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満月の夜  作者: 旅わんこ
6/15

File3 宿敵来たる

 潤水じゅんすい国家、ミミル。

 水が豊かならば、自然も豊か。水と共に人々の暮らしがあり、水と共に様々な命が謳歌している。

 他の国々より建築技術が突出しており、巨大な湖さえ取り囲む巨大な空中都市を建造するほど。だが、古きよき下町の景色は受け継がれ、必要以上の開拓はされていない。それでも、魔法技術の未来化に伴い、都会にはもちろん、下町にも、様々な魔法機器が導入されている。

 そしてここ……

 アクアリウス州サダルメリク市に位置する、サダルメリク商店街の一角の工房でも、とある少女の1日が、始まろうとしていた。

「さーって! 今日もがんばりますか!」

 怪盗・満月の夜の、平日の姿の少女。

 クリシュナ・レグルスの、大捕り物を前日に控えた1日が、幕を開ける。


 店のシャッターを開け、朝食を終える。

 スポーツ用の自転車を駆り、クリシュナは学校に通う。工房の職人だけあり、ブレーキの交換やその調節、メンテナンスはお手の物。

 クリシュナとエルメスが通う学校は、学費免除制、サダルメリク州立高等教育学校・第1校舎。古めかしくも荘厳とした、立派なたたずまいの学校で、事実、サダルメリク州にある過去の王族の城を新装し、運営している。

 ちなみに、ミミル国では、王制が廃れた今、各地の王城は何らかの施設にリフォームされることが多くなっている。ミミルのみならず、大陸全土に渡り、かつては小さな王国が点在していたのである。現在でも王制の国は存在する。

「おはよー、クリシュナ!」

「久しぶり、元気だったかな?」

「おはよ。お仕事の方はどんな感じ?」

 クラスメイトが、クリシュナに声をかけてくる。クリシュナも、彼らに返した。

「おはよう、みんな。大丈夫、工房の仕事も、順風満帆そのもの! みんなも元気だった?」

 すると、エルメスが教室に入ってきた。彼女はゴーグルがついた狩猟帽を脱ぎ、それを机の上に置き、さらさらとした金色の髪をインバネスコートの背に流す。

「あっ、エルメス! おはよっ!」

「みんな、おはよう。と言っても、お昼で早退するけれどね。」

 あいさつとともに、インバネスコートも脱ぎ、椅子の背もたれにかける。白いシャツ、チェック模様のネクタイ、かぼちゃパンツが現れ、そして探偵の証であるスターバッジが、ふわっと揺れる。

 そこに、クラスメイトの男子が、エルメスに聞いてくる。

「お? お前、満月の夜の逮捕のために、別の州に行ってるんじゃなかったっけ?」

「大体の作戦指揮は、向こうの自衛団の団長さんに任せてきたわ。あとは、明日、つまり満月の夜当日の、自衛団員と警備員の人員配置だけ向こうで決めてもらえば、満月の夜を迎え撃つだけよ。」

 そこに、別の女子生徒が言う。

「『満月の夜に、満月の夜を迎え撃つ』って、何だかおもしろい言い回しだよねー。」

「そう、それで各新聞社も、日時を指す『満月の夜』をどう言い回したらいいか毎回軽く悩むそうよ。」

 今度はクリシュナが聞く。

「ところでエルメス。今日はどうして学校に?」

「政府直属ということで免除されているとは言っても、できるだけみんなと同じ勉強がしたいからね。作戦はうまくいっている。それに、何事も焦ってはダメなの。」

「なーる。じゃあ、一緒におべんきょ、楽しもうか!」

「ええ。今日もよろしくね、クリシュナ。」


 その日の昼。

 午前の授業が終わるなり、エルメスは教科書とノートをまとめ、帰り支度を始めた。

「あれ? エルメス、やっぱり早退しちゃうんだね……」

 弁当箱を机に広げるクリシュナが、エルメスに言う。

「ええ。今からここを発って、今夜カルキノス州の美術館そばのホテルに到着。明日は仮眠を挟んで、満月の夜を逮捕するための最終調整。あたしの作戦に、抜かりはないわ。」

「そう。……応援してるよ。」

「ありがとう、クリシュナ。」

 エルメスはそう返すと、髪をまとめ、狩猟帽をかぶり、カバンを肩にかけた。

 そして教室の出口に足を向けたところで、エルメスは背中越しに、クリシュナに聞いた。

「ねぇ、クリシュナ。あなたは、怪盗・満月の夜のこと、どう思う? やっぱり、世間がもてはやすように、おもしろい、そして奇抜なことをやってのける、そして金持ちや悪徳企業、美術館などしか狙わない、義賊やエンターテイナーのようなものだって思ってる?」

