豹獣人は既に知っている
夕化による襲撃から思わぬ助けがあって、俺達は古龍の森から遠く離れたと思われる地に転移していた。
……頭がぼーっとして思考がまとまらない。いや、考えることを放棄してるって言った方が正しいのか。
自分のことながら他人行儀に、そんなことを考える。
俺としては当然のことだ。なにせあの妹が、この異世界にやってきたのだから。
――あいつの顔を思い出すだけで、内臓が冷え切ったように感じる。
妹の夕化は、俺最大のトラウマの原因だ。異世界に来て二度と会うことはないと思っていたのだが、甘かったようだ。
……折角自由になったと思ったのに、最悪の気分だな。
まるで、元の世界で過ごしていた時のようだ。だから俺はあいつと関わりがなかった登下校の時間が、一番好きだった。学校に行けばあいつの評判は嫌でも耳に入ったから。家ではもちろんのこと、学校もダメだ。どこか別の場所に行けば家に帰った時に逃げた反動がやってくる。
我ながら、憂鬱な人生を送ってきたモノだな。
『観察』なんて役に立たないくらい、思考が内に閉じてしまっている。
古龍の森から転移直後、俺を抱えていたヤツがどさりと地面に放り捨てた。痛いが、あまり気にならない。
「ここからは自分の足で歩きなさい。それくらいできるでしょ、傷は治ってるみたいだし」
誰かは知らないが、彼女は冷たく言って先に歩いていく。
「……くれと」
「くれと!」
ニアとミアが地面に倒れたまま起き上がらない俺を、心配そうに覗き込んできた。居心地が悪くて視線を外し、ゆっくりと起き上がる。
誰かに運んでもらう気にも、大丈夫だと強がる気にもなれなかった。
無言で立ち上がって女とディルトーネの後を追うように歩き出した俺に、二人はなにも言わない。だが垂れ下がった両手に小さく柔らかい手が触れてきゅっと握ってきた。
その手を握り返す気にも、振り払う気にもなれなかった。
「……ここは、どこだ? 見慣れない場所だが」
俺がこんな様子なのを見かねてか、回復したセレナが先頭の二人に声をかける。
「答える義理はないわ」
「ここはあんたら暗黒大陸だとか、魔大陸だとかって呼んでる場所さ」
もう一人は冷たく突っぱねたが、ディルトーネが答えた。恨みがましく睨まれるディルトーネだがどこ吹く風だ。
暗黒大陸。魔王の根城がある魔族や悪魔が棲むという、勇者一行の最終目的地として聖女に化けたメフィストフェレスに提示された地。そういえば夜のように暗い。地面も真っ黒い。太陽のような役割を担う光の塊が大陸の下にあるので、ずっとこういう暗さなのだろう。
「今目が覚めたばかりなのだが、どれくらい時間が経っている?」
「あの化け物と戦ったのが、ついさっきのことさね。事情はよくわからないけど、災難だったね」
「いや、こちらこそ助けてもらってすまない。私達の荷物まで回収してもらったようだな」
「まぁ、ついでにね。本音を言えばクレトの持ってる神のダンジョンコアだけは失わせるわけにはいかなかっただけなんだけど」
「それでもありがとう。おかげで私達は無事だ」
「あんた達は、ね」
礼を言うセレナに、もう一人が冷たく言い放った。そこを強調したのは残った一人が死ぬからだろう。
「やめな、レヴィア。元々覚悟の上だろう?」
「……いくら魔王様のご命令だからって、許容できるモノとできないモノくらいあるわ」
窘めるディルトーネとの会話からすると、レヴィアと呼ばれた彼女も同等の立場、魔王軍の幹部だろうか。
「君達の仲間のことはすまなかった。どうやら巻き込んでしまったらしい」
「いいんだよ、バルメイザのことは。言ったろ? 覚悟の上だったって。……まぁ魔王軍としては幹部の一人を失ったから相当な痛手だけどね。『憤怒』担当はもう次の候補を確保してあるから、一番被害が少ない。多分相性が良かっただろうしね。あたしは諸事情で歯が立たないし」
「ディルトーネはこの間勝手に解放したからでしょ」
「解放しなきゃ死んでた、ただそれだけの話さ。生憎とうちにあたし以上に器用な立ち回りができるヤツがいないモンでね」
