File5 怪盗は義賊を辞めた?
秋も深まる。
満月を5日前に控えた、ある日のこと。
満月の夜が、久しぶりに全国、いや、全体陸に向けて、新聞折り込みという形で、大々的な予告を出してきた。
それが何と。
――……水です。
――大陸中の、すべての水を盗みます。
――たとえ当日、漆黒の雲が夜空を覆い隠し、雨を降らそうとも、その1滴とて逃さず、私は盗んで見せましょう。
大陸に生きる人々、いや、すべての生物にとって必要不可欠なもの、水を盗むと言い出した。
しかも、大陸唯一の水源たるミミル湖からは、ほぼ無限に、水が湧き出ている。だというのに、どうやって『大陸中のすべての水』を盗むつもりだろう。
いや。仮にその水をすべて盗むことができたとして、満月の夜は、とうとう人々の命をも脅かす気か。巷では、それまで義賊としてあがめていた満月の夜が、一転して人々の生活や命すら脅かすかのような捕り物予告を発表したことに、尋常ではない動揺が広がっていた。
そして人々は混乱し、水道水や川の水を可能な限りタンクに詰め込んだり、雨水を貯蓄・ろ過できるタンクを買い求めたり、様々な暴動に出始めた。一部の冷静な人物を除き、大陸中はパニックに陥った。
中には、タンクを抱えながらそのまま外の大陸に移住しようとしたりする者もいた。しかし、海外旅行ならともかく移住となると、手続きにはとてつもない手続き金を必要とする。ヨルムンガンドが定めた、『大陸居住法』に、それは記されている。その手続き金を工面するために、返す当てのない借金を、銀行に申請する者が、続々と現れはじめたのである。
……この、大陸全体の混乱振りを見て、エルメスは思った。
「大陸に居続ければ水の消滅を待つほかになく、外の島国や大陸に逃げようとも、バカみたいな手続き金を要求される。大陸の人々にとっては、法律の檻に閉じ込められたようなもの。満月の夜。あなたは、何をしようとしているの……?」
だが、混乱に陥る人々は、重要なことを完全に忘れている。
いくら満月の夜とて、世界樹から無限に湧き出す水までは盗めまい。
注意力に欠け、判断力を失った者が、水と逃亡先を求め、醜く争っていた。
満月の日の3日前。
トクソティス州、カウス・アウストラリス市。通称、中央市。
国、そして大陸の秩序の中枢たる組織が集う建物、国会議事堂オルドー。
オルドーは、広大な敷地を持つ。本堂は、中央棟、東棟、西棟の3つに分離しており、しかしすべては廊下でつながっている。総じて3階建てである。
中央棟は資料室や各種会議室、宿直室、湯沸室、休憩所など様々な中小規模の部屋があり、中央の塔状エリアには吹き抜けの大きな空間がある。そこは主に要人たちが集い、重要な話し合い(会議にあらず)をすることに使う、大広間となっている。大広間の真上には、突出した4階部分が存在し、そこは『最重要会議室』として使われ、またその会議室の南側(=庭園側)には、横に長いバルコニーがある。
東棟には、全役人を招集できる、ひな壇の座席を持つ巨大な『議場』があり、3階分をフルに使っている。2階と3階はほとんど廊下である。
西棟には、東棟の議場を小規模にしたような議場がいくつかあり、各派閥、サダルメリク州自衛団、大陸共同軍サダルメリク支部、そのほかのこまごまとした組織が使っている。
中央棟のすぐ後ろには、空にそびえる時計塔が存在する。その名のとおり、4方向に時計が存在し、時計の真上には巨大な鐘が吊られている。魔導エレベーターで行き来できるのは機関部までで、その機関部からは階段を昇ることで、やぐらのような屋上に出ることもできる。
敷地内には本堂だけではなく、広い芝生の庭園、植木や花壇など緑も豊富で、近くの大河から人工的に水路も引いている。役人の自家用車やタクシー、バスなどが駐停車できるロータリーもあり、英知の庭園支柱にアクセスできる、専用の魔導列車の駅もある。
他にも、屋外駐車場、グライダー停留所など様々な設備がある。と、このようにとても広い敷地にたくさんの施設や庭園があるわけだが、途方もなく広い。その広さだけあって、棟の内外を行き来するとなると、車は必要不可欠だ。