「えっ? 何、藪から棒に? ……うん、どうだろうね。でも、実際満月の夜は、盗んだ金や、宝石を売りさばいたお金を、本人曰くだけど、全額、ボランティア団体や、孤児や無職者に対する救済団体に寄付しているっていうじゃない。露天の食料支給も、割増しに、しかもおいしくなっているみたいだし。美術品に関しては、無傷で返してくれてるし。

 ……たとえ、満月の夜が法を逸脱した犯罪者だとしても、満月の夜のおかげで命を救われたストリートチルドレンも多い。わたしは、満月の夜のことは、少なくとも根っからの悪人じゃないって思ってるよ。」

「いい答えね。『根っからの悪人じゃない』、か。……そうね。真の悪人など、いないのかもしれない。」

「ううん、いるよ?」

 歩き出そうとしたエルメスに、今度はクリシュナが呼び止めるかのように答えた。

「誰なの?」

「大陸の支配者。彼こそ。」

「……そうね。じゃあ、失礼するわ。」

 そう言って、今度こそ、エルメスは教室を出てゆく。彼女の背には、優雅に、金色の髪とインバネスコートが、なびいている。

 そんな後姿を、クリシュナは、弁当箱を開かないまま、見送る。だが、クリシュナが見ているのはエルメスの背中ではない。もっと大きな何かを。すぐ近くの未来を。自分には背負いきれないものを、見据えている。

 ……怪盗・満月の夜として。


 その日の晩。

 時刻にして午後8時0分。

 クリシュナは店じまいをし、商店街を、魔法動力のスケートボードで駆け抜ける。両肘、両膝にはプロテクター、頭にはキャップ、目元には1枚ガラスのシールド。背中にはリュック。満月の夜として活動しているわけではなさそうだ。

 そして訪れた場所は、肉屋、八百屋、魚屋など。海に面しないミミルで獲れる魚は、川、あるいは湖に生息する魚がほとんど。海産物は、塩漬けや天日干しなど、ある程度加工されて内陸へとやってくる。そのため、内陸の海産物は、運搬、加工、人件費などがかかり、結構高価なものが多い。

 クリシュナは店を閉めたあと、こうしてこの時間まで売れ残っているものの買い付けに訪れている。その頃には食材も値が落ちている。ほしい食材がすでに売り切れいていることもよくあるが、それは仕方がない。

「にゃはははは~、今日もいい食材が安く手に入った! パスタとソースが大量に買えたから、あとは乾燥肉とお野菜で、五目野菜炒めをてんこ盛り~!」

 クリシュナのリュックは、出発した時はしぼんでいたのが、大量のパスタ、ソースの材料、乾燥肉、数種類の野菜が詰め込まれ、風船のように膨らんでいる。クリシュナ、案外大食漢なのだろうか。あるいは、兄・ラングがいつ帰ってきてもいいように、たくわえを残しておくためだろうか。

「………… ………… ……そうだ。」

 するとクリシュナ、何を思ったか、スケートボードを加速させ、自宅の前を通り過ぎ、商店街の外に出る。そして裏通りから大通りへと飛び出し、更にスピードを出して路肩を走る。

 何台もの車やバイクに追い抜かされながら、それでもクリシュナは、軽車両の上限速度を守りつつ、軽快にスケートボードを走らせる。

 そしてたどり着いたのは、ミミル湖のほとり。湖を取り囲む地形は、切り立った崖であったり、ごつごつとした岩肌がむき出しになっているところだったり、林や森が面していたりするところもあるが、クリシュナがやって来たこの場所は、砂浜になっていた。

 もっとも、海辺のようにさらさらした砂があるわけではなく、河原のように、大粒小粒の石が転がっている、そんな浜辺だ。湖であるため波はなく、サーフィンなどはできないが、ボートやヨットを楽しむ人はいる。それでも、この時間だ。遊泳客はまずいない。

