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満月の夜  作者: 旅わんこ
14/15

File10 たったひとりの新暦維新

 怪盗・満月の夜による最後の大捕り物から、1ヶ月と何日かが経った。


 世界樹、アクアリウス州領空にある枝。

 枝と言っても、地上に生えている樹木の幹よりも、ずっとずっと太い。そこに、クリシュナはちょこんと座っていた。

 世界樹の枝は、今クリシュナがいる場所でも、豪邸を5軒横に並べられる太さだ。また、世界樹の枝の上にはたくさんの草花が生い茂り、クリシュナがいる場所だけでもちょっとした草原が広がっている。

 根元に行くほど太陽の光は届かずコケのような植物が多く、逆に枝の先に行くほど地上にあるような樹木が多い。精霊や一部の人間、魔族(ライル族)たちもそこに住んでおり、多種多様な生命体が、世界樹の枝の上で共存している。

 クリシュナのすぐ横には、エンジンと横に長い翼を持つグライダーがある。軽量化されており、エンジンは高出力ながら小型、ボディは鉄骨のみ、翼も鉄枠に幌布といった具合だ。

 クリシュナは両足を投げ出しながら、遠くの景色を見つめる。地上にある町は小さく、まるでジオラマを見ているよう。国境も遠く、ここから眺めることはできない。それだけ、隣の国の領土も、そして海も、見渡すことのできないほど遠くにあることを思い知らされる。

 優しく風が吹く。クリシュナの黒髪と、赤いマフラーが、ふわっと揺らめく。この日、クリシュナはマリンルックのシャツと牛革ベストの上に、模様入りの赤いマフラーを巻いている。マフラーは新しく、またファッショナブルなものをチョイスしていた。

 少しだけ空を見上げると、そこにはまだまだ遠くの空に伸びる世界樹の枝が伸びている。この木から生まれた精霊たちが、背中に魔法の翼を広げ、自由に空を飛び交っている。枝には彼らの住まいが建てられている。彼らはたまに、クリシュナに会釈をして、またどこかに飛び去ってゆく。

「あ、来た……」

 クリシュナは、どこからか聞こえてくるエンジン音に、耳を傾ける。

 そして近付いてくる、エンジン音。やってくるのは、パイプを組んだ機体、幌布の翼を持つ、ウォーターエンジンを搭載したグライダー。そしてその舵を取るのは、エルメスだった。

「やっほーっ!」

 クリシュナは大きく手を振る。エルメスも、すっと右手を掲げて、返事とした。


 エルメスは、世界樹の枝の上の草原を、枝先から根元に駆け下りるようにして降り立ち、ブレーキをかけてグライダーを止めると、前輪側にジャッキを2本下ろし、機体を固定した。

「お待たせ、クリシュナ。」

 そう言ってエルメスは、クリシュナのとなりに来た。ゴーグルを狩猟帽の上に上げ、その狩猟帽ごと、脱いで胸に抱える。長い金色の髪が流れ、風になびく。それを、クリシュナの邪魔にならないように、リボンでひとくくりにする。

「久しぶりね。何週間ぶりかしら。」

「最近、探偵業が忙しくて、学校にも来られなかったもんねー。」

「それはお互い。あなたも、工房のお仕事お疲れさま。」

「どうもどうも。」

 そう言うと、クリシュナは腰に提げた水筒を取り、それをひと口、口にした。

「そうだなぁ~…… まず、何から話そうか?」

「あたしもそれを考えてた。でも、クリシュナの顔を見たら、みんな忘れたわ。聞きたいことがたくさんあるのに、どれから聞いていいか分からない。」

「あははは。……じゃあ、とりあえず、わたしが満月の夜として活動を始めたところから、聞きたい?」

「そうね。興味あるわ。」

「じゃあ、春巻きを食べながら。じっくりいぶしたアウドゥムラ牛のベーコンと、今朝収穫したばかりの野菜をもらったから、とってもおいしいはずだよ。なま、揚げ、蒸し、お好みのものをどうぞ!」