……さて。
その中央棟、最重要会議室には、大勢の人々が招集されていた。
最重要会議室、北側(=入り口側)に位置し、高級な椅子に座る人物こそ、ミミル国の首相にして、大陸共同軍総統、ヨルムンガンド。
彼の容姿は、金色のボタンを持つ黒いスーツ、金色のネクタイに宝石をあしらったタイピン、ドラゴンの革の高級な靴、首相と総統の地位を示すバッジ。背は低く、逆に横幅は大きい、そしてやや禿げがかっている頭。顔つきだけは、ガキ大将がそのまま老けたという印象。
彼の前には、役人たちが2列になり、互いに向かい合うようにして椅子に座っている。役人たちのほかにも、各州の自衛団長、州知事、オルドー警備兵、大陸共同軍の左官および将官など、様々な人物がいる。その中には、アクアリウス州の代表として、ラングとエルメスもいた。
ただし、エルメスはスロックノール邸の自室にて、メタ・クロニクルを起動させ、映像をつないで参加している。映像は、会議室天井から吊り下げられたプロジェクターによって、その真下にスクリーン代わりの円盤状魔法陣を出現させ、横長の四角形の枠の中に映し出している。
エルメスのほかにも、カルキノス州自衛団からアルカウス、大陸共同軍の魔法戦略科に所属する青年ヴァン・エンシェント一尉など、自衛団や大陸共同軍の代表が、リアルタイム通信で参加している。
「諸君。遠路はるばる、ようこそ。我こそがミミル国首相にして大陸共同軍総統、アル=ファルド・ヨルムンガンドである。」
アル=ファルド・ヨルムンガンド。それが、彼のフルネームであるようだ。
「集まってもらったのは他でもない。ここ1年余り、我が国の国立機関が保有する美術品、文化遺産、宝石などを盗み、我が国を脅かしている謎の泥棒、満月の夜なる者の、次なる犯行予告に対抗するためである。
かつて奴は、人間には到底盗めないであろう、空に輝く満月を盗んだことがある。これまでの犯行も、カルキノス州の美術館での犯行以外はすべて成功させている。
そして今回は、大陸中の水を盗むと言い出した。そのようなことを、どのような形で成し遂げようとしているのか、我にはまったく想像も想定もできん。
そこで本日は、奴のいかなる出方にも対応できるよう、十重二十重に策を練り、強固な作戦を立てようと思う。そして今回に限り、逮捕、拿捕などにこだわらず、姿を確認し次第、殺害しても構わん。何としても、大陸唯一の命の根源たる水を、怪盗・満月の夜と名乗る窃盗愉快犯などに、渡してはならんのだ!」
そして、会議は進む。
昼前に集まったというのに、日は沈み始め、会議室の中も薄暗くなってゆく。
室内の照明を点け、赤い西日を避けるためにカーテンを閉める。
そしてなお、会議は続く。ヨルムンガンドは別の用事でたまに会議室を外すことがあり、この時も不在だった。戻ってくるなり、どっかりと椅子に座り、役人、自衛団員、大陸共同軍人に問う。
「さて諸君。怪盗・満月の夜を仕留める作戦はできたかな?」
そこに名乗りを上げたのが、大陸共同軍の陸上科二佐、クラウス(ドイツ人名)・ヴェロス(矢)だった。
「うむ、ヴェロス二佐。」
「はっ! 満月の夜が言うところの、大陸すべての水を盗むというフレーズを、我が大陸共同軍で推測したところ、このような結論に至りました。おそらくは石灰をミミル湖に大量投下することで、高熱による蒸発を促すものかと。つきましては、当日は一般市民のミミル湖への侵入を禁ずるとともに、また満月の夜が危険物の取扱人物である可能性のあるヴァイスガルテンの住民であることも考慮して、ヴァイスガルテンにおける危険物の流通に規制を――」
それらしい作戦は立てるものの、この日同席していたエルメスにしてみれば、どれもこれも、甘い案、あるいは満月の夜にしてみれば潜り抜けられるか、そんな策はまず使わないだろうという案、それに非効率的かつ非現実的な案ばかりだ。
――まったく……
――役に立たない案ばかりだし、子どもの考えた特殊任務ごっこみたい。
――と言うか、学あるがゆえに、頭が固すぎるわね。