 昼間、ここでバーベキューやグリル料理を楽しんだ人がいるのだろう、大きな石が積み重なり、その簡易かまどの中には真っ黒な灰が残っている。花火を楽しんだ人もいるようで、小さな花火ゴミが散らばっている。

「世界樹、ユグドラシル…… いつ見ても壮大だけど、こうして近くで見てみると、もっとすごいなぁ……」

 ふわっ、と、肌に心地のいい夜風が、クリシュナの頬をなで、髪を揺らす。

 目の前に広がる、広大なる湖。その中央には、1本の巨大な樹木、世界樹が、枝を伸ばし、夜空を覆っている。その枝の先は、湖を取り囲むように建てられた英知の庭園ヴァイスガルテンをも飛び越え、まるで国全体を覆っているのではないかと思えるほど、その姿は、雄大で神々しい、そして圧倒的な存在だった。

 ――ミミル湖…… この国の、そして大陸全土の、唯一の水源……

 クリシュナは、食材が詰め込まれたリュックを下ろさないまま、近くの大きな石に腰掛けた。明日に満月を控えた強い月明かりさえもさえぎる世界樹と、その月明かりに照らされ、また世界樹にそれをさえぎられた部分の、光と影のコントラストの強い湖の景色が、悠々と広がっている。

 ――ヨルムンガンドはそれを取り上げ、水に対して高い税金をかけ、国外に対しては、国内にダムを作ってまで水との取引をしている。みんなの命の源であるミミルの水は、支配者ひとりの権利のもとにあるんじゃない。

 ――人々から水を取り上げ、横暴な政治によって周辺の国の人々を苦しめている。この国にばかり有利で、金や魔法技術を取り上げるような暴政を続けるヨルムンガンド。わたしは、絶対にあなたを許さない。

 ――国民を、大陸を代表して、なんて身の程をわきまえない、せん越なことは言えない。でも、水に莫大な税金をかけるなんて馬鹿げた政治のおかげで、大陸全土でたくさんの飢饉が発生している。安全な水もろくに飲めない人が多くいる。

 ――わたしは、そんな人々を救うために、ヨルムンガンド、あなたを討つ。

 空に広がる、世界樹の大きな枝。その向こうに輝く、明るい月。

 クリシュナはそれを見上げ、ふぅ、とため息をついた。

 そしてゆっくりと立ち上がり、両手でお尻を掃うと、枝の向こうに見える月に、誓いを立てるように、小さくつぶやく。

「明日盗むのは、鍵たる宝剣。……そしてそのあとに盗むのは、大陸の現在いまだ!」


 そして訪れし、夜空に満月輝く夜。

 野次馬たちは熱狂し、横断幕やプラカードなどを掲げながら、大いに沸いた。自衛団や警備兵も手がつけられなくなった彼らは、半ば武力を以って強制排除されてゆく。

 そして、ひとりの男性自衛団員が気付いた。

「いたぞ、現れた! 怪盗・満月の夜だ!」

 彼が見上げた先は、夜空に高く昇った、煌々と輝く満月。その中に、黒く小さな影が見える。望遠鏡を持つ別の自衛団員が黒い影を見ると、その正体は。

「気球発見! ……いや、今、凧のようなものを広げて、人影が飛び降りました! 満月の夜と思われます!」

 すると、凧…… カイトを広げた人影は、遥か上空から、大きく螺旋を描き、悠々と舞い降りはじめた。誰もが、銃や大砲を構え、空を舞う漆黒の影へと向ける。そこに、アルカウスの代わりに指揮を執る、黒いスラックス姿の青年が、小さな声で、しかし拡声魔法を使い、全員に指示をする。

「まだ撃つな。この距離では100発撃っても1発さえ当たらない。それにあれが、以前アクアリウス州でやったような、風船人形かもしれない。あれがおとりであることも考慮して、他方たほうにも注意を張り巡らせろ。」


 彼の読みは当たった。しかし、もはやその読みは、何の意味も成さない。

 なぜなら、満月の夜は、時刻になると同時に、何とエルメスたちの前に姿を現したからだ。

 美術館2階フロア、警備兵の服装の満月の夜が、どういうわけか館長ともに、真正面から堂々と現れたのだ。

 警備兵の制服を脱ぐと、その下から現れたのは黒いジャケットではなく、プロテクターつきの黒いセーターと、その上に防弾アーマー。首にかけていたゴーグルは、素顔が見られないように目元にあてがっている。

