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満月の夜  作者: 旅わんこ
5/15

File2 月を盗む

『来たる満月が昇る晩、私、満月の夜は、私の映し身とも言える満月を盗みに参ります。』


 それは、今年の初め。まだ、年が明けて間もなく。

 太陽の暦、第十七の洗礼の日(1月17日土曜日)、その当日。

 クリシュナ自身にとって、またエルメスにとっても、そして全国民にとっても、記憶に鮮烈に残る、盗めないはずの月を盗むと宣言した、怪盗・満月の夜による、大捕り物の日だった。

 そして現地。

 イクシス州、かつて戦場となり荒れ果てた町、アルレシア市。

 真っ黒な高硬度レンガにて作られた、記念碑としての塔、絆の塔。

 満月の夜と思われる、黒い服に黒い帽子、銀色の縁のゴーグルを纏い、背中には赤いマフラーを夜風になびかせる人物が、煉瓦壁の細く高い塔の上に、黒い気球とともに現れた。

 政府およびイクシス州自衛団によって、満月の夜=クリシュナへの包囲網は展開された。しかしクリシュナは、それに一切おびえることなく、塔の手すりに黒い気球をロープで固定し、ただただ、夜空を見上げて立ち尽くしていた。たとえ、自衛団所有の色鮮やかな気球、あるいは燃料エンジンや魔力エンジンを搭載したグライダーに囲まれようとも。

 そして、クリシュナが立ちすくむ絆の塔には、彼女だけではない、彼女をひと目見るために、イクシス州の一般市民が、多数押しかけた。クリシュナが行動を起こすまで、自衛団の人々の活動は、野次馬と化した騒がしい市民たちの振興を食い止めることだった。

 そして。

「怪盗、満月の夜でいいわね。おとなしく、お縄につきなさい。」

 政府直属の探偵となったばかりのエルメスが、自衛団の男性団員とともに、クリシュナの前に現れた。

 だがクリシュナは、友人であり、敵でもあるエルメスを前にしても、ひるむことはなかった。

「構わないよ、わたしを逮捕するくらい。でもね、分かるよね。」

 クリシュナは壁際まで寄り、余裕の表情で手すりに左腕を乗せると、地上を見下ろす。

 そこには、満月の夜をひと目見たいと、あるいは彼女に会いたいと望む野次馬たちが、押し寄せていた。その様子を見て、クリシュナは微笑む。

「今からおもしろいショーが始まる。それを楽しみにしている人を、がっかりさせることはできない。わたしを逮捕するなら、わたしが満月を盗んだ、その瞬間、現行犯逮捕するといいと思うんだけどなぁ。」

「無理ね。あなたの言う『月を盗む』とは、おそらく天文学的な理論による『月食』の予言。だけど、あなたは墓穴を掘ったわ。多くの天文学者に尋ねたところによると、太陽と月と地球による軌道の計算の結果、月食が起こる日は、今日ではなく、次の満月の晩。……そう、月食が起こる可能性は無限にゼロ。

 つまり天文学的観点におき、月食は起こりえない。あなたがどれだけ天文学に精通しているかは知らないけれど、あなたは誤算したわ。月食が起こらない限り、あなたが月を盗むなどと言うことは、ありえない!」

「……それだけ?」

 そんな、動揺ひとつ感じられないクリシュナの返事に、エルメスは勝ち誇ったような表情を、わずかに崩す。

「何が言いたいのよ。」

「大体そんな、もう月の軌道を計算で解き明かされている天文学を捕り物ショーに使ったってつまらないじゃない。そんなものをわたしが予告したところで、誰も驚くわけがないからね。」

「なら、どうやって月を盗むと言うのよ?」

「雲で隠れても、月は見えなくなるよね。」

「ええ、そうよね。でも、見ての通り、今宵は雲ひとつない晴天。つまり、万にひとつも、月はおろか、小さな星ひとつ、あなたには奪えない。待つだけムダよ、満月の夜。さあ、あなたの予告を覆すこの夜空を見上げながら、おとなしくお縄につきなさい。」

