18-4 暁の女神
エメラルドグリーンの海を切り裂くようにして,アーシュラの‘紅の鯨亭号’が急接近して来る.
だが,桟橋の上に立つイシュタルは,背後に迫る船など全く意に介していなかった.
悠然と笑みを浮かべ,自分に近づいて来るシノノメを興味深そうに見ている.
「もう! どきなさい!」
どいてくれるはずはないのだが,そう叫んでシノノメは走る速さを上げた.
「あら,挨拶もなしですか? あなたを捕らえなければならないので,ここは動けませんわ」
イシュタルがクスリと笑う.
「シ,シノノメさん!」
ハメッドが後ろから迫る装甲スズメバチを振り返って悲鳴を上げた.禍々しい黄色と黒のずんぐりとした飛行物体は,低い羽音をたてながら近づいて来る.その数は十匹ほどである.おそらく彼らの視界をイシュタルは共有してコントロールしているに違いない.
「そ,そうか!」
その時ハメッドは理解した.
シノノメが意識してそうしているのか分からないが――実際,ほとんどの場合彼女は直感で動いている――,射線上を移動して,接近戦に持ち込めば,スズメバチの‘針銃’は無効になる.よほど上手くコントロールしても,自分自身を撃ってしまう危険性があるからだ.
槍や弓を使って戦う相手に対して,一気に懐に入ってしまうのと同じ理屈か……
彼がそこに思い至ったとき,シノノメの体は一気に加速した.
瞬歩,縮地などと呼ばれる高速の体移動による移動方法だ.前足の膝を‘抜く’――具体的に言えば,大腿四頭筋を脱力させて倒れ込むように重心を移動させるのである.
見たところ,イシュタルは丸腰,武器は持っていない.
「えーい! 炎の雪平鍋!」
ボコボコとした外観の片手鍋でシノノメはイシュタルを薙ぎ払おうとした.後ろは海だ.逃げ場はない.
だが,イシュタルは左手で雪平鍋を握る手首を払い,そのまま右手で顔を殴って来た.
「わっ!」
シノノメは慌てて体をそらす.その瞬間,逆に鍋の柄を使って手首の関節が極められそうになった.耐えれば手首が折れる.シノノメはすぐに雪平鍋を放し,後ろに下がろうとした.
「危ない!」
何か白くて長いものが,顔に向かって跳ね上がって来る.
シノノメは反射的に上体を反らした.セキシュウの教えでは正中線を常に保たなければならないのだが,さすがにそんな余裕はなかった.
シノノメの顔のあった位置を走り抜けたのは,イシュタルの白くて長い脚だった.上段回し蹴りだ.だが,それで終わりではなかった.
イシュタルの足は優雅な軌道を描いてシノノメの右側まで振り抜かれたと思うと,今度は急速に膝を畳んで戻って来た.かかとがシノノメの右頬を襲う.反らせた体を元に戻していたら,カウンターのタイミングで打ち抜かれていただろう.ひっかけ蹴り,かけ蹴り,フックキックなどと呼ばれる蹴りである.
……中間距離にいたら危ない!
中間距離――ミドルの間合いは両者の攻撃が当たる.格闘技の試合で無責任な観客が一番喜ぶファイトスタイルが繰り広げられる距離である.だが,今は試合ではない.ダメージの比べ合いをすれば,シノノメに勝機はない.
イシュタルは百八十センチ以上身長がある.スーパーモデルの様な体形だ.超接近戦に持ち込むか,思い切り間合いを取るか――だが,間合いを取ればきりがない.リーチのある相手にそれをすれば,ハメッドの連想ではないが,一方的に槍で突かれるのと同じだ.それに距離をとれば後ろに控えているスズメバチたちの的にされてしまう.
蹴りを引き戻す勢いに合わせ,シノノメは体をいったん沈め,水面から亀が頭を出すようにイシュタルに接近した.これも本来中国拳法で使われる歩法だ.
