入ってや」
「ニャハール殿,男や虎まで前庭に入れてしまうのですか?」
門番が眉を顰めた.
「何―っ! この僕に逆らう気かね? 今カカルドゥア政府御用達のナジーム商会の会長さんに? みんなお入り!」
ニャハールは容赦なく職権乱用すると,シノノメ一行を庭の中に引き入れてしまった.
***
左右の庭園に挟まれ,噴水のある池のほとりをめぐると離宮の前に設けられた石舞台が見えてきた.石舞台というよりも,階段を数段上がった踊り場上になっている.催し物――劇や政府の広報,式典が行えるように設計してあるのだろう.舞台の左右には楽士が控え,ギターに似た楽器――シタールや,大きな銅鑼,鉄琴,吊るした銅鐸が設置されていた.
石舞台を見上げるように,色とりどりの衣装に身を包んだカカルドゥアの豪商,貴族たちが集まっている.群衆の手前側には一角獣や麒麟,八本足馬といった霊獣たちに乗った貴婦人たちが並んでいた.
「あれはもしかして……」
「はい,他の地域から輿入れにやってこられた姫君――側室候補たちです.こう言っては何ですが,政略結婚ですね.北の大国ノルトランドが弱体化してしまったので,カカルドゥア政府と交易を結んで,所領を安堵したり,経済的な利益を得たりしようという小国は少なくないのです.」
ということは,大公が側室に迎えるのはシノノメ――紫鈴姫だけではないのだ.二股どころではない.そんなに沢山奥さんを抱えるなんて,許されない! シノノメは心の中で叫んだ.
後ろで銀細工を施した鉄の門扉が閉ざされる音がする.予定の招待客が全員到着したので,いよいよ式典が始まるのだ.
空に時折巨大な影が舞い,地面に影を落とす.ロック鳥――象を餌にするという猛禽類が警備のために飛び交っている.聖堂騎士団で召喚獣を使えるものが操っているのだろう.
ダーナンが今わの際で残したメッセージによれば,聖堂騎士団は全て敵対者であるという.
後ろで糸を引いている者なのか――それとも強力な戦士であるダーナンを倒した者のことを指しているのかわからないが,最後のメッセージはライオンの絵だった.
半蛇の獅子を紋章とする,創造主――人工知能であり,マグナ・スフィアのゲームマスターであるサマエルを意味しているのだろうか.だが,シノノメはそれとは少し違うニュアンスを感じていた.はっきり何が違うとは言えない.いつものシノノメの直感にすぎないのだが……
銅鑼が鳴り,シタールの旋律が響いた.
赤地にきらびやかな金糸の縫い取りを施した礼服を着た男が,舞台の上に上がった.魔法の杖を掲げ,それに向かって喋る.マイクにも似た拡声魔法である.
「皆さま! ようこそお越しくださいました.私めは,広報官のメスメッドでございます.この度,この離宮,新宮殿の落成式司会の大役を拝命いただいたものでございます.ここにおいでになるのは,いずれもカカルドゥアの隆盛にご尽力いただいている方々,そして更なる発展のために友好関係を築いていこうとなさっている方々です」
男の声をかき消すほどの大きな,割れんばかりの拍手が巻き起こった.すり鉢状というほどではないが,前庭は少しだけ建物の入り口――舞台に向かって傾斜している.階段教室や古代ローマの劇場のような反響効果で,声や拍手が一層効果的に響き渡るのだ.民衆に対する心理的な効果も狙って設計されているのだろう.
「見事な建物ですね」
ユグレヒトがそっと囁いた.
「俺の調べた限り,ノルトランド国境から集められた労働者が約五千人.その半数が工事中の事故で亡くなっているようですね」
「何てこと……」
多分労働者というよりも,本質は奴隷なのだ.シノノメは化粧の下でそっと怒りを燃やした.