「ええ、ご馳走になるわ。」


 クリシュナの両親は、大陸共同軍の軍人だった。

 父、ガレア・レグルスは魔法戦略科の科長、母・ディーバ・レグルスは軍医を務めていた。魔法戦略科には当時から、まだ幼かったラングとヴァン・エンシェントが、それぞれの父に連れられ出入りし、仲がよかった。その関係で、ふたりは幼馴染となり、今に至る。

 17年前、つまりクリシュナとエルメスが生まれるその1年前、神々の大陸全土と別の大陸の大帝国の衝突が起こった。それ以前にも何度か戦争は起こったが、17年前の戦争はその熾烈さを極めた。辛くも大陸側が勝利したが、大陸もたくさんの犠牲を払った。

 しかし、これを機に、ガレアは軍内で昇格し、功績を示すたくさんのバッジを得た。軍の上層部、各国のトップを相手に話ができる地位も手に入れた。

 それもあって、レグルス家は当時、裕福であった。

 ……ガレアが、反乱因子とされ、軍縮、死刑を下されるまでは。


 当時、この国、そして大陸を統べていた人物は、クリシュナたちがよく知るアル=ファルド・ヨルムンガンドではなく、その父、ヴン=クアル・ヨルムンガンドという人物。息子に似ず、背が高く、病弱なくらいにひょろりとしていたが、お腹だけは立派に出ていた。

 クリシュナ・ラング兄妹、エルメス・アーサー親子もそうであるように、ガレアもまた、ヨルムンガンド政府のやり方に反発を覚えていた。水の権利も、政権も、個人ヨルムンガンドが独占していいものではない、それらの全ては、大陸中の人々に公平に分け与えられるべきだと、何度も唱えてきた。

 もちろん、国王や女帝、統領、文豪といった、各国の長たちも、それに賛同した。しかし、先代ヨルムンガンドも、自分に刃向かう者は水を取り上げるという暴政のもと、各国の王たちを黙らせ、そしてガレアを軍縮した。

 それでもガレアは黙らなかった。大陸共同軍の同志を募り、直訴に打って出た。しかし、もはや何の権力も権限もない彼は、国の方針に逆らったばかりか、軍を私物化し、クーデターを起こした重犯罪人として逮捕され、そして極刑(すなわち死刑)を下され、その生涯を終える。

 その後、ディーバも軍医を辞めさせられ、幼かったラングと、その時生まれたばかりのクリシュナを連れて、各地を転々とした。サダルメリク商店街に流れ着いた彼女は、診療所を開き、生計を立てていた。

 その後、ラングはグルントシューレ(基礎学校)を卒業し、ハウフトシューレ(職業訓練学校)に通いながら、父の遺志を継いで政府の内側から改革を行うべく、自衛団に入団した。やがて実力を上げ、昇進試験を受け続け、若くして団長に就任した。

 その時にようやく、ラングは幼かった頃に別れたエンシェントと再会し、今ではプライベートでも交流がある。そのため、クリシュナがラボを営業している時にエンシェントが訪問し、顧客として、クリシュナに魔導弾の作成を依頼したり、彼女が作った雑貨を買ったりすることもあった。

 一方クリシュナは、3年前からディーバが病院勤めとなったことをきっかけに、彼女が経営していた診療所をラボに改装し、それを経営する傍ら、怪盗・満月の夜として活動するための機をうかがい続けていた。

 そして今から1年半前、怪盗・満月の夜として活動を開始し、国が管理する重要文化財を盗み始めた。そしてとうとう、ヨルムンガンド政府から水を、ヨルムンガンド個人から政権を、ともに奪うことに成功し、今に至る。

 なお、満月の夜としての犯行は1年半前から実行していたが、画策していたのはラボを開設した3年前から。ラングのやり方では時間がかかりすぎると思い、いっそのことダムを破壊し税法を盗み、盗んだその水を大陸の人々に還元する、というやり方をラストミッションとし、そのための要素をかき集め、構想を練り、泥棒になるために猛勉強したという。


 そこまでの話を聞き、エルメスはうーん、と唸った。

「……成る程ね。大陸の歴史と17年前の戦争については、探偵に必要なものとしてある程度勉強していたけれど、大陸共同軍の内部でそんなことがあったなんて。」

「政府にとって不都合なことは、隠匿し、排除する。たとえそれが、人でも、歴史でも、形あるものも、ないものも。『歴史からも殺された』んだよ、正義を貫いた、お父さんは……」

