17-9 毒姫,嫦娥
劉恩平は、軍人としては変わった経歴の男だ。
北京郊外の、あまり裕福でない家庭に生まれた彼は、子供の時から学校の成績が優秀であったため、苦学して大学に進学した。
大学では理学部に所属し、化学を専攻していた。
卒業すれば外資系の製薬会社に入社し、研究員になる筈だった。
前途洋洋である。
ところが卒業が近づいたころ、中国の内部分裂と経済崩壊、そして現在に至る内戦が始まった。
彼の住んでいた地区では、精強で知られる瀋陽軍区と北京軍区の激しい戦いが続き、就職どころではなくなってしまった。
金のない彼にとって選択肢はそう多くなかった。
海外に脱出する金もないので、軍に入るしかなかった。
だが、体力のない彼には軍事教練などとてもできなかった。
みじめな一兵卒として過ごしていた。
ある時、転機が訪れた。
上官が劉の経歴に目を着けたのだ。
彼は化学兵器の研究員になった。
有毒化学物質の解毒と除染が彼のテーマだった。もともと優秀だったので、それなりに軍の中での地位を築けるようになった。
その頃、彼は恋に落ちた。
軍区の長、将軍の娘だった。
名前は鈴玉。
一介の貧しい研究員と将軍の娘。
中華人民共和国が分裂してしまった現在、一国の王の娘――王女に恋したのと同じである。
彼は自分の容姿に自信がなかった。
近眼で背が低く、太っている。
ダイエットなどしても、体質的に太りやすいらしく体重が減らない。
経絡を整えて体を美しくする――太極拳や、八卦掌をやってみた。武術は好きだったのでそこそこ上達したものの、それで容姿が変わる事は無かった。
一方、鈴玉は美しかった。
杏の様な瞳、滑らかな白い肌。匂うように艶やかな黒髪と、すらりと伸びた手足。
軍の若手将校が皆彼女のことを狙っていた。
彼女と結ばれる事によって、権力を手に入れ、強力な閨閥を作る。
それは、かつての中国の王朝政治と同じである。
自分に勝ち目があるとは思えなかった。
王女に恋した醜い豚――彼はいつも自分の事をそう蔑んでいた。
毎晩のように彼女の事を思って身悶えしていた。
だが、ある時悟った。
軍での地位を絶対的な物にすればよいのだと。
王に要求を出せる存在になれば良い。
彼は強力な有毒物質の開発に着手した。
より強力なもの、より取扱が簡単なもの。
より解毒が難しく、あるいは簡単なもの。
彼の研究は次第にエスカレートしていった。
実際に戦闘の現場も指揮するようになった。
ある時は水源に毒をばら撒き、ある時は風上から散布する。
ある時は食糧に混ぜ、ある時は……
死屍累々の山を築きあげた時、彼と並び立つ者はいなくなっていた。
王――将軍に鈴玉との結婚を要求した。
当然自分の後継者として認めてくれるものと思っていた。
だが、許可されなかった。
彼は初めて友軍に毒を使った。
その後は簡単だった。将軍の遠戚、叩き上げの軍人、参謀……
鈴玉に近づく者、全てを殺した。
そして……最後に自分が残った。
最早誰も自分に意見できる者はいなかった。
‘毒王劉’は噂となり、刃向うものは殺される事を誰しもが承知していたのだ。
鈴玉を妻にした。
妻への愛は純粋だった。
全てを捧げる気持だった。
子供も生まれた。
だが、妻が自分を愛してくれているのか――それとも‘毒王劉’を恐れているだけなのか。自信が持てなかった。
自分が指揮する北京軍区はますます強くなり、勢力を拡大していった。
劉なのに曹のようだ――
苛烈な性格、北方の強力な王となった自分を三国時代の曹操に例える人々も現れた。
そして――彼は権力の絶頂にあったある日、死んだ。
自宅で家族と一緒に食事をした後だった。
その死因が毒なのか病気なのか――未だに彼には分からない。
毒とすると――
それを入れたのは愛する妻なのか。
彼女にとって、自分は父親の仇だ。
それとももしや、十四歳になる娘?
