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水族館デート編

 俺が目を覚ましたのは朝だった。

 少し眠るだけ……のはずだった。俺は自分が予想していたよりも疲れていたみたいだ。

 昼寝のつもりがしっかりと眠ることになるとは……。

 けどそのぐっすり眠ったおかげで頭の中はとてもすっきりしている。

 今日これから行く水族館でどうやって洋介を説得するかもさっぱり考えていない。

 そもそも俺はどこの水族館に行くのか、何時に洋介の家に行けばいいのか分からない。

 分からないことだらけだ。もうこれでは考えても無駄だ。きっと何とかやるはずだ。

 俺はさっさと朝食を食べて着替えるとすぐに家を出て洋介の家に向かった。

 何時に行けばいいのか分からないからとりあえず早めに行くことにした。

 メールでもして確かめるのがいいのかもしれないけどまだ洋介は寝ているかもしれない。それに何故かメールするのが気まずいのだ。何故、俺は気まずいと思うのか、そんなことはよく分からない。でも直接行けばなんとかやるはずだ。

 洋介の家には何度か行ったことがある。だから迷うことなく行くことができる。

 でも俺の足取りは洋介の家に近づくごとに重くなる。

 洋介は一体、どんな格好で現れるのだろうか? 普通の男が着るような服装だったら俺はこんななも悩まないだろう。

 だがきっと洋介は女装をするだろう。男は絶対に着ないであろうかわいい服装なのだろう。

 そんなことを考えれば考えるほど俺の足取りは重くなる一方だ。

 でも俺は決して歩みを止めることはせずにまっすぐに洋介の家を目指す。


 なんとかたどり着いた。

 洋介の家は二階建ての一軒家だ。洋介の部屋は二階にある。

 もう俺は疲れた。まるで全力疾走した後みたいに心臓が速くなる。

 今までなら洋介の家に行くくらい何でもなかったのに今日は特別に疲れてしまった。

 だがまだ今日は始まったばかり、これから洋介と合流して水族館に行くのだ。こんなところでへこたれているようではダメだ! しっかりしなければ!

