文化祭実行委員会
面倒なことが嫌いな僕が文化祭の実行委員になったのは、くじ運が悪かったからだ。各クラスから最低二名は実行委員を選出しなければならなかったが、大学進学を目指している僕には、そんなことは関係のないことだった。
だが僕は昔からくじ運が悪かった。案の定くじ引きをすると、ピンポイントで当たってしまった。二つ隣のクラスの君もどうやら僕と同じように、くじ運が悪かったようだ。
僕が会場係になったのは、企画とか会計とかややこしい係から逃げるためだった。だけど君は文字を書いたり絵を描いたりするのが上手くて、そのために無理やり会場係をやらされてしまった。それぞれの会場を表示するためには、上手い字を書ける人が必要だったし、ポスターや立て看板をデザインする人も求められていた。
でも僕たち二人の仕事は雑用係みたいなもので、いろんな係の人間から指示されると、それに従って動くだけだ。メイン会場の体育館は企画部とか実行委員長とかが嬉しそうに仕切っているし、僕らの仕事は囲碁とか将棋とか地域経済研究部(本当にそんな部があったのだ!)とかのマイナーな文化部の会場の設営と管理だけだった。(一応各文化部の企画運営には責任は負っているけど、ほとんどやることはない)
僕と君は三年生になるまで、話をしたことは一度もなかったと思う。同じ学年だから顔を見たことはあるけど、接点はまったくと言っていいほどなかった。だから二人で会場係になったときは、正直戸惑った。それは君も同じだったのだろう。お互い何をどうしてよいかわからず、なんて話したらよいかもわからなかった。
だけど同じ作業をしていくうちに、君が意外と悪戯好きでしかも芯が強くて、とても素敵な笑顔を持っていることに気づいた。だから最初は嫌々文化祭の仕事をしていた僕が、文化祭準備を嬉しそうにするようになった。もちろん他の奴らには気づかれないようにしたけど。
それから会議では同じ係なので当然のように君は僕の隣に座る。そのとき僕は僕の心臓の鼓動の音を聴く。そして君が僕の隣に座っていることを確かめると、僕は幸せな気分になる。幸せ? そう、いつも乾いて冷たい風が吹いていた僕の胸が、満ち足りることが本当にあったのだ。いくら模擬テストでよい点をとったとしてもこんな気持ちにはならない。そして鈍感な僕は気づいた。隣に座っている女の子は僕の胸を満たすものを持っていることを。
文化祭実行委員会という会議は、はっきり言ってつまらない。
最初に決めなければいけないのは、いわゆるテーマというやつだ。「仲間」だとか「夢」だとか「今、ことのとき!」だとか定番の言葉をこねくり回して、適当につなげあわせる不毛の作業をする。
交通安全の標語じゃないけど、ほとんどの人間がそんな言葉は気にしてないっていうか無関心だと思う。だけど委員長の大野や副委員長の小杉、企画部長の藤本たちは真面目に考えているようで、「あーだ、こーだ」とか言って騒いでいる。(奴らは下手くそなバンドを組んでいる)
当然僕はしらけて退屈で指の上でシャーペンを回していた。すると隣に座っていた君はつぶらな瞳を少し見開き、嬉しそうに微笑んだ。君は僕の左に座っていたので、右の瞳だけが少し大きくなったように見えた。右の口元も少しだけ上がって悪戯っぽく笑ったようだった。そして君の瞳は茶色く透き通っていて僕はとても驚いた。
僕や僕の友だちの目はどんよりと濁っているけど君の瞳は違う。僕は世の中には普通の目の人間と瞳を宿している人間の二種類が存在することを遅ればせながら発見した。そして君の澄んだ瞳で見る世界はきっと誰よりも美しく見えるではないかと想像するのだ。
全体の討論が終了すると、それぞれの専門部の打ち合わせに移った。だけど会場係は僕と君の二人きりで、この係は大体雑用係みたいなものだからそんなに話し合うことなどない、というかほとんどない。僕らは生徒会室の隅っこの方で目立たないように向き合って座った。二人しかいないけど会場係の責任者の僕は、何を話そうかと思案していた。そのときの僕はかなり困った表情をしていたのだろう。
「ねえ河村君、シャーペンをクルクル回すの、上手いね」(河村真一が僕の名前だ)
君はやわらかな前髪をかき上げながら、悪戯っぽく訊いてきた。
「秋山さん(秋山葵が君の名前だ)もつまらなかったの? さっきの会議」
僕は秘密を打ち明けるように、声をひそめて訊き返した。君はやわらかいピンクの下唇を軽く噛んで、素早くあたりを見回した。そして少し顔を歪めて僕と同じように声をひそめて答えた。
「私、形式的なことって苦手なの。テーマとかスローガンとか、どうでもいいのにね」
僕はその言葉に驚き感心した。色が白くてほっそりと見える君は、おとなしくて従順そうなイメージだったけど、それは女の子に無知な僕の勝手な思い込みだった。(いったい世界のどこに「おとなしくて、従順な少年そして少女」がいるのだろう!)
