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東の主婦が最強  作者: くりはら檸檬・蜂須賀こぐま
第17章 暴かれる闇
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17-4 悪夢の工房

 オシリス――ジョンストンは,青く光る水面をじっと見つめていた.

 波紋の向こうに,警察官に連れられて歩く少年がいる.

 少年は虚ろな表情でうつむいていた.


 「また,ここにいらしたのですか? オシリス様」


 オシリスは振り返った.

 シェヘラザードがいつもの笑顔を浮かべ,部屋の入口に立っていた.

 慌てて水面に手を触れ,映像を消す.


 シェヘラザードの笑顔は,危険だ.

 オシリスはいつも思う.外見だけならば東洋の仏像のような古拙の笑み――アルカイック・スマイルを思わせるのだが,その実何物も寄せ付けない冷たい刃を呑んでいるような気がする.


 「現実世界が気になるのは分かりますが,そろそろこちらの世界の仕事にも力を貸してくださいませんか?」

 シェヘラザードはゆっくりたおやかな足取りで部屋に入って来ると,オシリスが虚しく見つめていたその先を覗きこんだ.

 

 この部屋は,水盤の間と呼ばれている.

 広間には窓が無く,ぼんやりと青い魔石が室内を照らしているのだが,部屋の中央,そして壁には石造りの巨大な水盤があるのだ.

 水盤には透明な湧き水がこんこんと讃えられ,鏡面の様な水面には青い光が映っている.

 オシリスが覗きこんでいたのは,西側の壁にある水盤だった.

 水盤には海の生き物――リバイアサンや,クラーケン,人魚などの想像上の生き物が精緻な細工で彫り込まれている.


 「何を見ていたのですか?」

 「ああ……私がいなくなった後の合衆国ステイツの様子を見ていたんだ」

 「合衆国憲法で副大統領が昇格なさったのでしょう?」

 「ああ,そうなんだが……」


 嘘だった.

 オシリス――ジョンストンが見ていたのは,自分を射殺した息子の報道だった.

水盤というファンタジー世界にふさわしい造形にはなっているが,実はインターネット端末である.

 水面に触れて目的の情報を頭に浮かべると,検索された画面が水面に映し出される.さらに手を動かせばスクロールも拡大縮小も思いのままだ.キーボードこそないが――いや,ジョンストンが知らないだけで使えるのかもしれないが――要はタッチパネルで作動するブラウザを搭載した据置型コンピュータである.

 マグナ・スフィアの中では通常インターネットの情報を見ることはできない.

攻略本やネットに溢れた情報を,リアルタイムで調べながら冒険ができないようになっているのだ.調べた情報をこの世界に持ち込むのならば,記憶頼りになる.特に集団戦闘になった時に公平性を図る意味合いがあるという.


 「色々と気にはなるでしょうね」

 シェヘラザードは艶然と笑った.


 間違いない.この女には,見抜かれている……オシリスはそう思った.


 「ですが,今日は‘工房’に視察に行かれるご予定でしょう?」

 たおやかな声音とは裏腹に,有無を言わせぬ響きがあった.

 シェヘラザードが部屋の外へと促す.

 オシリスはもう一度水面を見つめた後,部屋を出た.


                ***


 オシリスは,現在,サンサーラ離宮と呼ばれる広大な屋敷の一角に住んでいる.カカルドゥアの大公シンバットからあてがわれたものだ.

 住んでいるといっても,今や電子情報だけのこの体が住む,ということはどういうことなのか――未だにしっくり来ない.自分の中で消化しきれていないのだ.

 シェヘラザードは手を取り,不思議な乗り物へと案内した.

 砂漠にむかって突き出した離宮のテラスに‘着陸’しているそれは,一見東洋の祭りに出てくる山車だしに似ている.

 多重の塔状の屋根を持つ屋形船とでも言うのだろうか.金と赤の車輪がいたるところに突きだしているのだが,外見上はとても空を飛ぶ乗り物に見えない.