そしてとうとう、ヨルムンガンドは、エルメスにまで質問を振ってきた。
「時に、探偵スロックノール。きみは、これらの案をどう思うかね?」
画面越しに、エルメスは答える。
「………… ……やはり、これまで挙げられたどの案も、満月の夜に対抗しうるものとは、到底思えません。」
途端、誰もがどよめいた。そして、これまで作戦を発表してきた人々にしてみれば、エルメスの発言はあまりにも生意気にすら感じられた。
「この、小娘が!」
「ならばお前には、有効な策があると言うのか!」
一気につかみかかる、大陸共同軍や自衛団の男たち。だが、エルメスは勤めて冷静に、メイドのアイリーンが用意した紅茶をすすった。ちなみにエルメスが口にした紅茶は、クオリティシーズン(一定の季節にしか収穫できない、味と香りの深い茶葉、またはそれを用いた茶)という高価なものだった。
そして、ティーカップを皿の上に戻し。
「ありませんわ。」
シレッと、言ってのけた。
途端に荒れる会議室。だが、エルメスはすっと右手を差し向け、黙らせた。
「あなた方は、満月の夜が何故、予告文を出してまで盗みに至るのかを理解していない。予告文を出してまでそうする意味は、わざわざ強固にした警備を突破することで盗みを楽しむためではありません。我々が警備を強化するに当たり、逆に、その警備体制を一度バラバラに崩すためなのです。
策を十重二十重にと講じているうちに、満月の夜はバラバラになったその体制の隙に付け入り、絶対たる必勝の一手を仕掛けてくる。よって我々は、満月の夜が考えているその一手を封じねばなりません。」
エルメスはアイリーンに、紅茶のおかわりを頼み、ティーカップに残された最後の紅茶を飲み下す。そして新たに紅茶が出されると、強い口調で言った。
「その一手とは。……さてお考えいただきたい。満月の夜が為そうとしていることは、大陸すべての水を盗むこと。されど、それは物理的に実現不可能。何故ならば、ミミル湖にそびえ立つ世界樹ユグドラシルの恩恵によって、未来永劫、水は得られるのですから。
しかし、物理的にではない、最終的なパフォーマンス的な意味において『水を盗む』というのはいかなることなのか。あたしのような若輩者には、どんなに想像力を働かせてもその最終的な仮説は立てられませんでした。私の父、元探偵にして州知事のアーサー・スロックノールに相談しても、やはり仮説ひとつ浮かびませんでした。
……であれば、怪盗・満月の夜を、こちらから迎え撃てばいいのです。そうですとも。」
エルメスは再び紅茶を口にすると、続けた。
「……ええ、そうですとも。
満月の夜は当日、そちら、オルドーに現れ、水なき地にて、大陸中の水を盗むと宣言しました。そちらには、厳重に警備体制を整えておくことを要求し我を出迎えるべしと、新聞にて予告文を出しています。彼がオルドーに現れるということだけは確実。ならば、満月の夜が水を盗む前に、迎撃してしまえば良いのです。
シンプルではありますが、満月の夜を逮捕するのにこれ以上明確な作戦はないと思います。つきましては、水を盗むという満月の夜の真意を推測することよりも、当日、満月の夜をここで迎撃する作戦を練ることを、最優先事項として提案いたします。」
そこまでエルメスが言うと、一同は黙りこくる。
エルメスが提案するその方法以外に、誰もが、それ以上に優れていると思われる対策を、思いつけないでいた。また中には、高々16歳の少女が何を偉そうに、と憤り、まともに冷静になれない人物もいた。
そこに、ラングが問う。
「なぁ、エルメス。そこまで言うなら、満月の夜をここで逮捕する有効な方法を、きみは知っているのか?」
「有効かどうかは、何とも。しかし、先の美術館襲撃時と同様、警備をできるだけ崩すことなく強化しましょう。また、オルドーという、議事堂の建物のほかに広大な芝生と庭園、ロータリーなどを持つ土地の大きさも利用し、今回は巨大な陣を構え、迎え撃とうと思います。つきましてはその陣の展開の許可を、ヨルムンガンド首相に許可をいただきたいと思います。」
