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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第17章 暴かれる闇
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17-13 鋼鉄の男

 「お邪魔しまーす」と言いながら,シノノメは扉からひょっこり顔を出した.

 

 「馬鹿だなー,お前は.中にいるのは敵に決まってるのに,わざわざ断りいれてどーすんだよ」

 「だって,戦いの気配がしないもの」

 「だっても何も,いるのは嫦娥じょうがだろ?」

 「分からないよ.ナメクジ人間かも.あー,ぶるぶる.気持ち悪いな」

 

 嫦娥の這い跡を追ってきたシノノメとヴァルナは部屋に入るなり,ベッドの上に横たわる子供の数に目を奪われた.


 「す,すごい人数! これ,みんな,さらわれたんだ!」

 「ふん,どーかな? 北の国境地帯ではノルトランドの村々がどんどん併呑されて住民が奴隷化されてるからな.売られてきた子供もいるだろうぜ」

 「奴隷? 売る!? そんなの,絶対許せないよ!」


 どの子供も拍動する肌色のチューブが取り付けられている.動物の腸管の蠕動運動のように,肌色の瘤が人間の体に向かって順繰りに移動していく.それは部屋の隅にある陶器製のタンクと子供たちの腕をつないでいた.何か液体状の物を体内に送り込んでいるらしい.

 シノノメがチューブの不気味な動きに気を取られている間に,ヴァルナは部屋の奥に佇む人影に気づいた.

 シェヘラザードと謎の男.

 瞬時にシェヘラザードと目が合ったが,シェヘラザードの口元には余裕の笑みが浮かんでいる.追跡者であるヴァルナに見つけられたにもかかわらず,一片の焦りも動揺もその顔には無い.


 「シェヘラザード!」

 近くのベッドに寝ている子供を起こそうとするシノノメを置き去りにして,ヴァルナは宙に舞い上がった.

 彼は風を起こし,風に乗ることができる.十メートル以上はあろうという距離を飛び,グルカナイフを抜いてシェヘラザードに斬りかかった.

 シェヘラザードはやはり微笑を浮かべている.

 子供たちが横たわるベッドの列を眼下に飛び越え,シェヘラザードに剣尖が迫ろうとしたその時,自分を睨む強烈な視線と殺気,そして風を切って迫りくる‘塊’に気付いた.

 

 「うおっ! やべー!」

 ヴァルナは空中で向かう風を蹴り,一回転してベッドの上に降り立った.ベッドの上では五歳くらいの少女がすやすやと寝息を立てている.

 「何だこいつは?」

 ヴァルナを迎撃すべく銀色に輝く拳を振るったのは,シェヘラザードの隣に立っていた男――オシリスである.

 「すげーマッチョだな?」


 こんな時もいつもの調子で茶化すヴァルナに,オシリスは何も答えない.

 血のように赤く,瞳孔が開いた目でじっとヴァルナを睨んでいる.


 「おい,シノノメ!」

 ヴァルナは後方にいるシノノメに叫んだ.二人の間は十床ほどのベッドが隔てている.


 「なーに? ちょっと今忙しい……」

 「何だか,やべー奴がいるぞ」

 

 シノノメはヴァルナに背を向け,せっせと子供達から不気味な管を引き抜いては,別のベッドに移し替えていた.

 実際にそうなのだが,シノノメは点滴に眠り薬が入っていると考えたのである.全員を抱きかかえて連れて帰るわけにはいかないので,覚醒させることにしたのだ.点滴を抜く――‘抜針済み’の子供は,一緒のベッドに並べておけば分かりやすい.


 「やべー奴?」

 「見てなかったのか? ちょっと手伝えよ」


 シノノメは振り返り,ヴァルナが対峙している敵を見た.

 長身の男だ.

 長身というだけでなく,胸板も肩幅もボディ・ビルダーの様に分厚い.さらに,その両腕は金属色の光沢をもつ筋肉が盛り上がっていた.


 「何? そのムキムキの人?」

 目つきが鷹の様に鋭く,異様だ.シノノメは眉を顰めた.


 「貴様らが,テロリストか?」

 男――オシリスはシノノメとヴァルナの返事を待つことなく,ベッドを乱雑に押しのけながら歩き始めた.