 「私のヴィマナ,プシュパカ・ヴィマナです」


 入り口をくぐると中には赤い絨毯が敷かれていた.内部の構造は完全に普通の部屋の様で,それらしき操縦のための機械などはなかった.


 「どうぞ,楽にしてください」


 勧められたクッションに腰かけ,所在無げにオシリスは辺りを見回した.

 シェヘラザードが部屋の中央に座り一言「工房へ」と呟くと,ヴィマナは静々と空に上り始めた.

 天井を見上げると,車輪と歯車がかみ合わさった複雑な機関が回転している.一見するだけで歯車は数百以上あることが分かった.鐘の音の様な,鈴の音の様なものが規則正しく部屋の中に響いている.

 オシリスはクッションの上で体をずらし,窓――水晶が硝子の代わりに張ってある――から外を覗いた.

 巨大な巻貝の貝殻のような形をした離宮が,砂漠の中でどんどん小さくなっていく.やがて砂浜のヤドカリほどの大きさになると,ヴィマナは平行に空を移動し始めた.


 「どういう仕組みだ?」

 「さあ……ここはマグナ・スフィアですから.空想こそが全てを形作ります.これは,私の空想の中で作られた乗り物です.大気中の魔素を吸い込み,噴出する装置なのですけれど」


 シェヘラザードは艶然と笑う.

 彼女の前には球状の立体映像が浮かび上がり,外の景色が映っていた.

 流れる雲と赤土の砂漠である.

 シェヘラザードはその景色を眺めるともなしに見ている.


 やがてヴィマナは砂漠を後にすると,サンサーラの上空を移動し,内海の上空に到達した.

 熱帯低気圧の雲を下に見ながら,空中を滑るように進むと,いくつも並んだ島が見えてくる.複雑なジグソーパズルのピースをばらまいたような島々の間を縫うようにヴィマナは飛び,前方に一際高い山を持つ島が見えてきた.


 「あの島に降ります」

 シェヘラザードが言うのとほぼ同時に飛行機械は高度を下げ,山が眼下に近づいてきた.

 山の麓は青々とした緑が茂り,その間に円筒状の建物が三つほど連なっているのが見える.円筒のあちこちに細い煙突のようなものが突き出し,連絡通路で繋がっているようだ.色からすると土づくりなのだが,何故か近代的な意匠を感じる.一番右端の円筒には,屋上に白線で十字が四つ描いてあった.


 「あの建物の上がヘリポート……着陸用のデッキなのか?」

 「ええ……ですが……これは!?」


 それは,オシリスが初めて見るシェヘラザードの動揺だった.

 一番左端の建物から,黒煙が上がっている.

 

 「火事か?」

 

 そう言っている間に,空気を伝わって来た振動がヴィマナを揺らした. 

 

 「爆発だ!」


 オシリスは思わず叫んだ.黒煙が上がり,その間に炎の舌が見える.吹き飛ばされてきた破片がヴィマナの外壁を叩く高い音が響いた.


 「一体何事だ?」

 「緊急着陸します!」


 遊園地のアトラクションの様に急激に高度を下げたので,オシリスは体が浮き上がるのを感じた.かろうじて窓枠につかまりながらシェヘラザードの横顔を窺うと,いつもの微笑は顔から消え去っていた.

 ヴィマナが地面に接触する振動を感じるやいなや,ドアが下開きに開いた.ドアの内側は階段状のタラップになっている.シェヘラザードが駆け降りるようにして外に飛び出したので,オシリスも続いて外に出た.

 駐機場――発着場と呼んだ方が良いのか――は,陶器とタイルの中間の様な脚触りだった.建物の高さは三階建てほどで,直径は五十メートル程度だろうか.同じ大きさの物が三棟並んでいるのだが,爆炎が上がっているのは,隣の棟を挟んで反対側であった.


