プロローグ 怪盗・満月の夜
満月が輝く夜。
真珠のような満月とともに、石英をちりばめたようなたくさんの星屑が、夜空を彩る。
煌びやかな満月は、今宵も、9つの国が共存する『神々の大陸』を、月明かりで照らす。
多くの人々にとって、この夜の景色は、さぞ風光明媚な景色だろう。満月を眺めながら、虫の声を聞いたり、ハンモックに揺られ転寝をしたり、ひとりで、あるいは親しい人とともに、食事や酒を楽しみ、この夜を静かに優雅に、楽しんでいることだろう。
だが。
ミミルと呼ばれる国だけは違った。
ミミルは、神々の大陸の中央に存在する。更にその国の中央には、国土の1/3を占める大きな湖があり、その湖からは、ミミル全土を覆いつくすほど枝を伸ばした、巨大な樹木がある。湖の名を、この国と同じ、あるいはその由来とも言われている、『ミミル湖』。そして巨大な樹木を、『世界樹=ユグドラシル』と、人々は呼ぶ。
この湖は、この大陸において、湧き水の源流としては唯一の存在。火山は存在せず、他の湖や池も長い年月をかけて地形が変化してできたもので、このミミル湖以外から水を確保するとなれば、主な方法としては、雨水を置いて他にない。
そして、この国ミミルの、とある建物は、真夜中であるにもかかわらず、騒然としていた。
時刻は、深夜0時。
この建物、『ミミル国立神々の大陸歴史館 第一棟』では、多くの警備兵、および自衛団員が、緊張した面持ちで、武器を構え、陣形を整え、立ち尽くしている。歴史館の周囲の道路はバリケードで完全に封鎖され、車は無論、人ひとり出入りできないようになっていた。
そして、レンガの塀と鋼鉄の門扉に囲まれた、歴史館の建物の前で、ひとりの青年が、あちらこちらに目を配っている。
彼のいでたちは、長くも短くもない黒髪、精悍な顔立ち、高身長、そして熱血漢を思わせる赤いジャケット。腰には長剣を差しているが、しかしその長剣は、鍔とあわせて、どこか機械的なシルエットを持っている。
「さあ、来い。今度こそ逮捕してやる。」
どうやら、何者かがここを襲撃することは、確かなようだ。
そして、彼が待ち受ける者がどこから現れても対応できるよう、青年はそっと、長剣の握りに右手を添え、スラッと怪しい音を立てて、剣身を抜いた。鍛え、磨き上げられた剣身が、月の光を浴び、怪しい輝きを帯びる。
そして。
「団長、あれを!」
自衛団員のひとりが、青年に向かって叫ぶ。
突然、満月の中に、影が現れる。
「なっ……?」
それは、人影だった。
頭を地に、四肢を天に向け、颯爽と滑空する、小さな人影。マフラーを巻いているのだろうか。まるで翼のように、それははためく。黒い布地とベルト、銀色のフレームを持つ、大きなゴーグルをかけ、それはペルソナ(マスク)の役割を果たし、その素顔を覆い隠している。
その人影は、まっすぐ、まっすぐ、記念館に向かって降下する。
警備兵たちは叫ぶ。
「やつだ、とうとう現れたぞ!」
「『怪盗・満月の夜』のお出ましだ!」
そして青年は、大声で叫ぶ。
青年のその声は、拡声魔法によって、距離がある、歴史館の向こう側にいる警備兵や自衛団員にも届く。
「通達! 怪盗・満月の夜、以降標的とする。標的は直上に現れた。総員、武器を構えよ。合図とともに、狙撃隊および砲撃隊1班から順に射撃。打ち方用意。」
今回の作戦の指揮を執っていると思われる、黒髪の青年の合図とともに、彼らは同時に、引き金をゆっくりと引き、大砲のフリントロックを下ろす準備をした。
「1班、撃てぇっ!」
そして、一気に放たれた、無数の銃弾と砲弾。
……ではなく。
「なっ、何だ!? どういうことだ!?」
何と発射されたのは、無数の花火だった。
音を立てながら舞い上がるロケット花火、銃口から噴水のように吹き上がる噴水花火、翼を持たずあらぬ方向に飛び交う飛行花火、などなど。そして砲撃隊が扱う砲台から放たれたのは、砲弾ではなく打ち上げ花火だった。
警備兵たちは狼狽する。だが、黒髪の青年は、この事実にそれほど大きくうろたえはしなかった。多少の動揺はあったようだが、すぐに冷静にこの状況を見据える。