 俺は自分を奮い立たせてチャイムを押した。

 ……洋介はなかなか出てこない。

 確かに俺は何時に行けばいいのかを聞かなかった。今は朝の九時だ。普通の休日ならまだ寝ている時間だろう。

 いつ行けばいいのかを聞かなかった俺が悪いのだ。だがここまで来てしまったのだから待っているしかないだろう。

 しかしどのくらい待てばいいのか見当もつかない。

 だがあまり待つ必要はなかったみたいだ。

 二階から洋介の呼ぶ声が聞こえたからだ。

 俺は洋介の部屋がある方を見た。

 そこには昨日と違って俺の良く知っている洋介が顔を窓から出していた。

「もう来たんだ!」

 俺が約束をきちんと守ったのがそんなに嬉しいのか近所のことなど考えずに洋介は大きな声を出す。

「早すぎたか?」

「いや、大丈夫だよ。僕も今すぐ用意してくるよ!」

 そう言うと洋介は窓から顔を引っ込めた。

 俺は洋介が出てくるのをじっと待った。

 できれば女装ではない、もしくは男が着てもおかしくないような服装で出てきて欲しい。

 洋介の準備にかかる時間は結構、長い。それでも俺は黙って普通の洋介が出てくるのを願いながら待った。

 洋介の家のドアが開いた。ようやく洋介が出てきたのだ。

 洋介の格好は白と黒のチェック柄のひざ上のスカートに灰色のパーカーで昨日と同じカツラを被っている。

 俺のよく知っている洋介は目の前にはいない。

 でもこんなことになるくらい分かっていた。俺はともかく、洋介はデートだと思っているはずだ。だからこんなにも可愛い格好でも全くおかしくなんてない。

 それでも俺は少しくらいは前の洋介が現れることを期待していたのだ。

「今日、行く水族館はここだよ!」

 そう言うと洋介はパーカーのポケットからチケットを二枚取り出した。その内、一枚を俺に渡す。

 そのチケットは地元の小さな水族館の物だ。

 地元の水族館は他のところと比べるてしまうと小さく、魚の種類も少ない。それでも地元で行きやすいこともあっていろいろな行事などでよく行くところだ。

 ここからなら歩いてても行ける。

「ここに行くの久しぶりだな」

 俺が最後にこの水族館に来たのは中学生で高校生になってからは一回も行ったことはない。

「うん。僕も久しぶりだよ。だからとっても楽しみなんだ!」

 洋介は子供みたいに無邪気な顔をしている。

 そんな洋介を見続けるのは危ない気がした。俺の何かが限界を迎えそうな、新たな扉を開いてしまいそうな……よく分からない危険だ。

 俺は洋介から目を背けて水族館を目指して歩き出す。その後ろを洋介がついてくる。

 俺は今、緊張している。

 別にこれはデートではない。友達と遊んでいるに過ぎない。でもそれなのに何故、俺は緊張しているのだ!

 洋介は何もしゃべらない。俺も何も言わない。だから無言のまま水族館に向かっている。

 無言だからいろいろと考えることができる。

 とりあえず今、一番重要なのは洋介をどうやって元の洋介に戻させるかだ。

 洋介は女装を皆に見られているというのに全く恥ずかしがらずにごく自然に振る舞っている。

 この洋介の余裕は一体、どこから来ているのか?

 普通に女装してしまっている洋介を戻すのはきっと大変だ。

 でも今日はずっと二人っきりだ。チャンスはあるはずだ。

 しかし今日を逃せば洋介が女装することは周りにとって普通なことになってしまう。しかもそんな洋介とつきあっていると周りに思われてしまうだろう。

 だからこそ今日、一日で洋介を元に戻すのだ。

 そう意気込んだは良い物をなかなか良いアイデアというのは浮かんでこないものだ。

 何も思いつかないまま、水族館に着いてしまった。

 水族館の入り口は休日だというのにあまり人がいない。朝だから仕方ないのかもしれない。

 人がいないからすぐに水族館の中に入ることができた。

 水族館の中は外よりも薄暗く、涼しい。

 人もまばらだがいるにはいる。家族連れやカップル……。

 もしかしたら周りからは俺と洋介もカップルに思われてしまうかもしれない。

 そう思うと俺と洋介がどう周りに思われているのかを意識してしまう。

 まだ今日は始まったばかりというのに緊張してきてしまう。まだまだこれから何が起こるのか分からないのに……

「こっち行こ!」

 洋介はそんな俺の緊張などつゆ知らずに俺の腕を掴んで連れて行く。

 俺は洋介にされるがまま、抵抗することもなく、連れて行かれる。

 洋介が俺を連れてきたのはこの水族館で一番、大きな水槽があるところだ。

 その水槽のメインは洋介や俺よりはるかに大きいサメだ。そんな大きなサメが何頭も水槽の中を雄々しく泳いでいる。

 そんな光景に俺は見とれてしまった。自分が小さくなったかのような不思議な感じだ。

 昔、ここに来た記憶がよみがえってくる。

 それはもう、俺が小学生にもやっていなかった頃だ。

 その当時の俺は今よりもずっと純粋で大きなサメが泳いでいるこの水槽を見て、「一緒に泳ぎたい!」などど言ってしまうくらいだ。

 その発言の後はもちろんみんなに笑われてしまった。

 その時は確か、親ともう一人、幼なじみと来ていた。しかし何故か一緒にいたはずの幼なじみがどんな人だったのかを全く思い出せない。

 幼い時にしか会っていないから仕方ないのだろうか?

