屋上でヒグチと遭遇する
受験生という立場は不安定で、だから僕は時間が経つのが速いような遅いような曖昧な感覚で生きている。受験勉強をしているときは時がゆっくりと進んでいるように感じるが、センター試験まであと何日と考えれば、時の進み具合は速いようにも感じる。
だけど君と出会ってからは、明らかに時間の感覚が変わった。僕は凝縮された手ごたえのある時を過ごしている。密度の濃い時間は速く過ぎ去っていく。
九月も終わりに近づき文化祭の準備も具体的なものとなった。第四土曜日の二十六日は本番一週間前ということで、実行委員の面々はそれぞれの任務を果たすべく登校している。校内には君と宮田さん合作の文化祭メインステージ用ポスターが貼られている。それとともにクラスの出店や文化部企画を知らせる手作りのポスターも掲示されている。
僕たちは午前中、会議室で宮田さんを交えて打ち合わせをした。主に文化部の展示・企画内容と会場設営の留意点の確認だった。各クラス企画についてはおおまかな内容の把握くらいで、こちらですることはほとんどない。
宮田さんは会計担当だが、実質、実行委員会をコントロールしているのは彼女だった。委員長の大野や副委員長、企画部長たちはミーハーで単細胞なのでメイン会場の企画ばかりに目が行っていた。というか自分たちのバンドがいかに目立つだけしか考えていない。だから奴らは当然全体的な視野が欠けていた。そこをちゃんとファローするのが宮田さんで、会計係というより事務局長といった感じだ。
僕は友人のヒグチを通じて宮田さんのことは多少知っていた。彼女はクールな雰囲気と整った顔立ちから下級生の女子生徒からカリスマ的な人気を誇っていた。僕は人気のある人間を信用しない偏狭な心の持ち主だが、宮田さんは違った。彼女は責任感が強くて頭の回転も速くまた柔軟な思考もできる、実行委員会にはなくてはならない存在だったのだ。何でもできる人間って本当に存在する。(大野の奴なんか、いなくていいのだ!)だからその日の打ち合わせも順調に進み、午後からの仕事も明確になった。
昼休みのとき、「食事はどうするの?」と君は訊いてきた。僕の母は平日しか弁当を作らない主義なので(自分の都合でときどき平日もつくらない)「コンビニでおにぎりでも買ってくる」と答えた。
「じゃあ私もそうしよう、宮田さんはどうする?」と君が言った。
宮田さんは「私はいいわ。今からまだやることがあるし。二人で仲良くいってらっしゃい」
宮田さんにそう言われると、二人で行動を共にすることが何だか正しいことに思えてしまう。僕がそのことに感心していると、君はドアを開けて「河村君、行こう」と声をかけてきた。
それから僕らは急ぎ足で校門を出た。すると僕らの上には嘘のように青い、まるでデジタルカメラで映した風景写真のような晴れ渡った秋の空があった。
僕はコンビニでおにぎりを二個とペットボトルに入ったお茶を買い、君はミックスサンドイッチとメロンパンとカフェオーレを買った。
「ねっ、こんなにいい天気だから屋上に行って食べない?」
僕に反対する理由はなかった。
僕たちは無意味にハアハアと息を切らせながら校舎の屋上に駆け上がった。休日の土曜日、屋上には誰もいない。地上から十数メートルしか高度は上がっていないはずなのに、九月の空の色は違って見えた。
「気持ちいいねーっ」
十七歳の少女は両手を水平にまっすぐ広げ、百八十度の空を愛おしそうに見つめていた。雲ひとつない高く青い空は僕を少し感傷的にさせた。
「空が高すぎると悲しくなる」
「えっ?」
「確かビートルズの曲にそんな歌詞があった」
「ふーん」
そうして君は眩しそうにまた九月の空を見上げた。それから僕の方を向いて「ごはん食べよう」と言った。ジョン・レノンもポール・マッカートニーも女子高生の空腹には勝てない。
僕たちは古ぼけた木製のベンチに座り、コンビニのビニール袋からそれぞれの食べ物を取り出した。
「あと一週間だね」
君はミックスサンドイッチを両手に持ちながら小さくため息をついた。
「うん」
僕はシャケ入りのおにぎりを頬張りながら頷いた。
「私、最初は面倒くさいなあ、ヤダなあって思ってたけどだんだん楽しくなった」
「うん」
僕の口の中にはまだおにぎりがある。僕は何故かおにぎりを食べるのに時間がかかってしまう。
「河村君も最初、嫌そうにしてたよね」
「えっ、そうだっけ?」
僕はうそぶいた。
君はフフッと微笑んで、サンドイッチを一口、口に含んだ。それからゆっくりと咀嚼して、カフェオーレの入れ物にストローを突き刺した。そして白いストローをピンクの唇に挟んだ。
「今は楽しい?」
カフェオーレを少し飲んだ後、僕の目を覗くように君は少し小首を傾げた。九月の強い風が君の後ろ髪を一瞬巻き上げる。
「ああ、今は楽しい。委員長はうっとおしいけど」
僕の言葉に君はちょっと困った表情を見せた。
「ごめんね」
