「犯人は大野君じゃない?」と君は推理した
僕は頭の中で膨らんでいく疑惑のため、各会場を巡回することが面倒くさくなってきた。できればどこか静かな場所で、この疑惑を解明するためにゆっくりと考えたかった。しかし会場係としての仕事があるし、午後一時三〇分からはクラスの企画に参加しなければならなかった。
僕のクラス、3―Dは体育館のメインステージで演劇をすることになっている。演目はなぜか『夕鶴』だ。クラスの女子たちが高校生活の思い出に文化祭ではちゃんとしたものをやりたいと熱望し、消極的な男子たちを押し切って決めたのだ。
僕は文化祭実行委員なので、クラス企画では負担の少ない照明係ということになった。もう一人の照明係はヒグチで、これは僕とペアだったら彼も逃亡することはないだろうというクラスの奴らの戦略だった。(その戦略は効を奏した)
照明係は文化祭間近に迫ったステージリハーサルの日の一回だけ、当日の器具を使って練習をした。いい加減であるといえばいい加減、大胆であるといえば大胆である。もっとも照明の演出効果はほとんどなく、見せ場といえば妻に去られた夫が上手から下手にとぼとぼ歩いていく最後の場面のフェードアウトくらいのものだ。
メインステージ企画の観客は実はそれほど多くない。クラスの合唱発表やバンドのライブはより、声楽部のコーラスや吹奏楽部の演奏の方が完成度の高さゆえ観客(聴衆)が多い。ところが僕のクラスの演劇発表は体育館の座席が観客ですべて埋まっていた。素人なのに真剣に劇をやるということが、多くの生徒たちの関心になり興味をひいたらしい。
実際、クラスの奴らが真剣に演技をやればやるほどある種の滑稽さがにじみ出て、観客の笑いを誘った。とくに劇の終盤に数人の男女が貧しい童の格好をしていきなり登場してきたとき、会場は大爆笑だった。この場面自体は別に面白い場面でも何でもないのだが、いつもちゃんと制服を着ている三年生が天才バカボンのような格好で突如出てくると、インパクトがあったようだ。
ともかく僕のクラスの出し物は、観客の大きな拍手とともに無事終わった。僕はヒグチと別れて体育館から出て行こうとしたとき、誰かが僕の右肩を軽く叩いた。
「お疲れさん、すごくよかったよ」
君は自分のことのように嬉しそうたった。
「そう? でも僕は照明係だし」
「あらっ、照明係だって大切な役割でしょ」
「うん、まあ、そうともいえる」
僕は歩きながら、再び達也の言った言葉が少しずつ頭の中に響いてきた。
「河村君、どうしたの? 疲れた?」
「いや、そうじゃなくて、ちょっと考えごとがあって」
「文化祭を妨害している犯人のこと?」
「うん、そうだけど」
「ねえねえ、その件について捜査会議しようよ! 会場係として」
君は例のごとく悪戯っぽい瞳を輝かせて提案した。
「そうだなあ、うん」
「じゃあさあ、ここに行かない? 私、食券があるんだ」
君はポケットから黄色い食券を二枚取り出した。『和を極めた喫茶!』と書かれてあるその食券はぜんざい用のもので、香織のクラスが企画運営していた。
(ゲッ!) 僕はドーナツは好きだけど、ぜんざいは大の苦手なのだ。あのあんこのような粘りつく甘さが耐えられない。ぜんざいを食べると舌の周辺と頬の奥がむずむずしてきて、その辺りが妙に軽くなるような痒くなるような感覚になりとても気持ちが悪い。
しかし君の表情を見ていると明らかにぜんざいが好物らしく、当然僕は君の誘いを断ることはできなかった。
『和を極めた喫茶!』(しかしなんてセンスのないネーミングだろう)は調理室を会場に使っている。この店もかなり人気があり席はほぼ満席だ。
僕は香織がいないことを願っていたが、運悪く妹は目ざとく僕たちを見つけて空席に案内した。六人掛けテーブルの角の座席が二つ空いていた。僕らは角を挟んで座席についた。
「お客様、食券をお渡しください。なければ、こちらのメニューからお選びください」妹はニヤニヤ笑いながら説明する。失礼な奴だ!
