18-2 脱出
炎は広がり,歴史を刻んだ老木を次々に巨大な松明へと変えていく.
猛烈な熱が榕樹精舎の住人とシノノメを襲いつつあった.
二人の‘至高の人間’が不気味な白い石の人形たちを引き連れ,劫火の中を歩いて来る.
神々の父,魔術師ヴォーダン――崩壊したヨーロッパ共同体の雄,ドイツの女性首相が姿を変えた電子人格である.銀の杖を振り,指揮者の様に風と炎を操っていた.
冥界の王ハデス――生前は大国ロシアの大統領,皇帝の再来と呼ばれた辣腕の政治家である.軍の諜報機関出身だったが,仮想世界では白い石人形の軍隊を率いる将軍として振る舞っている.
苦行林はカカルドゥアの人間にとって,本来汚してはならない聖域である.しかし,そんなゲームの設定――仮想世界の原則や法律など,気にする彼らではなかった.
「シノノメ……逃げるなよ」
「ハメッド……そこで待っているがいい.まとめて全員消し炭にしてくれる……」
爆風に乗って,シノノメとハメッドの名を呼ぶ声が聞こえてくる.哄笑交じりのその声は,狩猟を楽しんでいるようで真剣さは欠片も感じられない.
自分たちが持つ圧倒的な力に酔いしれ,それを使うことに喜びを覚えているのだ.
「あの人形,ブロック塀を切り抜いたみたい.一体何体いるんだろう……ひい,ふう,みい」
シノノメは手早くエプロンをつけながら,見える範囲で数えてみた.どう数えても十体以上はいる.石人形‘部隊’とでも言った方がよいのかもしれない.
ふと,大木の幹が爆ぜる音をたてて裂けた.幹の中に蓄えられていた水分が高熱で気化して爆発したのだ.
「きゃあ!」
「怖い!」
子供たちが悲鳴を上げる.老人たちは身を寄せ合って震えていた.
シノノメが最大の力で戦ったとしても,そして相手が一人でもぎりぎり勝てるかどうか分からない相手だ.どう考えても,他人を守りながら戦う余裕はない.
……どうしよう.
握りしめる拳にじっとりと手汗が浮かぶ.
自分たちが彼らに従ってついて行けば,子供たちは見逃してもらえるだろうか.
いや,絶対それはあり得ない.
シノノメは今やカカルドゥアの重要な研究施設である‘工房’を破壊したテロリスト,国家反逆者ということになっている.子供たちや病気にさせられたナディヤは,その工房で行われていた悪事の,いわば生き証人だ.
それに,隠遁生活をしていたナーガルージュナがはっきりシェヘラザード――カカルドゥア政府と敵対する姿勢を見せてしまった.
シノノメを捕らえるなら,ナーガルージュナも子供たちも,榕樹精舎の関係者はまとめて始末してしまおうとしているに違いない.
「シノノメ殿,ここは逃げよう,退くのじゃ!」
逡巡していたシノノメに,ナーガルージュナが声をかけた.
「儂が空間を歪ませて逃げ道を開ける.榕樹精舎はもう捨てるしかない!」
「でも,どこへ行くというのですか? ナーガルージュナ様? ……ワシらは足手まといになります.捨て置いて,子供たちを連れて逃げてくだされ」
長い髭の老人が言った.老人たちは十人足らずだったが,全員が彼の言葉にうなずいていた.
「何を言う,サーリプッタ.そんなことは許さぬ……しかし」
この人数が逃げられ,しかも保護してくれる場所など,さすがのナーガルージュナも思い浮かばないようだった.
「そうだ! ダーナンさんのところに逃げて! 聖堂騎士団は警察みたいなものでしょう?」
「戦士の寺院……フェダイーン・パゴダか! だがしかし,それではお主は一緒に行けぬではないか!」
お尋ね者のシノノメが一緒に避難することは出来ない場所だ.疑いを晴らすために,ダーナンは騎士団を説得してみると言ってくれたものの,まだ成功したという知らせは聞いていない.行けば逮捕されてしまうだろう.そうすれば,ここにいるのと同じことになるかもしれない.
それでもシノノメはすぐにメッセンジャーを立ち上げ,ダーナンにメールを送信した.
「ログインしてたらいいんだけど……」
幸い,ほどなくダーナンから『了解した.何とかする』と返事が返ってきた.
「来ても大丈夫だって! さあ,早く行って!」
そう言うと,シノノメは前に――ヴォーダンとハデスが向かってくる方向に歩み出た.
