File4 最後の予告
そして、3日後。
アクアリウス州、サダルメリク市。
州立高等教育学校・第3校舎。
クリシュナがいつもどおり登校すると、エルメスが、グッタリと机に突っ伏していた。彼女の頭の下にあるのは、膨大な資料と、数枚の報告書のコピー。疲れ、やつれきった彼女の口から流れ出るよだれのせいで、字がいくつかにじんでいる。
そんな酷い有様の彼女に、教室に入ってきたばかりのクリシュナが声をかけた。
「おはよー、エルメス。相当お疲れの様子だねー。」
「………… ……あぁ、おはよう、クリシュナ。ヨルムンガンド首相に呼び出されて、同じ内容、同じフレーズで1時間も説教された挙句、寝る暇も与えられずに原稿10枚にわたる始末書を書かされたんだから、滅入りもするわ。昨日の夜、サダルメリクに帰ってきて、寝たの何時だったかしら……」
「じゃあ、今日の放課後、うちに何か食べに来る? お詫びも兼ねて、栄養と気力のつく料理、振舞うからさ!」
「うん、ありがとう…… でもクリシュナ。お詫びっていうほど、あなた別に何も悪いことしていないじゃない?」
「えっ!? あっ、いや。それは、その、ね? 肝心な時に、エルメスの力になれなかったというか、無力なわたしができる、せめてもの心の支えというか、ね!?」
「あははは。その言葉だけで、充分報われるわ……」
エルメスにしては珍しい、気力に欠けた口調とテンション。これは重症だ。そう、クリシュナも含め、周囲の友達は口にする。
「ねー、エルっち。それでも、ターゲットを守ることはできたんでしょ? しかも、満月の夜が撒いた催眠ガスも無力化させて、標的を走って逃げさせた。これって、今までになかったことじゃない。誇っていいことでしょ?」
「そうね。今までここまで、満月の夜を追い詰めたことはなかったわ。次も、いいところまで行くと思う。ううん、次こそは、必ず……」
「じゃあ、何で説教なんて食らったのよ。ヨルムンガンドってば、酷くない?」
「あたしのすべきことは、ターゲットを満月の夜から守るのと同時に、満月の夜を逮捕すること。今回は半分しか成し遂げられなかったとして、こんな結果に。まぁ、いいわ。これでライガーの牙の宝剣を盗まれていたら、この程度の罰では済まなかったから。」
そう言って、よだれで文字がにじんだ分厚い紙束をファイルに仕舞い、ウェットティッシュで顔を拭くと、いつもの凛としたエルメスに戻った。
「さ、スイッチを切り替えて、今日も張り切って行きましょうか。満月の夜の件以外にも、やるべきことは山のようにあるんだから。そうですとも。」
エルメスとクリシュナ。
互いに視線を合わせる。
「Si vis pacem, pala bellum.」
「汝平和を欲さば、戦への備えをせよ、ってね。」
放課後。
レグルス工房。
ちょうどラボには、アクアリウス州自衛団の団長、ラングが帰ってきていた。トレードマークの赤いジャケットは、今は腰に巻いている。背は高く、クリシュナと同じ黒髪と同色の瞳を持ち、とても凛々しい青年といった雰囲気だ。
「ただいま、ラング!」「お邪魔します、団長。」
店の入り口から、クリシュナとエルメスが入ってきた。この日はクリシュナが学校でフルタイムでの授業を受けていても、ラングがいるため、店は早くから開けることができている。
「お帰り、クリシュナ。金属加工と魔法の注文、来てるぞ。俺は門外漢だから、さっさと済ませてくれ。」
「ういさー。んじゃ、注文書を見せてくれるかな?」
クリシュナは、ラングから図面などを受け取り、まずは切削機にたくさんの工具をセットして金属塊の切削に取り掛かる。金属の切りくずを払い落として、依頼品完成ボックスに丁寧にしまう。次に魔法プログラムの作成とインストール。なお、企業秘密ということでプログラミングは自室でやることが多いが、来客がないときにはラボ兼店舗でやるときもある。
