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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第17章 暴かれる闇
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17-11 嫦娥奔月

「ピュリフィカター・デール!」


シノノメの澄んだ声が広間――監獄に響く.

高く掲げた左手の薬指が光を放った.

青く強く,それはカカルドゥアにシノノメがやって来てから最も力強い光だった.

 エクレーシアの指輪.またの名を拒絶の指輪.

 シノノメの想像力を具現化し,人工知能サマエルの影響を拒否することのできる指輪である.


 ゴボン.

 円形の広間の四隅から妙な音がし始めた.

 嫦娥が開発したという毒ガス‘蚩尤霧しゆうむ’の黄色い煙の層の下から,何か四角い物がせり上がって来る.


 「何だ?」

 嫦娥は眉を顰めた.

 無駄な抵抗だ.この中世世界で,自分の近代化学兵器に対抗しうるものなど無い.身体から生えた蝦蟇の口から吐き出す蚩尤霧の勢いを増した.


 蚩尤霧.

 中国古代の王,‘黄帝’に反乱を起こした怪物蚩尤が,涿鹿たくろくの野の決戦で放ったという濃霧にちなんで名づけた化学兵器だ.

 吸引した人間は全員数分以内に呼吸・運動麻痺を発症して死ぬ.

 経験上,例外は無い.

 しかも散布した地域に飛沫状に残留し続けるので,その地域はしばらく死の世界になる.敵の軍事拠点を奪還させない,あるいは奪還した敵そのものも殺す事が出来るのだ.

 その性質は,彼の故郷を悩ませた大気汚染のもとである,PM2.5などの微細な粉塵からヒントを得たものだ.

 通常のガスマスクは無効だ.


 四角い物は直方体の白い箱だった.

 高さは一メートルほどで,大人の腰の高さくらいである.天板部分に円形の光る物がついていた.

 ピロピロ……

 奇妙な音を立てて,円形――ランプが赤く点滅した.

 ウイイン……ゴオオオオ…… 

 四つの白い箱は唸りを上げ,ぐんぐん黄色いガスを吸い込み始めた.

 前側にあるスリットに,蚩尤霧が飲み込まれているのだ.

 後ろ側にもスリットがあり,そこからは透明になった空気が出てくる.

 アーシュラの脛の中ほどまで堆積していたガスは,みるみるうちに減っていった.

 おまけに,何やら良い香りが漂って来る.

 少し癖のある独特の風味だ.

 「何だ? 一体何が起こっている!? これは何だ? 何故,香菜シャンツァイの匂いがする?」

 嫦娥は箱の一つを叩きつぶそうとしたが,箱はびくともしない.

 ピロピロピロ……

 むしろ近づくと妙な音――電子音が増え,一層轟音を立ててガスの混ざった空気を吸い込み始める.

 「おのれ! 何だこれは!?」

 嫦娥は手を当てて箱に火を放った.体内のリン分を手に集中させたのだ.だがやはり,傷一つつけられない.

 「くっ……! 二つの物質を同時に化合するのは無理だ……」

 嫦娥は蝦蟇の口から放っていた蚩尤霧を止め,箱を破壊しようと何度も試みた.


 「アーシュラ,元気を出して,これを飲んで!」

 うろたえて箱と格闘する嫦娥を尻目に,シノノメはアーシュラに駆け寄った.

 手には例によって日本酒もどきの回復薬ポーションを持っている.

 「あ,ああ……シノノメ……」

 アーシュラはふらついてシノノメに肩を借りながら,薬酒を飲んだ.

 毒のダメージが回復していく.

 「純米生酒‘麒麟さん’……効くね……」

 アーシュラは膝にすがるようにして,何とか立ち上がった.


 ガスはもう床から一センチほどあるかないかだ.

 すっかり辺りには香菜の匂いが充満していた.


 「何これ? 何で香菜パクチーの匂いがするの?」

 「あ,お部屋をミントの匂いに変えようかな,とも思ったんだけど,私,ハーブの中では香菜コリアンダーが大好きなの」

 シノノメは無邪気に笑った.

 「いやいや,シノノメ,そういう意味じゃなくって,これ,何が起こってるの?」


 「ピュリフィカター・デール! 空気清浄機だよ!」

 「は!?」

 答えを聞いて目を丸くしたのは,アーシュラだけではなかった.