 「かなり大規模な施設なんだな……」

 「ええ,シンバット殿下の肝煎りですから」

 シェヘラザードは早口でそれだけ言うと,金の腰飾りを揺らして発着場の中央に建った小屋――屋内への入口へと急ぐ.

 螺旋階段を駆け下り,広間に出るとシェヘラザードは叫んだ.


 「私は今からこの建物の管制室――中央の管理棟に行って参ります.オシリス様はこちらでお待ちください」

 「わ,分かった」

 円形の広間を後にして,シェヘラザードは空中通路を走って行った.


   ***


 オシリスは一人残され,しばらく立ちすくんでいた.

 建物を揺るがす振動がこうしている間にも伝わってくる.

 ふと自分の体を見た.

 盛り上がった筋肉に,厚くたくましい肉体.自分が若かった頃憧れながらも,決して手に入れることが出来なかった強靭な体だ.

 女性――シェヘラザードを助けに行くべきだろうか?

 だが,彼女が自分の手助けを必要としているとはとても思えなかった.

 五聖賢と呼ばれる彼らが言うところの至高の人間――電子データの存在となって数日が経った.

 かつての政敵,あるいは友人だった者たちは,皆特殊な能力を持っている.

 全ては空想力の賜物なのだという.

 空想力,発想する力が現実化するこの世界では,強く願うことさえできれば空すら飛べるだろう,と言われたものの,彼には未だに何の能力も発現していない.

 彼に思い描くことが出来るのは,せいぜいアメリカンコミックに登場するスーパーヒーローだった.だが,もともとオシリス――ジョンストンが好きだったのは,軽々と空を飛んだり,光線を出したりといった生まれつき特殊な能力を持つヒーローではない.強靭な肉体を持っていたとしても,大地を走り,傷つき,血を流して敵と戦うヒーローが好きだったのだ.

 自分は,空想力の欠如した人間なのだろうか――そうとも思う.

 息子に射殺されたという事実は,彼の肩に重くのしかかっていた.

 今の彼は何かを思い浮かべようとしてもその記憶が堂々巡りして頭を離れない.


 また建物が揺れた.

 響いてくる轟音で我に返ったオシリスは,とりあえず階下へと降りていくことにした.

 シェヘラザードなら大丈夫とは思うが,彼女がすぐに戻って来るとは限らない.ヴィマナを操縦することは出来ないのだから,とりあえず地面に近い出口を探すべきだろう,と判断したのだ.

 建物の中は円形のドーナツ状の広間が積み重なった構造になっているらしく,中央に螺旋階段があった.

 オシリスは階段を一段ずつ降りて行った.


 「こ,これは?」


 オシリスは下の階に降りた瞬間,思わず声を上げた.

 下の階は開けた巨大な空間になっていた.だが,驚いたのはそのことではない.何十という寝台が並び,その上に人間が横たわっていたのだ.おそらくその数は百近い.まるで災害にあった人々の避難所か,野戦病院のような光景だ.

 見れば,寝台の上に寝ているのはほとんどが子供だった.下は五,六歳から,上は十代の後半くらいまでだろうか.彼らには何か用途の分からないチューブが繋がれていた.病院で見る点滴用のチューブとは違い,腸の蠕動運動の様に拍動するそれに,思わずオシリスは戦慄した.

 

 「あら? オシリス殿.いらして下さったのですね.これが我々の事業の一つです」


 オシリスが振り返ると,そこに立っていたのは嫦娥じょうがだった.今は東洋美女の姿をしているが,現実世界で生きていた時は北京軍区の軍閥を牛耳っていた男である.

 今日の嫦娥は中国の仙女のような薄絹をまとっていた.五人の少年たちが目を伏せ,つき従っている.どの少年も少女と見紛うような美少年で,ギリシャ神話のニンフを模したゆったりしたトーガをまとっていた.


 「事業?」 

 「創薬ですよ.ここでは,新しい薬の開発を行っているのです」

 「開発? この子供たちは何かの病気の患者ということか? 大規模な治験を行っているのか?」

 「そう取ってもらっても結構です」

 嫦娥は袖で口元を押さえ,クスクスと笑った.