「シノノメ殿! 何をする気じゃ!」
「シノノメさん!」
「主婦のお姉ちゃん!」
「ナーガルージュナさんが言った通り,私は一緒に行けないよ.それに,あの人たち,子供たちが逃げるのをゆっくり眺めているような人たちじゃないもの! ここは私が食い止めるから! その間に逃げて!」
ナーガルージュナがいくら不思議な力を持っていても,これだけの人数を逃がすのは容易でない.どんな凄腕の魔法使いでも,転移魔法は簡単でない上に,仕掛けに手間がかかる.シノノメは時間を稼ぐつもりだった.
「しかし……」
セーブポイントが今この榕樹精舎にある限り,例え死亡になってログアウトしても,シノノメがヴォーダンとハデスから逃れることはできない.いや,おそらくそれを予想してのこの攻撃なのだ.何故かサマエルはシノノメを手に入れたがっているという.拘束されれば二度と現実世界に帰ることはできないかもしれない.
「今一人で戦って勝てる相手じゃないのは,わかってるよ! 何とかして私も逃げるから!」
「だが……」
ヴォーダンとハデスは悠々と歩いて来る.シノノメの申し出以上の案を検討する時間はなかった.
「分かった,シノノメ殿.決して捕まることのないように用心するんじゃぞ.必ず後で会おう」
ナーガルージュナは決心すると,霊樹の杖で空間に楕円を描いた.緑色の光が宙に浮かびあがり,人ひとり分ほどの穴が出来る.
「さあ,早く!」
病人から先に手を取り合い,穴をくぐっての脱出が始まった.
そうしている間にも着々と二人の‘至高の人間’は近づいてくる.ついに榕樹精舎の境界,丸い広場の縁にある巨木に白い石人形が手をかけた.
オレンジ色の光が石人形を押し戻そうとする.榕樹精舎に厳重に張られた結界だ.だが,石人形はグイグイと結界の中に身体をねじ込もうとしている.
「面倒だな」
榕樹の向こうに立ったヴォーダンが,杖を振った.地面の高さから巻き起こった竜巻が榕樹を根こそぎ引っこ抜き,結界を破った.ついに広場に白い石人形が足を踏み入れる.
「急いで!」
シノノメは振り向かずに叫ぶと,エプロンのポケットに右手を差し入れ,アイテムを取り出す準備をしながら,走り出した.
「こいつ! 変な壁人間め! 全部綺麗にしちゃうから!」
シノノメが取りだしたのは,高圧洗浄掃除機だった.金属の細長いノズルと取っ手がついている.柄尻につながったホースの先は,ポケットの中につながっていた.
「洗車から家の壁掃除まで使えるけど,経済的じゃないから,主婦的には嫌いなお掃除アイテムなんだぞ!」
シノノメは銃を構えるようにクリーナーの先端を石人形に向け,全開で水を発射した.
白い石人形は高圧の水流を受け,ピカピカに磨かれながらふっ飛ばされ,砕けて石の破片になった.
だが,次から次へとやって来る.
後方では石人形を操るハデスが腕を組んで笑っていた.
「ふふん.どうだ? 俺の壁は?」
「こんなの,大したことないよ! えいっ!」
シノノメがトリガーを引くと,ノズルの先から細く鋭い水の奔流がほとばしり出る.
クリーンヒットすると,石をも砕く水圧だ.ただ,MPの消耗が激しい.シノノメがこのクリーナーを普段あまり使っていない理由はこれであった.それでもあっという間に三体ほどがバラバラになった.
「では,これはどうだ?」
ハデスが右手を軽く動かすと,石人形達は肩を組むようにして密集して横に並んだ.彼の言葉の通り,まるで‘壁’である.高さ二メートルの分厚い壁となった人形は歩みをそろえてシノノメの方に進んで来た.
「並んだって,こんなの大きいブロックのおもちゃじゃない!! えい!」
真ん中の石人形に向けて水を噴射すると,たちまち胸の位置に大きな穴が開き,その場に崩れ落ちた.
だが,砕け散った石人形の場所は左右の石人形が塞ぐように補い,壁が途切れる事はなかった.
「えーい,グリルオン!」
足元から炎が噴き上がる.石人形は若干歩みを止めた.
「無理をするではないぞ! お主は決して捕われてはならん! シノノメ殿!」
後ろからナーガルージュナが叫ぶ声がする.自分が最後に異次元の穴を通るつもりなのだ.
「大丈夫! 行って! ナーガルージュナさん!」
「武運を祈る!」
「シノノメさん! 本当にありがとう!」
病に侵されたナディヤの,精いっぱいの叫び声が聞こえる.
「ありがとう!」
子供たちの声が遠くに聞こえる.名残惜しかったが,今のシノノメに敵から目を離して振り返る余裕はない.