 「子供らの未来を奪うとは許せん……」

 言葉と行動が全く裏腹だった.

 オシリスが無造作に体で押しのけたベッドは音を立てて倒れ,上で寝ていた子供が床に転がり落ちている.腕につながっていたチューブが引き抜かれ,あるいは引きちぎれている.

 

 「あっ! 子供たちが! 何て乱暴なの! あの人,言ってることとやってることが全然違うよ!」

 「興奮状態で全く周囲の状況が見えてねーんだな.ヤク中患者みたいに,判断能力がパーになっちまってるんだ!」


 オシリスが突進してくる.


 「私,子供達を避難させなきゃ.ヴァルナ,頼むよ!」

 「くそ,さっさと済ませて手伝えよ!」

 ヴァルナは着地していたベッドに眠る子供を隣に移すと,ベッドの下に竜巻を作った.


 「喰らいやがれ!」

 ベッドが宙を舞い,オシリスに叩きつけられたが,オシリスは無造作に鋼鉄の腕で薙ぎ払った.ベッドは粉々に壊れ,辺りに破片が飛び散った.中世世界のユーラネシアなので木製のベッドだが,現実世界の金属製のベッドならばあわや大惨事である.


 「ヴァルナ! こんなことしたら子供達が怪我するよ! 洗濯紐(コルド・ランジェ)!」

 シノノメは魔法の洗濯紐を放った.

 洗濯紐――ロープには,獲物を自動的に噛みつく魔法の洗濯バサミがついている.ロープはするすると蛇の様にベッドの間を縫って走り,瞬く間にオシリスの周りにいる子供達のところに届いた.

 洗濯バサミがガブガブと音を立て,すかさず子供達の服を挟む――と言うより,噛みつく.限界いっぱいの人数まで挟んだところで,シノノメは渾身の力を込めて紐を引っ張った.

 「うんしょ! ‘雨が降ってきたから,洗濯物は取り込み’!」

 シノノメが叫ぶと,まるで干されたままの洗濯物の様に子供達はズルズルと引っ張られ,オシリスから離れた場所にうず高く積み上げられた.

 「ちょっと乱暴だけど,ごめんね!」

 シノノメは謝ったが,敵の剛拳とヴァルナの風から素早く避難させるにはこの方法しかないのだ.


 シノノメとヴァルナは壁に沿って移動し,左右二手に分かれた.

 円形に湾曲した壁だ.オシリスを中心に円弧を描く形に距離を取った.

 打ち合わせはない.

 二人とも‘標的を一つにすると危険であること’を瞬時に察知し,散開したのである.

 オシリスはその動きが目に入っているのかいないのか,いきなりダッシュして,二人が入ってきた扉を大ぶりのパンチで殴った.

 ただ一撃殴るだけで分厚い金属の扉は捻じ曲がり,暗い通路へと吹っ飛んでいった.

 オシリスの手が鋼鉄くろがね色に光った.


 「何とかマンとか,キャプテン何とかとか,アメリカの漫画の大味なヒーローの人みたい!」

 シノノメがお玉を構えながら言った.


 「……アメコミか……ふーん,あながち間違いじゃないかもな」

 ヴァルナはシノノメの直観力に感心していた.

 この男の顔は初めて見る.少なくとも,カカルドゥアの五聖賢ではない.


 新しくこの世界にやって来た電子人格だとすると……息子……いや,シェヘラザード達に殺された,アメリカの大統領ということなのかもしれない.

 恐らく仮想世界において強大な能力与えられているはずだ.

 自分の理想の姿,能力を顕現させたような……

 アメリカ男児の憧れ,鋼鉄の男ってわけか.


 「許さんぞぉ!」

 オシリスは壁を右拳でえぐりながらシノノメに向かって歩いてきた.

 猪突猛進,間にあるベッドなどお構いなしだ.叩き壊し,ひっくり返して進んでくる.円形の建物を断ち切るように,まっすぐ直線状に大股で歩いてきた.

 まだシノノメが避難させていないベッドはたくさんある.そういった子供たちは薬物で意識を失っているので,小さな人形のようにベッドから転がり落ちていた.子供の身体が柔らかいとはいえ,無事とは思えない.