なんの話かは、なんとなく理解した。俺も『観察』を経た結果『怠惰』を『模倣』している。『全知全能』に聞いて効果を補っているが、『怠惰』は能力を三割まで削った状態に制限をかけることで、解放すると制限をかけていた日数だけ能力が強化されるスキルだ。上手く使えば途轍もない能力で戦闘ができる。
ただし継戦能力が高いとは言えない。だから負けたのだろうか。
「それで、先ほどの話からすると元からなにかを行う予定だったそうだが、なにが目的だったのだ?」
「魔王様から命令があってね。要約すると、『勧誘したい幹部候補がいるから連れてこい。その時誰か幹部死ぬけど』みたいな感じさね」
「……それでよく行く気になったな」
「魔王様の命令は絶対だからねぇ。数少ない幹部を三人も向かわせるくらいだから、そりゃ価値ある作戦だろうし」
「ホントに価値があったのかしらね。魔王様を疑うわけじゃないけど、私にはどうしてもそうは思えないわ」
「だろうね。けど、あたしは間違ってないと信じてる」
「あんたは気楽でいいわよね」
「だろう?」
「……皮肉よ、バカじゃないの」
ディルトーネとレヴィアの会話から考えると、魔王はもう復活しているのか。
「その口振り、まるで魔王が復活しているかのようだが……」
「まだ半分ってところさね。あたし達に命令をするくらいはできる状態だね。まぁそんなに身構える必要はないよ。あんた達に手出しはしないだろうから」
「……少し前まで敵だった勢力の総本山に来て、敵の頭が復活しかけているというのに、生憎と私にはどうにもする気がないのだ」
「ま、あんな化け物に遭遇したらそういう気分にもなるさ。……今はあれだけど、落ち着いたら色々情報共有しないとね」
ディルトーネの視線が俺を向いている気がした。そういえばディルトーネはメフィストフェレスのところへ向かったのだったか。……聖女による英雄の異世界召喚、ディルトーネが逃げるような相手、そして異世界からやってきた妹の夕化。これらは全て繋がっていると考えることもできる。ということはディルトーネに俺が異世界から来たということがバレてしまったと。
別に、どうでもいいか。
「ああ、そうだな。ところで今から向かうのはどういった場所だ?」
「あたし達の居城、通称魔王城だよ。ここの住人以外は招かれることなんて滅多にないんだ、喜んでいいよ?」
「……そ、そうか」
それからしばらく歩き回って、ようやく魔王城に到着した。人気のない道を通っていたようだが、それからはそこかしこに気配を感じる。警備も厳重なようだ。
その後、更に歩いて遂にディルトーネのレヴィアが足を止めた。
白いカーペットが中央に敷かれた、荘厳な扉の先にある巨大な一室。
そこにいたのは相当な強者達。おそらく魔王軍の幹部だ。
「よくぞここまで連れてきてくれましたね。ディルトーネ、レヴィア」
「あたしはあたしの役目を果たしただけさ」
「この程度のことで私を出向かせた罪は重いわよ」
奥の玉座隣に控えた糸目の女性が丁寧な口調で告げて、二人が返事をする。そのまま二人は左右に分かれて、玉座前の左右に整列した中に並んだ。
「それでは全員揃いましたので、魔王様をお呼びします」
「……チッ。やっぱりバルメイザの野郎、死にやがったか」
「ええ。『憤怒』が空席になったことは確認済みです。それも含めて、魔王様のお話を伺いましょう」
男が苛立ちを露わにして言うと、肯定の声があった。場の空気が少し重くなる。
「ではお出でください、魔王様!」
玉座の隣に立つ女性が手に持った錫杖を強く床に叩きつけた。澄んだ音が室内に響き渡り、いよいよ魔王との謁見が行われるのだと生唾を呑み込んでいる者もいた、のだが。
「…………」
魔王様とやらは一向に現れる気配がなかった。
「あ、あれ? ま、魔王様は?」
「もしかしてまだ外出中かい?」
「ちょっと、ちゃんと誰かついてなさいよ。あのお転婆は、もう……」
戸惑う女性に、いなかった二人が言う。他の幹部も戸惑っている様子だ。