娘が自分の実の子かも確信が持てない。
娘は美人で、鈴玉に似ている。
妻が不倫の末に産んだ子ではないのか。
……自分は、王女に恋する醜い豚なのだから。
***
「ホホホホホホ……フフフフフフフ……」
嫦娥が笑う.
美しいが,毒々しい.
それは大輪の花を咲かせた有毒植物の様であった.
「どうすればいい……」
誰にともなく呟くアーシュラの唇はカサカサに乾いていた.
彼女の職業は剣闘士だ.基本的に体術を使う人間,獣人,人獣を相手にしてきた.
クエストで魔法使いと戦った事もなくは無い.基本的にセオリー通り,接近戦に持ち込んで倒してきた.
魔法の詠唱よりも早く接近するか、投げ槍などの遠隔攻撃から入って,いち早く間合いを詰めれば魔法使いは近接戦闘が苦手なので倒す事が出来る.
だが.
嫦娥は違う.
‘毒’というスキルと,超絶の剣技,そして体術を持ち合わせている.
‘毒’の射程距離が分からないが,自分の蹴りが届くくらいの中間距離以上は離れないと危険だ.
少し離れたところには,床の上でもがき苦しんでいるダーナンがいる.ログアウトして逃げればいいと思うのだが,誇り高い彼は敵前逃亡ができないのだろう.
割に合わない.
剣闘士試合の様に,この戦いに勝ったからといって報酬が得られるわけではない.
だが,この場から逃げ出す事をアーシュラ自身が許せない.
ふと横を見た.
シノノメが嫦娥を睨んでいる.
相変わらず怖くない.元が童顔のせいで,ちょっと不機嫌そうにしか見えない.
シノノメは子供の様なところがあるので,見ていると中学生の妹を思い出す.
途方もない強さ,純粋さ,意志の強さ,コミュニケーションの不器用さ.
アンバランスないくつもの物が混ざり合い,それが彼女の可愛らしさ,魅力になっている.
「アーシュラ」
シノノメが唐突に口を開いた.
「な,何?」
アーシュラは意表を突かれた.
「ダーナンさんを早く助けてあげて.これを渡すね」
シノノメが手渡したのは,五百ミリリットルサイズの緑色の瓶だった.日本酒もどきの回復薬である.
「え?」
「あの人,来るよ」
「……来ないのなら,こちらから行くわよ!」
シノノメの言葉が終るか終らないかの内に,嫦娥は風の様に飛びかかって来た.
体のどこかに力が蓄えられていく‘気配’をシノノメは察知していたのか……
アーシュラがそう考える間もなく,ひらめく白刃の剣舞が始まった.
八卦大刀.
中国拳法,八卦掌で用いられる巨大な剣だ.刃渡りは百四十センチから百五十センチにも達する.遊泳する竜に例えられる八卦掌の身法で繰り出されるその技は変幻自在.円を描く人間が竜であるとすると,輝く銀色の刃は背びれであり,爪である.
それが今,シノノメに絡みつくように牙を剥いた.
シノノメは初撃目の軌道を二振りの包丁で反らせ,あとは連続する斬撃のほとんどを体捌きでかわしていた.鋭い刃は時折剃刀の様にシノノメの髪の毛を,着物を削り取っていく.
「シノノメ,すごいっ!」
アーシュラは危うく見とれそうになった.小さな包丁二本で大きな刀と互角に渡り合っているのだ.何という身体能力なのだろう.超高速で剣技を振るう嫦娥もすごいのだが,数ミリの精度でそれを見切って戦うシノノメも只者ではない.