「……考えたわね、満月の夜。」

 アルカウスと男性自衛団員が驚くのをよそに、エルメスはわずかに動揺しただけで、すぐに満月の夜に、クールな笑みを向ける。

「他の自衛団員があなたの顔を知らなくても、2人1組であれば怪しまれないと踏んだわけね? しかも、館長を連れ立ってとなれば、なおさら。……館長、どういうことか、ご説明願えます?」

「そっ、それが、その…… 満月の夜君に、一緒に巡回してくれと頼まれて、断るに断れなくて、済まぬ……」

「はぁ……」

 エルメスは軽いため息をついた。そして今度は、満月の夜=クリシュナに問う。もちろん彼女は、満月の夜が親友たるクリシュナであるとは知らないはずだ。

「あたしが強化した警備体制も、お見通しだったというわけね。」

「まぁね。でも、それに気がついたのは今日の閉館後。こりゃー思っていたより手強いなって思ったところで、この警備体制の2人1組制度に気付いて、帰宅する直前の館長さんに、大慌てで同行をお願いしに行ったんだ。あまり顔を見られないように、さっきまでずっと館長室で待機してた。」

「『お願い』? そのお願いの仕方によっては、それも罪に問われるけど?」

「まーまーまーまー! 酷いやり方じゃないって!」

 クリシュナはそう弁解するが、大抵、犯罪者の弁解など通るわけがない。

 彼女は続ける。

「……ところで問題は、このどうやって、あなたたちが守っている『本物の』ライガーの牙の短剣を盗むかどうか。さすがにあなたたち3人を相手にして、力尽くで勝てるとは思えないし、戦いに発展しても、他の美術品やこの施設を傷つけてまで強引に奪うってのも、わたしのポリシーに反するわけで。」

「本物の? 何故それがあなたに分かるの? これが贋物であるという可能性はないの?」

「ないよ。わたしの目利きを信じなさい。それに、ここ数日間のトラックや大型乗用車の出入り、金庫のセキュリティシステムを、監視、ハッキングした結果、ライガーの短剣に関する移動や、金庫が開けられた様子も、短剣が台座から動いた様子も、見られなかった。」

「四六時中監視を……!? まったく、たいした忍耐力か、あるいは監視用魔法システムでも作ったのか。」

「あなたの想像力と推理力にお任せします。さて本題に戻るけど、さぁどうやって盗もうかな、それ。」

 そう言うと、クリシュナは自らが口にした難題、短剣を盗むことの難しさを前に、余裕の態度で、左手に取った水筒の中身をひと口だけ飲む。余裕の態度で相手を舐めてかかっているように見えて、実は右手を腰に装備した魔導銃をいつでも抜けるように構えている。クリシュナの無言の挑発に乗って、むやみに攻撃することはできない。

 そしてエルメスは、そんなクリシュナに問う。

「建物を爆破したり、あたしたちを攻撃したりして、その隙に逃げる、という選択肢はないわけね? あくまで怪盗紳士気取りで、鮮やかに、大胆に、スマートに、あたしたちの目の前でこの宝剣を盗むつもりのようね?」

「……そうだね。そうしたいのも、山々。」

 満月の夜、クリシュナのその言葉を、エルメスは黙って聞いていた。

 そしてクリシュナは、水筒を腰に提げると、言う。

「でもね。わたしが『物を盗む』、というのは、あくまで『結果を出すまでのプログレスのひとつ』に過ぎない。だから、この状況下でわたしが仮にライガーの牙の宝剣を盗み出すことが万が一にもできたとしても、わたしにとってその宝剣は、何の価値もない。」

「負け惜しみかしら。」

「それもちょっとはあるかな。だって、盗むと予告しておいて盗まないで帰るのは、カッコ悪いじゃん。……さぁ、探偵エルメス・スロックノール。わたしは、その短剣がとてもほしい。でも、わたしにとってその短剣の価値はゼロ。わたしが本当にほしいもの、あなたには分かるかな?」