「ねえ、次のところ行こ! ……何か、考えことでもしてるの?」

 洋介に呼ばれて俺は思い出の世界から戻ってきた。

 洋介は俺を不審な目で見てくる。

「ちょっと、この水槽を見ていたら昔のことを思い出していただけだよ」

 俺は素直に言ったがどうやら洋介はまだ何か不安があるみたいな目を俺に向けてくる。

「もう、今は昔じゃないんだからね! 昔よりも今を楽しもうよ」

 そう言うと洋介は俺の腕をグイグイと引っ張ってきた。

「分かったよ。で? 次はどこに行くんだ?」

「こっちだよ!」

 洋介は元気よく言う。俺がさっき見た不安そうな目は気のせいだったのかと思ってしまうほとだ。

 それにしても女装してからの洋介はかなり積極的だ。俺に告白して女装までしたから何かのリミッターでも外れてしまったのかもしれない。

 もし本当にリミッターが外れたとしたらかなり厄介だ。これからもずっと積極的な洋介とつきあうことになるのだ。

 早く、元に戻さないともっと悪い状況になりそうだ。

 次に洋介に連れてこられたのはこの水族館の名物の水槽だ。

 水槽は床から天井まで円柱の形をしている。百八十度どこからでも見れるようになっている。

 こういう水槽は大抵、アザラシとかか泳いでいる。だがこの水族館は他とは違う。中に入っているのは大量のクラゲだ。

「何回見てもすごい光景だな」

 大量のクラゲを見て俺は呟く。でも素晴らしいとは思えない。どちらかといえば気分が悪くなる。

 俺は昔からこの大量のクラゲが苦手だった。

 クラゲという独特の姿をした奴がところ狭し、とたくさんいるのが幼い心では怖かったのだ。

 今は怖くはないがそれでも気分は悪くなる。

 俺は早くここから立ち去りたかった。

「僕ね、クラゲが好きなんだ。神秘的でいいよね!」

 洋介はクラゲをキラキラとした目で見ている。それはまるで小学生のような純粋な目に俺には見えた。

 そんな洋介を見てもこの天井から床までを埋め尽くすクラゲの良さが俺には分からない。

「神秘的、ねぇ……」

「え? 何、もしかしてクラゲの素晴らしさが分からないの?」

 洋介がギロリと鋭い目つきで俺を見てくる。

 きっと洋介はかなりのクラゲ好きなのだろう。今まで洋介とクラゲの話しなんてしてこなかったから知らなかった。

「い、いや。そうじゃないって」

 洋介はすぐにでもクラゲの魅力について語り出しそうだ。そうなればきっと長時間、無理やり聞かされるハメになるだろう。

 だからここはクラゲを否定しないで洋介を刺激しないようにしよう。

「神秘的……うん。確かによ~く見れば神秘的に見えるような、見えないような……」

「そうだよね! 神秘的で可愛くて最高だよね」

 洋介は俺がクラゲの良さに気づいたと思って喜んでいるのだろう。

 すまない、洋介。何回見ても俺はクラゲの良さが分からない。

 だけど洋介はよっぽどクラゲが好きみたいでまだクラゲをキラキラとした目で見ている。