「ダメダメ,こうしちゃいられない!」
シノノメが嫦娥を相手している隙に,アーシュラは慌ててダーナンに駆け寄った.自分が倒した戦力を回復させるのだから普通はもう少し気にしそうなものだが,また簡単に倒せると思っているのか嫦娥は一瞥もしなかった.
「ダーナン,しっかりしな! うっ……こりゃひどい……」
見るとダーナンは下顎から首元までが焼け焦げたようにただれていた.露出している白い物は,あごの骨の様だ.
アーシュラはシノノメから渡された瓶の蓋――ご丁寧にスクリューキャップだ――を開け,飲ませるともなくダーナンの口めがけて注ぎこんだ.
「超辛口特別純米,‘目高見’? こりゃ効きそうだ」
アーシュラも少し舐めて味を見た.体の底に力が湧いてくる.HPが復活していくのを確認した.
ダーナンの顔周りから白い煙が出る.傷が治っていく.もう少しで戦闘可能になりそうだ.
「よっしゃ,アタシも援護しなくっちゃ」
と言っても,シノノメと嫦娥は凄まじいスピードで動いている.槍や剣で嫦娥の背後を攻撃する隙などありそうにない.
「チクショー,あの厭味な女に,一泡吹かせてやりたい……何か手はないかな」
ひらめいた.
とりあえず,あいつの動きを止めればいいんだ.それでシノノメの十分な援護になるはず.
アーシュラはアイテムボックスに手を伸ばした.
シノノメは嫦娥の‘制空圏’――透明な殻の中で戦っているような気持だった.八卦掌は基本的に敵を中心に外周で円を描いて戦う.
時折,斬撃に混じって穿掌――そろえた五本の指先が襲って来る.肉をえぐり取るような勢いだ.シノノメは知らないが,牛舌掌と呼ばれる手形だった.
武術の要諦――円の動きと最小限の体移動,そして見切り――はセキシュウから仕込まれた技術だ.それで何とか戦えているものの,刃渡りの短い包丁では不利だ.もっと長い武器に取り換えるか,魔法を使うか.どっちにしても仕切り直すため,一旦距離を取りたい.
「うおおおお!」
耳障りな雄叫びに,嫦娥はピクリと眉を寄せた.
……何かが斜め後ろから近づいてくる.
ダーナンは戦闘不能の筈……とすれば,アーシュラか.
小癪な.
武術的視野‘八方目’の隅に敵影を捉えた嫦娥は,シノノメを相手にしながら後ろ蹴りを放った.前に試した時,人虎(ワ―タイガー)の腹をぶち抜いた威力だ.だが,それは異常に硬い物に跳ね返された.
思わず振り向いて,そちらを見る.
自分の蹴撃を阻止したのは,彎曲した方形の巨大な金属の塊だった.
「何!? これは?」
「役立たずアイテム,ゴリアテの盾さ!」
アイテム名を叫ぶアーシュラの姿は陰に隠れて全く見えない.高さ二メートル程の盾が,嫦娥のすらりと伸びた脚を押しのけ,突進してくる.ラグビーのスクラムやアメリカンフットボールのタックルを思わせる怒涛の勢いだ.
「くっ,くそっ!」
「バカでかすぎて,こんな事にしか使えない代物だよ!」
技も何もない.幅も一メートル以上あるので,八卦大刀は届かない.回り込むにしても,突進の強さと盾の横幅に圧されてしまう.
アーシュラが必死に全身の力を振り絞って押していた.確かに,こんなに巨大な盾では片手で使う事は出来ず,両手で持つしかない.巨人の戦士でもなければ全く役に立たない武具だ.かつてアーシュラがクエストで手に入れたものの,始末に困って保存していた物だった.
「こ,こんな物!」
嫦娥は手で盾を押しのけようとした.手のひらから白い煙が上がる.毒――酸のようなものを出したようだが,盾を溶かす事は出来なかった.
「無駄だよ! オリハルコン製で,丈夫すぎて鍛冶屋にも売れなかったんだから!」
その間にシノノメは飛び退った.