 だが,ガタガタという不穏な音で嫦娥は笑いを止めた.

 見ると,中央やや右寄りのベッドで寝ていた子供が体をうねらしてもがいている.


 「あらまあ……」

 嫦娥が右手を上げると,部屋の隅で作業をしていた白衣の様なものを着た男が駆け寄ってきた.

 背の低い不思議な姿の男だ.体格は人間なのだが,体が蟹の様な甲殻で覆われている.


 「アクベンス,どうしたの? 報告なさい」

 「分かりません.副作用の様です」

 アクベンスはオドオドしながら答えた.しかし,彼の眼はじっと痙攣し続ける子供に注がれている.やがて痙攣が停まった.


 「止まった……」


 アクベンスは子供の首筋に触れ,鼻と口の前に指を当てている.


 「死にました」

 「何だって!」

 オシリスは駆け寄り,太い指を子供の頸動脈に当てた.拍動が触れない.

 十五,六歳の少女だ.手を当てている内に,どんどん体温が下がっていくのが分かった.


 「いかん!」

 CPR――心肺蘇生の基礎は知っている.オシリスは口に息を吹き込み,心臓マッサージを行った.

 「誰か,口に息を吹き込んでくれ.一,二,三,四,五……」


 だが,だれもオシリスを手伝うことはない.

 嫦娥も,アクベンスも,必死に胸を押し体を上下させるオシリスを妙に醒めた目で見ていた.


 「何故手伝わない!?」

 叫ぶようにして問うオシリスに,ひどく冷静な言葉が返ってきた.


 「オシリス殿,その子はNPCなのです」

 「NPC?」

 「ただのゲームのキャラクターです」

 オシリスは思わず手を止めた.少女は息を吹き返すことはなかった.

 「だが……」

 現に目の前に死にそうな子供がいるのだ.


再び手を胸骨に当てようとするオシリスの手を,アクベンスが制止した.

 「残念ですな.もう助かりますまい」


 「また失敗なの? アクベンス」

 「嫦娥様,DNAを効率的に導入するベクターを作成するのは非常に難しいのですよ.純粋な化学物質でも治療を試みてはいますが,遺伝子治療が合目的的と思うのです」

 「残念ね,なかなかうまくいかないものねえ,フフフ」

 「ですが,開発中にいくつも面白い物質を発見しましたし,別の病気に使えそうなものもありましたから」

 「色々試してみるしかないってこと? 気の遠くなるような話なのね」

 「我々には時間はたくさんありますから」

 そう言うと,嫦娥とアクベンスは高い声で笑った.

 オシリスは自分の手の下で急速に冷たくなっていく少女の体温を感じていた.

 

 何だろう.これは.

 悪寒がする.

 背筋に立ち上る嫌悪感に,オシリスは顔をしかめた.


 「ああ,どうか御気になさらず.オシリス殿.その死体は我々の手の物に処理させますから」

 アクベンスは甲殻類特有の突起がついた肩をすくめた.


 「処理?」

 「おや,そんな顔で睨まないでください.たかが,ゲームの中のキャラクターではないですか.薬という物は,分子構造を設計しても,それが実際に生物に有効かは非常に難しい問題なのです.ですが,マグナ・スフィアなら違う.このような実験――もとい,治験を行うときちんとしたデータが出るのです.我々はこのデータをもとに新しい薬を現実世界に届けているのですよ」


 オシリスはアクベンスが‘実験’と言いかけたのを聞き逃さなかった.

 現実世界で行われている‘臨床治験’は,動物実験を段階的に経て,毒性が無いことを確認してから人間を対象に治療とデータの確立を兼ねて行われるものだ.実験と言えば実験だが,難病の人々にとっては新しい薬の効果に賭けることのできる貴重な機会であるともいえる.色々な問題を含んではいるが,倫理的な審査もある.