クリシュナが次々に依頼を片付けている最中、ラングとエルメスは、お茶とビスケットを楽しんでいた。ビスケットは、スロックノール家御用達、メアリーのビスケット屋のものだった。ちなみにシナモン入りのビスケットはない。
「ラングさんの淹れるお茶、とてもおいしいですね。」
「ありがとう。クリシュナと一緒に、お茶と料理は母親に仕込まれてね。俺も、こだわりのビスケットなんてあまり口にできないから、うれしいよ。ありがとう、エルメス。」
「どういたしまして。こちらこそ、ありがとうございます。」
するとクリシュナが、ふたりの間に割って入り、自分のために用意されていたマグカップにお茶を注ぐ。少しだけ冷めているが、エルメスに褒められたラングのお茶を、まずは半分一気に飲み下し、残り半分は香りを楽しみつつ、吟味する。
「おっ? クリシュナ。もう終わったのか?」
「まさか。休憩だよ。今回はちょっと大変だから、店番、ラングに頼んだ。」
「あぁ、頼まれた。……そうだ、クリシュナ。また生春巻き作ってくれよ。」
「うぉっしゃー、任せなさい! ライスペーパーと野菜のストックはあるよね?」
「ああ、みんな台所だ。あと、その、なんだ…… 今度、俺に、生春巻きの作り方、教えてくれないか?」
金属切削用のデニムエプロンを作業台の椅子の背もたれに放り投げると、クリシュナは目を光らせ、ラングの顔を見た。なにやら、怪しい顔つきだ。
「……エルメス、どう見る?」
「……クリシュナと同じことだと思われ。」
そして、ふたりは一瞬だけ視線を合わせると、ラングに言った。
「彼女だね?」「彼女ですね?」
直後、ラングはお茶を噴き出した。
図星のようだ。
クリシュナお手製、生春巻きが、店舗件ラボのテーブルに運ばれた。お客が何人か訪れ、ラングがレジを打つ。彼はレジに不慣れのため、魔法演算機(ソロバン)を使って丁寧にレジを打ってゆく。剣を手に戦い、団長として仲間に作戦を示し、陣を動かすことには秀でているが、こうした客商売となれば、途端にぎこちなくなる。
クリシュナが戻ると、レジと接客は彼女が担当。セールストークと、井戸端会議風の商品アピールで、どんどん、自作の食器やマグカップ、皿などを売りさばいてゆく。その様子を、生春巻きをついばみながら、ラングとエルメスは眺めていた。
「ホント、クリシュナってば、ああいうの得意よね~……」
エルメスの独り言だった。だが、ラングも「そーだなー。」と返し、エルメスに言う。
「我が妹は本当に多彩な能力を持ってるよ。不器用な俺とは大違い。」
「あら。ラングさんも、ミミル州自衛団の団長として、州民にとっての平和に尽力してくださっているではありませんか?」
「俺ができるのは、多少の炒め物料理と戦略だけだ。ハウフトシューレ(基幹学校。職業訓練学校)に進学するしかなかった俺に、きみやクリシュナのような……」
「それこそ違います。」
エルメスは、強い口調で、ラングに言った。
そんな彼女の口調、態度、言葉に、ラングは面食らう。
「父はあたしに、こう言ってくれました。『才能などで自分を計るな。自らの意思で未来を選択するか否かで、未来は決まるのだ。』……と。」
「エルメスのお父さん…… あの、名探偵で、州知事の。」
「はい。才能が多彩なだけがその人の持ち味ではありません。確かにクリシュナは、あたしと首位を争うほどの、かなり優秀なギムナジウム生です。しかし、優秀な成績だけがクリシュナの一生を決めてしまうことはありません。クリシュナがどんな未来を選んでいくのかは、あたしたちには分かりませんから。
あたしは、父がそうであったように探偵となることを選びました。そしてラングさんは、ラングさんができることで、未来を築いていけばよいのです。そうではないでしょうか。」
「……いやぁ、参ったなぁ。」
そう答え、ラングはビスケットに手を伸ばす。そしてそれを半分ついばむと、ラングは、エルメスに尋ねた。