「いよいよです」
石舞台の上にある両開きの戸が,ゴトゴトと重厚な音を立てて左右に開いていく.床から天井まである引き戸になっていて,それぞれに精緻な彫刻がびっしりと施してあった.扉というよりも巨大なパネルなのだが,それぞれ二人の廷臣がつき,ゆっくりゆっくり押している.相当重いものなのだろう.四人の体は前傾して,上体はほとんど床に平行だった.
開き終わったところで,中央をゆったりと男が歩いてきた.
「偉大なる宗主様から国政を預かる第六十代大公,シンバット殿下の登場です」
司会役のメスメッドが叫ぶ.
石舞台の上に登場したのは,色の浅黒い青年だった.均整の取れた体つきに,高い身長とがっしりした肩幅,現実世界で言えば野球かサッカーの選手のようだ.目鼻立ちも整っていて,誰もが見ただけで好感を抱いてしまうような青年である.
一斉に拍手と歓声が沸き起こった.声ははるか後方,宮殿の外の観衆からも聞こえてくる.
大公シンバットははらりと垂れた前髪を後ろにかき上げると,さわやかな笑顔を浮かべ,国民に向かって手を振った.拍手と歓声が一層大きくなった.
「本日は,ようこそおいでくださった. そして,ここに集まったカカルドゥアの民,今日の日を祝福してくれることを喜ばしく思う.だが,この繁栄があるのは私一人の力ではない.外国からおいでくださった偉大なる賢人の方々をここに紹介したい.ともに称えよ,五聖賢の方々である!」
シンバットの声が朗々と響いた.
彼が手を差し伸べるのと同期するように,ゆっくりと建物の奥から人影が現れた.
メスメッドが紹介するとともに,五聖賢は建物の中から明るい砂漠の日差しの中へと進み出た.
「冥界の王,高い壁の男――ハデス殿」
鎧の上にマントを羽織った軍人風の男――ハデスが歩み出る.短い髪に安定した足取り,まっすぐに伸びた背筋はまさしく軍人のそれだった.そこにまるでローマ時代の皇帝――最高司令官の彫刻が出現したようにも思える.彼は色の薄い碧眼でぐるりと聴衆を睥睨した.
「神々の父,ヴォーダン殿」
顎ひげを蓄えた男がにこやかな笑みを顔に湛えている.右手に銀の魔法の杖――指揮棒のような,ワンドと呼ばれる杖を持ち,黒いローブを羽織っていた.黒いつばひろの先のとがった帽子をかぶっており,典型的な魔法使いの姿である.ウェスティニアの魔法使いに少し似ていたが,もっと定型的な――いわゆる,絵本の中の魔法使い風だ.
「暁の女神,イシュタル様」
砂漠の日差しに,美しい金髪が輝く.アーシュラが船を半壊させてまで与えたダメージはどこに行ったのか,白いドレスからこぼれる両腕は全くの無傷で,透き通るように白く輝いていた.
シノノメの後ろから,「あんにゃろー」というアーシュラの呟きが聞こえる.
イシュタルの周りには,小鳥ほどの大きさのミツバチが飛び回っていた.ミツバチはヨーロッパでは幸福の象徴だ.シノノメも好きなモチーフの一つだったが,彼女の周りに飛んでいるミツバチは恐るべき殺人ドローンに違いないのだ.
「世界の主,道標を示す者――ジャガンナート殿」
群青色のマントを羽織った,色の黒い男が姿を現す.ある意味,インド系の彼の風貌は最もカカルドゥアの風土に違和感がなかった.彼が立った瞬間,足元の影が一瞬ゆらりと揺らいだような――シノノメにはそんな気がした.
「ジャガーノートか……」
ユグレヒトが呟く.
「juggernaut? 」
シノノメはユグレヒトの発音のままに,聞き返した.