 「もうっ,何が許さない,よ!」

 だが,自分が移動すれば子供たちの巻き添えが多くなる.

 シノノメは仕方なく,今いる位置で迎撃することにした.

 オシリスは大きく振りかぶり,野球の投手の様なオーバーアクションでシノノメの頭めがけて鋼鉄の拳を放った.完全に軌道が分かるテレフォンパンチだ.


 「鍋蓋シールド!」

 シノノメの声とともに緑色の鍋蓋型魔法陣が宙に現れる.

 大抵の剣撃,火炎,雷撃などをよせつけない魔法陣である.だが,オシリスの拳がめり込んだかと思うと,土鍋の蓋のように砕け散った.

 「えっ!」

 それでも加速する拳のスピードをわずかに落とすことはできたので,シノノメはその間に慌てて頭を横に動かした


 ドカン.

 

 大雑把な破裂音がしたかと思うと,シノノメの頭があった場所の壁に穴が開いた.オシリスの拳が走り抜けていったのだ.


 「避けるな! 眠らせるだけだ!」

 オシリスが怒鳴る.

 「嘘ばっかり! そんなの当たって無事なわけないじゃない!」

 そう言うシノノメの顔を追いかけてオシリスの左拳が走った.

 基本的に大ぶりなので,シノノメにとって躱すことは簡単だ.しかし,オシリスの強引な動作は,辺りの物を手当たり次第に壊し,巻き添えにしていく.

 「この野郎! こっちにも敵はいるんだよ!」


 ヴァルナが後頭部に飛び蹴りを叩き込んだ.再び空気の流れをコントロールし,十五メートルほどの距離を一気に詰めて飛んできたのだった.

 「ぐぬっ!」

 オシリスの頭は壁に叩き付けられた.だが,その頭は壁をぶち抜いてめり込んだ.

 「何だ,この感触? こいつ,頭まで鉄なのか?」

 ふわりと空のベッドの上に着地したヴァルナは思わず足をさすった.

 オシリスは両手を壁につき,自分が作った穴から頭を引っこ抜いた.


 「むう,やるな」

 オシリスの顔は彫像の様に鈍色にびいろに変わっていた.いや,正確に言うと,人間の輪郭だけ残して黒い磁鉄鉱の結晶を押し固めたような顔に変化している.金属色の顔に,金属色の歯を見せて金属色の笑みを浮かべる.首元までが鋼鉄になっているのだ.

 だが,壁に頭を突っ込んでもがいている間に彼の身体にはロープ――ワイヤーが絡みついていた.ロープのあちこちに洗濯バサミがついている.先程子供達を緊急避難させた魔法の洗濯紐だった.

 洗濯バサミは手と言わず腹と言わず噛みついて,オシリスの身体に歯を食い込ませている.

 「何だ? これは?」

 引きちぎろうと身をよじるが,ロープは固く食い込んでなかなか離れない.オシリスは不完全だが動きを封じられた.

 

 「洗濯紐コルド・ランジェだよ!」

 シノノメの魔法の洗濯ロープは,かつてノルトランド王ベルトランすらも縛り付けた強靭なものだ.剛力の彼すら,高出力のレーザーで焼き切るしかなかったのだ.


 「おー! 出た! 良く分からんお間抜け主婦魔法!」

 ヴァルナは手を交差させたかと思うと,拳を重ねて筒を作った.

 「失礼な!」

 シノノメの抗議を無視してヴァルナは技名を叫ぶ.

 「喰らえ,魔風矢烈破サハム・リヤーフ!」

 拳に青みがかった銀光が集まる.ヴァルナが拳の筒に強く息を吹き込むと,端から青い‘風の矢’が射出され,一直線に‘鉄’化されていないオシリスの胸を貫いた.

 厚い胸から血が噴き出す.見たところ十分な手ごたえである.


 「やった! じゃあ……私も名前のわからない……」

 一気に攻撃を畳みかけたかったが,シノノメは黒い刀を出そうとして手間取っていた.