「覆らないよ。むしろ覆るのは、ミミルの天気予報、かな……?」


 その時だ。

 クリシュナとエルメスを、いや、塔の周辺に集まるすべての人を、冷たい風が、包み込む。

 その時、クリシュナは、ふっと微笑んだ。

「さて、スーパーショータイムです。」

 すると、満月の夜は右手をゆっくりと上げ……

「ッ!?」

 エルメスたちが身構える中、しかし彼女は、空に指を向けた。

「怪盗・満月の夜が、我が写し身たる満月を盗んでご覧に入れましょう。」


 途端。

 真っ黒な雲が、夜空を覆いつくす。

 星たちは姿を消し、闇が夜空を蝕んでゆく。

 そして、その闇はやがて、煌々と輝く満月さえも、浸食するように飲み込んでいった。

 夜空に輝く満月と星たちの光だけが、地上を照らしていた。しかし、地上に光を届ける、星たちや満月さえも、やがて、真っ黒な雲に、覆い隠されてゆく。

 この瞬間、予告は実行された。

 怪盗・満月の夜に、星たちもろとも、満月を奪い去られてしまった。

「な…………………………!?」

 エルメスが、そして誰もが驚愕する中、クリシュナは叫ぶ。

「ご覧の通り!」

 エルメスは、誇らしげに胸を張るクリシュナを見据えた。クリシュナはいつの間にか、左手にカメラを持っていた。

「唯今、わたしは、人々の目の前で、月を盗むことに成功いたしました。ここにその証拠写真も持っております。どう? 予想し得ない形で、わたしの予告が現実となった瞬間を目の当たりにした、その感想は。」

「……どういう、ことなの。説明しなさい!」

「簡単だよ。わたしは天文学と気象学について、ある程度勉強している。でも、それ以上のことは企業秘密ってことで。あとはそちらで考えてみて。調査と推理は、専門分野でしょ?」

「くっ……! 言われなくてもそうするわ。でも、これだけは答えなさい。一体、あなたは、何がしたいの!? 何であんたみたいな学のある人が、こそ泥のようなことをやってるの!?」

 叫ぶように問いただすエルメス。そんな彼女に、クリシュナは、ふっと微笑んで返した。

「……泥棒が本当に盗みたいのは、夢と希望だよ。」

「どういうこと?」

 まさかの答えに、エルメスは動揺する。だが、クリシュナは続けた。

「法律に縛られることなく、自分の夢を自由に追い求められる。法律にそむきつつ人々の目を集める、そんなアウトローにはロマンがある。」

「自由? ロマン? それは違うわ。あなたは世の中をおちょくっているだけの、ただの愉快犯。あなたが自由だと思っているものは、自由なんかじゃない、勝手よ。

 自由と勝手は違う。自由は自分の想いの確かなる意思で物事を実行し、その行動に責任を持つこと。勝手は、思いつきで動き、人に迷惑をかけ、その責任を取ろうとしない。あなたは後者。迷惑者以外の何物でもない!」

「そのくらい知ってるよ。でも、わたしは自分を自由人だと言い聞かせる。わたしはわたしの自由の信念のもと、これからも泥棒を続ける。そしてわたしの捕り物ショーが、誰かを笑顔にするのなら、たとえあなたたち探偵や、政府さえ敵に回したって、構わないと思う。」

 すると。

「じゃあ、この辺で。」

 クリシュナは、重いバックパックを背に、しかしそれを背負っているとは思えない軽々とした身のこなしで、塔の手すりに飛び乗った。

 だが、エルメスは銃を構え、前方に向ける。

「逃がさない!」

 そして発砲する。実弾だった。それも6発、すべて同時に使い切り、すかさず銃を折って、クリップにはめられた新しい銃弾を装填する(エルメスのリボルバーは、銃身の真ん中で折ることでシリンダーの手前側をむき出しにできる、『中折れ式』だった)。