「……クリシュナ。あなたたち家族はさぞ、政府を憎んだでしょうね。でも、どうして泥棒をやろうと? 水を取り戻すために、ダムを破壊すること、水にかけられた税法を盗むことは分かったけど、国の貴重品を盗み続けることに、何の意味があったの?」

 エルメスも、銀色の水筒を取り出し、それを口にする。彼女が飲み終わるのを待ち、クリシュナは答えた。

「目的はふたつ。……ひとつは、パフォーマンス的なことをやって人々から注目を集め、怪盗・満月の夜はただのコソドロじゃない、義賊であり、エンターテイナーでもあるということを認識させ、一般市民の味方であるということを強調する。

 大々的に犯行予告をして盗みの成功実績を積み重ねることで、怪盗・満月の夜ならば、不可能を可能にするかもしれない、という、ファンには期待感と、ターゲットには警戒心を、植えつける目的もあった。そして事実、わたしは本当に、盗んだものや、それを売りさばいたものをふところに入れていない。全てに誓って断言する。」

「それは信じるわ。もうひとつの理由は?」

「わたしが盗んだものの中に、ダムを破壊するために必要だったものがあったんだ。それは、ダムに爆弾を仕掛けるために必要な、ダムの建物の内部に入るための認証パスプログラム。

 先代ヨルムンガンドはそのパスを4つに分割し、英雄ジークフリードの剣『バルムング』、天使族フライハイトの剣『ライガーの牙の宝剣』、魔族の王ナーガラージャの武装『漆黒の鎧』、終焉の魔女リンドワームの三叉の槍『トリアイナ』、それぞれの戦闘用マギア・フィラフトにインストールした。

 わたしの狙いは、そのパスプログラム。だから、そのパスをもらったあとは、盗んだものをちゃんと返した。そしてパスを手に入れたわたしは、ダムの内部に侵入し、爆弾を設置し、そしてあの満月の日、爆破した。街中に瓦礫が吹っ飛んでこないように、ちゃんと建造物の解体方法に倣ってね。もちろん、爆撃で魚たちが死んだりしないよう、川に特殊な超音波を流してダムから遠ざけたりもしたから、安心して。」

「いい気配りね。でも、成る程。だから、ライガーの宝剣が盗めないと分かったとき、それに近付くだけで強引に盗むことはしなかったのね? そして長時間あのガラスケースの前に居座ったのは、プログラムのみを盗むため。」

「その通り。パスさえ盗めれば、宝剣そのものに用はないからね。でも、目的はもうひとつだけ、あったんだ。」

「何なの?」

「ライガーの短剣の一件で、わたしはプログラムを盗んだ。でも、すぐにはクリアケースの前からどかなかった。無意味に長く居座ることで、敵にストレスを与え、怒らせ、冷静さを失わせるため。アルカウスさんを挑発することはできたけど、冷静なエルメスにだけは、それが通じなかった。事実、挑発に乗ったアルカウスさんはガスに対処できず、スプリンクラーを動かしたのは、エルメスだった。」

「成る程ね。」

「でも、思い返せば、スプリンクラーかぁ。わたしも、あんなふうにしてガスを無効化されるとは思わなかった。しかもそれを五稜郭作戦に応用され、それが思いのほか効果がありすぎたこともね。」

「すべて理解できたわ。……でもクリシュナ。あなた、自分のやらかしたことがどういうことか分かっているの?」

 クリシュナが「ふぇっ?」と間抜けな声を上げ、首をかしげると、エルメスは答えた。

「数々の建造物不法侵入。悪徳銀行からとは言え金銭や財産の窃盗、貴重文化財の窃盗とそのうち1件の未遂。国中のダムという賠償不可能な建造物損壊。政府と自衛団と大陸共同軍を騒がせた公務妨害とそれに伴う各種損害。水を盗むという予告を流したことによる、大陸規模の一般市民への脅迫に類する行為、交通および経済的災害の励起れいき。……で、まだ聞きたい?」