嫦娥も盾から離れたい.だが,その距離を押し潰すようにして盾は進んでくる.盾にへばりつくようにして嫦娥はたたらを踏み,壁へ壁へと下がって行った.
「潰れちゃえ! このブス!」
「何ですってぇ! この美しい私に向かって!」
「あんたみたいなのを,性格ブスって言うのよ!」
「おのれ!」
嫦娥はただ一つ動けるその方向に移動した.
すなわち,盾の上辺に手をかけ,宙に飛び上がったのだ.
「ビンゴ! シノノメ,行け!」
アーシュラに声をかけられるまでもなく,シノノメもすでにその動きを読んでいた.右手の中指と薬指を折りたたみ,嫦娥に向けて叫んだ.
「ノンフライヤー!」
嫦娥に向けて二百度の熱風がふきつけられ,上下に対流する.究極の火と風の魔法と言えば聞こえはいいが,油を使わなくても相手をサクサクの揚げ物にしてしまう冗談の様な主婦魔法だ.
本来はこんな狭い部屋で使う技ではない.広間に強烈な熱と風が吹き荒れた.アーシュラも慌てて‘ゴリアテの盾’を動かし,しゃがんで陰に隠れた.牢の中から子供達の悲鳴が聞こえる.
「盾が初めて役に立った! ……って,味方の攻撃から身を守るって何?」
嫦娥は盾を飛び越えるつもりだったが,荒れ狂う熱風に翻弄され,部屋の中央に吹き飛ばされたところで着地に失敗して倒れた.
八卦大刀が手を離れ,転がり落ちる.
監視台にすがりつき,それでもなお動こうとする彼女に向けて,熱風が吹きつけられた.食材――もとい,体内の水分を沸騰させて相手を倒す技だ.
嫦娥は徐々に手足を縮こまらせ,胎児の様に丸くなって床の上で動かなくなった.
そうしてようやく,熱風は止んだ.
「ふう……」
シノノメがため息をつく.チャンスはアーシュラが作った一瞬しかなかった.シノノメにとってもギリギリの戦いだったのである.
「おお,やったね!」
アーシュラは‘ゴリアテの盾’をアイテムボックスに収納して立ち上がった.
プレーヤーは死ぬとピクセル状に分解されてログアウトする.‘電子情報だけの存在’という物は一体どうなるのだろう.
見ると,嫦娥は焦げた饅頭の様に丸くなって床に伏している.
……まるで黒い卵だね.
アーシュラはその連想に一瞬戦慄した.
ステイタスウインドウを立ち上げる.
有り余るHPとMP.
嫦娥は――まだ生きていた.
「シノノメ!」
「うん,アーシュラ,まだ終わってないよ!」
シノノメは武器をフライパンに持ち替えていた.
黒い卵の殻にひびが入る.
中から粘液にまみれた嫦娥がゆっくりと姿を現した.
先程より一回り小さく,少女のような外見である.
長い黒髪が腰まで流れ,全裸の体を隠している.
手足の肌は異常に青白く,下の血管が透けて見えるほどだ.
指の爪が鋭く,異常に長かった.
怒りに歪む顔はそれでも尚美しいのだが,目の様子がおかしい.
横長の瞳に,黄褐色の結膜――両生類の目だった.
「貴様ら……」
声が太い.男よりもなお低い重低音だった.
嫦娥は‘卵の殻’から脚を引き抜き,シノノメの方に向かって一歩進んだ.
足の指は長く,水かきがあった.良く見ると手の指にも水かきが生えている.
体を隠していた黒髪がゆるりと流れる.
嫦娥の白い裸体が露わになったが,それはこの上もなく禍々しい物だった.
乳房の部分に,胴に,下腹部に,そして両肩にも白いカエルの頭が生えていたのだ.全てに金色の目があり,全てに耳まで裂けた口がある.
嫦娥は‘全身の目’を開き,シノノメを睨んだ.