だが,この様子では……実験で使うギニアピッグ(モルモット)の代わりに,ゲームの人間を使っているに違いない.世界最高速度のスーパーコンピュータの性能をゲームに使う日本人の気持ちも理解しがたいが,この違和感は何だろう.


 「一体,何の薬だ?」

 「アメリアで流通している戦闘高揚剤とか,毒物とかです.向精神薬だとか,劇薬としてはいろいろ興味深い」


 再び振動が建物を揺らした.

 天井からぱらぱらと細かい破片が落ちてくる.


 「おやおや.お客様が暴れている様ね.……それでは一旦失礼.私は向こうの様子を見て参ります.アクベンス,オシリス殿にしっかり見学して頂きなさい」

 「かしこまりました,嫦娥様」

 アクベンスが恭しく頭を下げると,嫦娥は美少年たちを連れて優雅に部屋を出て行った.


 「お前は,ゲームプレーヤーなのか? それともNPCとかいうゲームのキャラクターなのか?」

 オシリスが問うと,アクベンスは瞼のない飛び出した目を揺らして笑った――様な気がした.

彼の態度は,嫦娥がいなくなると一変して不遜になったが,オシリスは気にしなかった.この人物が一目見た時からどうしても好きになれない.特異な外見のせいではない.自分の上司の前では卑屈になり,そうでない者に対しては傲岸な態度をとる気質に嫌悪感を覚えるのだ.


 「俺は,そのどちらでもない.今や至高の人間,ホモ・オプティマスとなったのだ.現実世界のしがらみにとらわれず,自由に発想し,それを自由に試すことが出来る.同僚も伝説級の研究者達だ.科学研究費の獲得や予算に振り回されることもない.学内の政治的な抗争に巻き込まれることもない.こんなに充実していたことはない」

 「君も……死んだ人間なのか? あちらの世界では研究者だったのか?」

 自分と同じ立場と知り,オシリスは逆に思わず口調を改めた.

 

 「もともと歪んだ人間であることは自覚していたさ.人付き合いもできなかったし,性癖も特殊だ.ヘヘ,ロリコンとか何とかね.だが,ここにいればすべてが許される.最後の最後はゲームにはまりすぎてCRPS――複合性局所疼痛症候群 complex regional pain syndromeなんてものになっちまった」

 

 マグナ・スフィアでは母国語が自動的に通訳されて相手の頭に届けられる.が,そのまま聞いたアクベンスの英語の発音はネイティブスピーカーのオシリスが聞いても意外に流暢だった.それなりに高度な教育を受けた科学者に違いなかった.


 「腕の痛みに耐えかねて,自殺を考えた時に,この‘ホモ・オプティマス化’の申し出があったんだ.今や,何の苦痛もない.自分の好きな物だけに囲まれて生きている.満ち足りているよ」

 

 アクベンスはそう言いながら部屋の隅に向かって手を振った.

 人間に似た小柄な生き物が二人歩いてきた.耳がとがっていて,頭蓋骨が縦に長細く,肌はザラザラして目つきが悪い.


 「ゴブリンども,死体をとっとと片づけろ.お前らが喰うなよ.標本に処理して,指定の部位はきちんとラーフラ殿に渡せよ」


 ゴブリン達は意味の分からないくぐもった声を出して唸ると,死んだ少女の脚を握って寝台から引きずりおろし,ズルズルと床に頭をこすりつけながら運んで行った.


 「さてさて,次の検体に取りかからねば.おや,またあそこが上手くいっていない」


 オシリスはアクベンスの視線を追った.通路を挟んで三つ目のベッドの上で,患者――アクベンスの言葉によると検体だが――が暴れていた.


 「放して! 子供たちが,私の子供が,そこに……」


 成人の女性の声だった.アクベンスは面倒臭そうに甲殻類の脚を動かして歩くと,女性のベッドへと近づいて行った.女性は黒髪に小麦色の肌で,アラブ系の容姿をしていた.年の頃は三十歳前後だろうか.病院の検査着に似た水色の前開き服を着ているが,暴れているので引き締まった大腿がむき出しになっている.女性の四肢には革ベルトの抑制帯が取り付けられていた.