 赤い火花を上げながら放たれた銃弾が打ち抜いたのは、黒い気球と、燃料エンジン。それまで燃え盛っていた炎は小爆発を起こして消えてしまい、気球に開いた穴は裂けて広がり、そこにできた大きい穴からは熱い空気が漏れて、次第にしぼんでしまう。

 手すりにロープで括りつけられていた気球はそのまま、真っ逆さまにひっくり返り、塔のてっぺんで宙吊りになってしまう。あとにはエルメスが捨てた6つの空薬莢が、塔の屋上の床の上で、弾み、転がる、無機的な音が響くのみ。

「退路は断った! おとなしく捕まりなさい、満月の夜!」

 その行動に、クリシュナは「あ~あ…… お金、結構かかってるんだけどなぁ……」と、頭を抱えて手すりの上にしゃがみこんでしまった。その様子を見て、エルメスは勝ち誇った。

「観念しなさい、満月の夜。今回のことはただのショーであるとして認めてあげる。それでもあなたは、これまで金品および国の重要文化財を盗んできた犯罪者。このまま逃がすわけには行かない!」

 銃を掲げながら、腰から手錠を、エルメスは取り出す。

 それでも。

「……なーに言ってるんだか。」

 クリシュナは、怪盗・満月の夜としての仮面を外すことなく、不適に微笑む。

「まだまだ、わたしは立ち止まらないよ。ミミルに…… いいえ。大陸に、本当の平和を、取り戻すまではね!」

「本当の平和、ですって……?」

 その瞬間。

「なっ!」

 エルメスが静止する暇もなく、クリシュナは、手すりを強く蹴って、塔の外に、身を躍らせた。気球を失った今、逃走手段はないと思われたが。

「さよーなら、探偵さん! また、満月が輝く夜にでも会いましょうか!」

 何とクリシュナは、バックパックを開き、そこから黒く大きな三角形の凧、カイトを展開した。漆黒のカイトを広げたクリシュナは、そのまま風に乗って、町の中に紛れていった。

「待ちなさい!」

 エルメスはすぐさま、クリシュナが飛び立った手すりのそばに駆け寄り、彼女に銃を向ける。だが、無関係な人を巻き込むわけにも行かず、また、もう標的は遠ざかってしまったこともあって、すぐに銃をおろし、安全装置をかけた。

「………… ……何が、自由よ。誰かを笑顔によ。」

 つぶやくエルメス。

 だが、そんな彼女と、傍らにいる自衛団員たち、そして満月の夜をひと目見ようと塔を訪れた人々に、雨が降り注ぐ。まるで、華々しい捕り物ショーに終幕を告げるかのように。


 雨が降り続いた夜が明け、蒸し暑くなった翌朝、クリシュナによる捕り物ショーは、国中を騒然とさせた。

「みんなー! 今日の新聞の一面は、怪盗・満月の夜特集だ! 買ってけ買ってけぇ~!」

 国営、民営、各新聞社の一面には、天気予報を百八十度ひっくり返して、巨大な雨雲を操り、満月の夜は自分の写し身である満月を鮮やかに盗んだという記事を書き上げていた。

 これに、国中の人々は沸いた。だが、新聞でそれを知った人は少なく、昨晩のうちに、満月が目の前で暗雲に飲み込まれてゆくその様を見ていた人が多かった。そのため新聞を買う前に、昨日はすごかった、本当にあの泥棒は満月を盗んでいった、万に一つもありえないことをやってのけたと、驚きつつも満月の夜に対する賛辞を口にしていた。

 当然、エルメスもその新聞を読んでいた。だが、怒りをあらわにすることはなく、冷静に、ただ冷静に、記事は『眺めながら』、昨晩、満月の夜が口にした言葉を、何度も繰り返す。

 ――「わたしは立ち止まらないよ。大陸に、本当の平和を、取り戻すまではね!」

 そして、エルメスは思う。

 ――あなたは、義賊でも気取るつもりなの……?