 「ば,馬鹿な! この中世世界に空気清浄機だと? いや,それに通常のフィルターで毒ガスの吸着が出来る筈ない! で,電源はどこから来ているんだ? それに,エネルギー保存の法則はどうなっている? 私ですら化学物質の合成は,身体の構成元素を原料にするしかないというのに……」


 見ると,嫦娥の体はさらに一回り小さくなっていた.蚩尤霧の合成と‘空気清浄機’の破壊は,彼女の身体の元素をかなり消費してしまったらしかった.


 「そんなの,知らないよ」

 シノノメはさも当然と言うように答えた.

 「な,何?」

 「だってあなた,言ったじゃない.マグナ・スフィアで勝つのは,空想力に富んだ人だって.私の空気清浄機は,どんな空気もきれいにしちゃうんだよ.うーん,良い匂い! コリアンダー大好き.サラダにしちゃうくらい大好きなんだ」

 シノノメは,ハーブの香りに満ちた空気を胸いっぱいに吸い込んだ.


 「くうっ! 貴様,ふざけやがって! だが,お前は私の身体を傷つける事が出来ないだろう!」

愛くるしい嫦娥の顔から吐き出される醜い言葉は,そのグロテスクさを際立たせた.


 「……大事な物は,目に見えない.大事な物は,すぐそばにある.本当に大事な物は,記憶で無く,気持ち……」

 シノノメは歌を口ずさむように呟く.


 「な,何の事だ!」


 嫦娥の左手が黒鉄色に染まった.体内の鉄分を手先に集中させたのである.さらに床に転がっていた八卦大刀を拾い上げ,右手に構えて切っ先をシノノメに向けた.

 「こうなったら,お前を切り刻んでやる!」

 

 「アイテム! 名前が分からない刀!」

 シノノメの手に,白鞘の太刀が現れた.

 

 「どんな聖剣でも私の体は傷つけられないぞ! このユーラネシアにあるものでは,絶対にな!」


 嫦娥はぐるりと体を捻らせ,剣を持つ右手を後ろに,鋼鉄に変わった左の牛舌掌を前にして構えた.

シノノメは左腰に刀を携え,右足を前にして半身で立った.

 動と静.二人の構えは全く対照的だった.


 「何だ? 日本刀か? お前ら日本人リーペンレンは,そんな細い刃物が最強だと思っている.くだらん! へし折ってやる!」


 嫦娥はとび跳ねるようにシノノメに接近し,八卦大刀を大きく振りかぶった.

 右の首筋めがけ,ギラリと光る巨大な刀が凄まじいスピードで迫る.

 薄い,しなる刃は空気を切り裂いて唸りを上げた.

 だが,シノノメは数ミリ単位の見切りでこの斬撃をかわした.

 目まぐるしく嫦娥の体は回転し,さらに左の鉄爪が顔を狙った.

 これもかわす.

 すべて正中線を保ったまま,身体全体――たい移動により回避するのである.


 「ははっ! 刀を抜く事も出来ないのか!」

 常娥が狙っていたのは,‘右足先’の爪による攻撃だった.

 毒爪は,触れさえすればよい.

 ほんの少しだけ,かすり傷を作れば事が足りるのだ.

 派手な両手の攻撃は,全てフェイント.

 鋭い蹴りとなって跳ね上げられたつま先は,刀の柄に手をかける前腕を狙っていた.


 全てが観えている.

 シノノメの心は静かだった.

 鯉口を切る.


 ……心法を重視した,日本の剣術は強い.

 セキシュウの言葉が,シノノメの脳裏によみがえる.


 セキシュウさんが前に教えてくれた.

 昔の中国の人が,日本の剣術を見て感想を書いた記録があるんだ,って.


 中国の剣術は大きく身体を動かしてあれこれするけれど,

 日本の剣術はじっと動かず,

 その時がやって来ると,

 雷光の速さで相手を斬り倒すって!


 シノノメは知らないが,奇しくもそれはまさに嫦娥の使う‘八卦掌’の書物‘系譜雑記’に記された言葉だった.そのあとに続く記載に,‘北京に来た琉球人の使う日本剣術と試合して,誰も勝てるものがいなかった.’とあるという.


 前腕に爪先が触れ,嫦娥が勝利を確信しようとする瞬間――シノノメの身体はほんの数センチ後ろに下がった.

 嫦娥の爪先が目標を失い,上に上がる.

 下がった数センチを取り戻すかのように,右半身が前にスライドする.

 それと同時に,左半身が後ろに下がった.


 身体を‘割る’動き.


 一般的に大きな力が得られると考えられる,足から膝,膝から腰,腰から肩,肩から肘,肘から手……の様な連動動作は,必ずしも速く強くはない.力が伝達するのに時間がかかり,伝達する間に力を喪失ロスするからだ.