「……えーっと、どうしましょうか。魔王様がいらっしゃらないとなると一旦解散に……。あ、いえ。一応意思確認だけはしておきましょうか」
戸惑う女性は穏やかな笑みを浮かべたままだったが、切り替えることにしたようだ。彼女の意識が俺を向くのがわかった。
「あなた方をここに連れてきたのは、新たな魔王軍幹部を確保するためです。――クレトさん。あなたに、魔王軍幹部となる意思はありますか?」
尋ねられて、俺は答える気にならなかった。
「……あのー……?」
何度呼びかけられても答える気にはなれない。魔王軍だとか勇者だとか、どうでも良かった。
「やっぱり私はこの男に価値を見出せないわ。バルメイザには悪いけど、追い返すべきよ」
「待ちなって。向こうで色々あったみたいだし、ここは時間を空けるべきだよ。丁度魔王様もいないみたいだし、日を改めるってのはどうだい?」
レヴィアがキツく断言し、ディルトーネが窘める。
「そ、そうですね。タイミングが悪いようですし、ここは一時解散としましょう。クレトさんと魔王様が揃った時にまた、話をするということで。…………はぁ」
女性はディルトーネの提案を受け入れて、最後に小さくため息を吐いていた。苦労人気質なのだろうか。今は、なんでもいい。
本当にその場はお開きとなり、俺達は広い魔王城に個室を与えられた。
「……今は、独りにさせてくれ」
俺はなにもやる気がせず、それからずっと部屋に閉じ籠っている。ディルトーネが回収した中にはPCもあったが、アニメを観る気にもなれなかった。ただベッドに寝転がって、天井を見つめてぼーっとする。眠気がしたら寝る。そんな自堕落な日々を送っていた。
途中に訪ねてくるヤツにも、反応する気すら起きなかった。食事も、食欲がないと言って全て断っている。
無気力に過ごしている内は、わざと思考を回すこともしなかった。なにも、する気にならなかった。
「……――ト」
だが、ある日のこと。
「クレト」
眠っていた俺を呼ぶ声が聞こえてきた。しかも仰向けに寝ている俺の真正面からだ。しばらく放っておいてくれと頼んだはずだが、勝手に部屋へ入ってきたヤツがいるらしい。
「……メランティナか」
俺が目を開けると、栗毛色の髪と瞳をした女性が目に入った。だが服装が扇情的なピンクのネグリジェだ。彼女は寝ている俺に覆い被さるような体勢だ。
「ええ。おはよう、クレト。起こしちゃってごめんなさい」
「……なんでここに?」
「クレトの様子が心配で見に来たのよ。飲まず食わずで一週間。心配するのも当然でしょ?」
「……なら、平気だ。見ての通り死んでない」
「死んでなくても、今のクレトを見過ごせるわけがないわ」
「……放っておいてくれと言っただろ」
「放っておいたら解決するの?」
彼女の問いに、俺は答えられなかった。答える気がなかったわけじゃない。
「ほら。独りになる時間が欲しいのもわかる。食欲が湧かないのもわかる。でもクレト、このままなにもしない気でしょ?」
図星だった。俺自身、前のように過ごしたいとは思えなくなっていた。独りで考える時間が欲しかったわけじゃない。もう、なんでも良かった。
「だから、私はここにいるの」
「……お前に、なにができる?」
心なしかキツい口調になったかもしれない。だが、それも当然だった。
俺がこれまで強くなってきたのは、もしかしたらあの夕化にもう屈しなくていいと思いたいからだったのかもしれない。しかし全ては無駄だった。俺は、異世界に来て力を手にしてもあいつには敵わなかったのだ。そして、なにをやっても勝てないことがわかった。
おそらくそれが、俺を今の状態にしている要因だ。
「私にもできることくらいあるわ。ようやく、助けてもらったお礼ができるわね」
しかし、メランティナはむしろ嬉しそうに微笑んだ。どういうつもりなのか全くわからない。
「……なにができるって言うんだ? 俺に、なにをするつもりだ?」
「簡単なことよ。あの子の、クレトの妹のことを否定できる」
「……?」
返ってきた答えはイマイチ要領を得ない。夕化を否定したところで、なんになる。それであいつが死ぬのか?