 クリシュナは、探偵、というところを強調した。自分の言いたい意味が、彼女なら分かるかどうか、試しているようだ。

 だが、答えたのはエルメスではなかった。アルカウスだった。そして彼女の右手には、攻撃魔法用の魔法陣が展開されている。いつでも、クリシュナを射撃する準備はできているというパフォーマンスだ。

「何が言いたいのか分からないけど、どんなたいそうなお題目を掲げようと、あなたのしていることは、れっきとした犯罪。現在のことだけをカウントしても、建造物への不法侵入、および窃盗未遂。館長を連れてきた過程に問題があれば、脅迫罪も適用されるかもしれない。だから、あなたは大人しく我々に逮捕される。それ以外の運命はない!」

「大丈夫。あなたたちに、わたしの逮捕なんてできるわけがない。」

 そう、自信満々に言い返すクリシュナ。そんな彼女に、アルカウスはとうとう、魔法陣の中央に赤い光を灯し、問う。

「たいした自信ね……?」

「だってわたしは、怪盗・満月の夜だから。ターゲットを鮮やかな手口で盗み、誰ひとり傷つけることなく、颯爽と現場を去る。それは誰にも、そう、探偵エルメスにすら、覆すことはできない。」

 そう言って、クリシュナは、前に歩み出る。つかつかと、自信にあふれた、軽快な足音を響かせながら。

「満月の夜君、何をするつもりだね……!?」

「ご心配なく、館長さん。このような警備体制では、『ライガーの短剣は』盗めませんから。悔しいですけど。」

 そう言って、クリシュナはなおも、敵陣へとゆっくりと歩み寄る。エルメスはクリシュナに整備してもらったばかりの銃を構え、男性自衛団員は剣の握りに手を添え、アルカウスは魔法を解除しようとしない。それでも、クリシュナは大胆にも、ライガーの牙の短剣が保管された台座のそばに、たどり着いた。

「さて、これを盗もうとするわけだけど、こうもみんなに守られていては盗みようがない。だからせめて、じっくりと拝ませてもらえないかなぁ、そのくらいできるでしょ?」

 その言葉に、エルメスが返した。

「ええ、気が済むまで眺めるといいわ。あなたが飽きた頃、逮捕してあげる。」

「どうも。じゃあお言葉に甘えて。」

 クリシュナはそう言うと、右手をクリアケースの上に、そっと添える。

 腰をわずかに曲げて、前かがみになってライガーの短剣を見つめる。

 ……ただ、それだけだった。

 盗もうとも、敵の油断を伺おうとも、クリシュナは思っていなかった。クリアケースを右手に乗せたまま、じっくり、穴が開くように、その瞳に焼き付けようと、ただただ、短剣を見つめていた。

 ………… ……そして、

 時だけが過ぎる。

 次第に、男性警備員もアルカウスも、苛立ちが達してきた。そして姿勢を崩したり変えたり、腕を組んだり、次第に落ち着きがなくなり始めている。一方、エルメスは微動だにせず、ただただ、クリシュナがそうしているのを見つめているだけだった。

 5分、10分、15分…… 一体、いつまでそうしているのか。

 とうとう痺れを切らしたアルカウスが、怒鳴りだした。

「……ッ! いい加減にしなさい! いつまでそうやって眺めているの。いくら自分の盗みが失敗したからといって、私たちだってヒマではないの。寝る時間を削ってあなたに付き合っているこの時間、無駄に捨てさせる気!?」

「ムダだなんて、失礼な。うん、たった今、わたしの目的は達成した。」

 そう言うと、クリシュナは右手をクリアケースからどかし、2回3回、バックフリップにて撤退。館長のそばに戻ってきた。

「わたしはターゲットを盗めなかった! それはひとえに、エルメス、あなたの考えた警備体制によるもの。さすがだよ。わたしの送りつけた予告に動揺せず、警備体制を崩すことなく強化した。結果、わたしはライガーの短剣を盗むことはできなかった!」

 高らかに、敗北を認めたクリシュナ。だが、それで気を緩めるエルメスではなかった。

「盗めなかった、それでいて目的を達成させた、ですって? どういう意味なの、説明しなさい。」

「それは最重要機密事項。しゃべるわけには、行かないかな。」

 そしてクリシュナは、右手を腰に添え、魔導銃をいつでも抜けるように身構え、答えた。しかし、それはまだ抜かない。

 すると。

「っ……!? なんだ、これは!?」

 クリシュナと館長のそば、ここ2階フロアへの入り口から、白い霧が立ち込めてくる。アルカウスはそちらに魔法の光を向けるが、もう遅かった。何と、入り口からだけではない、フロアの換気口のあちらこちらから、霧のようなものがあふれ出してきたのだから。