「じゃあ俺は、才能も何もない分、自分で選んだ自衛団の団長という道を、とことん突き進めば、いいってことかな。」
「その職務に誇りがあるのでしたら。しかし、そんなにご自身を卑下なさらないでください。あたしは、ラングさんのことを、とても尊敬しているのですから。」
「そっか。そりゃ済まない。でもって、ありがとうな。」
ふふっ、と、ラングとエルメスは向き合って微笑んだ。
そしてそんなふたりを、クリシュナは、穏やかな笑顔で見つめていた。
その日の夕方。
クリシュナは全ての依頼を終え、再び店に立った。
この日はラングが、夕食の準備をする。剣を手に戦うことが多いラングは、同時に刃物と炎のエキスパート。包丁を手にすれば、千切りからみじん切り、乱切り、カツラむき、果物の皮むきまで、何でもござれ。炒め物くらいしか作れないと言っていた彼だが、フライパンや鉄板を火にかけ、ここでも自分でも理解していない隠れた実力を発揮していた。
エルメスは、通信機器であるレシーバーにて、アーサーに連絡を取り、この日はクリシュナの家で夕飯をいただいて帰ると伝えた。レシーバー越しに、アーサーは快く了解の返事をした。
ラングが作る食事は、炒め物とグリル料理という、ワイルドでシンプル、かつ、肉を主に、食材のうまさを引き立てる料理が多かった。そんなラングの料理を、クリシュナもエルメスも、うまい、うまいといって舌鼓を打ち、あっという間に平らげてしまった。
夕食後。
クリシュナは店を閉め、翌日の食材を調達する準備を済ませる。エルメスもバイクを起動し、ロックを解除するが、またがらず、ハンドルを押してクリシュナと一緒に商店街を歩く。
「今日は招集かからなかったね、エルメス。」
「ええ。大きな事件がなかったということは、探偵としては収入に悩むところだけど、世の中がそれだけ平和ってこと。いいことよ。おかげで、久しぶりにクリシュナとお話もできた。ラングさんの料理も、とてもおいしかったしね。」
「そっか。ありがと。ラングもすごく喜んでたよ。」
「ふふ。ああいうワイルドな作り方、味付けが、男の人の好みなのでしょうね。ラングさんの料理も充分おいしかったけれど、あたしは、クリシュナの料理の方が好きかな。ふたりともきっと、いい旦那さん、奥さんになれるわ。」
「あー…… ラングはともかく、わたしは奥さんとかそういうの、多分、まだ早いかなー……? でも、ありがとね。」
そんなこんな、他愛もない、そして脈絡のない会話を繰り広げながら、クリシュナとエルメスは、商店街の端っこまでたどり着く。
大通りを挟んだ十字路の先は、ほとんど田舎町。そこから先に用はないクリシュナは、エルメスとはここでお別れとなる。エルメスは狩猟帽をかぶり、ゴーグルをかけ、ひと言「じゃあまた。」と短く簡潔に別れを告げると、夜の大通りを走り去っていった。
……だが。
バイクを走らせながら、エルメスは思った。その表情は、やや険しいものだった。
――いいえ、世の中は平和なんかではない。
――あたしに依頼するような事件がない、ただそれだけのこと。
――1歩裏通りを行けば、人として最低限の生活もままならない人々の巣窟。
――物乞い、ストリートチルドレン、ホームレスの、人という人。
――ほんの一部の富豪や、権利を振りかざす役人たちのみが、裕福な暮らしを許される、そんな世の中。そう、水も物資も豊かかもしれないけれど、その実態は、格差ばかりが広がる、秩序の旗を振りかざした独裁政治の国。
右ハンドル、右ペダルのブレーキを、ゆっくりとかけ、ギアもローにする。
バイクがわずかな土煙を上げ、止まる。エンジン音だけは静かに鳴り響く。
エルメスがゴーグル越しに見やるのは、普通の人であれば目も当てられない、一瞥するや否やすぐに逃げだしてしまうほどの、悲惨な光景。
