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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第17章 暴かれる闇
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17-8 闇のその奥

 荒れ狂う獣の声と怒声,爆音がようやく収まった.


 シノノメ達一行は‘工房’第三の建物に進んでいた.

 冷たい大理石の廊下が長く伸びるこの建物の中にいると,ここがゲームのファンタジー世界である事を忘れそうになる.

 装飾物や壁飾りなどは全くなく,実用性だけを重視した作りになっている.石材で作られてはいるが,その意匠デザインは近代的なコンクリート製の建物のようだ.

 直線の廊下が円形の建物の中心を貫くように伸び,中央は円形のホールになっていた.

 ホールの硬い床にはNPC達が気を失って倒れている.

 プレーヤーである警護の獣人たちはピクセルになって空気に溶けて行くところだった.


 「どうやら,正解だね」

 アーシュラが辺りを見回してシノノメにささやいた.


 円形ホールの周りには,ぐるりと建物の外周に沿うように鉄格子のはまった檻が並んでいる.中央には監視台があり,周囲の牢を見張れるようになっていた.彼らが入って来た廊下と反対側の向かいだけ両開きの頑丈な扉がある.奥に進めば他の階に繋がる階段があるのかもしれない.


 「拘置所と同じつくりか! このファンタジー世界で! 仮想世界に児童虐待を持ち込むなど,悪趣味が過ぎる!」

 吐き捨てるように言ったダーナンの言葉が牢に響き渡る.

 彼の言葉通り,この第三棟は現実世界の監獄か刑務所と瓜二つの構造であった.

 南国のカカルドゥアなのに,空気が妙にひんやりと冷たい.


 シノノメは一番手近な檻に近づき,中を覗き込んだ.

 牢の中は薄暗かった.窓もないのだ.

 目を凝らしてみると,子供たちがわだかまるようにして部屋の隅に身を寄せ合って震えている.

 「みんな! 助けに来たよ!」

 シノノメは元気よく声をかけた.

 「……誰なの?」

 疑わし気な目つきで,十歳ほどの女の子が,おずおずと尋ねた.年少の子供を抱きしめてかばっている.姉弟なのかもしれない.

 「私はシノノメ! ナーガルージュナさんの知り合いだよ!」

 「ナーガルージュナの!?」

 膝を抱えていた男の子が顔を上げて目を輝かせた.榕樹精舎から連れてこられた子供のようだ.

 「みんな,もう大丈夫だよ」

 今度は少しゆっくり気味に声をかけた.だが,怯えた眼の子供たちは牢の隅に固まって動かない.よほど恐ろしい目にあったに違いない.容易に大人が信じられないのだ.

 どうすれば安心させられるんだろう……

 戸惑っているシノノメの様子を見ていたダーナンが一歩前に進み,深い声で叫んだ.

 「私は聖堂騎士団の副官,いわおのダーナン! 皆一緒に逃げるのだ!」

 ダーナンは叫ぶと同時に檻の鉄柵をつかみ,飴のように捻じ曲げて開いて見せた.子供が十分通れる隙間があっという間にできる.

 カカルドゥアでは聖堂騎士団は絶対の正義の象徴だ.ダーナンの‘パフォーマンス’を見た子供たちは一斉に歓声を上げた.

 監獄の奥でおびえていた子供も次々に柵の方に走り寄って来る.


 「ありがとう,ダーナンさん」

 「何のこれしき,シノノメ殿.いや,やはりこれで良かった.子供たちの笑顔は気持ちのいいものだな」

 ダーナンは岩の様な顔をくしゃくしゃにゆがめて笑った.


 「シノノメ,ダーナン! 急ごう.これだけの人数脱出させるのは大変だよ.一つの檻に五人として,七部屋だからざっと三十五人か」

 「ここにいるだけじゃないの!」

 先程シノノメの言葉に最初に応えた女の子がやって来て,アーシュラに言った.幼い弟としっかり手をつないでいる.

 「どういうこと?」

 「小さい子は隣の建物へ,年上の子は奥の扉からどこかに連れて行かれるの」

 「奥?」

 アーシュラは少女が指差す方向を目で追った.

 そこは廊下の対面,壁には頑丈な扉が設えてある.

 「奴ら……子供達を使って,一体何してるの?」

 「あそこからつれていかれると,もう帰ってこないの」

 少女は怯えていた.