 日本武術の達人は上下左右前後の八つに身体を分けて使うと言う.

 体の隅々まで身体意識が行き届いている達人が為し得る動作.

 そして,それは神速を生む動作である.


 軽く柄に添えたシノノメの右手は導かれるように一瞬で刀を抜き放った.

 抜き即斬.

 たいの移動による鞘離れ.


 黒い刀身が瞬いたかと思うと,嫦娥の体を通過するように走り抜けた.


 「な! なんだ! 驚かせやがって!」

 嫦娥は慌てて足を引きもどし,次の攻撃を繰り出そうとした.

 しかし,足が動かない.

 脳の命令が足に届かないのだ.


 「あっ!」

 気付くと嫦娥の胴体は真っ二つに切断されていた.

 ずるり,と身体が中央で上下にずれる.

 嫦娥は自分の身体の‘切り口’を慌てて押さえようとして床に倒れた.

 気付くと,コントロールを失った自分の下半身は離れたところで倒れ,虚しく宙を掻いていた.

 床の遥か上に,一直線に日本刀を前に突き出したシノノメが見えた.

 美しい……

 最愛の妻,鈴玉リンユー……

 みだれ髪が一筋頬にかかる横顔に,一瞬嫦娥は見とれた.


     ***


 「ふう……」

 シノノメは名の無い日本刀の刀身を眺めた.

 黒く,光沢が無い.

 光すらも吸収してしまうようだ.


 「不思議な刀だね」

 回復したアーシュラがダーナンに薬酒の残りを手渡し,声をかけた.


 「うん,ナジーム商会でもらったの.京都のセラミック包丁でこういうのがあったよね? アメリア製らしいんだけど.」

 「なるほど……それであの切れ味か.だけど,名前が分からないって?」

 「そう,ほら,文字化けしていて読めないんだよ」

 シノノメはステイタスウインドウを指差した.


 Mag5*@\\-/@@@ tojh@90j0@h@::\\@\@;@\……


 「あ,本当だ.でもこれ最初のところ……‘マグ’って読めない?」

 「……噂には聞いていたが,それはおそらく不撓鋼ふとうこうマグナ・タイトだ」

 ダーナンがよろめきながら近づいて来た.えぐられた右腕がゆっくり再構築されている.

 「不撓鋼?」

 「不撓不屈,決して何者にも侵されることのない,惑星マグナ・スフィアで最高強度を誇る金属.だが,もう掘りつくされて枯渇したと聞いている.……まあ,アメリア系のゲーム情報誌で昔読んだんだが」

 「へー,すごいレアじゃん.重い?」

 「ううん,軽いよ」

 シノノメはアーシュラに刀を渡すと,一息ついてほつれた髪を整えた.

 アーシュラは刀を受け取り,二,三度振ってみた.確かに通常の金属よりもずっと軽いが,振ると芯に意外な重さがあるのが分かる.

 「本当だ.不思議だね.一見物が切れそうには見えないよ」

 「何でも,この金属は――この世界に属さないという設定があるそうだ.だからこそ,この世界の物では傷つけられない,そして刃物になった時はこの世に切れない物は無いのだと」

 「ふーん.でもそれを言うとその鞘は……いや,まあこういう設定ってあるよね.でも助かったよ.咄嗟に良く思いついたね」

 「うん……」


 ……黒騎士さん.


 シノノメは黒騎士の装甲から,この刀の事を思い出したのだ.

 不撓鋼何とか……というのは,確かヤルダバオートが言っていた気がする.

 実際にこの金属の驚異的な強さは目の当たりにしていた.

 エクスカリバーを叩き折り,ノルトランドの竜騎士の魔法弾をことごとく跳ね返したのである.

 この刀自体も聖堂騎士団の刀を簡単に両断した.

 何故かいつも彼に助けられている気がした.

 

 そして,思いつく事が出来たのは,心のかせが一つ外れたからだった.

 ……夫の仕事を思い出す事が出来た.


 シノノメはついさっきまで夫が神経外科医だと言う事を忘れていたのだ.

 究極の戦いの中で,それを思い出す事が出来た.

 そして,悟った.

 

 確かに今は彼の名前も顔も思い出せない.

 ノルトランドでそれを初めて認識した時は辛かった.

 だが,‘思い出せない事’を知る事が出来たのだと.

 認識する事によって自分は一歩進む事が出来るようになったのだ.

 分からない事が分からないよりも,ずっといい.