 このままでは例え洋介がクラゲの話しをしなくてもずっとこの場所に止まっていそうだ。

 洋介はそれでいいのかもしれないけど俺は早くここから立ち去りたかった。

「おい、洋介。そろそろ次に行こうよ」

「えー、まだ見ていたい。でも君が言うなら仕方ないね」

 そうは言っても洋介はまだ未練がましい目で水槽をみている。

 俺はそんな洋介の腕を掴んで少し強引だが連れて行く。

「また来るね」

 洋介はクラゲに手を振っている。それにもうクラゲのところには行かない。そう俺が決めたのだ。

 さっきまでは洋介に案内されていたがきっと洋介に任せたままだとクラゲのところに戻ってきてしまう。だからここからは俺が案内をする。

 幸いにも水族館に来た昔の思い出がよみがえったおかげで案内することは難しいことではない。

 俺は洋介の腕を掴んだまま歩く、昔の思い出と重ねるように歩く。

 家族、幼なじみと来た時が懐かしい。

 幼なじみがどんなのだったのかはいまだに全く思い出せないけど、絶対に幼なじみはいたのだ。

 一緒にはしゃいだ記憶がしっかりと俺にはある。

 だからこそ、あの思い出は俺の勝手な妄想だとは思いたくないのだ。

 俺は昔の思い出をなぞるように水族館を歩いていく。

 たどり着いたのは壁から天井まで全部が水槽になっている場所だ。

 たくさんの小魚が泳いでいる。

 ここで写真を撮る人が多いみたいだ。たくさんの小魚をバックに家族やカップルたちが楽しげに写真をとっている。

「僕たちも写真を撮ろうよ!」

 洋介は写真を見る人たちを見て自分も撮りたくなったのだろう。

 しかし洋介と違って俺は今の洋介と一緒に写真に写りたくない。写真にしてしまうとずっと残ってしまうからだ。

 だから俺はしっかりと断った。

 すると洋介は残念そうに俯いてしまった。本当に撮りたかったみたいだ。

 悲しそうな洋介の顔。

 やめてくれよ、そんな顔は見たくない。

 だからつい、俺は洋介の言うことを聞いてしまう。

「わ、分かったよ。一枚だけならいいよ」

 そう言うとすぐに洋介の顔はパアッと明るくなる。

 この笑顔が見られるのなら写真を撮られるくらい安いものだ。

 しかしいざ、撮るとなると恥ずかしいものだ。一緒に写らないとダメと洋介が言ったから近づいて撮らないといけない。

 それに三脚もないし、誰かに撮ってもらうこともしないからかなり密着しないといけない。それはもう肩がぶつかるほどだ。

 洋介の横顔がすぐ横にある。近くて見ても洋介はやっぱり可愛い。男には見えない。

 そんな洋介と俺はキスをしたのか……。

 今、思い出してもドキドキしてしまう。

 密着している今だとドキドキしているのかバレてしまうかも……と考えるとさらにドキドキしてきてしまう。

 もう息するのさえ辛い。

 俺は大変な思いをしているのに洋介は嬉しそうにしている。緊張なんて少しもせずに楽しんでいる。

 俺と写真撮るのがそんなにも嬉しいことなのだろうか?