 時戻り、唯今。

 スロックノール邸、エルメスの部屋。

 エルメスは事件簿を閉じ、本棚に戻した。

 彼女の部屋の内装は、こざっぱりしているが、天蓋付きのベッドや模様つき羽毛布団があるなど、女の子としてのオシャレには多少気遣っている様子。机の上にあるインテリア屋、ペンケースなどの文具なども、模様があるものが多い。クリシュナの工房製のものから、雑貨屋で買ったデコレーションシールを貼ったものなど。

「ふぅ……」

 エルメスは椅子に座り、背もたれに体を預ける。

「誰かの笑顔のために、自由を掲げ、あえて法に背く……」

 それは。

 かつて満月の夜が口にした言葉だった。


 同時刻。

 レグルス工房。

 ラボ、1階の店のシャッターを閉め、クリシュナは、2階の自室にて、魔導情報処理端末『メタ・クロニクル』を開いていた。

 本棚には多種多様な本が、金網の棚にはいろんな機械の完成品や使い古しの工具が、所狭しと並んでいる。机の備え付けの本棚には、たくさんのファイルやスクラップ記事が、こぎれいにまとめられている。机の上にも、こまごまとした機械や、マギア・フィラフトが並べられている。まるで、小さな博物館だ。

 メタ・クロニクルの端末、手前には空中に魔法陣で描かれたコンソールがあり、クリシュナはその綺麗に配列されたキーをタイピングしてゆく。別に現れている円形魔法陣には、四角い画面が映し出され、そこにはたくさんのアプリケーションが表示されている。一番手前に現れているアプリケーション画面には、魔法プログラムの文字列がずらりと並んでいる。

 クリシュナはその画面を閉じ、そして他のアプリケーションも閉じると、メタ・クロニクルを1本の黒いコードで、とあるマギア・フィラフトに接続。クロニクルにて『インストール』のプログラムを開き、何かのプログラムを、フィラフトにインストールする。

 そして、十数秒後に表示された[インストール完了]の字幕を見、クリシュナはふっと微笑んだ。

「それじゃあ…… 今日のところはこんな感じで、おしまいっと!」


 レグルス工房、屋上。

 真夜中だと言うのに、そこにクリシュナはいた。

 服装は、黒い帽子に黒いジャケット、黒いロングパンツ、やはり黒いブーツに身を包み、赤いマフラーを背中に流している。まるっきり、世間を騒がせている、怪盗・満月の夜そのものの姿だ。

 ……いや。

「それでは、次の盗み先の下調べと行きますか。」

 満月の夜、本人だ。

 怪盗・満月の夜となったクリシュナは、銀色のフレームのゴーグルをかけ、背中のバックパックから大きな翼を開いた。

 それは、漆黒のカイト。

 三角形の形をした、大きな凧。

 そしてクリシュナは、右手に握った銃のトリガーを引いて、その銃口から風を巻き起こし、大空に飛び立った。


 半分の月が輝く、満天の星空の下。

 満月の夜ことクリシュナは、最初に銃撃魔法で風を巻き起こしたこと以外は、自然に流れる風に乗り、大空へと飛び立っていた。ゴーグルを目元に当て、満足そうな笑顔を浮かべ、悠々と、月と星たちが輝く、夜空の下を舞う。

 ――わたしのリサーチはほぼ完遂。あとは予告文を送り、当日に盗みを実行すればいい。

 ――そして、わたしが泥棒でいられる日もそう遠くない。

 ――本当にミミルの人々を…… 大陸の人々を救うのは、『その次』のアクション。

 そして、クリシュナのそれまでの笑顔は消え、一瞬にして、険しい表情となる。

 ――待っていなさい、ヨルムンガンド。

 ――大陸の人々から、水をしちにして税金を巻き上げてきたその暴政を……

 ――わたしが、終わらせてやる!