 小さい子供は隣の建物で臓器売買の商品にされているのは分かっている.だが,年長の子供達は何をされているのだろう.そう言えば,ここにはシノノメが探しているナディヤという女性の姿がない.

 シノノメは順に牢を覗いて探しているようであるが,その表情を見れば目的の人物がここにいないことは明らかだ.

 ダーナンが鉄柵を次々と叩き壊したので,子供達は牢からぞろぞろと出て来た.円形ホールはまるで保育園の様である.ダーナンはすっかり人気者だった.


 「でも,ここにはナディヤさんがいない……」

 「シノノメ! どうやらこの扉の奥に続きがあるらしいよ」

 アーシュラが指差したちょうどその時,扉の奥から重く鈍い音がした.


 ゴクン,というその音が何かはすぐ分かった.かんぬきを外す音である.

 誰かがやって来る.

 怯えた子供達はダーナンに鈴なりにしがみついた.


 「いかん.みんな,牢屋の中に一旦逃げるんだ」

 年長の子供は一斉に牢に隠れる.それでもまだ足にしがみついている子供をダーナンは抱えて避難させた.


 「ほら,立って.男の子でしょう?」

 シノノメは床に座りこんで泣き出した子供を引っ張り起こした.


 ……牢の中に逃がすのも良いけど,何とか建物から先に脱出させられないかしら.クヴェラさんに頼んで……


 「あれ?」

 シノノメはその時,気付いた.


 ……ヴァルナがいない.クヴェラまで?

 確か,ついさっきまで一緒に敵を倒していたのに……?


 シノノメは辺りを見回したが,いないものは仕方がない.最後の子供を牢の中に避難させ,アーシュラの隣に駆け寄った.慌ててダーナンもやって来る.


 扉の前ではすでにアーシュラが鯨包丁の鞘を払い,青眼に構えて警戒している.

扉は見たところ鋼鉄製で,厚みは十センチ以上あった.重いせいかやけにゆっくりと開くのが焦れったい.開く扉の隙間から白くて細い手が見える.


 「ふーっ.どうやらダーナンの予測が的中ね.親玉ボスキャラ登場じゃない?」

 火傷しそうに緊迫していく空気を感じ取り,アーシュラは深呼吸しながら言った.

 「おい,こんな大事な時にヴァルナはどこに行ったんだ? クヴェラまで?」

 ダーナンが腰を落としてクラウチングスタイルになりながら尋ねる.

 「もーっ,ヴァルナって,昔から集団戦闘の時にしょっちゅう突然いなくなるの.だから何だかあてにならないんだよ」

 シノノメは着物の裾をからげ,襷を掛けながら言った.細くて白い二の腕が剥き出しになる.両の手には銀の包丁が握られている.

 「しょっちゅう? あいつ,ホントにいい加減ね.現実リアルの仕事,何やってるんだろ?」

 「うーん,確かニートって聞いた事があるような気がするよ」

 「最低ね.今度会ったら,家を出て働けって言おう」


 そんな会話をしている間に,扉はついに開け放たれた.

 重い二枚の扉を開けていたのは,ギリシャ風の布衣――トーガ――をまとった少年だった.二人とも金髪の巻き毛に碧眼,目が覚めるような美少年だが額にびっしり汗をかいていた.


 「御苦労さま.おどきなさい」


 鈴の音の様に美しい声がホールに響く.

 中から姿を現したのは,薄紫色の絹をまとった東洋人の女性――嫦娥じょうがだった.

流れるような曲線を描く肩と胸元はむき出しで,ドレスのスリットからはたおやかな脚のこぼれるような白い肌が見えている.嫦娥――中国の神話で,月に住むという女神の名にふさわしい,神々しいまでの美女だった.


 囚われていた子供たちは声の主を知っているらしい.ひそひそとささやき声が聞こえていた檻の中は一斉に静かになった.


 「不粋なお客様は,あなた達かしら?」

 何がおかしいのだろう.それとも圧倒的な力を持つ者の余裕か.嫦娥は笑みを浮かべていた.


 「カカルドゥア五聖賢の一人,嫦娥殿とお見受けする」

 ダーナンが口を開いた.

 カカルドゥアの新聞や念波放送テレビで目にした事はあるものの,アーシュラもダーナンも直接会うのは初めてである.


 「いかにも,私が嫦娥.あなたは聖堂騎士団のダーナンね.それと,剣闘士のアーシュラさん.あと,もう一人は東の主婦とやらで正しいかしら?」

 常娥はゆっくりと言葉を紡ぐ.ただそれだけなのだが,それが恐ろしい.