 それでこそ,大事な記憶を探すことができるのだから.


 その悟りは,勇気を与えてくれた.

 僅かな気持ちの変化で物の見方が変わり,ほんの少しだけ心が自由になった.

 ――大事な事はすぐそばにあった.

 シノノメは,ナーガルージュナとアドナイオス,そして黒騎士に,心の中で感謝して刀を鞘に納めた.


 「おーい!」

 バタバタとあわただしい足音が入口から聞こえて来た.

 ドアを蹴り飛ばし慌てた様子で部屋に入って来たのは,ヴァルナだった.


 「あ! ヴァルナ! あんたどこに行ってたのよ! アタシ達は死ぬような思いをしてたのに! あの激闘,見せてやりたかったわ」

 アーシュラがヴァルナの胸ぐらを乱暴につかんだ.

 「わりい,わりい.ちょっと管理棟の上の階を覗いてたんだ」

 ヴァルナはヘラヘラと笑ったが,少し様子がおかしい.いつも程の気楽さが無いことにアーシュラはすぐに気付いた. 

 「クヴェラはどうしたの? ログアウトしたの?」

 「……実はそれが……敵にさらわれちまったんだ」

 「何! 貴殿がついていながら,何をしていた!?」

 ダーナンが憤った.叫ぶと身体に響くらしい.苦痛に顔を歪めた.

 「ずっと追ってた敵の親玉とちょっとやり合ったんだが,逃げられて……多分クヴェラを連れてこっちの建物に逃げたんだと思う」

 「多分ってどういうこと?」

 「説明しにくいんだが,テレポートみたいな事が出来る奴でさ.上の階の連絡通路が締まってたから,こっちに降りて来たんだ」

 「アンタが単独行動するからでしょ! 多分ってどういう事よ!」

 アーシュラはブンブンとヴァルナの上体を振り回した.

 「だ,だから助けに来たんじゃねーか」

 「遅いっ!」


 「むう……だが,どうやら上にさらに何かがあるのは間違いない.あれを見ろ」

 ダーナンが指差したのは,先程まで常娥が倒れていた床の上だった.


 「あっ! カエルの人がいなくなってる!」

 シノノメは叫んだ.

 目を離したすきに,嫦娥の身体は忽然と消えていた.

 正確には上半身だけだ.白い下半身はまさにカエルの死骸の様に放置され,捨て置かれている.

 異様な事に,倒れていた場所から光る粘液がスジを作って奥の扉へと続いていた.それは,嫦娥が小姓を連れて入って来た扉だ.


 「死んだんじゃなかったの? ……何だ? このベタベタしたのは?」

 驚いたアーシュラは思わずヴァルナを離した.

 「ナメクジの這った跡みたい.うー,やだな.塩を用意しなくっちゃ」

 「おそらく奴は身体を‘再構成’出来ても,再生することは出来ないのだろう.シノノメ殿の言った通り,これは奴の体液に違いない.必死で逃げた先にはおそらく身体を修復する元があるはずだ」

 「あの奥に連れて行かれると,もう帰って来ないって,さっき子供が言ってたよ……」


 全員が奥の扉を睨んだ.

 両開きの分厚い扉は,嫦娥が開け放ったままに隙間を作っている.奥は薄暗く,この広間から中の構造は見えなかった.だが,おそらく上階に繋がる通路になっている筈だ.


 「ここで,二手に分かれよう」

 シノノメは言った.

 「二手?」

 「私とヴァルナで向かうよ.ダーナンさんとアーシュラは,ここにいる子供達を連れ出して」

 「そんな,ここまで一緒に来たんじゃない!」

 「そうだ,シノノメ殿,まだまだ戦える……うっ」

 ダーナンはがっくりと膝をついた.

 「それじゃ,無理だよ」

 「何のこれしき,……少々香菜(パクチ―)の香りが苦手なだけだ」

 ダーナンはそう言ったが,顔色は真っ青だった.

 「じゃあカモミールかミントに変えちゃうよ? 子供達を守るのも大事な仕事だよ.みんなあんなにダーナンさんになついていたじゃない」

 「……そうだね.今のアタシ達じゃ足手まといになっちゃう.しっかり回復させて,次の戦いに備えよう.撤退戦も大事だよ」

 苦渋の表情を浮かべるダーナンの肩をアーシュラは叩いた.

 「こら,ヴァルナ! 」

 ヴァルナは頭の後ろで手を組み,明後日あさっての方向を眺めている.どこか上の空だった.