「香織ちゃん。ハイ、これ。ぜんざい二つお願いね」
「ぜんざい二つですね。かしこまりました」
香織は「ぜんざい」のところをやけにアクセントをつけて言った。あいつは僕がぜんざいを大の苦手にしていることを知っている。だから僕を見て面白くて仕方がないが必死に笑いを我慢している。朝の事件ではあれほど真剣で深刻な顔をしていたくせに、今はそんなことがなかったかのように楽しんでいる。どうしてこんなに簡単に感情のチャンネルを切り替えられるのだろう? これだから女の子はわからない。
「はい、どうぞ」
僕の目の前には君が入れてくれたお茶が置いてあった。薄茶色の湯飲みから香ばしい番茶の香りが立ち昇っている。僕はそのお茶をゆっくりと味わって飲む。美味しい! 家で飲むお茶と全然違う。僕がその感慨にふけっていると、君はいつものように僕の目を覗きこむように訊いてきた。
「ねっ、ねっ、河村君が考えている犯人像ってどんなのかな?」
「うん、さっき友だちとそのことで話したんだ。犯人はポスターやボランティア部の展示物を破ったけど、文化祭自体を攻撃しているんじゃないのかもしれない」
「ふーん、それってどういうことなの」
「文化祭というイベントがターゲットじゃなくて、文化祭に関わる人間がターゲットだということ」
「でも文化祭に関わる人間って、だいたいみんな関わっているよ」
「うん、これは僕の勝手な推測っていうか勘だけど、犯人は実行委員会をターッゲットにしているような気がする」
「えっ、私たち?」君は驚いて目を丸くし、自分の顔を右手で指差した。
「それも実行委員の誰かを」
「でもさ、実行委員会の仕事って地味なことばかりだよ。宣伝物をつくったり、広告をとりに行ったり、パンフレットをつくったり。目立たないし結構大変だし」
君は両腕を組み眉間に皺を寄せてしかめっ面をした。本人はいたって真剣に考えているのだけど、四十五度の角度で対面している僕はその表情の変化が面白い。
「お待たせしましたぁ」
僕らの話を割って入るように、香織がぜんざいの入ったおわんをテーブルの上に置いた。
「あつーい、あまーいぜんざいでございます」
妹は僕の顔を見ながら笑いをこらえながらそう言った。
「香織ちゃん、ボランティア部のほうは大丈夫?」
「あっ、ありがとうございます。みんなで書き直したり、展示物を貼り替えたりして、何とかやれそうです」
「そうーっ、よかったねぇ」君はそう言いながら、黒いおわんに口をつけた。
「しっかし、どうしてあんなことできるのかなあ。葵先輩! 犯人って性格歪んでいると思いません?」
「絶対歪んでいる、歪んでる! 許せないよ、ねぇ。あっ、このぜんざい、すっごく美味しい」
「評判いいんですよ。お兄ちゃんも大好きなぜんざいをたくさん食べてね」
僕は香織に目で(早くあっちへ行け!)と言った。女子同士の話は脈絡がないし延々と続きそうで怖い。
「それじゃあ、お二人様ごゆっくり」香織は僕の冷たい視線を軽く受け流しテーブルを離れていった。僕は香織が調理場に入って行くのを確認し、意を決し箸をとりぜんざいを口にした。甘ったるい液体が舌を通過した瞬間、僕の腰の辺りからむず痒いような悪寒が背中に這い上がった。
「河村君、寒いの?」
「えっ、どうして?」
「いまブルッて震えたようだから。それに顔色もあまりよくないようだけど」
「いや大丈夫だよ。ちょっと疲れ気味かもしれないけど」
「そう、大丈夫?」
君はそう言うと、まだ腕組みをして何事か考えた。そして美味しそうにぜんざいを口にふくみよく味わって食道を通過させた。それからお茶を飲むと一息つき、携帯電話をスカートのポケットから取り出した。
「河村君、これ見てくれる」君は若干声をひそめて携帯電話のディスプレイ画面を僕に見せた。
『お前のつきあっている男は変態だ! レイプ魔だ! 人殺しだ!』
メールの受信ボックスには角ばった無機的な文字でそう書かれていた。僕はびっくりして君を見た。