 それから1週間あまり。

 カルキノス州、州立美術館。

 そこに、1通の封筒が届いた。そしてそれを受け取った、細身で白髪とは下が目立つ気弱そうな男性、美術館の館長は震え上がった。

 怪盗・満月の夜からの予告状が届いたのだ。

 ――次なる満月の輝く夜、私は、其方そなたが保有、保管している、ライガーの牙の短剣を頂戴致しに参ります。ご用意の程、よろしくお願いいたします。

 これにあわてた館長は、カルキノス州自衛団に連絡。自衛団は組織内で、対・満月の夜部隊を結成し、政府直属探偵エルメスに出撃を要請した。


 サダルメリク市、州立高等教育学校ギムナジウム・第3校舎。

 その頃エルメスは、学校にて授業中だったが、政府直属探偵を任命されている彼女は、授業中であろうとそのレシーバーだけは取ることができる。教師に断り、すぐさま、腰のポーチからレシーバーを取り、ノートは別のページを開き、そこに用件を走り書きする。

「……今度はそちらに、お出ましですか。」

 それまで勉強机に座っていたエルメスは、携帯用レシーバーをすっとポーチに納めると、教師に言う。そして同じ教室で授業を受けている生徒たちも、ざわめきつつ、どこかワクワクしている感じがある。また、クラスメイトでもあるエルメスの活躍を聞けるかもしれないからだろう。

「先生!」

 魔法スクリーンの前に立つ、白衣の女性教師に、エルメスは言った。どうやら、科学の授業をしていたようだ。

「はい、スロックノールさん。」

「先生。ちょっと、カルキノス州まで出かけてきますね。」

「えっ!? ……スロックノールさん、国の反対側までですか!?」

 現地カルキノス州は、州立高校あるアクアリウス州とは、ミミル湖および世界樹をはさんで、その正反対に位置する。これは片道だけでも、途方もなく長い旅路になりそうだ。

「満月の夜が現れたんです。探偵として、行かなければなりません。」

「そう、ですか…… ではスロックノールさん。道中ご無事で!」

「ありがとうございます、先生。」

 授業の荷物をまとめ、それをロッカーに押し込み、身軽な装備のまま、エルメスはクリシュナに言った。

「クリシュナ。あたしの荷物、あなたに任せたわ。」

 授業の姿勢のままのクリシュナは、その言葉を聞き、にっこりと微笑み、うなずいた。

「安心して。実家にちゃんと届けてあげるから。」

「頼りにしてるわ。」

 そして、それだけ言うと、エルメスはインバネスコートを翻し、教室を飛び出した。

 エルメスの華麗なる出撃に騒然となる教室。騒ぎ立てる生徒たちをすぐには静めない教師。そして、エルメスが飛び出していったドアを、クリシュナは楽しそうに見つめる。

「………… ……お互い、がんばろうね。」


 翌日。

 カルキノス州、州立美術館。

 州知事であるアーサーは同行できないため、エルメスひとりでの訪問となる。エルメスは学生としての身分もあるが、学校からは、事件があった際は、宿題の提出で免除されている。

 州立美術館は、赤いレンガと白いタイルの壁に、城壁のやぐらのようなフェンスの屋上を持つ。壁や柱には石膏や金箔の彫刻が飾られ、敷地は広く、装飾のある噴水と石工彫刻が設けられた芝生の庭園があり、地下1階を含むと5階建てになる、国内の美術館の中でも最大規模を誇る。

 ライガーの牙の短剣は、地上2階のフロアの北側に位置する、紫色のクッションが敷かれた台座の中央に飾られている。しかも、剣は抜かれ、剣と鞘が並べて展示されていた。

「満月の夜のターゲット、これが、ライガーの牙の短剣……」

 エルメスは、それを見つめ、静かにつぶやく。

 ライガーの牙の短剣は、その名のとおり、剣身と握り、更に鞘にも、ライガーの牙を素材とした彫刻が施され、銀色の金属の素材は錆びひとつなく、鍔と鞘には彫刻と宝石が、ところどころにあしらわれている。