「殺してやる」
***
「それでどうするつもり? 風谷さん」
中央棟の最上階――本来は嫦娥の私室で,ヴァルナとシェヘラザードは睨み合っていた.
「あなたがそうやってこそこそ隠れているっていう事は,私をどうする事も出来ないということではなくって?」
シェヘラザードは悠然と笑う.
「防衛省と公安調査庁,諜報局が動いているのは知ってたけど……というか,政府として当然の対応でしょうね.風谷さん,昼行燈のふりをした切れ者っていうのは有名よ.オンライン世界の凄腕エージェントなんでしょう? どなたに聞いても――CIAやMI6,モサドでもあなたの名前が出てくるわ.いつもは無駄飯喰いだけど,一旦動き始めると手に負えないってね」
話し続けるシェヘラザードと対照的に,ヴァルナはずっと黙っていた.
クヴェラ――千々石はどうしたらいいのか分からず二人を見比べていた.
……何故この一介の踊り子が,ヴァルナの事を知っているのだろう.
カカルドゥアの陽光が窓から部屋の中を明るく照らしている.
シェヘラザードの言葉は,ヴァルナの正体や背後関係を全て知っているという圧力なのだ.ヴァルナは まさにその二つ名’風の紡ぎ手‘のように,言葉の風を受け流しているように見えた.
「どうしてジョンストン大統領を殺した? シェヘラザード」
ヴァルナ――風谷が初めて口を開いた.
今度はシェヘラザードが口を閉ざした.口元にはいつもの小さな笑みが浮かんでいる.
「VRマシンを使って息子の行動を操り,暗殺させただろ?」
「そんなSFみたいなことができるんですか?」
クヴェラが目を瞬かせてヴァルナの顔を見たが,ヴァルナの視線はシェヘラザードを捉え続けている.
「PTSDの兵士を治療する名目で,脳内の情報を電気刺激や磁気刺激で操作する研究は,今世紀の初めからあるんだよ.防衛省だってこっそりやってるぜ.まあ,お気楽日本では軍事機密もクソもなくVRゲームにして公開しちまってるけどな」
「でも少佐,厚生労働省のガイドラインで,ナーブスティミュレータが刺激できる脳の領域は限定されている筈ですよ?」
「そこも何とかしてるんだよ.第六世代のスティミュレータは,運動音痴の奴も運動神経抜群になる.知ってるか? あれは脳のプログラムを一部書き換えてるんだぞ」
「えっ! 足りない機能を機械が補ってくれているんじゃないんですか?」
「そっちの方がよっぽどシステム的には面倒くさいんだよ」
移動した太陽はシェヘラザードの顔に影を作り始めた.だが,その口はやはり微笑を作り続けている.
「じゃあ,本当に,ジョンストン大統領の息子さんは,お父さんを殺すように脳を操作されたんですか?」
「……」
クヴェラのこの質問にヴァルナは何も答えなかった.
「証拠がないのでしょう?」
ややあって,シェヘラザードが口を開いた.
だが,この問いかけにもヴァルナは答えない.
「世界中の厄介者,マフディー同盟のイスマイール・アリ・タシュカンディとか,北京の劉恩平も同じような手口で殺しただろ?」
シェヘラザードは一切質問に答えなかった.ただ静かに笑っているだけだ.
「それはまあ何とでもなるが,同盟国の――アメリカの大統領を殺した事実が公になれば,日本の立場がやばいぜ.あんたも公僕だろ? 片瀬局長?」
シェヘラザードの形の良い眉が一瞬ピクリと動いた.
「おまけに,そいつらの脳をマグナ・スフィアにアップロードして,何をする気だ?」
「じゃあ,カカルドゥアの五聖賢って!?」
クヴェラは両手を握りしめた.ヴァルナが‘紅の鯨亭’の船上で明言を避けた回答こそがそれだった.