「いえいえいえいえいえいえいえいえいえいえ!」

 ぶんぶんと首を振って拒否するクリシュナ。そんな彼女を見て、エルメスは軽い口調で、半ば嘲笑するようにして答えた。

「大丈夫、黙っておいてあげる。」

「心臓に悪い!」

「でも、今の法律のままで、あなたが逮捕され、裁判にかけられれば、極刑に近い実刑判決が下される。今後、一切の自由を奪われ、強制労働で一生を終える。ラングさんとお母さんはクリシュナに対して失望し、家族そろってあなたでは背負いきれない罰を背負わされる。」

「う…… …………! そっ、それが怖くて、怪盗やってられますか! 結局はばれずに引退すればいいだけ!」

「あたしがリークしたら全て終わりよ?」

「あ…… でも、しないって言ってくれたよね?」

「人間は気が変わるものよ。」

 途端、クリシュナは体の芯から震え上がる。いや、これ以上とないほど絶望し、頭から滝のように汗を流していた。だが、相変わらず涼しそうな笑顔でエルメスは微笑む。

「冗談よ。あなたは、あたしの親友なんだから。」

「はぅ…… ホント心臓に悪い……」


 今度はクリシュナが聞く。

「でも、どうしてエルメスは、満月の夜がわたしだって見抜けたの? 態度、しぐさ、声色作り、男女どちらとも分からない体型いじり、結構自信作だったんだけどな、『怪盗・満月の夜像』は。……うぅ、エルメスより胸がなかったのが、救いである反面、悲しいと言うか。」

「どんなに完璧に仕上げようと思っていても、どこかに必ずボロが出るもの。いえ、完璧に仕上げようと思うからこそ、そこにほころびが生じる。人のなすことだもの、完璧はありえない。

 満月の夜にも、クリシュナとしての態度がにじみ出ていた。あたしは探偵として、そしてあなたの友達として、そのクリシュナの一面を見逃さなかった。そういうことよ。

 それに、あたしとあなたは志を同じくする人。いつの日か、私利私欲に堕ちた政府を排除し、この国と大陸に新しい秩序をもたらす。ラングさんとパパは同じやり方だったけど、クリシュナはふたりとは違うやり方でそれを為そうとした。

 だから、あたしは探偵として、あなたを追いかけることに意欲を燃やした。あたしには変えられない、あなたが思い描く世界を、この目で見てみたかったから。」

 そう言うと、エルメスは立ち上がり、一度グライダーまで行くと、何かを取ってまた戻ってきた。

 それは、弁当箱。中には茶色いまん丸なライ麦パンがあり、あらかじめスライスされていた。すぐそばにはバター。これをつけて食べるらしい。

「サラダもあるわよ? あなたの春巻きほど、うまくできなかったけれど。」

「ううん、ぜひ食べてみたい!」

 そう言うと、クリシュナはエルメスから、ライ麦パンとサラダを受け取り、それをついばむ。

 ライ麦パンはとても味わい深く、香りもよく、パリッとしたブレッドクラスト(外皮)の食感がとてもよい。サラダは、新鮮な野菜とヘルシーな鶏肉、薄く広げて焼いた卵をふんだんに使い、種類豊富で、色合いも鮮やか。ドレッシングは、ハーブと菜種で作ったもの。ライ麦パンとサラダ、どちらも薄味。だが、素材そのもの味と香りを楽しめる。

 クリシュナはどちらも気に入った様子で、言葉を発することなく、無心に食べてゆく。そんなクリシュナの横顔を緒見て、エルメスはとてもうれしそうに微笑む。そしてエルメスもまた、自分で作ったサラダをついばむ。パリパリ、ポリポリ。新鮮な野菜だからこそ聞ける音が、聞こえてくる。

 食事を楽しみながら、エルメスはクリシュナに問う。

「そうそう、クリシュナ。それにしても、どうするの、ここから先の未来? 大陸中を引っ掻き回しておいて、水の危機に逃げ惑う人に散々お金を使わせておいて、隠退したらあとはみんなでどうにかして、っていう無責任な態度で終わらせるつもりじゃないでしょうね?」

「ん? んぁ、もちろん。そのために、『満月の夜の名にちなんだ』という名目で名付けた、『満月プルニーマチャレンジ』を起こしてる。ストリートチルドレンの自立を支援するボランティア活動かな。