 その宝石の中のひとつに、マギア・フィラフトが使われている。レンズや球体のようなフィラフトではなく、宝石のようにキラキラと磨き上げられている特別製だ。

 狩猟帽の鍔を人差し指でクイッと持ち上げ、短剣を見つめる。そんな彼女に、美術館の館長の男性は言った。

「……スロックノールさん。本当に、あなたが提案した、こんな警備体制で大丈夫なんですか……? 本当に、満月の夜はやってくるんですかね……?」

「館長さん、あなたがうろたえてどうするんですか。そのうろたえ、心の隙間に、満月の夜はそっと忍び寄ってくるんです。あたしの作戦通り、いつもどおりの警備と、いつもどおりの管理スケジュールで迎え撃ちましょう。」

「はっ、はい……!」

 年配者にこれだけ物を容赦なく言えるエルメスもエルメスだが、館長も館長で、落ち着きがなさ過ぎる。確かに、予告したターゲットは必ず盗み出す、さらには月さえも盗んでしまう怪盗が相手では、落ち着けというのは無理な話かもしれないが。

 また、美術館の2階フロア北側には、エルメスと館長だけではない、この州の自衛団員たちもいる。その中のひとりの女性が、エルメスに問う。

「ねぇ、スロックノール?」

「はい、何でしょう、アルカウス団長?」

 彼女の名を、アルカウス・ライル。アリエス州自衛団の団長でもある。背は高くスラッと細長く、色の薄い肌に、銀色の髪、そしてスミレ色の瞳を持つ。この神々の大陸の外から来た、大陸先住民が『魔族』と呼ぶ一族の末裔だ。

 もっとも、魔族は自らを『ライル族』と呼んでおり、大陸の一員となった今では、その種族名がそのまま苗字である。かつては敵対した勢力だが、17年前の大戦争の際は大陸側に味方した、今では大陸で共存している種族である。

「何故いつもどおりの警備なの? 国を飛び出し、大陸中に、その名を轟かせている大泥棒が相手なのよ。警備は厳重にし、十二分じゅうにぶんに防衛策を立てるべきじゃない。」

「そうして失敗してきたんです。そして、そうさせることが、満月の夜の作戦なんです。」

 エルメスのその答えに、アルカウスは首をかしげ、聞き返した。

「どういうこと?」

 エルメスは姿勢を正してすっと立つと、アルカウスに答えるついでに、全員に言った。

「あたしも最初は、満月の夜は目立ちたがり屋のバカな窃盗愉快犯だと思っていました。でも、そうではありません。満月の夜は、予告文を送りつけることで、あたしたちの動揺を誘っていたのです。」

「動揺…… 確かに、するわね。でも、それがどうしたっていうの? いつも以上に強固にした警備を突破する、そのスリルを楽しみたいから?」

「いいえ。強固にするのではなく、逆に突き崩すのです。」

 そう言うとエルメスは、インバネスコートを翻し、美術品を眺めて回りながら、説明を続けた。

「満月の夜から予告文を送りつけられたあたしたちは、動揺する。そして何らかの手を打たねばと対策を練る。しかし、対策を立てるためには一度、それまでの警備体制を崩さなければならない。その、警備体制が崩れる一瞬のうちに、満月の夜ひょうてき満月の夜とうじつを待たず、攻撃を仕掛けてくる。

 ある時は贋物にせものとすりかえようと提案させ、あたしたちに贋物を守らせ、本物を金庫の中にしまうようにと仕向け、その隙に本物を奪い去る。ある時は警備兵や自衛団員に紛れ込み、堂々と敵陣の中に紛れ込みターゲットに近付く。

 ある時は引越し屋や工事業者を装い、あるいは雇うか臨時に組織し、建物にやすやすと侵入した挙句、自分の逃走経路を作って堂々と去り、当日犯行に及ぶ。ある時はあたしたちと同じフロアでターゲットを守りながら時を待ち、時が至るとともに反旗を翻し、催眠ガスなどで全滅させた上で盗みに及ぶ。

 こんな風に、満月の夜は、あたしたちが対策を立てようとする焦燥感に付け入ることで、不可能に近い犯行をやってのける。だからあたしは、たとえ相手が、かの満月の夜だろうと、ただの泥棒だろうと、いつもと同じ警備体制にて敵を迎え撃つ。」