厚紙を重ねたベッド、犬小屋のように組み立てた小さな紙製の建物に暮らす、子どもたちの姿。もう夜も晩いということもあり、本日の収穫(主にお金や食べ物)の成果を見せ合う。だがそのほとんどは、物乞い、盗み、搾取、田畑への侵入による強奪、などなどによって得たものばかりだ。
また、工業用として使う洗浄剤スプレーを、捨てられたはずの医療用呼吸マスクにつないで吸っている子どももいる。それはとても毒性のあるもので、幻覚作用と依存性も強い。大人がタバコを嗜むかのように、子どもたちはそのスプレーを吸って白昼夢を見る。
まずストリートチルドレンには縁のなさそうな、ドラゴンの革を用いた黒い財布がある。最年長の少女が、自分のグループの子どもたちにそれを公平に分け与え、残りはレンガの下に貯金する。だが直後、別のグループの子どもたちが現れ、強奪に出た。そして、ケンカなどという生易しいものではない、今を生きるべく略奪および防衛のための、まさに戦争が始まった。
政府直属の探偵として、エルメスはそれを注意しなければならない。だが、それをしたところで意味はない。
――これしか、こうすることでしか、生きる道がない、そんな子どもたち。
――探偵にできることは、事件に立会い、それを解決に導くこと。
――あの子たちをサポートすることなんて、できはしない、無力な存在。
誰かと、目が合った気がした。
あわててエルメスはぷいと目をそらし、ギアを合わせ、ハンドルをひねり、エンジンを高鳴らせて、その場を去った。
エルメスは、不愉快な顔をする。
――いやな汗が、背中に流れてる。
スロックノール邸。
その日のティータイムのビスケットは、エルメスだけ少なめだった。
「そうか。あのラングになぁ。」
「ええ。ラングさんのお料理は、ワイルドでシンプルながら、素材の味を生かした、とてもおいしいものよ。」
「ははは。……かつての探偵時代、私は、アクアリウス州自衛団のパーティーに招待してもらったことがある。その時にグリル料理を仕切っていたのが、まだあどけない顔つきのラングでな。学校を卒業し、アクアリウス州自衛団に入団したばかりの頃だった。」
注釈。
クリシュナとエルメスが通う高等教育学校は、大学に進学することを前提とした、あるいは視野に入れた英才教育を、8年から9年かけて行う学校である。対し、ラングが卒業した基幹学校は、5年間の職業訓練を受け、卒業とともに就職することになっている。
ラングはそのハウフトシューレにて、初期から自衛団に入団することを決意しており、戦闘と戦略に特化した科目を選んでいた。また、政治に関することも猛勉強し、ギムナジウムで習うようなことを学ぶことにも、時間を割いていた。
アーサーの語りは続く。
「その当時から謙虚で礼儀正しい彼が、料理のこととなると先輩や上司にすら指図して、焦がしたり調味料の配分を間違えたりしたら怒鳴るほど、こだわりを持つ少年だった。そして当然、彼の料理もコック並においしかった。それがとても、印象に残っている。」
「……謙虚で冷静な方だと思っていたのに、こだわりがあるというか、何というか。」
「良くも悪くも真面目で、爽やかなマスクをかぶった熱血漢なのさ。悪いように働けば、不器用この上ない。」
微笑むエルメス。
冷静沈着で、物腰がやわらかなラングに、そんな不器用な面があったとは。
ふっと、彼女は、アーサーに問う。
「……ねぇ、パパ。」
エルメスの前に、アイリーンがアイスクリームを置く。ミントを添えた、バニラだった。
「何だ?」
「パパは今、アクアリウス州の知事でしょ? アイリーンさんを雇い、広い庭を持つ家に住むだけの財力がある。そのお金で、」
「ストリートチルドレンを救えないか、と。」
アーサーが、そうエルメスに問う。
エルメスは、まさに今言わんとしていた言葉を越され、無言で、静かにうなずく。
「ならん。」
「どうして……?」