話を振られたヨルムンガンド。紙とペンと判子を手元に用意し、エルメスに問う。
「どのような陣形か。申せ。」
「はい。満月の夜は単体で動いているようですが、たまに臨時に雇ったりして、複数の人数を動かし行動することがあります。また、気球や人形、グライダーなど、陽動作戦も得意とします。そのため、対満月の夜ではなく、対抵抗勢力として考え、古い戦争時代の城砦の陣形を採用しました。
その陣形のデータを、あたしのクロニクルから、ラング団長に転送します。それをご覧いただいた上で、オルドー敷地内にこの広大な陣を展開する、その許可を願います。」
……そして、程なくして。
プロジェクターに映し出された、エルメスの提案。そして陣の形。
これらを見て、会議に参加している人々は、あっと言わされた。
誰もが口をあんぐりとあけて呆然としている中、単純な考えのヨルムンガンドは、すぐに卑しい笑顔を浮かべ、そして迷うことなく、手元の紙に判子を押した。
「よろしい。政府直属探偵スロックノール。きみの提案する、戦術的なこの陣の設置を、急がせようではないか!」
「ありがとうございます、首相。では、ご準備の程をよろしくお願いいたします。当日はあたしも、そちらにお邪魔いたします。」
そして、ヨルムンガンドは続けて問う。
「さて、今回の満月の夜の襲撃に対抗する、この陣を動かす、担当責任者を決めたい。スロックノールは探偵であり、戦闘要員にあらず。よって、大陸共同軍および自衛団長の中から決めたい。我こそはと名乗り出る者はあるか。」
その言葉に、誰もがあごに手を添えて唸る。
だが、真っ先に手を挙げたのが、ラングだった。
「あの。」
「んむ?」
「エルメスは俺の妹の友達です。また、戦術を練るにあたっては頼もしい相棒です。今回のこの陣の指揮担当を、俺、ラング・レグルスに任せていただけないでしょうか。」
ラングのその言葉に、とある男が答えた。
「………… ……私に異論はない。」
「ブラックウェル一佐!」
大陸共同軍航空科、クロノ・ブラックウェル一佐。ラングと同じ黒髪で、常に鎧のような肩当てを羽織っている。顔つきは険しく、任務ともなると厳しい態度を取ることで恐れられている。声も渋いが、しかし意外と話しやすく、人当たりのよさもある、不思議な人物だ。
「貴君は、満月の夜の逮捕以外の全てを完璧にこなしてきた実績と、剣術の腕前、戦略の設計力、人望やリーダーシップがよく評価されている。貴君がアクアリウス州の自衛団長でなければ今すぐ引き抜きたい人材である。やってみたまえ。その熱意と行動力を評し、ラング・レグルス。貴君の実力に期待したい。」
「はい、ありがとうございます、一佐!」
こうして、会議は夜まで続いた。
そして翌日。
すなわち満月の日の2日前。
アクアリウス州サダルメリク市、レグルス工房。
クリシュナはひとり、切削機を自動で動かしながら、コーヒーを片手に、新聞を読んでいた。
切削機が作っているのは、魔導銃のパーツだった。
――大陸規模で、混乱が続く、か……
――大陸の皆さんには申し訳ないけれど、これも政府を引っ掻き回すため。ちょっとだけ、この盗賊めの計画遂行のため、ご協力をお願いします、と。
クリシュナは、作業が止まった切削機の、万力を見つめる。
そして完成したパーツを、他のパーツやマギア・フィラフトとともに組み立ててゆく。
――別にわたしは、義賊気取りをやめたわけじゃない。方向性は、何ら変わらない。
――今回の目的はあくまで、ヨルムンガンドにとって自分の政権を維持するために必要な水を盗む、そう宣言することで、ヨルムンガンドを挑発することにある。物理的に盗むことが不可能な水を、きっと盗むであろうと慌てふためかせること。
――そのために、わたしは満月の夜として、数々の成功実績を積み重ねてきた。誰もが、不可能をきっと可能にしてしまうだろうと思うはず。
――さあ、ヨルムンガンド。あなたにとって命の次に大切な水、どう守る? エルメス、ラング、そして大陸共同軍。この怪盗・満月の夜を、食い止められるかな?