 途端、全員が狼狽する。満月の夜は、そこまで計算高い人物だったのかと。ならば、自分たちには一体何が出来るのだろうと。だが、アルカウスだけは、動揺しつつも冷静さを崩すことはなかった。

 エルメスは、短剣がしまわれた台座まで戻ってくると、作戦を発表した。

「それでは、今回の満月の当日の警備体制は、このようにしたいと思います。

 当日、この場所は、あたしことエルメス、男性警備員1名、そしてアルカウス団長、以上の3名で守りましょう。建物内部のほかのエリアに関しては、いつもの警備体制を崩さないように。ただし、満月の夜の変装による紛れ込みを防止すべく、人数を倍にし、2人1組で動いてもらいます。

 自衛団の皆さんは屋外で、満月の夜と思わしき者を発見し次第、撃退してもらいます。当然、このフロアはあたしの指揮下で守るので、屋外に関しては自衛団のほうで作戦を立ててください。また、満月の夜を捕獲できようとできなかろうと、屋内への進入の一切を禁止します。

 そのほか、当日の食事について、腰に水筒と弁当箱をぶら下げておき、外部で調達したものを口にしてはいけません。1日中という長い時間ではありますが、空腹を我慢しつつ、翌朝まで耐えていただきたいと思います。」

 だが、その質問に、自衛団員が大声を張り上げ、反論した。

「ふざけるな、この小娘が! 建物に入るなだとか、屋外の作戦についてはまる投げだとか、仕舞いには食事制限だと? 生意気にも程があるぞ!」

「そうだそうだ! アクアリウス州知事の娘だからっていい気になりやがって!」

 その言葉に、エルメスもギリッと歯を鳴らし、怒りをあらわにした。反論しようにも、その声は大声の自衛団員にかき消されてしまう。そんな彼らの怒りを静めたのは、アルカウスだった。

「お前ら黙れ! ……スロックノール、理由を聞かせてもらえないかしら?」

「……はい、わかりました。」

 エルメスは、ひと息ついて間を置き、説明した。

「では、食事制限について。外部で調達したものを口にしてはいけない理由は、どこで満月の夜が、眠り薬や下剤を含む、何らかの薬ないし毒を盛るかが分からないからです。まぁそれでも、ショップで売られている『密封式』の即席ドリンクなら、口にしても大丈夫でしょう。

 2人1組行動および、作戦行動中に自衛団員が建物に入ってはいけない、それらの理由、それは、その誰かが満月の夜があなたたちの誰かに変装した人物かも知れないから。大慌てで報告をしに来た人物に、わたしたちはその人物が満月の夜本人だと気付かず、気付いたときには警備を突破されていたということが、過去に何度もありました。

 それに、作戦もまる投げとは言っていません。当然、満月の夜が何らかの手段を用いて姿を現したときに、皆さんに撃退していただきます。満月の夜がこれまでに行った登場方法に関するデータを、すべてアルカウス団長に提供します。その上で、団長に撃退方法の指揮を執っていただきます。

 また、自衛団員の皆さん、警備員の皆さんは、皆同様に、2人1組で行動してもらいます。トイレや食事休憩のときも同様です。満月の夜の変装から守り、満月の夜が仕掛けてきそうな睡眠薬や毒などから自分を守ることが、今回の対策の重大な要点です。

 ひとりで行動した者については、余程の事情がない限り、団長より厳罰を下してもらいます。あるいは、あたしたちが満月の夜が変装した姿だと思い込み、銃撃を食らっても誤認逮捕されても、文句のひとつも言えないということを承知しておいてください。

 ほかにも質問があったら、受け付けましょう。答えられないものについては、今夜、対策会議を開くとしましょう。」


 満月の夜こと、クリシュナ。

 政府直属の探偵、エルメス。

 親友でありながら敵対せざるを得ぬふたりの戦いが、いよいよ始まろうとしている。


 果たして、勝つのは。

 クリシュナか、それとも、エルメスか。

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