 鋭い凶器の光の様な美しさ.

 禍々しさに,アーシュラは背筋に走る悪寒を感じた.


 「カカルドゥアの正義を守る聖堂騎士団の副長として,あなたを逮捕する」 


 「逮捕?」

 嫦娥は濡れた様な瞳を見開き,くすくすと笑った.

 「それは,聖堂騎士団の決定? シンバット殿下の許可は得ているのかしら?」


 「そんなものはない.だが,子供を誘拐して臓器を取り出しアメリアに密売していた鬼の所業,すでに明白である」

 ダーナンは嫦娥を睨んだ.

 「許可がないと言うのならば,ここで悪を滅するのみ.この外道の振る舞い,断じて許さんぞ」


 「分からないわねぇ.これが現実世界なら,問題でしょうよ.もっとも,もっとひどい現実だっていっぱいあるけど.でも,ゲームの中の人間を殺して商売に使って,それの何が悪いの?」

 嫦娥は優雅に袖で口を押え,鈴のような声でころころと笑った.


 「アンタねぇ,この仮想世界には,子供のプレーヤーだって参加してるんだよ.いくらなんでもやっていいことと悪い事があるでしょうよ!? プレーヤーの倫理規定をどうやって無視したのよ! システムに干渉して,不正行為したんでしょ!」

 切っ先をぴたりと嫦娥に合わせ,アーシュラが叫ぶ.


 「プレーヤー……ねぇ」

 嫦娥は一層可笑しそうに笑った.

 「私があなた達と同じプレーヤーだとでも思っているの?」


 三人は同時に嫦娥のステイタスウィンドウを見た.

 「何だ,これ?」

 「レベルがない! ジョブの表示もない」

 「HPも,MPもないよ!」


 まるでアイテムや建物,NPCの解説ウインドウの様だった.いや,それよりももっと変わっている.

 ただ一言彼女の名前だけが書いてあるのだ.説明文も何もない.


 「海とか月とかみたい……」

 シノノメが呟いた.


 「そうね,あら? あなた,東の主婦さん,なかなか良い表現ね? 私は真の月の女神,人間以上の存在とでも言っておこうかしら」


 「馬鹿な……」

 ダーナンが唸る.

 「HPもMPもない奴,どーやって倒しゃいいのよ?」

 アーシュラが鯨包丁を持ち上げ,八相の構えに変えながら言った.ワンアクションで相手を斬り落とせる構えだ.


 「あら,私と戦うつもり? それに,勝つつもりなのね.そう,でも大丈夫.ゲージなら作ってあげるから」

 嫦娥が宙を撫でると,HPとMPのゲージが出現した.

 「これでいい?」


 「出鱈目だ……」

 ダーナンは紅の鯨亭号のデッキでヴァルナと話した会話を思い出していた.

 世界最高速度の処理能力を持つスーパーコンピュータ,那由多にハッキングして干渉出来る存在.それが敵の可能性があるのだと……

 ヴァルナはこうも言っていた.五聖賢はデジタルデータと化した人間なのではないか,とも.

 「プレーヤーの規定が該当せず,NPCでもない……現実世界に体を持たない,電子情報の存在……本当に……実在したのか」


 「あら,ダーナンさんは勘が鋭いのね? そう.私にとってはこの身体こそが本当の体.我々こそは至高の人間,ホモ・オプティマス」

 「やはりか……まさか,真実だとは……だが,ということは……電子情報を消す――今のお前を殺せば,この世から消滅するのだな?」


 しかし,どこかにバックアップがあるのであれば意味は無い.

 一人……いや,多人数の人格をストックして生きた人間の様に実行させるプログラム,あるいはハードウェアなど想像もつかない.

 超級のスーパーコンピュータの関与.

 外国のサイバーテロ.

 情報戦争.

 ヴァルナとの会話が次々に脳裏に蘇る.

 VRMMOゲーム‘マグナ・スフィア’はすっかり自分の生活の一部だ.ただの娯楽,趣味以上に大事なものである.しかし,まさかこんな大きな問題に巻き込まれるとは……心の奥から湧き上がって来る不安を,ダーナンは意志の力で無理矢理ねじ伏せていた.