独裁者やテロリストを電子情報だけの人間にして,このゲーム世界に住まわせ,権力者と結び付けているのだ.
……だが,一体何のために?
戦乱を好む意志に,電子世界で永遠の命を与える――それはあまりに危険なことではなかろうか.
クヴェラはダーナンが語った,古いSF小説の話を思い出していた.‘電子の人間’は法的な処罰を受けない事を知っているので,自分の目的を果たすため次々に殺人を犯したという……
無言の対峙が続く.
嫦娥の私室はやけに静かに感じられた.
どこからか場違いに気持ちの良い風が吹いてくる.
「……あなたは,何とも思わないの?」
シェヘラザードの唇から笑みが消え,ぽつりと呟くように言葉が出た.
「何がだ?」
「二十一世紀を半ばも過ぎ,国家は個人主義に走り,人々もまた個人主義に走る.人間は争い続け,環境は汚染される.……ヒトは,進歩していない.まるで,この中世世界のままだわ」
「それが,お前のやっている事を正当化させる理由になるとでも言うのか?」
「……ごめんなさい.分からないでしょうね」
シェヘラザードの顔からいつしか笑みは消え,深い悲しみを湛えた表情になっていた.それは何故か――ピエタ――嘆きの聖母を彷彿とさせた.
「ああ,そろそろ行かなくては.この研究機関はもうお終いね.東の主婦やあなた達がすっかり破壊してしまった.……そして何より,嫦娥――劉恩平には物語から退場してもらわないと……」
シェヘラザードは先程見ていた鏡をちらりと見ると,背を向けて無造作に歩き始めた.
ヴァルナ達が上がって来たのとは反対側――まだ破壊されていない,隣の建物に行こうとしている.
「こら,ちょっと待て! どういうことだ?」
ヴァルナは後を追った.
「少佐! ここは私が!」
「あ,待て!」
ヴァルナの制止より早くクヴェラは走り出し,シェヘラザードの腕をつかもうとした.
見習いとはいえこの世界の職業ではクヴェラは戦士,そしてシェヘラザードは踊り子・吟遊詩人だ.
簡単に制圧できる――と思ったクヴェラだった.
「あっ!」
クヴェラの手はシェヘラザードの腕をすり抜けた.まるで立体映像か幽霊のようだ.
「言ったでしょう? 私は,物語の紡ぎ手.あなた達の様なゲームの登場人物ではないのよ.可愛い豹人の坊や」
クヴェラの体が,びくりと震えた.
「千々石!」
「風谷先輩……」
クヴェラは力なく前に倒れ,シェヘラザードにズルズルともたれかかった.シェヘラザードは優しくクヴェラの体を抱きとめた.
ピクセル化してログアウトしないので,死んでいるのではない.意識を失ったクヴェラの胸には,いつの間にか光る棒状の物がつき立っていた.
クリスナイフである.
蛇の様にうねる刃の短剣だ.東南アジアでは魔力を宿すと言われ,家の守り刀として祭られる事もある.
「この子はお預かりしますね……あなたの行動に対する人質として.現実世界では意識不明で行動不能になっているでしょう.死なせないために,早く病院で管理してあげて下さいね」
「前頭葉活動停止キ―!? そんな違法プログラムまで持っているのか!?」
VRマシンを通して人間の脳に働きかけ,活動の自由を奪うプログラムを,ロシアが開発している事をヴァルナは知っていた.
「くそっ! クヴェラを返せ!」
ヴァルナはシェヘラザードに飛び蹴りを放った.
シェヘラザードの美しい顔に彼の足が叩きこまれる寸前――
シェヘラザードの体はクヴェラとともにゆっくり姿を消して行った.
「片瀬!」
ヴァルナが叫ぶが,もう彼女の姿はどこにもない.
「フフフ……ごきげんよう.またお会いしましょう.風の紡ぎ手……」
ヴァルナの耳にシェヘラザードの笑い声がいつまでも残っていた.