 何でも切れるという刀なら,この鋼鉄の男を斬り倒す事が出来るはずである.だが,名前が分からないので‘最近手に入れたアイテム’のフォルダを立ち上げ,順にアイテムをスクロールして探すしかないのだった.

 「わ,困ったな.さっきどこに入れたっけ?」

 「おい,シノノメ,何してるんだよ!? って,ちょっと待て!」


 「おのれ,これしき……」

 オシリスの姿がさらに変化していた.

 噴き出した血液は,溶鉱炉から流れ出すような溶けた赤い鉄に変わっている.溶けた鉄は傷口を溶接するように塞ぎ,全身に広がっていった.いまや全身が鉄鉱石のごつごつした結晶で覆われ,鉄でできた岩男のような外観になりつつあった.

 

 高圧の空気――魔素の塊が自分の体を貫く瞬間,オシリスは考えていた.

 敵の攻撃を避けることはできない.

 ふと,息子に射殺されたときのことを思い出した.

 ジミー.

 何故……

 揺れ動く心.

 世界最強の軍隊を率いる合衆国の大統領の不安.

 だが.

 もし被弾しても自分の内臓が鋼鉄ならば? 

 飛び来る弾丸に命を奪われる事も無い.

 流れる血液が銑鉄ならば?

 鋼鉄の心臓を持つ男になれば?

 いかなるものにも左右されない,鋼鉄のような信念と心を持つ男になりたい.

 鋼鉄の男.


 その強烈な意思と空想は,オシリスの体をたちどころに変化させていた.より凶暴で,より強力な戦闘形態へ.今やかろうじて赤い瞳孔の目だけが人間のものだった.


 「童話の岩喰い男みたいになってきたよ!」

 「ちっくしょー! 鉄の塊か.こんな奴に,どうやってダメージを与えるんだよ!」


 オシリスは再び鋼鉄の唇を開き,鋼鉄の歯を見せて笑った.

 「俺ハ鋼鉄ノ正義ダ――鋼鉄ノ拳デ,スベテノ悪ヲ滅スル」

 

 胸から噴き出した赤い鉄は徐々にシノノメの‘洗濯紐’を溶かし,侵食していく.鋼鉄の脚が,腕が徐々に自由を取り戻して動き始めた.

 そして……オシリスはその瞬間,息子の記憶を無くしていた.


              ****


 オシリスとシノノメ達が戦っている間,シェヘラザードは床の上に倒れた二人と話し続けていた.

 身を隠すというよりも,オシリスの影で死角になっていた立ち位置のまま,するりと立て膝をついたのである.

 シノノメやヴァルナと戦うことを恐れているのではない.

 戦う,逃げる――それはただ煩わしいものという認識だ.

 今,シェヘラザードにとって最優先すべき事は,蟹江アクベンスから情報を引き出すことだった.

 アクベンスは何を思っているのか,上半身だけになった美少女――嫦娥を抱きしめている.二人ともアクベンスの青い体液まみれになっていた.

 彼の胸から腹はオシリスの鋼鉄の打撃で粉々にされ,内臓は嫦娥に食われてしまっている.巨大な蟹や海老が殺されて調理される寸前のようなボロボロの状態だ.

 

 「片瀬さん……俺は,もう,今度こそ本当に死ぬんだな……?」

 両腕から逃れようともがく嫦娥を無視するように,かすれた声でアクベンスは言った. 

 「そうね……バックアップを取る余裕は,今のマグナ・スフィアを含むデミウルゴスのシステムには無いのです」

 「そうか……でも,俺は今,満ち足りている……幸せだよ」

 アクベンスは曲がった指がついた手で嫦娥の髪を撫でた.嫦娥は離れようと暴れるが,甲殻についた棘が肌に食い込み,髪に絡みつくばかりだ.

 「放せ……私は,まだ,死にたくない! 何とか,身体を,再生してやる」

 気管と肺を圧迫されているので,嫦娥は十分な声が出せない.絞り出すような,か細い声だった.

 「もしかして……蟹江博士,薬が完成したのですか?」

 シェヘラザードの目の奥に怪しい光が灯る.

 「ああ,ここのフロアの検体で、ついに成功した.もう少しデータを集めたかったが……これを,受け取ってくれ……」

 アクベンスは左手で嫦娥を抱きしめたまま,右手で宙を撫でた.