 「ふふ,多分ね.いずれにせよ,ただ戦うなんてつまらないわね.私だけ傷ついて殺されるなんて,不公平.こうしましょう.あなた達のキャンセラライザ―を外しちゃうの.ゲームの中で感じる痛みを,本当に味わってもらいましょう.ひょっとしたら脳が壊れるかもしれないけど」

 アーモンド形の大きな美しい目を上目遣いにして,嫦娥は口元を隠しながら笑った.瞳の奥に灯る光が不気味だ.

 「東の主婦は捕らえるように仰せつかっているけど.ふふ,他の二人は殺しちゃってもいいってことね」


 「気に入らないね,この女……アンタ一人で何が出来るっていうの? そこの男の子達と一緒に戦う気かい?」

 気丈なアーシュラの額にもびっしりと汗が浮いている.

 「クク,この子たちは私の可愛い愛玩動物ペット.もう他に兵士はいないけど,私一人で,十分なのよ」

 嫦娥は右手の少年の頬を撫でた.少年達は先程から無反応でじっと黙っている.目付きが虚ろで,どこか様子がおかしかった. 

 

 「ペット? なんてこと言うの! その子たちもNPCでしょ? 君たち! だまされてますよ! こっちに来なさい!」

 シノノメが声をかけたが,二人の少年――嫦娥の小姓は,やはりぼんやりと虚空を見ている.


 「離れたくっても私から離れられない.それに,返事なんてできないわよ」

 嫦娥が笑う.


 「何っ!?」

 ダーナンの目付きが鋭くなった.


 「だって」嫦娥の右手に,百五十センチはあろうかという長大な中国式の刀が出現した.刃は柳の葉の様な流線型を描き,柄には赤い飾り紐が付けられている.

 「この子たち,もうクスリ漬けなんだもの」

 言うや否や,嫦娥はくるりと刀を振り回し,さっき自分が愛でたばかりの少年を斬り殺した.

 鮮血が飛び散る.

 少年は声もあげずに倒れた.

 「舌だって,切断しちゃったし」


 「貴様!」

 ダーナンの怒りが爆発した.突進し,嫦娥の頭に棍棒を振りおろした.


 「フフフ!」

 嫦娥は逆手に持ち替えた刀で棍棒の衝撃を逸らせ,舞の様な動きで軽やかにダーナンの背後に回った.ダーナンの棍棒は二本ある.バックブロー――車掛かりで嫦娥の頭を薙いだが,嫦娥はしなやかに体を反らせてやり過ごした.

 嫦娥の美しい肢体が弧を描く.

 「くっ! 八卦大刀! 中国拳法,八卦掌の動きか!」

 ダーナンはそれでも俱風を巻き起こしながら次々と攻撃を放った.しかし,水の流れのように嫦娥はそれを受け流し,かわしてしまう.足さばきはダーナンを中心に円を描き,彼の腕の外縁を絡みつくように体が動いた.


 「あの女,動きが早すぎて,助太刀するタイミングがとれない……」

 下手をすると同志討ちになってしまう.アーシュラは鯨包丁を握りしめながら見ているしかなかった.

 「ダーナンさんから,もう少し離れてくれればいいんだけど……これじゃ,援護が出来ないよ」

 シノノメも固唾を飲んで二人の攻防を見守っていた.


 もちろん,それも嫦娥の計算のうちだ.ダーナンに密着する事により,シノノメの魔法による援護を封じているのだ.それに,より大きな威力の魔法を使えば周囲の子供達にまで類が及ぶことも全て承知しているのである.


 「フフフ! 息が上がって来たんじゃない?」

 ダーナンの肩から,大腿から血飛沫ちしぶきが飛ぶ.

 致命傷を避けているのは流石だが,徐々に動きに精彩を欠き始めた.

 

 「痛いんでしょう? 凄く? ククク……」

 「黙れ!!」

 ダーナンは左手の棒で嫦娥を突いた.胴体ならば,的が大きい.体を大きく動かさねば避けられない.それを狙った一撃だった.

 嫦娥はその腕の外側をすべるように――まるで腕を伝うように動いた.踊り子の様に華麗にターンしたかと思うと,剣を持った右手でなく左の掌がダーナンの顎を突きあげていた.

 ……太公釣魚.

 そのままでは,後ろに投げ崩されてしまう.

 ダーナンは両の脚に力を込めて耐えようとした.

 嫦娥とは二倍ほどの体格差がある.いかに切れのある技とは言え,女性の力であれば耐えられるはず.耐え切ればそのまま体をクラッチして,裸締めで締め落とす――そして,ダーナンは見事に耐えた.