「ねぇ、クレト。クレトがその、本番を避けてるのもあの子のせいなんでしょ?」
聞かれてすぐに目を逸らしてしまう。
「やっぱり」
だから肯定だとバレてしまった。
確かに、彼女の言う通り。俺はあいつが原因で、踏み切れない。どうしても頭に過ぎってしまう。恐怖が湧き上がり、吐き気を催してしまうのだ。
「はっきり言っちゃうと、私怒ってるの。……あの子の愛は歪んでる。本物じゃない。それなのに、クレトに押しつけてる」
メランティナが眉を寄せる。
「……お前に、なにがわかるんだよ」
たった一回しか会っていないヤツに知った口を利かれたくはない。ただ、間違っていないことも理解はしていた。
あいつとのことを持ち出されると、どうしても自分のことに繋がってしまう。だからあいつを知ることは俺を知ることに通じている。それが、嫌だった。
「わかるわよ。だって私は、本物を知ってるもの」
メランティナは右手を胸の真ん中に当てる。……そういや、そうか。俺達の中ではっきりとそういう経験があるとわかっているのは、メランティナだけだ。
「だから、私が教えてあげるわ。クレトに、本物の愛を」
妖しく微笑んだ彼女だが、理解できない部分があった。
「……話が繋がってないんだが」
「そんなことないわ。だって私、あなたのことを愛しているもの」
しかし俺の反論は呆気なく、一つの告白によって打ち砕かれることとなる。
なにを言えばいいかわからなくて、視線をあちらこちらに泳がせた。
「……ただの勘違いじゃないのか」
「それはないわ。言ったでしょ? 私は本物の愛を知ってる、って」
精いっぱいの言葉も呆気なく粉砕された。……ああ、クソ。人生の経験値が違いすぎるか。
「だから私が教えてあげる。本物の愛を。これからする行為が、クレトの知ってるようなモノじゃなくて、温かくて幸せなモノだってことを」
俺を見下ろす彼女の顔が、やや獲物を狙うようなソレに変わる。
「……」
「ふふっ。今のクレトなら、拒みも受け入れもしないでしょ? だから勝手に、私が教えてあげる。時間はたっぷりあるんだから、じっくりとね」
俺が言葉を返せないでいると、メランティナはそっと顔を近づけてきた。……全く以ってその通りだ。断る気にも、積極的になる気にもなれなかった。どちらでも、変わらないと思っていた。
それから、どれくらいの時間が経ったのかは正確に覚えていない。多分メランティナが来るまでと同じくらいの日にちが経過したような気がする。
「……」
本当に長い時間、じっくりとメランティナの愛とやらを教えられてしまった。結局本番まではしなかったが。というよりほとんどが肌の触れ合いだけで終わったと言っていい。俺が知るそれとは全く以って違った。
「……メランティナ」
「? なぁに、クレト」
仰向けに寝転ぶ俺の上に彼女が乗る体勢で、休憩している最中だ。互いに裸で折り重なっていると、メランティナの体温がよく感じられる。興奮状態にはあるようで、体温が高くなっているらしい。
「……俺の、負けだな」
「えっ……?」
俺は素直に敗北を口にした。だが、後ろ向きな感情はあまりない。むしろ前よりマシになった気分だ。
正直な話、俺は夕化のせいでこういった行為自体に意義を見出せなかった。逆に嫌悪していたくらいだ。ただ痛くて苦しいだけの行為なら、そう思うのも仕方がない。
だが今は、少し違う。メランティナと触れ合って感じる体温が、心地良かった。嫌じゃないと思ってしまった。思わされてしまった。
「……ありがとな、メランティナ」
言って上に乗っている彼女の背に腕を回し抱き締める。
「っ……」
「……おかげで少し、わかった気がする」
こんなこと、以前の俺では考えられなかった。
「……だから、続きは俺からするな」
「えっ? つ、続きって……きゃっ」
俺はメランティナと上下を入れ替えて、俺が彼女に覆い被さるような体勢になる。真っ赤になった驚き顔が目の前にあった。
「く、クレト……」
「……まだ多分、下だと無理だから。俺が上なら大丈夫だと思う」
「で、でも、ホントにいいの?」
「……ああ。俺にできることはこれくらい……いや、俺がこうしたいんだ」
「っ……!」
少し上体を起こす。そのせいか、メランティナの視線が俺の身体の下の方に移動した。
「……もちろん、嫌ならやめるが」
「嫌じゃない。嫌なわけない……!」
俺が言うとメランティナは勢いよく首を左右にぶんぶんと振る。
「嬉しい、凄く嬉しい……うん。クレト、来て」
それからメランティナは嬉しそうに微笑んで俺の方に両手を伸ばして、迎えるような仕草をした。
「……ああ」
「もっとたくさん、愛を教えてあげる」
俺はメランティナに導かれるままに、と言うよりもやや自分から彼女と交わる。
やはりと言うか彼女なりに我慢していたらしく、その反動で満足するまでに更なる時間を費やしてしまったが、悪くなかった。いや、俺が知るモノと比べたら天国と地獄ほどの差がある。
そもそも早く終わらせたいから気持ち良くさせるのではなく、気持ち良くなって欲しいからすると思えること自体が初めてのことだった。
その後折り重なって眠った時、あの日からずっと見ていた夕化との行為の夢は見なかった――。




