18-5 世界の改変
「え,何だって? じゃあ,その,マユリって子も助けるっていうの?」
‘紅の鯨亭’号の中でこれまでの経緯を聴いたアーシュラは,思わず驚きの声を上げた.
シノノメとハメッドを乗せた‘紅の鯨亭’号は,現在サンサーラの沖を離れ,波の上を全速力で進んでいる.
「だって,可哀想じゃない.まだ中学生なんだよ」
「……そりゃ,可哀想だよ.だけどさ,シノノメ,何せ,アタシも今や‘工房’爆破の重要参考人で指名手配中だよ? まあ,カカルドゥア政府の政治顧問と一戦やらかそうっていうんだから,立派なレジスタンスにゃ間違いない……おっとっと」
いくら穏やかな多島海とはいえ,操船しながらシノノメと話しをするのは骨が折れるようである.小麦色に日焼けした手に,時々血管が浮き上がった.
ハメッドもシノノメもキャビンではなく操舵室にいて,アーシュラの指示の下,操船を手伝っていた.
操舵室の窓には機械化スズメバチが放った黒い針が何本か深々と突き刺さっている.実際かなり危険だったようだ.アーシュラの右肩には小さな擦り傷が出来ていた.毒針でないのは幸いだったという他ない.
船の動力は,魔石を大きな釜で加熱して動く蒸気機関の様な原始的なエンジン――魔動機関だ.ハメッドは魔石を焚く窯の火力を調節し,シノノメは刺さった棘を抜いて処分したり,こぼれた魔石を拾い集めたりしている.
「これ以上仕事増やしてどうすんの? 五聖賢は,そんな簡単な相手じゃないよ」
「ご迷惑は,重々承知の上です」
ハメッドはうなだれた.
「そうそう,そもそも子供の誘拐だって,あんたが一枚かんでるんでしょ?」
「その通りです.私の不始末で,この世界を混乱させています……」
「……でも,ジャガなんとかだって,五聖賢の一人だし,結局やっつけるとなるとついでにマユリちゃんを助けることにつながるよ」
「ジャガンナート,ね.……確か,インドの神様の名前だよね.どんな能力を持ってるんだろう? 今ヴァルナの奴が調べてるけど……まあ,確かに対決しなきゃいけない相手じゃあるよね.確かに,結果としてその……マユリちゃんを助けることには違いないね.一理あるわ.お,よっと!」
アーシュラは再び舵を切った.航路の近くにあった岩礁を避けたのだ.
「あ……」
シノノメは忙しそうなアーシュラを見て気づいた.
ウルソやシェリルの姿が見えない.二人ともアーシュラの両腕として,レストランの経営と操船,そして戦闘まで手伝っていた仲間だ.熊人ウルソは山賊出身で,犬人シェリルは海賊出身である.気さくで頼もしい二人はいつもアーシュラに付き従って行動を共にしていたはずだ.
「シェリルさんとウルソさんはどこへ行ったの?」
シノノメは遠慮がちに尋ねた.
「そこよ.それ.空前の人手不足.ウルソもシェリルも現実世界に子供がいるしね.脳が傷つけられるような危険な戦いにはこれ以上付き合わせられないから,アタシが無理やり参加しないように言ったの」
アーシュラは唇を噛んだ.
おそらく,部分的には本当で,部分的には嘘なのだろう.もしかしてアーシュラはどちらかに協力を断られたのかもしれない.特にウルソは‘工房’で危険な毒の攻撃を体験している.
「戦うのに一人でも仲間が欲しいところではあるから,今,集めてるけど……」
「……うん,簡単じゃないよね」
シノノメはまたセキシュウやグリシャム,アイエルたちのことを思い出した.
……駄目だ.一人で強くなって,みんなを守るって誓ったんだから.
押し黙ってしまったシノノメとは対照的に,アーシュラはしゃべり続けていた.
「ヴァルナ親衛隊とか,キャーキャー言ってる烏合の衆だしねぇ.友達が何人か手伝ってくれるって言ってたけど,穴掘り師に編み物師……あんまり戦力としては期待できないかなあ.魔法使いか錬金術師,あと戦闘職が何人か欲しいな」
「私は商人ですから,資金は出資できても手持ちのアイテムは多くないし,戦闘力は低い.こんな時,情けない限りだ.……みなさん,五聖賢と戦おうとするだけ,立派です」
ハメッドは深いため息をついた.
そんな会話をしている間に,船は再び陸に近づいていた.目の前には断崖絶壁がそびえたっている.見ると,海面のほど近くにぽっかりと穴が開いていた.鍾乳洞の入り口が波で洗われてできた,海蝕洞窟だ.船の進路はその穴に向かっていた.