「……ちっ。今夜もやってくれたな、満月の夜。」
――あれ程厳重に、弾薬の仕入れルートを確認したというのに、どこで花火に摩り替えた。
――まぁいい。今更、どんな対処も間に合わない。
――それに、ここに用意してあるすべての火薬も、花火に摩り替えられているだろう……
怪盗、満月の夜と呼ばれたその人影は、地上スレスレのところまで来ると、唐突に滑空をやめた。何と、背中に背負っていたバックパックから、パラシュートが出現したのだ。更に足元からは、鮮やかな桜色の煙幕が出現する。一瞬にして満月の夜を、そしてパラシュートを、覆い隠してしまう。
青年は再び指示する。
「標的は煙幕を展開。その周囲を見張れ。標的の脱出、逃走を許すな。現れた途端、花火だろうが何だろうが構わん、標的に当て、動きを封じろ!」
黒髪の青年の指示で、警備兵たちは煙幕の周囲を見据える。だが、その煙幕の中から、満月の夜が飛び出してくる様子は、ない。
……だが。
「あっ! 団長、あれを!」
警備兵のひとりが、何かを指差す。
何と、煙幕の下のあたりから、満月の夜と思われる人影が降下した。
あろうことかそのまま、ぼてっ、と鈍い音を立てて、鉄の門扉から歴史館の建物に続く大道の中央に伏してしまったのだ。
いっせいに銃口を向ける、警備兵、および自衛団員たち。だが、満月の夜が起き上がる様子はない。芝生を踏み荒らしながら、彼らは満月の夜を取り囲む。
「いかがなさいますか、団長……?」
自衛団員は、黒髪の青年に尋ねる。青年はその自衛団員に返す。
「確かめてくれ。何かの罠かもしれない、慎重に行け。……全員に通達。他の自衛団員たちは標的に注意。警備兵は建物および周囲の監視を続けよ。」
恐る恐る、自衛団員が満月の夜に近寄る。だが、満月の夜は微動だにせず、相変わらずそこに倒れこんでいるだけだった。
自衛団員はライフルを向け、その銃口の先に備え付けてある銃剣で、満月の夜の肩を揺さぶる。だが、一向に満月の夜は体を起こす気配がなく……
だが、自衛団員はあることに気付いた。
「団長! これは人間ではありません、風船です!」
「風船だと!? ……しまった! 総員撤退! 撤退だ!」
途端、満月の夜、ではなかった、その人物を模した風船は一気に膨れ上がり、大爆発を起こした。人を殺傷するような金属片などはなく、むしろ爆薬の加減を誤らなければ危害を加えることのないもので、やはり桜色の煙幕が、一帯に充満した。
――最初から満月の夜は、このおとりに注目させるつもりだったのか。
――ってことは、もうやつは中に……!
そしてラングは、口元にジャケットの袖を当て、叫ぶ。
「告ぐ! 動ける者はオレに続き、歴史館内部に突入。満月の夜から、『英雄の剣バルムング』を守れ! ……って、」
ラングはそう叫ぶも、ほとんどの兵たちが、ガスを吸い込み、しびれて動けなくなっている。体が痙攣を起こし、ちょっと動いただけで痺れが襲い、その場でのた打ち回ってしまい、まともに動くことすらできない。
「……通達。1班は全滅した。2班、3班、4班の中で、動ける者はオレに続け!」
歴史館、展示ホール。
ここには、かつてのこの国の、そして大陸の、歴史ある財宝や武器、魔法機器などが展示されている。実際にかつて戦争で使われたことのある武器や、この国、あるいは周辺の国の戦士たちが残した軍服や勲章、トロフィー、科学技術の発展に貢献した魔法機器の完成品、書籍や羊皮紙による紙媒体など、様々だ。
他にも、いろんなこまごまとした項目があり、歴史ある古いものが展示されているが、主に展示されているのは、政治経済の発展と、17年前に起こった戦争に関することだった。
現在、この時間であればすでに閉館されているはずの、歴史館の展示ホールには、照明が入れられている。そこには、複数の警備兵、自衛団員、スーツを纏った中年の男など。このスーツの男性は、バッジからして、この歴史館の館長のようだ。