「河村君、会場の下見ということでこの部屋から抜け出さない?」
君は何か悪だくみをしている少年のような表情を浮かべて囁いた。
「グットアイディア!」
僕はもちろん同意した。
僕たちがこそこそと部屋を出て行こうとすると、委員長の大野が陰険な眼差しで「どこに行くんだ?」と呼び止めた。僕たちは会場係としていろんな場所を下見しておかなければならないと、もっともらしい理由をつけて部屋をあとにした。
僕らはアリバイ的に体育館に向かった。現時点で体育館に行っても当然何もすることない。だけど生徒会室でほかの人間といるより、君と二人でここにいる方がずっと心が弾む。
黄色い西陽が差し込む体育館には、剣道部員の竹刀を打ち込む音やバスケット部員の変ながなり声が聞こえる。僕らは体育館に入るわけでもなく、渡り廊下で壁に背をもたれてぼんやりと佇んでいた。
「毎年、文化祭のとき体育館でバンドのライブがあるけど、河村君は聴いたことある?」
君は西陽が眩しいのか、目を細めながら訊く。
「いや、去年も一昨年も聴かなかった」
「へぇー、やっぱり、そうなんだぁ」
「やっぱりってどういうこと?」
僕は君の言葉に内心少し驚いたが平静さを装った。
「だって河村君ってそんなタイプじゃない気がする」
「えっ、俺って、どんなタイプ?」僕はなぜか嬉しくなってすぐ訊き返した。
「自分の部屋で、クラシックのCDとかを一人でじっくり聴いている・・・・・・バッハとかベートーヴェンとかね」
「それってネクラでオタクっぽいってこと?」
僕の言葉に君は慌てて右手を振った。ピンクの頬も少し赤くなっている。
「違う! 違う! そんなんじゃなくて、河村君って落ち着いてるっていうか、大人っぽいっていうか、そういうことだよ」
僕も慌てて助け舟を出した。
「じゃあ、秋山さんはどんな音楽が好き? 文化祭のライブは聴いたの?」
「ライブは友達が行こうっていうから付き合ったけど、二回とも途中で出ちゃった。だって最初の方はよかったけど、後の方は下手だしうるさいだけだったもん」
君は瞳に例の悪戯っぽい色を浮かべ、ペロッと可愛い舌を出した。
「っていうか私、あまりロックとか激しい音楽わかんない」
「じゃあクラシックとかジャズとかがいいのかな」
「うーん、音楽の授業でときどきクラシック聴かされるでしょ。そのとき私、よく眠っちゃったりするんだ」
「それはその音楽が気持ちいいから眠くなるんだよ」
「えーっ、そうなの」
「退屈な場合も寝ちゃうけど」
「うーっ、どっちなのよ?」
君は笑いながら上目遣いで僕を睨む真似をした。
僕は君の仕草を見て、自分の胸の鼓動がやけに大きく聞こえた。そして女の子はいろんな種類の笑顔をもっていることを発見した。それは高校のテキストにも参考書にもどこにも載っていない、複雑で素敵なことだった。
文化祭の準備は僕の想定外の仕事が多々ある。広告取りもそのひとつだ。文化祭のパンフレットの後半のページにいろんな店の広告が載っているが、その広告取りもしなければならなかった。(つまり広告料をとるということだ)
「大体いつも同じ店とか会社が広告を載せてくれますが、今は大変な不景気なので厳しいところもあるかと思います。だから新規開拓も含めて、与えられたノルマはきっちり守るように!」
会計担当のクールで美しい宮田遥が、珍しくモーレツ営業課長のような情け容赦ない視線を全員に投げかけた。
委員長の大野も「お前ら、文化実行委員会は遊びじゃねーぞ! ちゃんと仕事しろよ」と高圧的に叫んでいる。
「ノルマ達成するまで返ってくるなぁ!」
奴はそう言って僕の方をあざ笑うかのように見下した。彼の隣にいた小杉たちも「河村ぁ、お前大丈夫かなあ」とヘラヘラ笑っている。すると大野が「バーカ。お前らもノルマ達成しなきゃ帰ってくんな!」と居丈高に言った。小杉は驚いて、それから露骨に嫌そうな表情を見せた。どうやら小杉たちは自分たちが重要な役(?)についているので広告取りを免除されると思っていたらしい。
それにしても大野はやけに僕にからむような気がするが、僕は無視することにしている。僕はああいった目立ちたがりで、それでいて妙なところで細かい人間は嫌いなのだ。
もっとも、無愛想で口下手な僕は、こんなことを上手く処理することはできそうになかった。だから不安でいっぱいだった。幸いそれぞれの係単位で営業? するので、僕は君に頼らざるを得なかった。かなり憂鬱な僕と比べて君はなんだか嬉しそうだった。