 「ぎゃあっ!」

 だが,次の瞬間声を上げたのはダーナンだった.

 ダーナンの巨体が崩れ落ちる.

 ダーナンは顔を押さえて床を転げまわっていた.顔から白い煙が上がっている.焼けた肉の臭いが漂い,ダーナンの手の隙間から白い顎の骨が見えていた.


 「アンタ,な……何をした?」

 

 嫦娥はもがき苦しむダーナンを笑いながら見下ろしている.これ以上の攻撃の好機は無い筈だったが,アーシュラは剣を握ったまま動けずにいた.


 「これは,毒手」

 「な,何だって?」


 「可哀想に.アルカリ性の薬物だから,中和するまでタンパク質を奥へ奥へと分解していく.さっき言ったように痛みの感覚制御――キャンセラライザ―を外しておいたから,現実世界の彼は何十倍もの激痛に苦しんでいるのでしょうね」

 嫦娥は歌うように言いながら,ゆっくり優雅にもう一人の小姓の方に歩いていった.

 同僚が殺されても尚,少年の眼は虚空を見つめたままだ.


 「毒娘とか,毒姫って知ってる?」

 嫦娥は少年の形の良い顎に指をかけた.

 「幼い時から毒草や有毒生物を食べさせられ続け,体が毒を帯びているという女の伝説.寵姫として敵国の王の下に贈られ,暗殺に使われたという……」

 嫦娥が口づけするかのようにおとがいを上げさせると,少年は夢を見ているようにうっとりと目を瞑った.

 「すなわち,流れる血液も毒,唾液も毒,そして,吐く息も……」

 嫦娥は少年にふうっと息を吐きかけた.

 「……毒」

 少年は夢見るような症状のまま絶命し,床に倒れた.顔が見る間に変色して,紫に近い青になっていく.

 「ククク.さあ,二人とも遊びましょう」

 

 「くっ……こいつめ……」

 「うーっ! 何てひどい奴なの……」

 シノノメとアーシュラは武器を構えて嫦娥を睨んだ.


    ***


 そのころ,ヴァルナは‘工房’の管理棟――中央棟の二階の廊下を忍び足で歩いていた.ドアを開け,部屋を確認してそっと中を調べる.それを繰り返す.


 この建物の部屋は細かく仕切られていたが,多くは理科の実験室の様な構造であった.すなわち,平たく大きな作りつけのテーブルに,火をおこす設備,そして幾重にも複雑に曲げられたガラス細工の器機が並んでいる.ネズミやリスなどげっ歯類系の獣人が行ったり来たりしながら何か実験していた.

錬金術師や東洋の練丹師の工房に似ていない事は無い.だが,器械の設置具合や器具の取り扱い方がどうみても現代的な研究室のそれなのだ.

 錬金術や魔術が現代の科学の基盤になった事実があるにしても,その風景は中世世界のマグナ・スフィアにそぐわなかった.


 「この階は外れか……」

 ヴァルナはそっと呟いて歩みを進め,奥の階段へと向かった.

 研究員たち(?)を残して兵士たちはシノノメ達の方に行ってしまったに違いない.廊下を歩く警備員は誰もいなかった.

 階段の一段目に足をかけたヴァルナは,急に後ろを振り向いた.


 「おい,ついて来てるのは分かってるぞ」

 音が響かないように声のトーンは低く殺してあるものの,はっきりと相手に聞こえる.

 ヴァルナの言葉は柱の陰に隠れている人物にかけられていた.

 だが,その人物は姿を現さない.

 「隠れてないで出てこいよ.千々ちぢわ少尉」


 「えっ!」

 小さな驚きの声を上げておずおずと姿を現したのは,クヴェラだった.

 「どうして……」


 「全く,仕方がねえなあ.大佐――局長の差し金かよ?」

 ヴァルナはため息をつきながら普通の声で喋った.階段のホールに響いたので,慌ててクヴェラ――千々石はヴァルナの下に走り寄った.

 「差し金とは,何て事を言うんですか! 大体,少佐がいっつもいっつもいい加減で,何をやっているか分からないから僕が監視役を言いつけられたんですよ!」

 小声で怒るクヴェラに,やれやれ,と首を振りながら,ヴァルナは階段を上がり始めた.

 「信用ねえなあ」

 「マグナ・スフィアで遊んでばかりいるからです!」

 「遊んでばかりじゃねえって.お前もこれで任務は失敗だろ? だって,俺にばれないようにしてなきゃいけないんじゃなかったのかよ?」

 ヴァルナがそう言うと,クヴェラは肩を落とした.