 「子供……?」

 悲痛な声だった.女性が必死で声をかけている方向を見ると,そこには五歳くらいの男の子と女の子が仲良く眠っている.いや,眠らされているのだ.腕にはあの不気味な拍動するチューブが繋がっている.

 オシリスの胸に何かが込み上げてきた.

 自分を射殺した息子,ジェイムスがこのゲーム,マグナ・スフィアで遊んでいたこと.

 そして,この光景を目にしたとするならば……


 「分かった,分かった,そのうち会わせてやるから.取り敢えず今は眠れ.誰だ? 成人の投与量を間違えた奴は? 鎮静セデイションを十分にかけろ,って言っただろ?」

 アクベンスはそう言いながら,面倒くさそうに歩いて行った.

 「す,すまない,アクベンス」

 傍には気の弱そうな兎人の男が二人立っていた.

 「ああ何だ.ワトソンとクリックか.まあ,生粋の生化学者だと臨床には弱いよな.取り敢えず,ゴブリンども.捕まえておけ」


 先ほど死体を運んで行ったのと同じような姿の生き物がわらわらと五人ほど集まると,女性の手足を無理やり押さえた.


 「全く,しょうがないな.殺す方が簡単なんだが.成人のデータも欲しかったからな」

 アクベンスは鉤爪の生えた右手を振り上げ,無造作に女性を殴った.

 女性は小さく呻いて,ぐったりと目を閉じた.口元に血をにじませている.意識を失ったようだ.


 「今だ,ほら,注射しな」


 クリックと呼ばれた兎人の手には,現実世界と同じ形の注射器が握られていた.彼は震える手で注射器の針を女性の静脈に刺そうとした――が,力強い手がその手首を掴んだ.

 クリックの手は見る見る腫れあがり,やがて前腕の骨がきしむ音がした.


 「い,痛い! 放してくれ!」

 だが,手の主――オシリスは離さない.

 驚いたゴブリン達が一斉にオシリスの顔を見た.


 「お前? 一体どういうつもりだ?」

 アクベンスがオシリスに怒鳴った.


 「この世界は,子供たちがゲームで遊びに来る世界なのだろう?」

 オシリスは顔を伏せて静かに言った.


 「は? 何を言ってるんだ?」アクベンスは侮蔑のこもった声で言った.「俺たちは,もう寿命もない.この世界の神とでもいうべき存在だぞ.その俺たちが,ゲームの登場人物に何をしようが関係ないじゃないか」


 その瞬間,ついにクリックの前腕が音を立てて異様な方向に曲がった.骨が折れたのだ.

 クリックは絶叫した.失神して床に崩れ落ちそうになるクリックを,慌てて隣のワトソンが支えた.


 「この分からず屋め! 少々痛い思いをして,目を醒ませ!」

 アクベンスは甲殻の腕でオシリスの顔を殴った.

 鈍い音がする.だが,砕けていたのはアクベンスの拳だった.甲殻類の脚の形をした指が,あらぬ方向に曲がっている.アクベンスは自分の拳を見て驚愕した.

 「な,なんだ? こいつ! 強化アクリル板と同等の強度を誇る,俺の体が何で砕けるんだ? 鉄でも殴っているみたいな感触だったぞ!」


 異様な展開に,ゴブリン達がオシリスを遠巻きに輪を作った.クリックはついに腰を抜かして床にへたり込み,アクベンスは自分の手を押さえながらオシリスを睨んでいる.ワトソンはクリックを置き去りに,後ずさりして逃げ始めた.


 「思い出したよ……私のなりたかったヒーローは……鋼鉄の正義と呼ばれていた……」

 オシリスは甲殻類の怪物を睨み付けながら,拳を固く握りしめた.

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