そしてひときわ目立つのが、インバネスコートに狩猟帽といったいでたちの少女。折り返しがボタンで留められているかぼちゃパンツから、少女の白い足が、スラッと綺麗に伸びている。
また、彼らは、白い台座の上でガラスケースに守られているものを、取り囲んでいる。それは、ひと振りの剣。17年前の戦争でその名を馳せた英雄、ジークフリードが戦場にて振るった剣。名を、『バルムング』という。
「さあ、来なさい、満月の夜。」
――おそらく、外にいる警備なんて役に立たない。
――あなたは、このあたし、エルメス・スロックノールが相手になるわ。
途端。
「大変です! 怪盗・満月の夜が現れました!」
扉を乱暴に開き、ひとりの青年が駆け込んできた。大慌てで、雨にでも降られたかのように、頭からびっしょりと汗をかいている。その言葉に、全警備員、館長、そして少女も動揺する。すかさず、館長が青年に問う。
「して、きみ。満月の夜は、今どこに?」
「はい! すぐそこの廊下から、こっちにやってきました。お願いです、今すぐ捕まえてください!」
「分かった。警備兵前衛。すぐに青年の案内のもと、満月の夜を逮捕したまえ。私たちと後衛は、ここに残ろう。行け!」
館長がそう言うと、警備兵のうち半数が、青年とともに展示ホールを出た。かと思うと、青年はまたすぐにこの展示ホールの中に戻ってきて、何と、ドアを閉じてしまったではないか。
「きっ、貴様! 何のつもりだ!?」
「え? やだなぁ。本当の事を言っただけじゃないですか。満月の夜は、展示ホール前の廊下からやってきた。そして僕がその満月の夜ですよ。」
そう言うと、青年は自身のスーツに手をかけ、それを思いっきり翻した。背中のつなぎ目は破れ、その下からは、満月の夜の、本当の姿が現れる。
背丈は高くも低くもなく、どちらかというと若干小柄。髪はやはり長くも短くもなく、星が輝く闇夜のような漆黒。黒いバンドに銀色のフレームのゴーグルと、赤く長いマフラーを巻き、顔を隠している。真っ黒の長袖ジャケットに、やはり黒いロングパンツ、赤いベルトで固定されたやはり黒いブーツをまとう。
全身を黒と赤で覆いつくした姿の、満月の夜。あごにうずまりかけている小さな唇は、不敵な笑みを浮かべている。ゴーグルの向こうの目つきは、うかがい知れない。
「そうか、貴様が、かの満月の夜か……!」
そう尋ねられた人物は、特に否定はしない。満月の夜と思わしき漆黒の人物は、風船のような黒い帽子を深くかぶり、ふっと不敵な笑みを浮かべ、それを答えとした。
「だが、前衛がすぐさま、応援を呼んで戻ってくる。お前は、我々の懐に自分から入り込んできた。一体、何をたくらんでおる?」
「何をたくらむも何も、わたしは、英雄の剣バルムングを頂きに参りました。それ以上でもそれ以下でもありません。」
満月の夜の声。先ほどの青年の声とは打って変わって、少年にしてはやや高く、少女にしてはやや低い、そんな不思議な声だった。もはや、小柄な背丈であるということ以外、性別も年齢も、把握不可能だ。
館長の言葉にひるむことなく、満月の夜は、やや挑発的な口調で返す。
「ちなみに、応援は来ません。今出て行った人たちも、今頃は催眠ガスで眠っている頃でしょう。今、起きているのは、ガスを免れた幸運な人と、あなたたちだけです。」
「そうか…… だとしても、ここから先は通さん。英雄ジークフリードの剣は、我々が守る。こちらも、強力な催眠ガスを入手している。我々も眠りに落ちるだろうが、1時間もすれば追加の応援がやってくる。ここで眠っている我々は保護され、貴様はそのまま牢獄行きだ。」
「ごめんなさい。あなたたちに謝らなければいけませんね。今回のターゲット、英雄ジークフリードの剣バルムングは、とっくのとうに、もらってるんですよ。それなのにあなたたちは、一体何を守るっていうんですか?」
「は? 何を言っている、満月のよ……」
途端、満月の夜は、腰から何かを取り出す。
それは、一梃の銃。海のように深く青い光を帯びた、宝石のような大きなタブレット、宝玉型魔法媒介『マギア・フィラフト』を持つ、一梃の銃だった。