「女の子が蹴りなんて,はしたないでしょ!」
そんなポリシーを持っているので,いつも道具で相手を殴るシノノメである.とはいえ,一応シノノメもセキシュウから素手で戦う武術――徒手格闘術も習っている.
「猫パンチ!」
手首から先を柔らかく使い,軽く振るように顎に向かって左掌底を打ち出した.まさに猫か熊が前足を振り回すようなフォームだが,原理は古流空手の身体操作に則ったものだ.当たれば相手は昏倒する.
「フフフ!」
イシュタルは瞬時に右半身に代わると,右手で猫パンチを払った.はたくような動きだ.間髪無く左手の裏拳がシノノメの顔を撃つ.
今度はシノノメが右手でこれを防いだ.だが,それでイシュタルの動きは止まらない.裏拳の手は瞬時に変化してシノノメの右手を捕らえ,さらに追撃を加えようとしてきた.回すように繰り出される肘打ちが迫る.肘打ちかと思うと,下突き――ボディアッパーが腹を抉ろうとした.慌てて肘でブロックすると,受けた腕がびりびりとしびれた.
「うっ!」
シノノメは咄嗟に相手の肩を押し,イシュタル張りに左の上段回し蹴りを放った.イシュタルは軽くステップバックして,これを避ける.
イシュタルはそのまま下がると,距離を作った.こうなるとリーチの長いイシュタルが有利だ.
「あら,蹴りははしたないって,あなたは言ったのに?」
イシュタルは笑みを浮かべた.宝玉のように青い瞳の大きな目が,喜悦に歪む.
「まさか……イシュタルが,こんな武術を使うなんて……」
ハメッドが呆然としていた.
スズメバチはフラフラと彼の斜め後ろの空中に浮かんでいる.仕留めないのはイシュタルの余裕なのか,それともシノノメとの戦闘の間にコントロールする暇がなかったのか分からなかった.
「仕方がないでしょ! だって,ブンブン顔を叩こうとしてくるんだから……!」
シノノメは左半身に構えた.手はぶらりと下げたままだ.
ファイティングポーズをとらないのは無構えの重要性をセキシュウに教えられたというのが半分の理由で,もう半分は以前やってみたときにあまりに様にならなかったので笑われたからだ.軽く揺らしながら,腕に受けたダメージを逃がす.タイミングが悪ければ,腕の骨か肋骨が折れていただろう.
「ブンブン……,フフ,戦うためには素手の技術は必須ですからね.近代戦で,あなた達のような先進国の無人ドローンが無差別に人を殺す時代になっても,最後は人間同士,人間を殺すことが戦争の意義.CQCはもとより,ボクシング,キックボクシング,ジークンドー,テコンドー,サバット……私はどちらかというと自分の国の組技格闘技よりも,打撃系の格闘技を主に習ったの.そう,あなたの国のカラテも習ったわ.戦士の精神的支柱とするために」
それは,美しいイシュタルの顔には全く似合わない台詞だった.彼女は頬を軽く上気させていたが,白い肌に薔薇が咲いたような色艶だった.
「あなたは……戦いが好きなんだ……」
シノノメが呟く.アーシュラの船は減速しながら近づいてきている.
「そう,私の人生は,ずっと戦いの人生だった.戦いこそは私の生そのもの.今の名前であるイシュタルは,明星に象徴される愛と美の女神,豊穣の女神の名前.そして,戦いの女神でもある.ドローンで仕留めてしまおうと思っていたけれど,勿体無いわ.東の主婦さん,もう少し遊びましょう?」
イシュタルは左半身に構え,ファイティングポーズをとった.上体が前傾していないので,蹴り技が得意なようだ.
「邪魔者が近づいているようね.ザンボーフ,自動迎撃なさい」
イシュタルがそう言うと,装甲スズメバチは二匹を残してアーシュラの船の方に飛んでいった.