急に謝られて僕は驚いた。そしてなぜ君が謝るのか理解できなかった。
「私、大野君と二年の時つきあっていたんだ」
「えっ?」
「でもちょっとの間だけ。ほんのちょっとだけ。つきあってみて、性格っていうか相性っていうかそんなのが全然合わなくて、すぐやめたんだよ」
「うん」
僕らはそれっきり黙ってしまった。
僕はオカカ入りのおにぎりをモグモグと食べ、君はサンドイッチをモグモグと食べた。
僕が君と話しているとき、これほどもどかしい沈黙は初めてだった。君は僕に何か言ってほしいと願っていたし、僕も何か気の効いたことを言わなければと焦っていた。だけど僕の頭には何ひとつ思い浮かばなかった。
ふと見上げると空の真ん中をジェット機が横切っていた。糸を引く白い飛行機雲が少しずつ膨らんでいる。君も同じように空を見上げ白い飛行機雲をその瞳に映した。
「せっかくのピーカンなのにね」
「雲ができちゃったな」
君は何か楽しいものを見つけた子どものような顔で僕を見た。僕は窒息しそうな人間が新鮮な空気を吸ったように、呼吸が楽になった。
「じゃあさあ、実行委員会で大野を見たとき困ったんじゃない?」
「そうなの。実行委員させられて、大野君と顔合わせなきゃならないなんてダブルショック!」
「秋山さんもいろいろあるんだ」
「そうよ、河村君。女子高生はミステリアスなのよ」
「ふむ、確かに」
僕は実感をこめて頷いた。君は何がおかしかったのか、また目を細めて笑った。
「私ね、バイトとか弟の世話とか結構忙しいから、これまで高校の授業だけで精一杯って感じだった」
「うん」
「でも。文化祭の会場係やってよかったと思う」
「うん」
僕はそのとき思った。君は僕と同じ十七歳だけど、僕よりもいろんな辛いこと悲しいことを数多く経験してきたんじゃないかと。だから君の優しさは僕の胸に深く染み入り、君の澄んだ瞳の色は時として僕をどうしようもなく不安にさせる。
「アーッ!」
少し離れたベンチから大きなダミ声とともに、ボサボサ頭の男が背伸びをして起き上がった。
「ヒャ!」
君は驚いて僕の腕を反射的に掴んだので、僕の心臓も飛び上がった。
「ファーッ!」
その男はまだ眠たそうな声で大きなあくびをすると、骨ばった指で顔をゴシゴシと擦り始めた。それからまた「ファー」とあくびをした。
「ヒグチ!」
「おう、真一、デートかあ」
寝ぼけた僕の友人はつまらなそうに答えた。
「なんでお前がここにいるんだよ」
休日にヒグチが学校にいるなんて信じられなかった。こいつは授業のある平日でも、勝手に山に登ったり森にこもったりする変人なのだ。
僕と秋山さんはヒグチの寝そべっているベンチまで歩いて行った。
ヒグチも身体を起こし、「ンー」と呻りながら両肩をグルグルと回した。それからようやくベンチにあぐらを組んで座った。
「俺は部活だよ、自然環境部の。ほら文化祭の展示の準備だ」
「自然環境部? そういえばお前そこの部員だったなあ」
「そうだ、今年、宮田遥に強引に入部させられたんだ。部員が減って潰れそうだから」
こいつは、あの宮田さんとなぜか仲がいいのだ。
「文化祭の準備って何したんだよ」
「俺はときどき山とか行って、大きな木と話をするだろ」
「ああ・・・・・・」
「それで、遥がその木の写真とかを撮って来いって言うんで、撮ってきているわけだ」
「ああ」
「で、俺の素晴らしい写真を今度文化祭で展示する」
「へえー、なんか素敵な写真みたいですね」
君は好奇心いっぱいでヒグチに尋ねたが、僕は半信半疑だ。
「えっと、キミは?」
僕は内心「ゲッ!」と叫んだ。ヒグチが他人のことを「キミ」と呼んだことを聞いたのは、こいつと知り合ってから初めてのことだった。
「あっ、私、3―Bの秋山葵。河村君と同じ文化祭の会場係です。よろしく」
僕は君の流暢な自己紹介に感心する。まるでモーツァルトのメロディラインのようだ。
「はーっ、キミが秋山さん。フムフム」
ヒグチは秋山さんと僕を交互に見ながら、一人で何か納得したかのように何回も頷いていた。僕と秋山さんは顔を見合わせ、目の前の野人の意味不明の行動に首をひねった。
「キミのおかげでネクラで陰険な真一も、人並みに明るくなったわけだ。フムフム」
相変わらず失礼な奴だが、君はクスッと小さく笑った。
「オッ! バイトの時間だ。じゃあな」
ヒグチはそれだけ告げると、さっさと屋上から降りていった。あいつの行動はいつもこんな調子なので、僕はもう慣れてしまったけど、君はあっけにとられポカンとしていた。
「あれがヒグチ君かあ」
君は珍しい動物を見たかのように呟いた。確かに奴は珍しい動物ではある。
「変な奴だろ。悪い奴じゃないけど」
「うん面白い人だねぇ。でも河村君はヒグチ君と友だちなんでしょ。スゴイね」
僕は何がスゴイのかよくわからなかったが、「そうかな」とだけ答えておいた。珍獣を手なずけている人間は評価されるのだろうか?




