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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第18章 壊れゆく世界
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プロローグ すれ違うふたり

 家――唯の脳内に作られた、仮想世界の心の家。

 心の安定を保ち、また逃げ場とする棲処すみか。安住の地。

 セーフハウスと呼ばれる家に夜が訪れる。

 彼女の夫は夜になるとこの家に帰って来る。実際にはVRPIと呼ばれる機械を使って、昏睡状態である唯の脳にアクセスして来るのだが、唯はその事を知らない。

 今の彼女にとってはこの家こそが世界であり、現実だった。


 「唯、大丈夫か?」

 「え? 何が?」

 家に帰るなり、夫は心配の言葉を口にしたので、唯は内心少し動揺していた。

 危険なことはするな、と言われていたのに、脳障害を負うかもしれないというような恐ろしい戦いを嫦娥と繰り広げたのだ。

 「仕事中に電話をかけてくるなんて、滅多にないから……」

 「ああ……あれは、ゲームの中で知り合った子のことで、どうしても早く答えが知りたかったから……ごめんね」

 マユリの病気の事だ。

 「……本当に、体の調子は大丈夫か?」

 「ううん……何ともないよ」

 声が震えていないだろうか。唯は気にしていた。


 ……私は嘘をついている。

 本当は、一番大切なはずのあなたの名前と顔を忘れている。


 「そうか……」

 「う、うん……」


 夫は複雑な表情をしていた。

 どう思っているんだろう……

 彼の表情を読むことが唯にはできなかった。

 以前に比べてずいぶんましになったとはいえ、表情を類推して共感する能力は十分でない。本人にはその自覚が無いので、どうすればよいのか、ただ戸惑うばかりになってしまう。


 「ゲームは……マグナ・スフィアはどうだい?」

 「え? ええ、うん、楽しいよ。あなたがゲームの事を聞くなんて、珍しいね」

 「そうか?」

 「うん、ゲームの世界で何してるかなんて、いつも気にしないでしょう?」


 二人は仮想の家の中で、沈黙した。

 今二人が会話している世界もまた、仮想世界だ。唯はそのことを知らない。


 仮想世界の中で仮想世界のゲームを楽しんでいる唯。

 それは、夢の中で夢を見ている姿に似ていた。


 「マグナ・スフィア……クリアできそうかい?」

 「クリア……うーん、ファンタジー世界の方には、明確な最終ステージが見つからないの。レベル百になれば、クリアなのかもしれないけれど……でも、私のこと、知っているでしょう?」

 「……ゲームが終わりそうになると、終わりたくなくなるんだろう?」

 「うん、だって、ファンタジーが終わるのは淋しいもの」

 「……そういうものなのかな……」


 何故か共感してくれない夫に、唯は小さな苛立ちを感じた。


 「いつか、夢は醒めるべき時が来るんじゃないかな……」

 「それって、ゲームをするなってこと?」

 「いや、そういうわけじゃないよ……でも、VRゲームで脳機能を障害されたという報告もあるし……国内で、ゲーム中に意識不明になった子供の報告が最近続いているから……」

 「そんなの、大丈夫だよ!」


 気づくと唯は声を荒げていた。

 仮想世界を取り上げられることが、とても不安だったのだ。


 出会った友達たちと別れたくない。

 そして、きっとゲームの中で自分の失った記憶を取り戻せる……

 大事な、大事な記憶。

 あなたの顔、名前。

 そして、二人の想い出。

 絶対に取り戻さなければならない。

 自分が忘れていることを気づかれないうちに。

 決してあなたに気づかれたくない。

 ……私はこんなに一生懸命なのに。でも、それをあなたに告げる事が出来ない。


 ゲームを続けることで、記憶を取り戻す事が出来る。

 その想いは妄執の様に唯の心に深く根を下ろし、侵食し始めていた。


 唯本人は気づいていないが、仮想現実の家の中が薄暗く曇り、空間が歪んでいく。

 マグナ・スフィアにアクセスさせ、唯の脳機能を改善させる筈だった。仮想世界で多くの人に出会う事で、やがて現実世界に帰って来るように仕向けるという試みは、しかし、発案者である黒江の想像を超える方向に向かい始めていた。今の彼には、唯が仮想世界の奥へ奥へと分け入っていくような気がしている。

 

 ……知っているよ。

 君が僕の名前も顔も覚えていないことを。

 それでも、愛しているよ。


 黒江は心の中で唯に呼びかける。

 彼女に何が起こり、今どうなっているのか。説明すれば、唯の心は安定するのだろうか。だが、それはあまりに危険すぎる賭けのように思える。

 取り繕い、自分に重ねた嘘で危ういバランスを保つ彼女の意識が、再び崩壊しないとは誰にもわからなかった。

 黒江はただ悲しくなって唯の顔を見た。

 この表情の意味を、彼女は少しでも類推することが出来るようになっているのだろうか。

 唯は形の良い眉を顰め、自分の顔を睨んでいる。

 これ以上彼女の意識に干渉するのは危険な気がした。

 精神的なストレスは大きな負荷になる事があるのだ。以前ノルトランドとの戦争に参加した後、セーフハウスがフェードアウトして、唯の意識とアクセスできなくなったことがあった。


 ……君が目を覚ますのを待っているよ。


 黒江はつい口に出しそうになったその言葉を、心の中で噛み潰した。


 「ごめん、用事があった。……ちょっとまた、病院に行ってくる」

 不自然に思われる事が無いように注意しながら、ログアウトすることにした。

 一階の玄関へ向かい、‘意識の家’であるセーフハウスを出る。

 唯はいつもそうしている様に玄関まで見送りに来なかった。

 「行ってらっしゃい」という声もない。

 珍しいと言えば珍しい。それは唯がより感情豊かになって来た、良い変化と言えるのかもしれない。


 怒らせたか……でも、意識にアクセスできなくなるよりずっとましだ。

 そう思って黒江はもう一度‘家’を振り返って見た。

 驚くほど現実の二人の家にそっくりだ。

 辺りを見回すと、茫漠とした不思議な空間が広がっている。

 ‘屋外’は彼女の意識でもあり、このVRPIという機械の中につくられた公的空間パブリックスペースでもある。複数の患者がこの空間にアクセスし、グループ治療に用いられる事もある仮想空間だ。重度の精神病患者がアクセスすると、不気味なオブジェが現れる事もある。

 今の家の周りは唯の心象風景を反映してか、月の光に照らされた砂漠の様になっていた。

 黒江はため息をつきながら、ログアウトした。

 

 その頃唯は、一人リビングのソファで黙りこくって座っていた。

 バーティカルブラインドの隙間を通して部屋の中に月光が差し込んでくる。

 月を見上げると,いつもの通りの満月だった。

 夜空は明るすぎて星は見えない。

 マグナ・スフィアで願いをかけた星も、月の光に隠されてしまった様で哀しかった。

 怒りと焦りと悲しさとが胸の中でない混ぜとなり、自分でもこの黒い感情をどうしたらいいのか分からない。


 ……どうして分かってもらえないんだろう。

 でも、その気持ちを打ち明ける事も出来ないし……

 でも、明日の朝になれば、また笑って話が出来るかな……


 唯は体育座りになって身を丸め、両膝の間に顔をうずめた。


 だが――二人がこの家で言葉をかわしたのは、これが最後となった。

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