スズメバチはあっという間に船の上に到達すると,上下左右に旋回して攻撃し始めた.それまで最短距離を走ってきた紅の鯨亭号は,攻撃を回避するために大きく蛇行して逃げ回り始めた.船の周りに外れた弾丸――スズメバチの針が作る小さな水柱がいくつもできる.満潮の高波の中,アーシュラは必死に操船しているに違いない.
「アーシュラ……!」
「お友達を助けるためには,私を倒さなければいけないわね.東の主婦さん.失礼,お願いします.私としばし遊び相手をしてくださるかしら?」
イシュタルは朱の唇を横に引き,にんまりと笑った.戦いを挑むものの表情ではない.自分以外のすべてのものを見下しているからこそできる,余裕の笑みなのだ.
「遊ぶなんて……!」
シノノメの言葉が終わるか終わらないかのうちに,イシュタルの体はスライドして左の回し蹴りを放った.後ろに下がれば,確実に連続攻撃の餌食だ.前に出るしかない.シノノメは右腕を上げて顔を防御しながら,前に出た.受けた腕が痛む.
右膝蹴りが跳ね上がる.これは体を開いて躱した.だが,きりがない.シノノメの頭の上から拳が,蹴りが降って来る.桟橋の不安定な足場で,イシュタルの体は華麗にうねり,回転した.無尽蔵の体力なのだろう.彼女の連続運動には終わりがなかった.魔法を使う時間を与えないつもりなのだ.
「ははは!」
イシュタルは笑っている.
人間を蹂躙することに快感を覚えているのだ.
人間風車のように回し蹴りが上中下段を走り,後ろ回し蹴りになったかと思うと左右のコンビネーションパンチがシノノメを打つ.
もう華麗にかわすことはシノノメにはできなかった.時に亀のように体を丸めて打撃を受け止める.確認する間もないが,HPはみるみる減っているのだろう.シノノメは腕と脚に負う打撲のダメージをできるだけ最小限にしながら,イシュタルの攻撃の癖と間合いを図っていた.
この人……派手な技が好きなんだ.
「えい!」
一瞬の隙を狙ってシノノメはクルリと後ろ向きになり,中段の右後ろ蹴りを放った.蹴りの中ではある意味一番距離が延びる.
「ふっ! そんなものが効くものですか!」
イシュタルは腕でシノノメの蹴りをブロックした.だが,ほんの束の間,攻撃の嵐が止んだ.
再び前に向き直ったシノノメは,今度は縦に――前転をするように転がった.
イシュタルの足元に軽く手をつき,前回り受け身をするように転がる.イシュタルはシノノメが急に姿を消したような錯覚を覚えた.さっき横回転の蹴りを見ていたせいだ.運動方向が突然変化したので,眼球が補足できないのだ.
シノノメはコロリと前転した――が,それはただのでんぐり返りではなかった.回転する体を追いかけるように,右脚がすらりと伸びていた.
シノノメの踵は縦に鋭く回転する斧の様に走り抜け,イシュタルの右頬を打った.
「あっ!」
胴回し回転蹴りだ.だが,この体格差だ.失神させる威力などない.ただ,シノノメにとっては脳が一瞬揺れれば良かった.イシュタルはたたらを踏んでバランスを崩し,後退した.
一回転したシノノメはすっと立ち上がった.
「くぅ……ぬっ!」
体勢を崩したイシュタルは追撃を防ぐため,それでも反射的にシノノメの腹に前蹴りを放った.
「えーい!」
シノノメは体を左に逃がし,片足になって両手を振り上げた.
体重移動の勢いで,手刀にした両手を頸動脈と胴に同時に打ち込む.
格闘競技では,同時に両手で攻撃することなどない.イシュタルは不慣れな攻撃にかろうじて急所を防御した.だが,足元がもつれた.
「やあ!」
さらにもう一度.右足を踏み込み,包むように構えた両手をがら空きになった右わき腹に打ち込んだ.
「ぎゃあっ!」
沖縄空手のチントウの型にある,‘つつみ打ち’である.体当たりの勢いを利用した攻撃で,腕力がなくとも決まれば威力は体の内部に浸透する.