しばらくして,ポン,という音がした.どうやら空間の穴が閉じたようだ.
「よーし,これでみんないなくなったから,遠慮なくいくよ!」
シノノメは高圧洗浄機を構え,左半身に構えた.
「ふふん,笑わせる! ずいぶん魔力を消費したようではないか!」
言いながらヴォーダンは杖を振った.
「神々の父ヴォーダン(オーディン)は,そもそも風の神.嵐の神!」
逆巻く炎が上昇気流を作り,炎の竜巻が起こった.竜巻は激しく回転しながら,シノノメの左手から近づいて来る.
さらに,右手からは石人間の壁が近づいてきた.
「ステンカよ! 刀を抜け!」
ハデスの声とともに,石人形の腕から光る曲がった湾曲刀が生えてきた.まるで斧か鉈を振り下ろすような機械的な動作を繰り返しながら進んでくる.巨大な草刈機,あるいは刃を持つ脱穀機がそこに現れたようだ.進む先にある者は全て切り刻み,破壊する.怒涛の勢いだった.
二方向からの強力な攻撃が迫る.後方はナーガルージュナたちが住処にしていたガジュマルの巨木である.シノノメにはもう逃げ場がなかった.
「Herauf, wabernde Lohe! (ゆけ,炎よ燃え盛れ!)」
ヴォーダンの歌が炎の竜巻の向こうから響いてくる.ワーグナーのワルキューレの一節である.ヴォーダンが高らかに歌い上げると,それに呼応するように竜巻は勢いを増し,石人形の死の行進を追い抜いてシノノメに襲い掛かった.
轟轟と逆巻く炎が迫る.
「まな板シールド!」
何とか竜巻を跳ね返し,シノノメは後ろに下がった.だが,榕樹精舎の広場は決して広くない.‘猫ちぐら’のようで可愛いと思っていたナーガルージュナの小屋が背中に当たる.
休むことなく右手から刃物のついた石の壁が迫る.
威力の大きい魔法で全部吹き飛ばすか……それにしても,主婦魔法は基本的に屋内や閉鎖された環境の方が真の威力を発揮する.ホモ・オプティマス相手にこの屋外戦はあまりに不利と言わざるを得ない.
どうしよう……そう思った瞬間,シノノメの右後方から男が走り出た.
「出でよ! アスモデウス!」
ナーガルージュナの小屋の裏から姿を現したのは,ハメッドだった.
彼の声とともに現れた灰色の巨人が石の壁の突進を受け止める.腕は巨木の幹に匹敵する太さだが,下半身がすぼまって幽霊の様に細くなっている.とがった耳に金の耳輪をつけ,鋭い目には縦長の瞳孔が開いた金の瞳がついていた.カカルドゥア特有の強力な使い魔,器物に封じ込められた魔神だった.
「シノノメさん! 手伝います!」
ハメッドは右手をかざして宝玉のついた指輪を敵に向けていた.
「マユリちゃんのお父さん! 一緒に逃げなかったの!?」
「私は,あなたに頼みたいことがあって来たんです! 去るわけにはいきません!」
あまり戦闘には慣れてないようだったが,指輪の魔神は強力な使い魔だ.押し返しこそできないものの,壁の突進を見事に食い止めていた.攻撃力はあまりないので,榕樹の陰に隠れて使いどころを見極めていたのだろう.
「ほう,ハメッド,面白いものを持っているな」
ハデスが不敵に笑う.
「こう見えても,IT会社の社長だ! ゲームの腕は半端じゃないぞ!」
ハメッドが叫ぶと,指輪についた宝玉が光を増した.
「だが,これではどうだ?」
白い人形はボコボコと音をたて,原生動物の細胞分裂の様に増え始めた.組体操の様に積み重なり,あっという間に壁は二倍の高さになると,逆に魔神を押しつぶし始めた.
「くそ! お前たちなど,何様だ! ただの電子情報,亡霊にすぎないじゃないか!」
「ふん,その亡霊を偉大な政治家と呼んで卑屈に商売をしていたくせに,笑わせる.日和見の商人風情が!」
白いブロックは組み合わさり,徐々に巨大な手の形を作り始めた.‘手’は指輪の魔神を握り込むとギリギリとつぶし始めた.だが,強力な魔神は五本の指に抗おうと格闘している.
「ありがとう! 助かったよ,マユリちゃんのお父さん!」
勝てなくとも,攻撃が二手でなくなったことはシノノメにとって十分な勝機をもらったに等しかった.
「おそうじトルネード!」
シノノメが叫ぶと,十二本の細い竜巻が密集して巻き起こった.細く高速回転する竜巻はヴォーダンの作った太い炎の竜巻を取り囲み,さらに逆回転して動きを相殺する.炎は消え,風が止み始めた.