「昨日の夜遅くに、このメールが届いたの」
「何だよ、これ。ひどい! 許せない。このメール出した奴はわからない・・・・・・よね」
僕の頭部に急に大量の血液が流れていくのを感じた。怒る=頭に来るということは事実だった。けれども君は意外に冷静だった。
「うん、これはなりすましメールだと思う。知らないメアドだった」
「ショックだった?」
「ううん、メール見たときは驚いたけど、私、こんなの見てもあまり動揺しないタイプなんだ。なんだーぁ、こいつ! って頭にきちゃったけど」
「あれ、このメールは、ひょっとして文化祭を妨害している奴?」
「うん、そう思うでしょ、河村君。私もボランティア部の落書きを見てそう思ったんだ」
ポスターを×印で切り刻み展示物に落書きしメールで中傷した一連の行為の中に、僕らは共通した歪んだ悪意を感じた。
僕はそんなことを考えながら、無意識のうちにぜんざいを口にしてしまった。するとまたもや悪寒が全身を駆け巡り一瞬身体が小刻みに震えた。だから急いで湯飲みのお茶を飲み干した。その様子を君は不思議そうにじっと見ていた。
「河村君、ひょっとしたらぜんざい苦手じゃないの?」
「いや、まあ、あまり好きじゃないんだ。実際」
「ホントは大嫌い?」
「そうとも言える」
僕の返事に君はいつものようにクスクス笑い出した。
「ゴメンね、無理に誘って。しかし香織ちゃんもよく言うよね。ねっ、じゃあ河村君のぜんざいも私食べていい?」
「でも、口つけたよ」
「フフッ、いいの、いいの」君はニコニコしている。僕はそんな君を見ていると、女の子の大胆さを感じたりする。
「でもさ、さっきの河村君の話だとさ、犯人がターゲットにしているのは私じゃないかなあ」
「えっ、どうして?」
「だってポスターをつくったのは私と宮田さんだし、ボランティア部も弟との関わりがあるし、嫌がらせのメールは来るし」
「うーん、だけどポスター製作者が秋山さんと宮田さんってこと知っている人間は限られているだろ」僕は思案にくれ、君も数学の難問を解いているような表情を浮かべた。
「だけど、どうして秋山さんのメールアドレスをそいつは知っていたのだろう? ケータイのメアド、そんなに周りに知らせてないよね」
「うん、ごく親しい人しか知らせてないよ。アッ!」
「うん」君が驚くのと同時に僕も頷いた。
僕らのケータイのメールアドレスは文化祭実行委員会のメンバーは全員把握しているのだ。大野がお互いにすぐ連絡が取れるようにと連絡先の一覧をつくり、そこにはケータイの電話番号とメールアドレスが記されている。(無神経な奴だ!)
そして実行委員会の人間はポスターを描いた人が誰かということを当然知っている。
「ねえねえ、河村君」
君はなぜか身体を丸くして、つまり極端な猫背になって声をひそめて言った。(どうやら縮こまって何者から隠れているつもりらしい?)
「犯人は大野君じゃない?」
「エッ!」
僕の反応に君は人差し指を口元にもっていき「シーッ」とまたもや声をひそめて辺りを見回した。僕は君がひょっとすると推理小説マニアではないかと疑った。
「だって大野はあれでも実行委員長だよ」
「河村君、犯人はもっとも犯人らしくない人間ってことはよくあるじゃない」
「なるほど」僕は相槌を打ちつつ、君が推理小説マニアもしくはサスペンスドラマファンであることの疑惑をますま深めた。
「それに」
「それに?」僕は話の続きを待っていると、君は急に顔を赤らめた。それから僕を見て何か打ち消すように右手を自分の目の前で小さく振った。
「いや、べつに何でもないわ。ともかく私は大野君が怪しいと思うんだ」
君はそう結論づけると僕のおわんをとって「エヘッ」と笑った。僕は急須から番茶を自分の湯飲み茶碗と君の湯飲み茶碗に入れながら、大野犯人説を考えた。確かにその可能性はあると思いながらも、頭の隅に釣り針がひっかかっているような違和感は消えなかった。