そしてクリシュナは、切削機から金属部品を抜き、機械と部品が熱を持って壊れないようにするために使われる白い液体を、洗い流してゆく。それを他の部品と組み立てながら、別の記事を読む。
すると、インバネスコートをまとったエルメスが、工房を訪れてきた。
「ごめんください。クリシュナ、いる?」
いつもの挨拶だった。クリシュナは部品を組み立てるのをやめ、ラボの入り口に向き直った。
「あぁ、エルメス。いらっしゃい。今日はどうしたの?」
「これから、トクソティス州のオルドーに向かうの。その前にちょっと、このところずっと学校に来てなかった、クリシュナの様子も見ておきたくてね。」
「ごめん、心配かけたね。今後はちょっとずつ出席日数増やすよ。」
クリシュナはそう答え、デニムのエプロンを外し、丹念に手を洗った。
「そう。……でも、よかったわ、みんなみたいに国外逃亡とか考えてなくて。」
「大丈夫、みんな冷静じゃないだけ。いくらかの満月の夜とて、無限にユグドラシルから湧き上がる水を、物理的に盗むなんてことはあり得ない。みんな、それに気付いてない。……それに、ここはラングとお母さんが帰ってこられる場所。わたしが、守らなきゃね。」
そしてクリシュナは、一度店の奥に引っ込んだ。戻ってきた頃に両手に抱えていたものは、皿に乗せた、お得意の春巻き。今回のものは生春巻きでも、オーソドックスに揚げているわけでもなく、珍しいことに蒸し春巻きだった。あらかじめ蒸籠か何かに入れて蒸していたようだ。
「そうね。あわてない人々はそれに気付いている。でも、この商店街の何件かの店も、シャッターが閉まりっぱなしだったわ。その店の人もきっと、水と安住の地を求めて準備しているのかも。」
クリシュナは皿を作業台に置くと、エルメスのために椅子を用意する。エルメスは「ありがとう。」と短く返し、インバネスコートを脱いで背もたれにかけ、座った。
「そう、それが困りもの。このままじゃあ、お店の営業が成り立たないよ。提携している会社も店をたたみはじめたし、雑貨を買いに来るお客さんもいきなり半減。これは水以外の理由で、このラボも危ない。あ、どうぞ?」
「どうも。……深刻ね。」
エルメスは出されたお絞りで手を拭き、クリシュナの蒸し春巻きをついばむ。以前作った生春巻きとは、ライスペーパーにくるまれた野菜の種類が異なり、中央にはボイルされたソーセージが添えられている。パリッと小気味よく、ソーセージの皮が千切れた音が響き、口の中には甘くて濃厚な肉汁があふれかえる。
「おいしいわ。」
「ありがと。」
そして、ふたりは黙った。
何の会話も、続かなかった。
ただ、このラボには、ふたりが蒸し春巻きを食べ、中に巻かれたソーセージが、たまにはじける音を響かせる、そんな静寂だけが、続いていた。
クリシュナが山のように持ってきた春巻きも、いつの間にかほとんどなくなっていた。
ふと、エルメスは、ラボの壁掛け時計を見やり、つぶやくように、静かに言った。
「……そろそろ出発の時間ね。クリシュナとも、しばらくはお別れだわ。」
「そっか。あまり長く引き止めるのも悪いね。」
「そんなことないわ。クリシュナのお手製春巻きが食べられて、とてもうれしい。」
そう言って、エルメスは最後の春巻きに手を伸ばした。すると。
「あっ。」