「吸引力の減らない,ただ一つの掃除機魔法だよ!」
「うぬ,おのれ小癪な! 小娘め!」
そう叫んだヴォーダンは魔法の杖を高く振り上げたが,それこそがシノノメの狙いだった.
「ウォータージェット!」
洗浄掃除機から噴き出された高圧の水流は,容赦なくヴォーダンの手首を打った.
「ぎゃあ!」
手首があらぬ方向に曲がり,銀の杖が吹き飛んだ.
たちどころに炎と竜巻は消え去った.魔力の源’魔法使いの杖’を失ったのだ.
「今です! シノノメさん,これに乗って!」
ハメッドは広げた魔法の絨毯の上に立っていた.
シノノメは絨毯に飛び乗った.これなら,空飛び猫を召喚するより早い.
「つかまってください!」
身体を伏せ,二人が絨毯の縁につかまると,フカフカの布は浮かび上がった.ハメッドの持つ高級品の魔法の絨毯だ.クヴェラの絨毯とはまるで性能が違う.レーシングカー並みの高速で蛇行しながら,超低空飛行でガジュマルの林を抜け,疾駆するように飛んだ.
ハデスとヴォーダンを置き去りにして,ぐんぐんと飛んでいく.
「くそっ! おのれ! シノノメ! この借りは必ず返すぞ!」
痛みをこらえるヴォーダンの叫び声が聞こえたが,あっという間に小さくなった.
「ハメッドめが! 陽動か! 小賢しい手を使いおって!」
そう言うハデスは石の‘手’を操るのに手間取って釘付けとなっているようだ.
ハメッドの見事な,瞬く間の采配,作戦だった.
「急上昇!」
「ひゃあっ!」
ハメッドが叫ぶと,瞬く間に絨毯は榕樹精舎の上空に飛び上がった.シノノメは顔を打つ風圧に思わず目をつむった.
安全な高度まで上がると絨毯はふわりと翻り,安定飛行に移った.
ハメッドとシノノメは胸をなでおろしながら体を起こした.ハメッドは胡坐に座り直し,シノノメもぺたんとトンビ座りになった.
パキン……それと同時にハメッドの指輪が小さな破裂音をたてた.見ると,宝玉にひどい亀裂が入っている.ピクセルに分解されず,本物の宝石の様に粉々に砕けると破裂するように砕け散った.
「あっ!」
シノノメは小さく驚きの声を上げた.
こんな破壊のされ方をしたレアアイテムは見たことが無い.ハデスの組み立てた巨大な石の‘手’が魔神を押しつぶしたのだろう.
「……魔神が倒されましたね.でも,仕方ない.これも計算の内です.そもそも仮想世界の魔力で戦って,普通ホモ・オプティマスに勝てるはずはない」
「魔神さん,ちょっと可愛そうだね.これ,依代のアイテムが壊れると再生できないんでしょう?」
「そうですね……きっと,マユリが見たら同じことを言って私を叱るんでしょうね……」
そう言うとマユリの父――ハメッドは目を細めて唇を噛みしめた.涙が流れ落ちるのを必死でこらえているように見える.
魔法の絨毯は風を切り,高速で苦行林を離れていく.
シノノメがわずかに振り返ると,焼かれた緑の森から煙が立ち上っていた.
あとは深い緑と,遠くの砂漠地帯がその向こうに見え隠れしている.
ハデスとヴォーダンは追跡してこない.
どうやら何とか逃げ延びたらしい.
シノノメはほっと一つため息をついて安堵した.さすがのホモ・オプティマスも,飛行のスキルは持っていないようだった.
「良かった……助かった……」
「レベル97のあなたなら,勝てないまでも必ず脱出する機会をつかめると読んでいました」
「すごかったね,一瞬のうちにあれだけ先を読んで計算したんだね?」
「先を読んで行動するのは,経営者の常ですから……」
そういうとハメッドは再び沈黙した.
何か言いたいことがある様な横顔だ.ハメッドは絨毯の向かう先,空の一点を見つめていたが,目の焦点ははるか空の先に合っているように思えた.
……これは……大事な人の事を考えている顔.どうしても取り戻したい物の事を想っている顔だ.
何故だろう.今,私にはこの人の気持ちがよくわかる.
口に出すのが辛いんだ……だけど,きっと……
「それで……」
シノノメは思いきって口を開いた.
「……私に頼みたいことって……何?」
すでにある答えを確認するように,そっと尋ねた.
「どうか,どうか……由莉奈を……マユリをこの世界から取り戻して下さい」
ハメッドは絨毯を握りしめ,血を吐くようなその願いを口にした.