「ここここ,やっと着いた」
「あそこに入るの?」
こんな時だが,不思議な光景にシノノメの胸は躍った.
船は減速し,穴の中に入る.真っ暗かと思っていた洞窟の中は海の反射光と天井の発光植物が放つ光でぼんやりと青く光っていた.
奥に進むと天井はドーム状に広がっている.入口が狭く,タコ壺のような構造になっているのだ.
「うわあ,綺麗なところだね」
シノノメは昔行ったことのある,青の洞窟と呼ばれるシュノーケリングスポットを思い出した.だが,それよりもはるかに規模が大きい.
「うん,いいでしょ? アタシの隠れ家.専用のドックだよ.秘密基地みたいなものね.満潮になると,入口が見えなくなるんだ.ここならまず誰にも分からないよ.」
船体がギシギシと音を立てて軋む.船は帆を畳んで外輪をゆっくり回し,寄せる波に任せて奥へと進んでいた.奥の方に暗い空間と灯り,そして小さな船着き場が見える.洞窟は内陸の鍾乳洞に続いているのだった.鍾乳洞の奥にはポツンとオレンジ色の灯りが見える.
「……だいぶ船が傷んじゃったね」
「当分無理はさせられないな.いっぺん船大工にオーバーホールしてもらわなくっちゃ.あの女,イシュタルって奴,すっごい石頭だったのかな」
「本当はレストランだものね」
紅の鯨亭号はアーシュラがとても大事にしている船だ.それに,修理には随分お金がかかるに違いない.シノノメは少し心配になった.
「アハハ,海賊と戦った事もあるから,そんな華奢な構造じゃないよ.でも,あいつ,ブスブス穴だらけにしやがって,今度会ったらただじゃ置かない」
アーシュラはシノノメの不安を消し飛ばすようにケラケラと快活に笑って見せたが,口元はわずかに歪んでいた.
「追手が無くって良かった.アーシュラさんの勘が当たったんでしょうか?」
まだ少し不安そうにハメッドが言った.
「うーん,まあ,あれが実際に追跡装置かは分からないけどね.魔法の匂いがぷんぷんしたし,敵が追って来るタイミングが良すぎるじゃない?」
「はい……迂闊でした」
ハメッドは申し訳なさそうに頭を下げた.
アーシュラはマユリを攫ったジャガンナートのカードに発信機の様な機能があるのではないかと考えたのだ.アーシュラの指示で,ハメッドは沖に出てすぐにカードを瓶に詰め,海に捨てた.海流に乗ってどこかに行けば敵はそれを追う筈だ.
「できることはやっておかなくっちゃ……それを言うと実は,アンタ自身がスパイだっていう可能性だってゼロじゃないけど」
「そうですよね.こんな登場の仕方をしたんですから,もし私があなたの立場でもそれを疑います」
「ハメッドさんは嘘をついてないと思うよ」
シノノメが力強く言った.
「シノノメはピュアだからね.例えば,娘さんを返して欲しければ,アタシ達を見つけて通報しろって,奴らに命令されている可能性もあるわけよ」
「そんなことないよ! マユリちゃんのために必死なんだよ!」
反論しようとしたハメッドよりも早く,シノノメが抗議した.
「うん,分かってる.アタシはシノノメを信じてるから」
ハメッドは苦笑したが,それでも嬉しそうに頭を下げた.
紅の鯨亭号は洞窟の中をゆっくりと進み,船着き場についた.
アーシュラは甲板に出て飛び降り,もやい綱をかけてテキパキと船を係留させた.
「シノノメ,そこの右にあるレバーを下げて.そう,それで魔法機関が止まるから」
「これ? えい!」
バフン!!
シノノメが緑の取手がついたレバーを倒すと,船は大きな唸り声のような音を立てて止まった.
見ると,船尾の方から細い煙が上がり,船が斜めに傾き始めている.
海面には空気の泡がブクブクと上がっていた.
「あ……!」
シノノメは慌てて船を飛び降り,ハメッドもそれに続いた.
「うぎゃーっ!」
さすがのアーシュラも目を見開き,ぽかんと口を開けていた.
誰がどう見ても,ついに紅の鯨亭は壊れたのだ.
首を振りながらぶつぶつと船の修理代を計算するアーシュラの後に従い,シノノメとハメッドは,船着き場の奥へと続くウッドデッキを進んだ.鍾乳石の間を縫うように設けられたボードウォークの間に,轟々と音を立てて流れる川がある.
