妹は未知の生物?
その日の夜、僕は自分の部屋でFM放送のクラシック番組を聴くとはなく聴いていた。おそらくモーツァルトの室内楽だ。モーツァルトの楽曲についてはそれほど詳しく知っているわけではない。だけど何となく彼の作品だとわかってしまう。なぜだろう?
しかし今はそんなことはどうでもいい。机の上に広げてある英語の問題集の英文も目の網膜に映るだけで、脳の中まで到達していない。僕はまだ君と話したミスタードーナツの店内にいるようだった。(君との帰り道の記憶は曖昧だ)
コンコンとドアを叩く音がした。
「いいよ」と声をかけると、白いトレーを持った妹の香織が入ってきた。トレーの上にはミルクティーが入ったカップが二個あった。
「お兄ちゃん、はい、これ」
香織は僕の緑色のマグカップを机の上に置くと、自分はベッドに腰掛けてミルクティーを飲み始めた。紺色のトレーナーとグレーのトレーニングパンツというシンプルな格好だが、最近やけに女っぽくなったようで、同じ部屋にいると何となく照れくさい。妹はそんな僕の心境の変化などお構いなしに、居心地がいいのかよくこの部屋にやってくる。
香織はごくっとホットミルクティーを一口飲むと、意地悪そうな上目使いで僕を見た。そして何やら妙な笑みが彼女の口元にはりついている。二歳年下の妹の視線を受け、なぜかゾゾゾゾーッと背中に悪寒が走った。
「お兄ちゃん、今日ミスドでデートしてたでしょ」
思いもかけない妹の言葉に、僕は危うく口に含んだミルクティーを噴き出しそうになった。しかし目を白黒させながらも、なんとか我慢した。
「あれは文化祭の会場係の打ち合わせだ」
「ぷぷっ、ウソだぁー。でも葵先輩って可愛いよね。お兄ちゃんもなかなかやるじゃん」
勘の鋭い妹は僕の言葉など信じていない。
僕にとって女子高生は未知の地球外生物のように理解不能だ。秋山さんしかり、妹の香織しかり。
「香織は秋山さん、知っているのか?」
「うん知ってるよ」妹は足をブラブラ揺らせながらミルクティーを飲みつつ、あっさりと答えた。
「どうして?」
「お兄ちゃん、葵先輩って偉いんだよ。優しくしてあげなきゃ、ダメだよ!」
「はっ?」最近、僕にとってわからないことが、やたら増えているような気がする。
「私、ボランティア部でしょ。それで特別支援学校を訪問したり、障がいのある人といっしょにイベントとかやっているわけよ。葵先輩の弟君、特別支援学校に通ってるんだよ。体の麻痺がきつくて、介助とかかなり大変なんだよ。それにお父さんとお母さんいないし」
「そう・・・・・・かあ」
僕の脳裏にミスタードーナツの店で楽しそうにしている君の顔が浮かんだ。君はクラスの友だちのこと、文化祭の準備のこと、そしてアルバイトで体験した面白いことなどを僕に嬉しそうに話していた。だけど君の家庭の話になったとき、一瞬その澄んだ瞳が少し困ったように曇ったことも思い出した。
僕はまだ、本当に君のことを何も知らないのだ。
僕はかなり深刻そうな表情を浮かべていたのだろう。手にしたマグカップにはミルクティーがほとんど残っている。
「でもお兄ちゃん、最近いい感じよ。人並みに青春しているみたいで」
香織は重い沈黙を嫌がるように言い放った。
「なんだよ、その人並みに青春してるって」
「だってお兄ちゃんの友達って、石川君とかヒグチとか変人ばかりじゃない。他の子みたいに部活動やるとか、ぱっと遊びに行くとかしないでしょ」
「うっ」返す言葉がない。
石川は通信制のサポート校に通っている活字中毒者で、学校が終わると図書館で本を読んでいるか、ブックオフでバイトをしている。ヒグチは僕の同級生でバイトの金が溜まると寝袋を抱え山とか森に行って、巨木と会話している奴だ。(本人が『俺は木と話ができる』と言っている)
そう言われてみれば確かにユニークな奴らだが、僕から見れば香織だって変わっている。
妹はファッションにやたらうるさく、ロングヘアーを茶色に染めている。爪も透明なマニュキュアで光らせているし、眉も整えるために毎晩鏡を見ながら入念にチェックし処理している。もちろん両耳には銀色のピアスが光っている。制服のスカートはかなり短めで、それから毎月何冊もファッション雑誌を購入し熟読している。一般的に見ればチャラチャラしている派手目の女子高生だが、障がいのある人や老人、小さい子どもには大変優しい奴なのだ。石川やヒグチに対してもどちらかといえば好意的で、とくに石川には優しいような気がする。
「前はお兄ちゃん学校で見ると、つっけんどんで、近寄るな、あっち行けって雰囲気だったけど、今はなんだか表情がやわらかくなってるもん。葵先輩は偉大だなぁ」