マギア・フィラフトとなる宝玉の形状は、球ではなくレンズ型。銃身の真ん中にフィラフトが位置し、その手前にトリガー(引き金)とグリップがあり、向こう側にバレルとストック(それぞれ、銃弾が通る筒、そしてそれを支えるパーツ)があるといった具合。
そして満月の夜は、トリガーを引く。
「ありがと、贋物さん。」
途端、銃口からは、銃弾ではなく、青白い光が飛び出す。これはおそらく、『魔力』を圧縮した光線。シリンダー(リボルバーで言う、銃弾を装填するための装置)のあたりに位置するフィラフトはさながら、エネルギーブースターの役割を主に果たしているのだろう。
満月の夜が放った、鋭い光の軌跡は、ガラスケースごと、英雄の剣バルムングを破壊する。
何ということか、鍛えられた鋼とマギア・フィラフトでできていたと思われたバルムングは、コーティングが施されたガラス細工だった。それは、いとも簡単に砕け散り、粉々になったガラスケースと混ざり合って、跡形もなく消滅した。
「何と、言うことだ……!」
「うそ、でしょ……? あの、バルムングが、ただのガラス細工……!?」
驚き、目を丸めてしまう、エルメスたち。だが、満月の夜は不敵な笑みを浮かべると、彼らに言った。その左手には、バルムングと、それを納めている鉄ごしらえの鞘が握られている。
「バルムングの贋物さんも、お役ごめん。というわけで、本物のバルムングは、この満月の夜が、確かにいただきました。というわけで、さようなら?」
そして満月の夜が、今しがた閉めたばかりのドアに手をかけようとすると、エルメスは叫んだ。
「待ちなさい、満月の夜!」
エルメスは銃を構え、魔法を発動する。エルメスのそれは、れっきとしたリボルバー。ただし銃弾には実弾と火薬ではなく、魔力と魔法プログラムが込められている。6発装填式のシリンダーには魔法陣が浮かび上がり、青白い光を灯している。
「撃つわよ?」
「どうぞ。その銃撃が、わたしの逃げ道を作ってくれるのだから、むしろ助かるかな。」
「くっ、どこまでも人をおちょくって……! 質問に答えなさい。英雄の剣を盗むこと、それが、あなたにとって何の得があるっていうの?」
「逆に聞くよ、探偵さん。これまで、わたしが自分の利益のために、盗みをしたことがあった? わたしの利益は、わたしの盗みによって誰かが喜んでくれることだよ。」
「何が誰かの喜びよ。おかげで、各州の自衛団員や兵士たち、あたしたち探偵が、どれだけヨルムンガンド政府から煮え湯を飲まされたと思っているの!」
「……煮え湯云々は心から謝るけれど、これ以上の話し合いは無意味だと思う。」
すると、満月の夜は右足を軽く外側に向け、言った。
「じゃあ、これにて。」
それだけ言い残すと、満月の夜は足元から爆発を起こし、煙を撒き散らす。彼の姿はその煙幕に紛れ、見えなくなってしまう。
「させますか!」
すかさず、エルメスは引き金を引き、満月の夜を銃撃。青白い閃光が軌跡を描き、満月の夜を狙う。彼女は1発にとどまらず、2発、3発と撃つ。
魔法銃撃は威力が低い分、殺傷力も低いが、反動も弱く、次の銃撃につなぎやすいという利点がある。また、銃撃に魔法プログラムを施し、付加、追撃効果を付与するという利便性もある。
だが。
――……っ、当たらなかったわね。
エルメスが思った通り。
そこには、わずかに開いたドアだけが残され、そのドアにはエルメスの銃撃によって開けられた穴だけが残されていた。
警備兵たちとともに、ドアを見据えるエルメス。次に撃とうとしていた魔法を解除し、銃を握ったままの右手を、そっと下ろす。
静寂に包まれる、展示ホール。そしてエルメスは、ふっと笑う。
「誰かの笑顔のため、ねぇ。」
満月が輝く夜。
怪盗・満月の夜は、背中で漆黒の凧、『カイト』を開き、涼やかな夜の風に乗って、満月が輝く夜空の下を、悠々と舞う。
本日のターゲット、バルムングの盗みは、無事に成功。それを抱えたまま、満月の夜はマフラーをはためかせ、うれしそうな表情を浮かべている。
「まだまだ甘いんじゃないかな、エルメス。」