だがその疑問はすぐに解けた。君の少し困ったような顔で頼まれると、どの店もあっさりと広告掲載を了承した。僕は唖然とした表情で君の後を付いて行くだけだった。僕たち二人はその日のうちにノルマを達成した。いや正確には君がすべてをやってのだけど。
そのことで僕は少し落ち込んでしまったのだと思う。やはり会場係責任者としての変なプライドが傷ついたからだ。
「河村君、今日はもう仕事が終わったから、あそこに寄っていかない?」
君の指差した場所にはミスタードーナツがあった。実は僕はドーナツが好きなのだ。ときどき食べ過ぎて妹にバカにされたりするのだが。
カウンターで僕はオールドファッションとホットコーヒー、君はフレンチクルーラとホットレモンティを注文した。そのとき店長のような若い女の人が君に声をかけた。
「葵ちゃん、彼氏?」
君は「えへへへへーっ」と笑った。
僕たちはテーブルに向かい合って座ると、それぞれのドーナツを一口齧り温かいコーヒーとレモンティを飲んだ。
「河村君、オールドファッション選ぶの、なかなか通だね。私もそれ好きなんだ」
僕は食べかけのオールドファッションを半分に割り、僕が口をつけていない方を君の皿に置いた。君は「エッ」と驚き、目を細め本当に嬉しそうな微笑みを僕に見せてくれた。
「ありがと。じゃあ私も」
君はそう言うと、僕と同じようにフレンチクルーラを僕の皿に置いた。
「ねぇ、食べかけの方を渡すと間接キッスになっちゃうよね。河村君、そっちの方がよかった?」
僕は飲みかけのコーヒーが気管に入り激しく咳き込んだ。
「あっ、大丈夫?」
君は慌てて水色のハンカチを渡してくれたが、僕はそれを使えるはずもなかった。しばらくすると胸の違和感もなくなり、受け取ったハンカチを返した。
「秋山さんって、ほんと見かけによらないよな」
「えっ、そう?」
君は時折見せる小悪魔的な表情を浮かべた。
毎日が同じことの繰り返しだと諦めていた僕にとって、今日のような展開は嬉しい誤算だった。だけど話はそれでは終わらなかった。
「さっき、店の人が秋山さんに話しかけていたけど知り合い?」
僕は冷めかけたコーヒーを一口飲むと、内心の動揺を隠しつつ訊いた。(「葵ちゃんの彼氏?」と訊かれ「えへへへへーっ」と笑ったことはどういう意味だろう)
「彼女は従姉でノブチャンっていうの。若いけどここの店の責任者よ。もちろん雇われ店長だけど」
「ふーん」
「私もときどきここでバイトしているの」
「へぇー」
「ノブチャンが店長しているので安心だっていうことで、休日の前の日とか結構遅くまで働いてるのよ」
「ほぉー」
君はなにが可笑しいのか、クスクスと笑い出した。
「俺、何か変なこと言ったっけ?」
僕は君の笑顔を見ることができて嬉しかったけど、その理由がわからず少し混乱していた。
「だって河村君の返答、ふーんとかへぇーとか全部感嘆詞で、それにおじさんみたいに妙に落ちているし」
「ふむ」
「ほらね!」
そう言うと君はまたもクスクスと笑い出した。僕の愛想のない受け答えを君がなぜこんなに喜んでくれるのか、僕には全くわからなかった。
だけど心奪われている女の子の笑い声は暖かかった。そしてそのとき僕のまわりの世界が、こんなに色鮮やかで親密なものだとは思わなかった。そんなことは生まれて初めての経験だった。
僕は頬が弛緩しないように気をつけながらも、言葉は勝手に口から滑り出る。
「ところで、どうしてバイトしているの? 買いたいものがあるとか、将来の夢のためとかかな」
君はうーんと小さく唸り、クリーム色のティカップを数秒間見つめた。その瞳の色は少し悲しげで、僕の胸は急に不安の波が拡がった。
「しいて言うなら生活資金かな。私の家、ちょっと複雑なんだ。って言ってもおばあちゃんもおじいちゃんも弟もいるから賑やかだけど・・・・・・。私、卒業後進学したいので、それで生活の足しに少しでもなればって」
君は少し照れながら、そう答えた。
「あっ、そうか」
僕は今日君の事を二つ三つと知ったけど、それだけことで君について他のことは何も知らなかった。それから僕は受験勉強をして意味のない知識は蓄積しているが、ただそれだけの無知で無力な十七歳だということも実感させられた。
「エライなぁ」