 「豹人の恰好をしているし……分からないと思ってたのに……でも,どうして分かったんですか?」

 「いや,鎌かけてみただけ.子供にしちゃ小難しい事をたまに言うし,背格好が似てたから」

ヴァルナは舌を出した.

 「なっ! 何ですって!」

 「ほら,静かにしろ!」

 ヴァルナは上階を覗きながら,いきり立つクヴェラの口に指を一本立てた.

 クヴェラは慌てて口をつぐむと,ヴァルナの視線の先を追った.


 「あれは?」

 

 三階の部屋は全部一続きで,構造はホテルのスイートルームに似ていた.内装も素晴らしく豪華だ.

 眩いシャンデリアが天井からぶら下がり,壁紙は金箔を押して作った金唐紙である.

 窓際にマホガニー製の執務机と会議机があり,壁には大きな楕円形の鏡が三枚かけられている.

 奥は寝室らしく,ベッドの角とそれを覆う天蓋の柱が見えた.

 

 鏡の前に女性が一人立って,腕組みしながらじっと鏡面を見つめている.

 だが,鏡には女性の姿が映っていなかった.

 青色のバックに,白い四角がいくつも並んでいる.

 それは,タブレット端末の画面にウインドウが開いている様子にそっくりだった.さらに,白い四角の中には写真と黒い点――文字が並んでいるらしいのだが,クヴェラ達の場所からその内容までは見えない.

 女性は時折鏡面に触れ――まさに,タッチパネルを操作するように白い窓を動かしていた.

 

 「少佐? あのひとは……?」

 

 女はペルシアの踊り子風の装束を着ている.後ろから見ても均整のとれた美しい肢体をしている事が分かった.肌が抜けるように白く,真珠の様に光沢を帯びている.

 ヴァルナ――風谷の目は,じっとその女を見つめていた.その眼は真剣で,紅の鯨亭で遊んでいた時に女性を見ていた酔眼とは全く違っていた.

 また女の子に声をかける気ですか?と訊こうとしてクヴェラは口を閉ざした.


 「あいつが……」

 「あら? ネズミが紛れ込んでいるようですね?」

 ヴァルナがクヴェラの問いに答えようとした時,女は後ろ向きのまま口を開いた.


 女は長い黒髪を揺らして振り返り,ヴァルナとクヴェラの隠れている階段の角を見つめた.腰につけた金細工が揺れて,涼やかな音を立てる.

 「出ていらしてはいかがですか? 風の紡ぎ手ヴァルナ」

 顔を見ている筈は無いのに,女ははっきりとヴァルナの名を呼んだ.


 「くっ……仕方がないか.こうなったらここで勝負だ.腹をくくろう.奴の尻尾をつかんでから対峙したかったんだが……」

 ヴァルナは三階の床を踏み,女の前に姿を現した.クヴェラも後に従う.


 「あら,もう一人可愛らしいお客さんもいらしたのですね? 東の主婦と一緒に行動していないということは,あなたはヴァルナの部下なのね?」


 ヴァルナは距離をとりながら,戦闘態勢――半身はんみになった.何も武器を身につけていない踊り子に対する姿勢としては,やや大げさな態度と思わざるを得ない.クヴェラはどうしたら良いか分からず,戸惑っていた.


 「ノルトランドで戦争を起こし,今度はカカルドゥアで人身売買と臓器の密売.そして……現実世界まで巻き込んで……お前は一体,マグナ・スフィア――いや,那由多システムを使って何をやろうとしている?」


 ヴァルナの言葉に,クヴェラは目を瞬いた.

 ‘紅の鯨亭号’での会話を思い出した.

 現実世界でゲーム中に意識不明になっている子供達.

 肉体の無い,電子情報だけの存在を作ろうとしている者たち.

 「じゃあ,少佐,この女が……」

 ヴァルナの‘任務’の標的.

 クヴェラはごくりと唾を飲み込んだ.


 「あなた達,所詮ゲームの登場人物達には理解できない事.私は,物語の紡ぎ手.ねえ,国家統合諜報機動部隊(National Integrated Intelligence Taskforce (NIIT))の,風谷少佐」

 シェヘラザードは艶然と笑った.

長らく10日ごとの更新でしたが,次回から1週間おき,火曜日にアップすることにしました.

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