イシュタルはたまらず吹っ飛び,海に叩き込まれた.
ザブン,という音とともに,白い水柱が上がった.寄せる波がイシュタルを飲み込む.
ややあって,水面の下にイシュタルの白い服が浮かび上がってくるのが見えてきた.
「ふうふうっ……! どうだ!」
シノノメは肩で息をしながら,桟橋の端からイシュタルを見下ろして挑発した.視線の端には徐々に近づいて来る船影を確認している.
「おのれ,なんという屈辱……貴様! 殺してやる!」
イシュタルはダメージのために上手く泳げないようだ.かろうじて立ち泳ぎで沈まないように浮かび上がり,バランスをとっていた.
金髪が海水にぬれ,顔にほつれて張り付いている.怒りと憎悪に染まった美しい顔は,凄惨な印象を与えた.おそらく仮想世界に生まれ変わってから,こんな無様な敗北など皆無であったに違いない.
イシュタルの声に反応し,ハメッドの頭上で待機していた空中のスズメバチがピクリと動いた.
羽を羽ばたかせてゆっくり旋回し,針銃が上下する.明るい日差しの中なのでレーザーサイトはよく見えないが,間違いなくその銃口はシノノメとハメッドを狙っている.
「うわっ! 殺られる!」
ハメッドが悲鳴を上げた.
「おーい! 今だよ! アーシュラ!」
だが,シノノメは精いっぱいの声で紅の鯨亭号に向かって叫んだ.
「あいよっ!」
疲れ切ったシノノメよりはるかに大きな声が返ってきた.
シノノメの声が本当に聞こえたのかはわからないが,アーシュラはすでに自分がやるべきことを察していたのだ.
イシュタルが水に落ちた直後,スズメバチの攻撃が弱まった.
機を見るに敏なアーシュラは,シノノメがイシュタルに何らかのダメージを与えたと考え,追跡を振り切ってすでに桟橋に近づいてきていた.
アーシュラ――紅の鯨亭号は一気に距離を詰め,桟橋に激突せんばかりの勢いで,塩水を吸った頑丈な木の船体をイシュタルの背中に叩き付けた.
「ぎゃあっ!」
さらに船は高速で急旋回した.回転する外輪がイシュタルの体を何度も打ち,波間に引きちぎられたイシュタルの白い服の切れ端が飛び散り,浮かんだ.
「行っけぇ!」
それでも容赦なくアーシュラは舵を回転させた.船がスピンする.
「うわぁっ! うわっ! くそっ! くそっ!」
半裸となり,傷だらけになったイシュタルはそれでも必死で抵抗していたが,何度目かの衝突の後,やがて海に沈んで見えなくなった.
「やっつけたかな?」
シノノメは固唾を呑んで水面を注視した.
どうやら一応イシュタルは浮かび上がってこないようだ.
「うーん……」
まだ油断できない.シノノメがそう思いながら唸った瞬間,桟橋の板を重いものが叩く音がした.
見ると,コントロールを失ったスズメバチが地面に転がり落ちていた.
「死んだのかな……?」
「いや,こいつらはコントロールを失っただけでしょう.もともと,スズメバチは飛行力学的にかなり無理をして空を飛んでいる生き物らしいですから」
安堵したハメッドが丸くなったスズメバチを蹴り飛ばすと,サッカーボールのように転がって海の中に落ちた.
海上を飛び回っていたスズメバチも海の中に沈んだようだ.気づけば,耳障りな重低音の羽音は聞こえなくなっていた.
「ですが,これでホモ・オプティマスが死ぬとは思えません.少なくとも行動不能にはなったようですね」
二人がそんなことを話していると,紅の鯨亭号は,まだ慣性で少し回転しながら少々乱暴に桟橋に接舷した.船の舷が古くなった桟橋の板を壊し,メキメキと音を立てる.
「シノノメ! 早く乗って!」
操舵室の窓から顔を出し,手を振るアーシュラの顔を見て,シノノメはようやくほっと胸をなでおろしたのだった.