「あ……」
その指に、クリシュナの指が触れる。
最後の春巻きに、クリシュナも同時に手を伸ばしていたのだ。
「あぁ、ごめんなさい。どうぞクリシュナ。」
「ううん、いいよ。わたしのは、また作ればいいからさ。旅立ち前に、ぜひ食べてって。」
「そう? それなら遠慮なく、」
エルメスは、クリシュナが手をどけた春巻きをそっと取り上げる。
そして。
「半分、いただくわ。」
左手を添え、両手を軽く握り、千切るように、真ん中から半分に折り曲げた。
蒸されてしなれた野菜と、逆に程よく張りのあるソーセージが、折れ目から覗いて見える。ほんの少しだけ、エルメスの右手に握られた春巻きから、折れなかった野菜がわずかに引き出される。
「あらら……」
「じゃあ、わたしこっちもらうね?」
クリシュナは、野菜が少なくなったエルメスの右手側の春巻きを取り、彼女に有無を言わさずに、それをほおばった。あとには、「シャクシャク、パリポリ。」という、小気味いい音が、クリシュナの頬から響いてくる。
「そこまでしてくれるなら、今度こそ遠慮なくいただくわ。いえ、親友に遠慮なんて、それこそ失礼かしらね。」
「そうだよ。わたしは、いつもクリシュナに助けてもらってる。いつもうちをひいきにしてくれてる。勉強やレポート作りも助けてくれてる。だから、満月の夜の件では力になれないけれど、それ以外のところではうんと助けさせて。いつでも、わたしを頼って。」
「ええ。………… ………… ……本当に、おいしいわね。」
皿を片付けて。
エルメスはコートを肩にかけ、そしてクリシュナに言った。
「ご馳走様。オルドーから帰ってきたら、また、春巻きをご馳走してくれるかしら。」
そう言って、レグルス工房の脇に押し込んでいたバイクを引っ張り出し、個人認証式マギア・フィラフトで、エンジンシステムを起動した。
「モチのロンだよ。いつでも食べに来て。アグロティスさんに新鮮な野菜と極上のお肉を、見繕ってもらうから。ほら、お仕事行った行った。」
クリシュナがそう笑顔で答えると、エルメスもクールな笑顔をクリシュナに返した。
「じゃあね、クリシュナ。」
「ありがとう。じゃあね、エルメス。」
クリシュナの言葉を受け取るなり、エルメスはハンドルを回し、クラッチをつなぎ、走り出した。そしてすぐにギアを上げ、商店街を抜ける。あとには、エルメスが駆るバイクのエンジン音の残響が、ゆるやかに、こだましていた。
エルメスが見えなくなったあとも、クリシュナは商店街の道を眺める。表情はない。いや、とてもやつれていて、それ以外の感情は感じられない。
クリシュナは、さいなまれている。怪盗・満月の夜として、必要なこととは言え大陸全土を混乱させ、何より親友たるエルメスを騙し続けているのだから。
――そうだ。わたしは、エルメスを騙している。ずっと騙している。
――もどかしいよ。いっそ、今すぐ暴露してしまいたい。
――嫌われちゃう前に、エルメスにだけは……!
自分がしていることは犯罪。そして、人為的災害の励起。
16歳少女が背負うには、重すぎる罪だ。
「ごめんね、エルメス。……でも、いつかきっと。」
足を、工房兼自宅に向ける。
「いつか自分の口で、満月の夜の正体を名乗るよ。たとえ、きみに絶交されても構わない。先にきみを裏切ったのは、わたしだから。」