 写真を撮り終えるときちんと撮れたかも確認する前に俺は洋介の腕を掴んで次の場所に向かった。

 洋介と密着して緊張してしまっている自分の顔なんか見たくはない。だから次の場所に走るように向かうのだ。


 俺が次に洋介を連れてきたのは子供に人気な海の生物と触れ合うことのできる触れ合いコーナーだ。

 ヒトデやナマコといった普段はなかなか触れ合うことのできない生物たちと触れ合うことができる。

 体験コーナーということもあって子供たちに人気なのだ。もちろん俺も昔はここではしゃいでいたことがあった。

 きっと……幼なじみと一緒に。

「ほら、見てよ! このヒトデ、すごく大きいよ!」

 俺が昔を思い出していたら、いつの間にか洋介はもう触れ合いコーナーに行っていた。

 洋介はヒトデを手のひらに乗せて無邪気に子供のように楽しそうにしている。

 今の洋介は本当に子供みたいだ。

 子供のような洋介を見ると昔を思い出してしまう。

 でもどうしても幼なじみが誰なのかが分からないのだ。男なのか、女なのかすら分からない。

 でも確かに俺はここで幼なじみと一緒に遊んでいたのだ。

「おーい! 何してるの? 早く来てよ!」

 洋介が俺を呼んでいる。

 どうやら今の俺には昔の思い出を懐かしむ時間はないみたいだ。

 幼なじみという昔のことよりも今は洋介の方が俺にとって問題なのだ。

「今、行くよ」

 触れ合いコーナーは子供向けのコーナーなだけあって水槽が低い。俺や洋介ならしゃがまなければならない。

 洋介はすでにしゃがんで十分に楽しんでいる。

 でも俺は海の生物なんか触りたいという気持ちにはなれなかった。ただ楽しそうにしている洋介を見ているだけで十分だった。

「ねえ、触んないの?」

 洋介はウミウシを手のひらに乗せている。

 鮮やかなウミウシだ。

 きっと触ったら柔らかくて、気持ち悪いのだろう。

「あ、うん。俺はいいかなっておまえ楽しめよ」

「えー、一緒にやろうよ。ねッ!」

 そう言って洋介は俺の手のひらにウミウシを置いた。

 さっきまで水の中にいたせいなのか冷たい。ナメクジのように俺の手のひらを動いている。

 気持ち悪くて今すぐにでも水槽に戻したい。

「どう? 結構、いいでしょ」

 だけど洋介は俺の返事を期待するように俺の顔をキラキラした目で覗きながら言ってくる。

「あ、ああ。け、結構、いいもんなんだな……」

 実際、気持ち悪いだけだが、正直に気持ち悪いなんて言うことが俺にはできなかった。

「そうだよね! そうだよね!」

 洋介は嬉しそうにそう言うとウミウシを俺の手のひらから水槽へと戻した。

 ここまでずっと洋介のペースに乗せられてしまっている。このままでは洋介の女装を辞めさせふチャンスを作ることができない。

 少し強引にでも俺のペースに持って行かなければならない。

 俺は洋介の手を握った。洋介の手は濡れていて冷たい。でもそんなの今はどうでもいい。

 いきなり握ったからか、洋介は驚きの表示で俺を見る。

 俺は洋介を真剣な目で見つめた。

 そうすると洋介は嬉しそうに笑った。

 俺は安心して歩き出した。

 しかし歩き出したはいいがどこに行けばいいのだろうか?

 洋介のペースに持っていかれずに女装を辞めてほしいと言える場所はいったいどこが最適だろうか。

 このまま、歩き続けでも何もできずに終わってしまうではないか……。

『一階にてイルカショーが行われます。ぜひお越しください』

 店内放送だ。これからイルカショーが始まるみたいだ。

 行く果てがなく困っていた俺にとってこの店内放送は天の恵みだ。これを利用しない手はない。

「洋介、イルカショーを見に行こうか」

「うん!」

 洋介は俺の提案を快諾してくれた。

 俺は密かに決心していた。

 イルカショーが終わった後、洋介に女装を辞めて欲しいと言うということを。

 イルカショーが終わった後ならきっと落ち着いて話す時間はあるだろう。そこで俺は言って女装を辞めてもらうのだ。

 俺は緊張を高めながらイルカショーの会場に向かった。


 イルカショーの会場は一階の屋外にある水槽で行われる。

 丸い大きな水槽を囲むように並べられた席にはそれほど人がいるようには思えなかった。

 でもまあ、今の俺にとっては周りに人がいないというのは逆にありがたい。

 洋介と一緒にいるところを知らない人だとしても見られたくないというのもあるが、このイルカショーが終わった後に俺が言おうとすることはあまり人がいない方がしやすいからだ。