僕はそれしか言うべき言葉が見つからない。
「そんなことないよ。バイトでいろんな人と接するのも結構楽しいよ」
「だから広告取りも上手かったんだ」
「えーっ、そうかなあ?」僕の目の前に座っている少女はレモンティを一口飲み、楽しそうに笑った。
そのときの君のあどけない笑顔に、僕はどれほど救われただろうか。
「そういえば河村君、広告とりのノルマ言われたとき困ってたね」
「こんな無愛想な男が広告とれると思う?」
「うーん、確かに」
「だろう」僕は少し傷ついた。
「でも河村君には河村君だけの魅力があると思うよ」
「えっ、そうかな」
「河村君はあまり喋らないけど、ちゃんと見てるところは見てるっていうか、ものごとを深く考えられるんじゃなかなあ」
「えっ、そう」僕は心底嬉しかったが、頬の筋肉が再び弛緩しそうになるのを必死でこらえていた。そして自分以外の人間と話をすることが、これほど楽しいとは思ってもみなかった。
気がつけば、外は夕暮れの切ない茜色に包まれていた。
「そろそろ帰ろうか」
僕は腕時計を見ながら、クールに言った・・・・・・つもりだ。本当はコーヒーを何杯お代わりしてもいいから、君と同じ空間にいたいのだけど、時は無常にも過ぎていく。
「あっ、ホント、こんな時間だ」
君も左手首を返して銀色の腕時計を見る。
「ノブチャン、帰るね」
君は従姉に手を振ると、従姉は「葵ちゃん、デートは楽しかった?」と訊いた。
君はまたもや「えへへへへーっ」と嬉しそうに笑う。
僕はそしてその笑顔の意味を考える。でもその答えは出ない。(ねぇ、僕たちは今、デートをしたのだろうか?)そんなことを訊くほど、僕は愚かではないけど臆病者だ。
店の自動ドアがウィーンという音とともに開き、僕らは外に出た。すでに夕焼けの残照はほとんどなく薄い闇が下りていた。
外界はびっくりするくらいの速さで暗くなっていく。君といると、どうしてこんなに時が速く過ぎ去ってしまうのだろう。
夏の終わりを告げる風は北西から吹き、夕闇の空気は冷ややかだ。僕たちの制服はまだ夏服のままだった。君は口をすぼめて右の手のひらで白い左腕を擦る。
「急に涼しくなっちゃったね」
「うん、秋山さんの家はこっち?」
僕は右方向を指差すと、君は小さく頷いた。
「河村君の家はあっちだったっけ?」
君が左方向を指差すと、僕は無言で頷いた。
「送るよ」僕は当然のように言う。
「えーっ、私の家、ここから結構あるよ。いいの?」君はまた悪戯好きの少年のような眼差しで訊く。
「うん、かまわない」(ああ、どうして僕はもっと気の利いた言葉がでないのだろう!)
「ありがとう」君の少し低めの声を聞き、僕はほっとする。
先ほどまで向かい合ってドーナツを齧り暖かい飲み物を飲みながらいろんな話をしていたけど、君を送る道ではお互いあまり話をしなかった。
僕たちは国道沿いの幅の広い歩道を並んで歩いた。近くには古いお寺があって、境内の前には大きな木が並んでいる。夜の闇が迫ってくるとそれらの木々の葉も深い緑色に変わっている。また強い北西の風が吹きそれら木々の葉をざっと揺らめかせる。その音に驚いたのか、それとも風の冷たさを感じたのか、君は少し身震いしたような仕草を見せた。
「寒い?」
「うん、私すっごく寒がりなんだ」
「ふーん」
「手先とか足の指とか末端が凄く冷えるんだよ」
「へぇー」
「ほらぁ」
君は形のよい小さな右手を僕の右の頬に当てた。僕は君の手の冷たさを感じる余裕などなく、逆に顔中がカッと熱くなった。
「わあっ、河村君のほっぺたってあったかいね」
「子どもは風の子ですから」(僕は自分が何を言っているのかわからなくなっている)
「じゃあその風の子のエネルギーを私に分けてくれる?」
君は僕の目を覗きこんでそう言うと、柔らかな右腕を僕の左腕に絡ませてきた。そのとき僕の心拍音はずんずんずんと身体全体に響き渡った。胸がドキドキするといった、そんな生易しいものではない。胸の奥から僕の身体を構成する細胞ひとつひとつに、痺れるような衝撃波が走るのだ。僕はそのとき、ひょっとして髪の毛が逆立っていたかもしれない!
当然その後のことはあまり覚えていない。君を市営アパートまで送ったことはぼんやりと記憶にあるけど、それ以外のことは定かではない。君の身体とのコンタクトによって、僕は夕暮れの雲の上を歩いていたのだろう、たぶん。