「この川はどこから流れてるの? もしかして,ユルピルパ?」
シノノメは自分が破壊してシノノメ湖に変えてしまった迷宮の事を思い出していた.
「はは,流石にあそこは遠いよ.カカルドゥア王家の墓所につながる地下水脈なんだって.ラージャ・マハール迷宮の近くで,今,離宮が建てられてるところ」
何とか気を取り直したアーシュラが答える.
「離宮?」
「大公の後宮だって噂だよ.例のジャガンナートが設計して,魔神を使役して建築中って聞いた事がある.実際にはノルトランド国境辺りから連れて来られた奴隷も働かされているみたい」
「えーっ! ハーレム? 男の人って最低!」
奴隷も許せないが,ハーレムも許せない.シノノメは目を細めてハメッドを見た.
「えっ? いや,私は妻を無くしてから特に何も……仕事一筋で,はい」
「ヒャハハ,そう言う奴が一番怪しいよね」
そう言いながらアーシュラはボードウォークの行き着く先,小さな小屋のドアを開けた.
「まあ,中に入って相談しようよ」
小屋は鍾乳石の間に上手く渡した板と石を組み合わせて作られている.窓には灯りがともっていた.先程船の中から見えた灯りはこれだった.
ドアを潜ると,船の部品と樽に入った食料品や飲料水が並んでいた.この小屋は船上レストランである紅の鯨亭の倉庫でもあるのだった.
奥には六人掛けのテーブルがあり,椅子の一つには魔女の格好をした少女が帽子を深く被って座っていた.
くうくう,と低い寝息の音がする.どうやら眠っているらしい.
「VRMMOにアクセスして眠るとは,変わってるな.活動時間がもったいないとか思わないんでしょうか?」
VRマシンを製造している会社の社長であるハメッドが思わず唸った.
良く見ると少女の帽子とケープはとても変わっていた.
形こそはとんがり帽子と身体をすっぽり覆うウェスティニアの魔女の正装なのだが,材質が違う.通常ビロードの様な少し光沢のある素材かスエードの様な起毛地なのに,セーターの様にしっかりと網目がある.毛糸で作られた編物なのだ.
「あー,まあ,この子はいつもこんなだから,気にしないで.とりあえず座って今後の事を相談しよう」
アーシュラは椅子に腰を下ろすと,大きなため息をついて首を回した.ぽきぽきと音がする.
「じゃあ,私お茶を入れるね」
シノノメは小さなキッチンを見つけ,ポットとティーカップを準備した.
「あー,ありがと.オッサンもその辺に適当に座りなよ」
アーシュラに勧められ,所在無げにハメッドがテーブルの隅の席に腰を下ろす.隣ではニット服の魔女がもぞもぞと動いたが,やはり熟睡し続けていた.
「はい,お茶だよ.あと,前に作ったお菓子がアイテムボックスに残ってたから,食べてね.回復ポーション入りなの」
シノノメは見つけたカモミールティーをカップに淹れ,菓子とともにテーブルに並べて自分もアーシュラの隣の席に着いた.お茶を一口含んだアーシュラは,喉を鳴らして飲み込んでから口を開いた.
「ぷはあ,だけどさぁ……何故,シノノメなのよ? ハメッドのオッサン?」
「は? 何故? とは,どういう意味ですか?」
何度もオッサンと呼ばれ,ハメッドは目を白黒させながら答えた.現実世界でもそう呼ばれたことはない.
「え……?」
突然自分のことでアーシュラが質問を始めたので,シノノメも目を瞬かせた.
「どうして,シノノメに自分の娘の救出を頼みに来たのか,ってこと」
「そうか,それ,私も聞きたかったんだった」
シノノメは船小屋の中で自分もハメッドに同じことを聞こうとしていたことを思い出した.
「社長を解任されたのはさっき聞いたよ.五聖賢に関わる取引をやめるってことでクビになったんでしょ? それに,娘さんとシノノメが仲良くしてたのも聞いた」
アーシュラはシノノメの回復ポーション入りクッキーをバリバリと噛み砕いた.
「でもね,レアアイテムでも売り払って,強力な傭兵や魔法使いの集団でも雇えばいいじゃない.シノノメ一人に頼むより,よっぽど確実だと思わない? たとえ危険があっても,それなりの金額でクエストを発注したら,受ける奴は必ずいるよ? マグナ・スフィアで活躍するってことは,現実世界でもそれなりのステイタスになるもん.いくら現実のお金がもうからないユーラネシアでも,ゲーム雑誌は取材に来るし,少なくとも有名にはなれるじゃない」
アーシュラはワンサイドアップにしたトレードマークの赤髪を振りながら,一気呵成にまくしたてた.