 俺と洋介は適当なところに座る。

『皆さん! 本日はお越しいただきありがとうございます』

 イルカショーが始まるみたいだ。元気なお姉さんの声が会場に響く。

『本日、演技を披露してくれるのはオスのペー君とメスのメーちゃんです』

 名前を呼ばれたイルカがジャンプして応える。そな華麗なジャンプに会場から拍手が起こった。

 そしてイルカショーは始まった。

 二匹のイルカが魅せる素敵な演技に俺はつい見入ってしまっていた。

 美しく、高く、ジャンプするイルカ。

 空中の輪を上手にくくるイルカ。

 人を乗せて泳ぐイルカ。

 そのどれもが俺を惹きつける。思わず拍手にも力が入ってしまう。

 洋介もこのイルカショーを見て、俺と同じように感動しているのか気になって洋介を見てみる。

 洋介は食い入るようにイルカショーを見ている。

 洋介は本当にイルカショーを心底楽しんでいるみたいだ。

 そんな洋介を見れて俺も嬉しい。

 今日の洋介との水族館は本当に楽しかった。

 でもどんなに楽しくても俺にとって洋介はきちんとした男の時が本物なのだ。

 だから今日でなんとしてでも洋介に女装を辞めてもらうのだ。


 イルカショーが終わった。

 久しぶりのイルカショーだったがかなり楽しめた。

 しかしそのせいで洋介に女装を辞めてもらう方法を考えることができなかった。

「ありがとうございました!」

 飼育員のお姉さんがそう言うと観客席から拍手が巻き起こった。

 となりでは洋介も精一杯の拍手を送っている。

 だが俺は拍手をする余裕はなかった。ただ焦りを感じていた。

 俺と洋介以外の観客は「面白かったね」とか「また来たいね」などと感想を言ってこの会場を出て行く。

 そんな中、俺は立つことさえできなかった。

 もう遅いと分かっているが女装を辞めさせる方法を懸命に考える。

「あー、すっごい面白ろかったね!」

「うん。そうだな」

 今の俺はとなりにいる洋介の声も耳に入ってこない。

「どうしたの? そろそろ行こうよ」

 洋介は立ち上がって俺を見つめてくる。

 ここで勇気を出さなければ今のままの関係がズルズルと続いていくだけだ。

 何を言えばいいのかなんでのは言ってから考えればいいのだ。

 俺は立ち上がると洋介の手を握った。

「洋介、話しがあるんだ。聞いてくれ」

「え!」

 洋介は驚いて顔を赤くしている。

 今、この場所は俺と洋介の二人しかいない。

 今のこの状況は俺が望んだ最高の状態だ。

「話しって何? 大切な話し?」

 洋介の声が震えているのが分かる。

「ああ、とても大切な話しだ」

「……そうなんだ」

 女装を辞めてほしい。

 ただそれだけを言えばいい。

 それなのに……俺の口からなかなか出てきてくれない。

「……ねえ、他のところに行かない? こんなところで立って話すのもあれだし」

「ダメだ! ここじゃないとダメなんだ!」

「そ、そうなの? わ、分かった」

 そう、ここしかないんだ。誰にも邪魔されずに済むのは今、この瞬間しかないのだ。

 だからいうしかない。

 勇気を出すんだ! 俺!

「……洋介! もう女装するのは辞めてくれ!」

「え……? なんで……」

 洋介は目を見開いて驚いている。

 俺は洋介から目を離さない。ここでめを離したら話しがうやむやにされて何も変わらない気がしたからだ。

 驚いていた洋介はやがて下を向いて震えだした。

 もしかして泣いているのか? ここから俺はどうしたらいいんだ?

「僕が女装を辞めたらどうなるの?」

 洋介は下を向いて俺とは顔を合わせないまま言う。

「どうなるって、そりゃ今まで通りに戻るだけだろ」

「それじゃあ……僕と君は友達のままじゃないか。僕は君に好きになってほしいから女装をしているんだよ。別に好きでこんな格好しているわけじゃないんだよ。それなのに君は僕を好きにはなってくれないの?」