「ストリートチルドレンのひとりにそれをやれば、全ての子どもたちにそれをしなければならん。少数の子にして他の子にしないのは、差別、ヒイキでしかない。そしてそんな子どもたちの割合は、ここ数年で大幅に増えてきている。
今、我が家に、それだけ多くの、飢餓に苦しむ人々を救うだけの財力はない。だから、せめてもの協力として、私はストリートチルドレンやホームレス、無職者、低待遇者たちへの救済団体や、炊き出しのテントなどに、寄付をしている。それは、かの満月の夜も同じだ。」
満月の夜。
国を脅かす窃盗愉快犯、怪盗・満月の夜。
自らが名乗るその名以外、一切のプロフィールが謎に包まれている人物。
その人物もまた、盗むだけ盗んで、手元に一切の利益を残さず、盗んだ金、また盗んだ宝石などを売りさばいたその金を、救済団体に寄付している。人々が、彼を義賊と呼び、支持するのもうなずける。
少し目つきがにごったエルメス。だが、それを察してかアーサーはすかさず補足した。
「だからと言って、満月の夜を弁護するわけではない。法的に見れば奴は犯罪者であり、我々は彼を許容することはできない。そこは勘違いするな?」
「えっ…… ええ……」
銀色のスプーンを取り、エルメスはアイスクリームを口にする。それとほぼ同時に、アーサーも食事を終え、すべての皿をアイリーンに下げてもらう。アーサーに出されたデザートは、水あめに浸されたドライフルーツだった。
するとアーサーは、エルメスに言った。
「だが私は、それだけでは何も変わらないと思っている。」
「えっ……?」
アーサーはフォークを手に、イチゴ、キウイ、バナナの順に、順番に食べてゆく。一気にまとめてほおばるという欲張りなことはしない。アイリーンがそばに置いたコーヒーを口にする。
「確かに満月の夜と私では、立場も違うしやり方も違う。あまつさえ方や重犯罪人だ。しかし、志すは同じ、貧困に苦しむ人々を救うこと。炊き出しの量を多くし、栄養価と味を上げ、その日の飢えをしのぎ、今を生きる希望を持ってもらうことだ。
しかし、その程度では何の解決にもならない。露天の食事供給が少し豊かになったぐらいで、人々の生活はよくならない。飢え死にする人は確かに減ったが、しかしその分、盗みや物乞いが増え、犯罪件数はむしろ増えてゆく。主に、小さな子どもたちがそういうことをしている。」
それは、エルメスも先程目にしたばかりだ。
違法な手段で得た、お金や食べ物を分け合う子どもたちの姿を。
毒を吸い込み、見てはいけない白昼夢に入り浸る子どもたちの姿を。
他人が得た金銭を横取りするために、醜く争う子どもたちの姿を。
「でも……」
「だから私は、この国の有様を根本から変えなければならん。我が目標を、夢を、達成しなければならん。」
「ヨルムンガンドに代わり首相の座に就き、国を根本から変える。……そうよね?」
「そうだ。探偵として実力をつけ、実績を積み重ねてきたのも、州知事に就任したのも、そのステップアップに過ぎん。今はまだ、国を動かすだけの権力は何もない。州民、国民、そして大陸の人々に、まだ苦しい生活をさせている。だが、いつの日か、必ず。」
そう言って、アーサーは最後のドライフルーツを口にし、湿ったナプキンで口元をぬぐうと、席を立った。そしてリビングを出る間際、背中越しに、エルメスに言った。
「だが、あまりこういうことを、外で口にするなよ? それが、お前の友人、クリシュナ君に対してもだ。州知事やその娘が、政府に不忠な態度を取っていると思われたくはない。」
「ええ。」
「それならよい。私は書斎にいるからな。」
そう言って、アーサーはリビングを出た。
あとに残されたエルメス。アイスが、半分溶けている。
そこに、アイリーンが声をかけてくる。手には、紅茶が淹れられていた。眠れなくなると大変なので、ノンカフェインの紅茶だった。
「エルメス様。いろいろご苦悩が、おありなのですね。」