 「あー,何だ?」

 「シノノメをしっかり助けてよ! クヴェラもちゃんと取り戻して! アンタ,またどこかにいなくなったら,承知しないからね.一生うちの船倉で強制労働させてやるから!」

 「はいはい,分かってるって」

 ヴァルナの返事が適当な調子だったので,アーシュラは睨んだ.

 「現実世界に戻っても,しっかり仕事を見つけて働きなよ.いい年こいて親御さんに頼ってちゃ駄目じゃん!」

 「へ?」

 何の事か分からないヴァルナは目を丸くして首を傾げた.


 以前,永劫旅団アイオーンに所属していたころ,冗談めかして勤務先の略号‘NIIT’をニートみたいな名前の会社だ,と言ったのをシノノメが勘違いして覚えているのだが,ヴァルナは知る由もない.

NIIT――国家統合諜報機動部隊はアメリカのCIAやイギリスのMI6を参考に創設された日本の特殊諜報機関なのだ.

 防衛省情報部や内閣調査室,公安調査庁の情報を統合し,実際にエージェントが工作活動を行う機密機関中の機密機関である.情報収集だけではなく,テロリストに対し実際に武力を振るうことも許可されており,‘現代の忍者’とまで呼ばれている.

 シェヘラザードの言葉によると,さらにその中でもヴァルナ――風谷は各国の工作員が警戒する凄腕諜報員であるという.


 「全く,ゲームの中でもフラフラして,現実世界くらい真面目にやりなよ」

 「は,はあ……」

 「ちゃんと返事! 明日からハローワーク! 最悪定職につけなかったら,アタシがカフェを開いた時に雇ってやる」

 「……はい?」

 良く分からないが,とりあえず生返事を返すヴァルナだった.


 アーシュラがヴァルナを説教している間に,シノノメはダーナンを助け起こして牢を回っていた.

 ダメージを受ける前に,すでにダーナンが鉄の檻をへし曲げている.

 二人で呼びかけると,子供達はおずおずと柵の間を通って出てきた.恐ろしい敵がいなくなったので,どの子も安堵の表情を浮かべている.

 「ありがとう……」

 少し年長の子供はダーナンとシノノメに恥ずかしそうに礼を言った.


 「よし,決まった.じゃあ,シノノメ,上が片づいたら連絡して.アタシ達は船で待ってるから,また後で会おう! 子供達! この聖堂騎士のオッサンと一緒に脱出だよ!」

 一斉に歓声が湧く.

 アーシュラとダーナンは子供達を連れ,入って来た通路の方へと駆け出した.


 「ほんじゃあ,俺達も行くか」

 「うん」

 仲間たちが去っていくのを見届け,シノノメはヴァルナと一緒に,奥の扉の前に立った.

 ズタズタになった絹芭蕉の和服を,シノノメはデニムの着物に着替えている.腰には藍染のカフェエプロンを着けていた.


 「お前もつくづく緊迫感が無い戦闘スタイルだよなー」

 「だって,主婦だもの.ヴァルナに言われたくないってば」

 シノノメはお玉を構えながら,扉の隙間を覗いた.


 うねったナメクジの様な這い跡は,ずるずると扉の隙間を通り奥に続いている.倒れている二人の子供 ――嫦娥の小姓達にそっと黙祷してから,シノノメは扉の間に身体を滑り込ませた.

 そこから先は薄暗い階段になっていた.

 階段の段に,光る粘液が付着している.

 這い跡は上へ上へと続いていた.

 ゆっくり警戒しながら段を上がっていく.階段の戦闘は,上にいる者の方が圧倒的に有利だ.シノノメは左手の人差指を曲げ,いつでも炎の魔法が使える準備をしていた.


 ……三歳以下の子供は臓器密売の材料にされ,それ以上の子供は連れ去られたままどうなっているか分からない.


 ナーガルージュナの言葉をシノノメは思い出した.

 アーシュラが子供から聞きだした情報が確かならば,この上にナディヤやその子供達もいる――あるいは,その秘密が明らかになる筈だ.

 どうか無事でいますように,と祈らざるを得ない.

 あの残忍な嫦娥の――文字通り毒牙にかかり,ひどい目にあわされているに違いない.

シノノメは汚らしい光沢のある粘液がこびりついている先を睨んだ.

 二階の扉が見えて来た.

 やはり少し開いて,通路に光が差し込んでいる.瀕死の嫦娥が通ったのだろう.ちょうど子供の頭が通るくらいの隙間だった.

 誰かが話す声が聞こえる.

 シノノメは扉の陰に立ち,そっと覗きこんだ.

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