「うむ……確かにおっしゃる通り,それは一つの可能性ではある.しかし,千人規模の傭兵団を雇っても,彼らに勝てる保証はありますまい」
腕を組んでしばらく黙っていたハメッドは,ややあって口を開いた.
「まあ……そりゃ,そうね.無謀な戦いはもとより承知よ,アタシらも」
アーシュラは首を傾けながらも肯定した.
「シノノメさんにお願いするということは……失礼ですが……これは私の作戦,賭け,あるいは勝負です.実業家としての勘でもあります」
憔悴しきったハメッドの瞳の奥に,いつしか強い光が宿っていた.
「賭け? 私に賭けるってこと?」
シノノメは自分を指さして首を傾げた.
ハメッドはゆっくり頷いた.
「シノノメさん,あなたのデータをすべて調べさせていただきました.おそらく,あなたはユーラネシア大陸で唯一五聖賢に勝てる可能性のあるプレーヤーです」
「えっ?」
「あなたは,特別な力をお持ちです」
「特別……?」
シノノメはソフィアに言われたことを思い出していた.
……シノノメさん,あなたの脳は,特別なのです.
‘エルフの森’の都,中央平原のエルミディアで,かつてエルフの女王の姿をした彼女にそう言われたことがある.
「はい.あなたがこのマグナ・スフィアに参加してから,ゲームの在り方そのものが変わっているのです」
「そ,そうなの? 偶然じゃない? コンピュータが進化したとか」
「いいえ,私も元はエンジニアです.技術的にどうこう言うレベルの変化ではありません.あなたが現れてから,東の中興国に過ぎなかった素明羅は大国になった」
「いや,それはちょっと財務大臣を助けただけだよ……」
「それだけではない.さらに,北東大戦が起こった.北東大戦では亜人間の軍隊が暴れ狂い,やがてマグナ・スフィア史上初のプレーヤー同士の総力戦,大戦争が起こった.南北戦争の時のような局地戦とは規模が違う」
「それは……ベルトランが悪いから……」
「そうでしょうか? 私はまるで,あなたが現れてから,この世界の物語はあなたを中心に……あなたという主人公を得た物語が始まったように思える.それはダイナミックな変化だ」
「そ,そうかな……? でも,みんなそれぞれ楽しんでいると思うんだけど……」
「そう,これまでは各人がただそれぞれバラバラにゲームの中のクエストを楽しんでいるだけだった.だが,今や,誰の頭の中にも‘東の主婦’があるでしょう.ある者はあなたを目指し,ある者はあなたに反発感を抱いて上を目指している」
「わ……私はただのゲーム好きの主婦だよ」
ハメッドの熱を帯びた言葉に,シノノメは圧倒されていた.シノノメ自身に全くそんな自覚はない.一瞬ウィスキー風ポーションの飲みすぎではないかと思ったが,そんな風には見えなかった.
「あなたの本質的な能力は,おそらく‘変化’だ.変化を起こす力なんだ.あなたが関わることで,ユーラネシアはより幻想的で,ドラマティックになった.ならばこそ,絶対的に君臨する至高の人間,ホモ・オプティマスに勝てるはず.私はそう思ったのです」
ハメッドはそこまで話すと,じっとシノノメを見つめた.
アーシュラも思わずその視線を追うようにシノノメを見た.
……そうだろうか.
特別な脳.
私は,あの人の顔も名前も思い出すことが出来ないのに……
シノノメは二人の視線を受けとめ切れなくなり,左の薬指にはまったエクレーシアの指輪を見つめた.
あれ……? この指輪,なんで左手にはめてるんだっけ?
何か大事なことをまた忘れている気がする.
大事な……
ふとシノノメが思いつきそうになったちょうどその時,三人とは別の声が部屋に響いた.
「むにゃ.世界を改変する,変革の力ね.そーいや,クルセイデル様がそんなことを言ってた気がするナー」
おっとりとした呑気な声だ.
シノノメが顔を上げて見ると,ニットの魔女が背伸びをしてあくびをしていた.
黒髪に丸顔で,とろんとした眠そうな目をしている.だがこれは寝起きだからというわけではないようだ.
「アンタ,ようやく起きたね.紹介するよ.こいつ,ウェスティニアの魔法使いにして,編み物師のネム.寝坊助ネムとでも呼んでやって」
「おはよう,あたし,ねぼすけネムだよ.よろしくね.ふああああ」
魔法使いネムは,アーシュラの毒舌もどこ吹く風で,寝ぼけ眼で挨拶した.