「ええ。あのストリートチルドレンを、ひとりでも多く救ってあげたい。でも、少数の人にそれをして差別者と呼ばわれたくもない。このジレンマが消えた日は、1日もないわ。」
そしてエルメスは、溶けかかったアイスを、スプーンですくい、口にした。そして言う。
「……一度に、全ての人を、この格差社会から救い出さなければ、意味がないの。」
同じ頃。
レグルス工房、屋上。
「え? もう自衛団の寮に帰っちゃうの?」
「ん~? お前、さびしいのか? 高等科6年生にもなって。」
長剣を納めた鞘を、ベルトで腰に提げ、ラングは出発の準備をした。
彼の傍らにあるのは、エンジンを搭載したグライダー。翼となる幌布のカラーリングは、ラングお気に入りのジャケットと同じ赤。翼の両端には反射鏡、ハンドル前の骨組みにはライトも付いている。明るい色や派手な色は、暗闇であっても自分の存在を知らせる効果も持つ。
「だーれがそんなこと言ったのかな?」
「……そう真っ向から返されると寂しくなるなぁ、おい。10年前はよかったなぁ、将来は俺のお嫁さんになってくれるとか満面の笑顔で言ってくれたのに。」
「そう言うラング、あんたはロリコンか。」
やれやれと言った風に、クリシュナはラングに返す。もちろんラングも、本気で妹を嫁にもらおうと思うことなど、ないだろうけれど。
「あほな事言うなよ。……ついさっき、大陸共同軍のブラックウェル一佐に招集をかけられたんだ。明日、大事な会議があるから、自衛団の寮に用意した資料に、明日の会議までに目を通してもらいたい、とさ。」
「そっか。団長さんも大変だね。」
「ああ、大変。だが、これも大事な任務だ。アクアリウス州に、そしてこの国に暮らす人々の、平和な未来のための、な。」
「そっか。じゃあ、行ってらっしゃい。気をつけて。」
「お前も、戸締りしっかりとな。じゃあ。」
そう言うと、ラングはグライダーのパイプ椅子に腰掛け、ハンドルを握り、ハンドル中央のマギア・フィラフトに手をかざす。エルメスのバイクにも搭載されている、個人認証式デバイスだった。
フロントのライトが灯り、エンジンが高鳴る。このエンジンは、水のみを燃料としているため、環境にも優しく、わずかな魔力のみで機関を動かすことができる。ラングはゴーグルをかけると、更にモーターを回し、風を起こす。
クリシュナに見送られながら、ゆっくりと飛び立つ、赤い翼のグライダー。高いところまで来ると、ラングはエンジンの動力を弱め、風をうまくつかみ、ゆったりと飛んで行く。重力のしがらみから解き放たれ、まるで鳥のように、自由に。
そんな、ラングを乗せたグライダーが、夜空に吸い込まれるように小さくなってゆくのを見守りながら、クリシュナは屋上に立ち尽くしていた。涼やかな夜風が、クリシュナの髪を揺らし、頬を、素手を、優しく撫でる。
「………… ………… ……ごめんね、ラング。」
小さな唇が、謝罪する。
「国を守る自衛団の団長の妹が、国を脅かす泥棒で、さ……」
そう、小さくつぶやき、クリシュナは体が冷える前に、階下に戻る。
罪悪感に押しつぶされそうなその表情の向こうで、クリシュナは、何を思うのだろう。
そして、その数分後。
クリシュナは自室に戻り、とあるプログラム文の羅列を眺めていた。常人には理解し難い、密集した文字列。これらはすべて、魔法プログラムだ。
命ある者が持つ、限りあるアークルを消費し、人がそれを形あるもの、魔法として出力させるための介入システム、それが魔法媒介、そしてプログラムの存在だ。
クリシュナは、その魔法プログラムを、赤い宝玉の形をしたマギア・フィラフトにインストールすると、机の片隅にある箱に、そっとしまう。その箱にはすでに、3つのデバイスが保管されており、それぞれ、青、緑、紫の色に輝いている。
「さて、来たる満月の夜。」
クリシュナは、口元に笑みを浮かべながらも、その目つきは、鋭かった。
「わたしは、最後の大捕り物を実行する。ミミル国政府を、ぶっ潰すために……!」