「ガスね。……スプリンクラー機動。」

 エルメスが壁際に設置された、スプリンクラー緊急機動ボタンを押す。それも、ビル備え付けのスプリンクラーでありながら、5機も設置されていた。対・満月の夜用に緊急設置したわけではない。それだけ、この美術館に保管されている美術品や文化財を、火災などで焼失しないように対策を整えているようだ。

「満月の夜! あなたが催眠ガスを使うことなど!」

 エルメスが叫ぶ。だが。

「スロックノール! 標的は逃げたわ。追いましょう!」

 何とクリシュナは、催眠ガスに対する動揺、そしてスプリンクラーの起動と言う、ふたつの混乱が起こった一瞬の隙を突いて、このフロアから脱出していたのである。あとには、クリシュナによって連れてこられた、美術館の館長だけが残されていた。

「あーもう、なんてこと!」

 そしてクリシュナの方は。

 ――やるね、エルメス。ガスに動じずにスプリンクラーで対処するとは。……それならしょうがない。怪盗・満月の夜にしては滑稽な手段だけど、全力で走って、ずらかりますか!

 廊下を走り、階段を飛び降りる。わき目も振らずに駆け抜ける。

 逃げるクリシュナを、アルカウスとエルメスが追いかけてくる。エルメスがリボルバーから魔導弾を乱射するが、それは壁に穴を開けるだけで、クリシュナを仕留めるには至らない。

「待ちなさい、満月の夜!」

「待てと言われて待つバカがいますかってーの!」

 クリシュナは一目散に逃げ惑い、エルメスはそんな彼女を追い掛け回す。

 エルメスによる完璧な警備体制、それに挑むクリシュナの華麗なる登場、互いに一歩もゆずらない強気な問答、それらは全て絵になっていたというのに、この追いかけっこが全てを台無しにしてしまった。

 こうして、クリシュナたちは命からがら、自衛団員や警備兵を、ちまちま眠らせることで、脱出に成功した。あとには、自動操縦で呼び寄せた魔法エンジン式グライダーで、逃げおおせることができた。エルメスが美術館の外に出たのは、クリシュナがグライダーに乗って、空高く飛び立ったあとであった。


 世界樹の枝も飛び越えて。

 地上の誰もが目にできない、満天の夜空が天空に広がる。

 クリシュナは星空を見上げながら、世界樹の枝の間に隠していた気球の、そのカゴの中に用意していたクッションに体を預けていた。体を投げ出し、グッタリとうなだれており、疲れきって動ける状態ではない。さすがにこの高さになると空気が薄くなるため、口には小型酸素ボンベをくわえている。

 だが、目だけは違った。

 未来に向けて、燃え滾っていた。

 ――『目的のものはちゃんと盗めた』。これで、未来を拓く鍵はすべてそろった。

 ガラスケース越しに、盗むはずだったものを見つめていた。ただそれだけで、クリシュナは一体何を得たというのだろうか。『鍵はそろった』、という言葉の真意とは。

 そしてゴーグルを外し、クリシュナは、ふぅ、と大きくため息をつく。口元に当てたガラス製シールドが、一瞬白く曇り、また透明に戻る。

 ――次なる満月の夜、わたしは誰もが盗みえぬものを盗み、誰をもあっと言わせてやる。


 そして、エルメスは。

 すべての警備兵および自衛団員が横たわった。静まり返った美術館の庭園の只中にて、ただ立ち尽くしていた。

「………… ………… ……また、やられたわね。」

 明鏡止水。――波紋ひとつ立たない鏡のような済んだ瞳で、空を見つめていた。世界樹の枝の影の向こうで、ゆっくりと空をたゆたう、黒い影を見つめる。彼女の手の中にある1梃のリボルバーには、魔力も何も込められておらず、ただ、持ち主同様、黙りこくっている。

 やがてエルメスは、ポツリと小さく、つぶやいた。

「満月の夜。あなたの目的は、何なの……?」

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