 「この,フォルダを受け取ってくれ.分子構造と薬理作用,作用発現記録,サンプル……全部ある」

 マグナ・スフィアにありがちなポーションの薬瓶ではなく,四角い書類ケースの様な物が三つ現れた.

 「複数ありますが,これは?」

 「全部,使える.一番強力なのは,三つめ……X3……エリクシムマブ……副作用もあるが……X2と併用すると肝毒性も……だが,難治性の癌細胞のほとんどを死滅させる……」

 「素晴らしい!」

 シェヘラザードの声が少し高くなったが,その声はたちまちシノノメ達の戦闘の爆音にかき消された. 

 「あなたの名前を使うことはできないと思いますが,それでも良いのですね?」

 「名誉欲か……もう,そんなものはどうでもいいんだ.俺は,何が欲しいかわかったんだ.嫦娥様……初めて見た時から,好きでした……」

 口からブクブクと青い泡が出た.文字通り血を吐くような――あまりにも唐突な愛の告白だった.

 「わ,私は……元は男だぞ……?」

 嫦娥が息も絶え絶えになりながら抵抗する.

 「知っています.それも含めて……あなたの怜悧な性格,薬物の知識,美しい顔……全てが愛おしい……ずっとこうしたかったのに,俺は蟹の化け物の姿を選ばざるを得なかった……」

 「や,やめろ.嫌だ,お前と心中なんて……私は,まだ死にたくない……」

 「もう無理です……俺は,あなたに体の一部を食われて,すごく幸せだった.こんな俺が,美しいあなたの体の中に取り込まれていくなんて……とてつもない快感……」


 瀕死のアクベンスの歪んだ愛情.

 嫦娥の生へのあくなき執着.

 シェヘラザードは冷たい目で見降ろしていた.それは死にゆく蟲を観察するような目つきだった.

 「……では,二人ともそろそろこの物語の世界から退場して頂きましょう」


 シェヘラザードがゆっくり右手を上に掲げると,手首にはめたブレスレットが赤色に光った.シェヘラザードの手を離れた光輪は直径一メートルほどの広い輪になり,宙に浮いた.

 輪はアクベンスたちの上にゆっくり移動すると,徐々に降下し始めた.

 赤色の輪の中はぽっかりと黒い穴になっており,二人から見えるはずの天井が見えない.穴の中は黒以上の黒,まさに暗黒というにふさわしい色だった.

 

 「ああっ! 何だ? その向こうは何なんだ?」

 嫦娥が次第に迫る穴を見て悲鳴を上げた.


 「虚無……とでも言いましょうか? 無い空間があるというのも変ですが,虚数空間のようです.一切の存在が無い空間」

 「い,嫌だ!」


 「無駄ですよ,嫦娥様.今度こそ本当に終わりです.一緒に逝きましょう」

 アクベンスは優しく,まるで愛を語るように嫦娥に囁いた後,息を引き取った.目は焦点を失い,どんよりと濁り始める.


 「嫌だ,こんなのは! 鈴玉リンユー! 鈴玉リンユー!」

 嫦娥は必死で妻の名を呼んだ.


 「あなたは,ホモ・オプティマス……‘情報’化された人間の,貴重なサンプルでした.しかし,あなたは死してなお,家族に執着し続けるのですね」

 シェヘラザードがそんな嫦娥を冷静に観察する.


 「当たり前だ,家族は何より大事な……」

 「フフ,その家族にあなたは毒殺されたというのに……」

 「何!? お前,何を知っているんだ?」

 嫦娥の顔が色を失った.


 「娘さんは,日本のゲーム,マグナ・スフィアがお好きなようですね」

 シェヘラザードは初めて憐れむような目で笑った.

 「お前,何をした? まさか,お前が花琳ファリンを操って……」

 「ほんの少し,奥様の懸念とお嬢様の疑惑を開放しただけの事」

 シェヘラザードは口元を隠してクスクスと笑った.


「き,貴様! ああっ! それでは,私は何のために! ああ!」

 嫦娥が叫んだその時,周囲のベッドが大きく揺れた.

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