「……うん。俺は洋介を好きになることはない」

「……そう。……そうなんだ」

 洋介は俺に背中を向けてここから走っていってしまった。

「洋介! 待てよ!」

 洋介に俺の声は届いていないみたいだ。

 洋介の姿はすぐに見えなくなってしまった。

 このまま洋介を無視するなんて薄情なことはできない。俺はすぐに洋介の後を追った。

 しかし水族館の中は薄暗い空間が広がっている。

 走っていった洋介がどこにいるのかさっぱり分からない。

 大声で洋介の名前を叫ぶのは他の客に迷惑がかかるからダメだ。

 そうなるともう、しらみつぶしに探していくしかない。

 小さな水族館だから見つけることは難しくはないだろう。

 しかし時間はかなりかかってしまう。

 今のままでは洋介は女装を辞めてはくれない。辞めさせるには洋介と時間をかけて話し合うのがきっと一番なはずなのだ。

 そのためにもできるだけ早く見つけないといけない。

 しらみつぶしとはいえ、洋介が行きそうなところから探した方がいいだろう。

 しかしこの水族館に来たのは久しぶりのことだし、しかも洋介と一緒なのは今日が始めてだ。それなのに洋介の行きそうな場所なんて……いや、一つだけ心当たりがある。

 洋介はクラゲが好きだ。クラゲの水槽の前だとずっとそこから離れないのではないかと思うほど見入っていた。

 それほどまでに洋介はクラゲが好きなのだ。

 一か八か洋介が居るかどうかなんて分からない。でもそこから探してみるのはいい考えだろう。


 俺はクラゲの水槽があるところまで来た。

 クラゲの水槽の前に一人、誰かが立っているのが見える。

 俺はその人影が洋介だと期待しながら近づいていく。

「洋介……」

 そこに立っていたのはやっぱり洋介であった。

 俺はできるだけ優しく驚かせないように言った。

「僕は君との今までのままの関係が嫌になってしまったんだ」

「え? な、なんで?」

 洋介は今までの俺と過ごして来た日々が嫌だと言った。

 俺は洋介と過ごして来た日々は嫌だと思ったことはない。くだらないことばっかりだったかもしれない。それでも本当に楽しかった。

 ……そう思っていたのは俺だけたったのか?

「楽しくなかった。ていうことではなくて君と過ごす内に僕は気づいてしまったんだよ」

 よかった。俺と過ごしたことは嫌ではなかったんだ。

「僕は……本当に君のことが好きだってことに! こんなのおかしいよね。でももう抑えきれないんだよ! 君が女の子の方がいいっていうから僕は女装しているんだよ」

 洋介は大好きなクラゲから目を離して俺に詰め寄ってくる。

 洋介の目は涙であふれている。

 洋介は本気で俺のことを好きでいてくれている。

 今までのように友達でいたいと思うのは俺の身勝手なのかもしれない。

 でもだからといって洋介を好きにはなれない。たとえ今の女装姿がどんなに可愛くでもだ。

「ねえ、君は僕の今の女装どうだと思ってるの?」

「え? 何を今更、言ってるんだ」

「だってもしかしたら今日で女装はもうしないかもしれない。だとしたら君にどう思われていたのか知りたくなってね」

 ここは正直に可愛いと言うべきか、それとも嘘をついて可愛くないと言うべきか……。

「……今のお前は素直に可愛いと思う」

「そう。よかった」

 俺は正直に言うことにした。こう言えば洋介は満足して、女装を辞めてくれるかもしれないと思ったからだ。

「だったら、今から僕のこと女の子だと思ってよ」

「え! は? おまえ何言ってるのか分かっているのか?」

「僕は今、君だけの女の子なんだよ。本物の女の子ではないけど君の物なんだよ。僕は」

 洋介は顔を近づけてくる。それはもうキスしてしまうのかと思うほど。

 俺は緊張と驚きで動くことができずにただ、前のキスの感触を思い出していた。

 俺は期待してしまっている。

 洋介がキスをしてくれることを……。

 俺は洋介を好きになんかならない。でもだったらなんで俺はキスをしたいと思っているんだ?