「まあ秋山さんとはたまたま文化祭の係がいっしょで、話しやすいし」
僕は香織に一方的に言い負かされているのが癪で、素直になれない。もっとも二歳年下の妹に十七歳の男が自分の心情をべらべら喋れるはずもない。
「お兄ちゃん、物事には必然の流れということもあるのよ!」
「うん?」なんだか今夜の香織は妙に偉そうだ。
「お兄ちゃんはたまたま偶然に、葵先輩と仲良くなったと思っているでしょ?」
「ああ、そうだろ」
「ぷぷっ、男の人ってどうして単純で物事が見えないのかなぁ」
香織は僕をまるで年下の男の子のように見下し、ニヤニヤ笑っている。
「なんだよ、その変な笑いは。言いたいことがあるなら言えよ」
「お兄ちゃん聞きたい?」妹はとても楽しそうだ。
「別に」
「ホント?」
「まあお前が話したいのなら、聞いてやるけど」
「じゃあ言ーわない! お兄ちゃんにとってはいい話だけどなあ」
女子高生という生物は意地悪で残酷だ。この生意気な妹に対して兄として威厳を保ちたい気持ちもある。けれども僕の脳裏に君の少し悲しげで澄んだ瞳が浮かんできた。
「聞きたいんだけど」
君の事を想うと兄としてのプライドはいとも簡単に砕け散った。
そして目の前の香織は満足げな笑いを浮かべた。
「お兄ちゃん、これまで葵先輩のことほとんど知らなかったでしょ?」
「ああ」
「だからといって、葵先輩がお兄ちゃんのこと知らないとは限らないのよ」
僕は嫌な予感がして香織を睨んだ。
「香織、お前が僕のこと、いろいろと秋山さんに話したのか!」
妹は兄の言葉に全く動じずまたもやニヤニヤ笑っている。
「お兄ちゃん、それって自意識過剰じゃない」
「じゃあ何で秋山さんは僕のこと知っているんだ?」
「お兄ちゃんは自分のことで一生懸命になると、周りが見えなくなるタイプでしょ?」
「まあ・・・・・・そうかもな」(人間そんなもんだろう)とも言いたかったが、兄としてそして年長者の威厳を保つため、その言葉は飲み込んだ。
「ところでお兄ちゃん、以前バスの停留所で盲導犬を連れた女の人といっしょだったことあるでしょ」
「うん?」
香織が突然何を言い出したのか、僕はわからなかった。だが確かにそんな場面はあったと記憶している。それは今年の春のことだった。
「そのときお兄ちゃん、その目の不自由な女の人がちゃんとバスに乗れるか心配していたでしょう?」
そういえば、そのようなことがあった。僕は記憶の糸を辿ると、徐々にそのときの光景が頭の中に甦ってきた。
僕はそのとき何となくその女の人と盲導犬が気になっていたのだ。なぜかというとそのペアからぎこちない印象を受けたからだった。盲導犬は新米のようで、女の人もその犬になれていない雰囲気だった。だからそのペアがちゃんとバスに乗れるか確認できるまで、僕は自分の乗るバスが来てもそれに乗らずにバス停留場にとどまった。
「その女の人をちゃんと案内してあげたのでしょ。で、その場所に葵先輩がいたの気づいた?」
気づかなかった。聖徳太子じゃあるまいし、そんなの気づく余裕なんてあるわけない。
「それで私が夏休みに、ボランティア部の活動で葵先輩と会ったとき、葵先輩はお兄ちゃんのこと凄く感心していたわよ」
「ふーん」僕は必死で平静さを装った。
「まあ、お兄ちゃんがそういう行動をできたのは、私のおかげだとはちゃんと言っておいたけどね」
「・・・・・・」
「それからお兄ちゃんと変人ヒグチのペアは結構目立っているのよ。野人のヒグチと何考えているかわからない河村のコンビは。お兄ちゃんたちはその自覚はまるっきしないだろうけど」
「ふーん」
「目立っているけど、人気があるわけではないのよ」
「ふん」
「要は変人二人組ということで、異端視されてるだけなのよ」
妹とはいえ、よくもまあ思ったことをズバズバ言えるものだ。
「だから私は葵先輩に教えてあげたの。お兄ちゃんは野人のヒグチだけじゃなくて、繊細で傷つきやすくて読書家の眼鏡がよく似合う石川君とも仲が良いってことも」
ヒグチと石川の扱いがえらく違っているような気がしたが、今はそんなことはどうでもよい。香織としては僕をフォローしたつもりなのだろうか? しかし香織と秋山さんとはこんなところに繋がりがあったとは思いもよらなかった。
「お兄ちゃん! 葵先輩は弟のマコト君の世話も大変だし、親代わりのおじいちゃんとおばあちゃんはかなり年取ってるから、しっかり支えてあげてね。受験生で大変だと思うけど」
「うん、そうだな」
僕は神妙な顔をして頷いた。自分自身に言い聞かせるように。
そんな僕の顔を見た香織はにっこりと笑った。それから空のマグカップをお盆に載せ「じゃあ、おやすみ」と言い、僕の返事を待たずに、さっさと部屋を出て行った。