「ええ,英語ではそう呼ばれますね」
「英語の意味は何?」
「確か……盲目的な服従や,恐ろしい犠牲を強いるような絶対的な存在……不可抗力のもの,でしたっけ.インドの神様,ジャガーノートのお祭りでは,山車に轢かれて死ぬと極楽に行けるので,車の下に飛び込んで自殺する信者がいたといいます.古いサスペンス映画――テロリストが仕掛けた爆弾を解体する物語のタイトルでもあるんです」
「恐ろしい犠牲……」
シノノメはマユリのことを思い出した.
「最後に,新たに嫦娥様に代わって五聖賢に加わった,オシリス殿です」
筋肉隆々の,スーパーヒーローのような男が現れた.ギリシア神話風のトーガをまとい,革のサンダルを履いている.エジプト神話の神の名前だが,外見からするとヘラクレスとかアキレスとでも呼んだ方がよさそうな気さえする.
だが,彼の姿はどこか自身なさげで,戸惑っているようにすら見えた.
五人の政治顧問がそろうと,さらに一層大きな拍手と歓声が砂漠の空に鳴り響いた.離宮の外壁に反射して,豪雨のように音が降り注いでくる.
彼らがこの世界で行っている行為は,カカルドゥア政府の利益には間違いなく大きく貢献しているのだ.
シノノメの目は,シンバットと五聖賢が並び立つその背後に注がれていた.
ニャハールが偉そうにふんぞり返って拍手をしている.
その後ろには,シェヘラザードがいつもの踊り子の姿で立っていた.彼女も絵のように美しいので,この華やかな式典の中でまったく違和感がない.あまり見つめると,視線が合いそうなのでゆっくり目を流すようにして観察した.
だが,その傍らに頭巾とマントですっぽり体を覆い隠した謎の人物が二人立っている.二人はそれぞれ赤と黒の装束だったが,デザインはほとんどおそろいのようだ.彼らは時々シェヘラザードと言葉を交わしていた.そうしていると,華やかな舞台の前面に立つ六人を,まるで陰で操っているような――舞台監督がそこにいるような印象を受ける.
「あの人たち……」
シノノメは,なぜかその頭巾の人物を二人とも知っているような気がした.
特に,黒頭巾――
……あっ!
シノノメは直感した.この人物こそ,マユリが屋敷で目撃した謎の人物に違いない.不思議な技でナジーム商会のアングリマーラを傷つけ,子供の臓器売買を指示していた男だ.
シノノメがそんなことを考えながら石舞台に注視していると,ユグレヒトの声がかかった.
「さ,姫,参りますぞ」
いつの間にか,自分たちの順番が来たようだ.よく見ると,一角獣に乗った女性が来賓の列を割って前に進んでいるところだった.続々とそのあとに幻獣の列が続いている.
「……タルナスの,クリル姫……」
段の前に着くと名前を呼ばれた姫たちが幻獣の背を降り,家来とともに大公の前で会釈をしていた.
「うん……あ,分かりました.参りましょう」
カゲトラがゆっくり前進し始めた.シノノメたちの前は,五色のヘラジカに乗った姫だ.北方から来たらしく毛皮のケープを羽織っているので,とても暑そうだな,とシノノメは思った.
「紫鈴姫が石段の上に上がった時が,作戦開始です」
ユグレヒトは顔を引き締め,言った.
輿入れ――実際には政略結婚,体の良い人質外交である.
巨大な虎に乗って進むシノノメを,カカルドゥアの有力者たちが眺める.その視線はいずれも商機を求めているようでどこか粘着質だった.シノノメは前を見て毅然と進むことにした.
「……素明羅皇国,南都の,紫鈴姫」
ついに名前が呼ばれた.
シノノメはヴァルナとハメッドの手を借り,カゲトラの背から石舞台へと上がった.
下駄の鼻緒を踏みしめ,あたりを見回すと,幾度目かの大きな歓声が沸き起こった.
シェヘラザードがこちらを見ている.
シノノメは内に秘める思いを隠し,歓声に身を任せた.