 俺は自分自身の気持ちすら分からなくなってきていた。

 俺はもしかして本当は洋介のことが好きなのではないかと考えてしまう。

「君は女装の僕を可愛いって言ってくれたけど、君は僕に心揺らぐことはないんだね。元の僕がいいって君が言ってもあれは僕の偽物なんだよ。今の僕が本物なんだよ」

「洋介……。おまえは一体、俺にどうしてほしいんだ?」

「何度も言ってるよ。僕の願いはただ一つ、君に好きにもらうことだけだよ」

「おまえは本気で俺のことが好きなんだな」

「もちろん。本気じゃなかったらこんなことしないよ」

「それでも俺はやっぱり今までのおまえがいい。女装しているより普段のおまえがいいんだ」

「普段通りに戻っても君は僕を好きにはなってくれないよね。友達のまんまだよね」

「ああ、確かに今は洋介の気持ちには答えることはできない。でもいつかしっかりと洋介の気持ちに答えられるようにする」

「え? それっていつかは僕を好きになってくれるってこと?」

 洋介は期待するようにキラキラとさせた目を俺に向けてくる。その目はさっきまでの涙で赤くなっていた。

「いや、まだそこまでは……」

「嬉しい! 君を好きになって本当によかった!」

 洋介が抱きついてきた。

 いきなりのことで俺は固まる。

 洋介の期待が俺の想像していたよりも大きい。

 今の言葉を言ったのは失敗だったかもしれない。

 でもまあ、今は洋介が喜んでくれるだけでいいか。

「洋介、俺の気持ちはまだはっきりしていない。でもいつか伝えられるまで待っててほしい」

「うん。僕、信じて待ってるよ」

「それとやっぱり女装はもう辞めてくれ」

「……君がどうしてもって言うなら、僕はそうするよ」

 これで洋介はもう女装はしないだろう。

 元々、僕の興味を持ってもらうためになっていて、好きでなっているわけじゃないからな。

 ようやく一段落がつきそうだ。

 一息ついて気持ちが落ち着いた。そのせいで今の状況を冷静に捉えることができた。

 水族館の中で洋介と抱き合う俺。

 周りからは好機の目で見られている。

 さっきまで俺は洋介と二人だけの世界にいたから気づかなかったが今までの話しも聞かれていたかもしれない。

 二人だけの世界をいいことに結構、デカい声でしゃべっていたかもしれない。

 すごく恥ずかしくなってきた。

 地元の水族館だから下手したら明日には俺が洋介と抱き合っていたと噂になるかもしれない。いや、でも俺はともかくたいていの人は今の洋介を見ても洋介だとは分からないだろう。

 だとすると噂は俺が知らない可愛い女の子と抱き合っていたということになるのか。

 洋介にまだ抱きつかれていたいという気持ちはあるがこの恥ずかしさには堪えられない。

「洋介……そろそろ離れてくれ」

「うん。分かった。今日は本当に僕と一緒にいてくれてありがとう」

 洋介はやっと離れてくれた。ちょっともったいない気もしてくる……。

 しかし離れてもまだ周りから視線を感じる。

 早くここから逃げたい。

 俺は洋介の手を握って走った。

 この水族館を出るまで必死だった。

 大変な目にあった。もう水族館には行きたくない。

 ああ、もう今日は恥ずかしかったし、疲れた。

「今日は本当にありがとう。またいつか君とこんな感じにどこかに行きたいな」

「ああ、そうだな。いつか俺の気持ちを伝えられたらな」

 帰り道を歩きながら洋介は俺に最高の笑顔を見せてくれる。

 その可愛らしい笑顔も今日で見納めだ。

 ちょっともったいない気もする。でもそれで俺の日常が少しは戻ってくるならそれでいい。

 洋介は笑顔のまま俺に手を振って自分の家に入っていった。

 最近ずっと疲れたままだったが今日は一段と疲れた。

 でももう心配することはない。今日は帰ってぐっすりと眠ろう。


 月曜日。

 今日は学校がある日だ。

 洋介が一緒に学校に行きたいと言ったから俺は今、洋介の家に向かっている。

 昨日と違って今の俺は足取りが軽い。

 その理由はもちろん、洋介が普段通りに戻ってくれているはずだからだ。

 洋介の家につくとすでに洋介は外に出ているみたいだった。

「洋介! おはよ……え?」

「おはよう!」

 手を振って俺にあいさつする洋介は普段の洋介ではなく、女装をしている。

 カツラを被って、女子の制服を着ている。

「おまえ、なんでまだ女装をしてるんだよ」

「昨日のことをね、近所のお姉さんに話したら、後一歩って言って女装を続けた方がいいって」

 昨日のことを人に言ってしまったのか……。

 洋介の言っている近所のお姉さんがどんな人だがは知らない。

 でもきっと洋介に女装させたり、昨日のことを聞いて後一歩とか言っているのだからろくでもない奴だ。

 ろくでもないお姉さんではあるが洋介をこんなにも可愛くできるのだから技術はすごいのだろう。

 少しくらいはお姉さんのことをありがたいと思おう。

「ね! 早く行こうよ。遅刻しちゃうよ!」

 それにきっとまだ洋介を元に戻すチャンスはあるはずだ。それまでの間なら洋介の女装姿を楽しむのもいいだろう。




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