 まだ、得意の春巻きを炊き出しテントに出している程度でしかないけど、食べるだけじゃない、ストリートチルドレンが本当の自立に向けて動き出せるよう、支える方法を模索していくつもり。これも3年前から考えてきたことなんだけど、こっちは難しいね。」

「そう。それなら、今抱えているごたごたが片付いたら、あたしにも手伝わせて。」

「喜んで!」

 そしてクリシュナは、エルメスのパンをついばみ、静かに言う。

「……今、ヨルムンガンド政府は完全に崩落し、ミミルは半ば無秩序な国になっている。泥棒ごときが政治を仕切ることはできない、でもどうにかして、新たなる指導者には、改善された秩序のもとに、水を、そして自由の権利を、大陸のすべての人々に分け与え、わたしたち国民を導いてほしい。

 ダムを壊し、水に関する法律を盗み、ヨルムンガンドを大臣席から引き摺り下ろすことはできた。でも、税金の制度や税金の使い道をいじくって、自分たちにいいようにしようとする役人はまだまだ多い。だからこそ、第三者機関を立ち上げ、その機関こそ、新しい政府になるべきだと思う。

「第三者機関……?」

「そう。今の役人たちじゃない、各分野の専門家を集め、その人たちによって結成される政治機関。また、ヨルムンガンドがしてきたように全権力を掌握し、同じ過ちが繰り返されないよう、大陸共同軍の内部に視察および監督機関も立ち上げ、不正を完全に排除する。

 また、そういった機関は一般企業としても立ち上げてもらう。まずは新政府にそのためのアイデアを出してもらい、それを一般警備機関として民営化してもらうんだ。こういった外部機関を増やすことで、政府だけじゃない、よくある大企業の不正防止などにも役立ててもらう。」

 そこまで言ったクリシュナの提案に、政府直属の探偵であるエルメスも、思わず絶句してしまう。感心させられた彼女は、水筒を口にし、答えた。

「さすが、大陸の未来のために活躍してきた怪盗・満月の夜だけあるわね。政府の改革ではなく、それをつぶして第三者機関と監督機関を立ち上げるとは。」

「ありがと。今言ったことはすべて、エルメスのお父さん、州知事のスロックノールさんに提出しておいた。満月の夜として。」

「パパに?」

「うん。あくまで案だから、それを採用するかどうかは、スロックノールさん次第。それに、スロックノールさんが黙っていれば、満月の夜が裏で支援していることは分からないまま終わる。……こういうやり方は、政府のやり口を真似ているみたいで、イヤだけどさ。」

「いいえ。大陸の未来のために身を粉にして今までがんばってきた義賊の言うことだもの。胸を張っていいわ。」

「そっか。ありがと。」

 クリシュナは水筒を口にすると、サラダをついばみ、そして答えた。

「でも、スロックノールさんなら、きっといい国を作ってくれる。あの人こそが、ヨルムンガンドに代わり、ミミル国をいい方に導いてくれると思う。」

「……娘として誇りに思うわ。ありがとう、パパを推してくれて。」

「どういたしまして。」

 エルメスも、ライ麦パンをついばみ、水筒の水でのどを潤す。

 そして遠くを見つめ、彼女は言う。

「ヨルムンガンド政府は終わったわ。でも、本当の戦いはここから。国民の大反発が始まり、大陸共同軍の武力沈静も、焼け石に水。ヴァンさん…… 現二佐による、武力を用いない衝突緩和も、やっと落ち着いてきた頃。国民の反発は、まだまだ収まらない。

 ここから先にあるものは、あたしたちが、本当の自由を手にし、自分たちが望む未来を手にする、そのための戦い。自分たちの手で、自分たちを束ねてくれる指導者を決め、自由と権利、またそれらに伴う責任と秩序のもとに、暮らしてゆけるための戦いなの。」

「戦い、かぁ……」

「そう。……もう二度と、怪盗・満月の夜のように、たったひとりに未来を背負わせることはしない。誰もが、自由と未来を手にし、それに伴う責任と秩序を背負わなければならない。それが、生きるということだから。未来を拓くということだから。」

 そしてエルメスは、にっこりと微笑み、言った。

「あたしたちの合言葉でしょ? 『Si vis pacem, para bellum ――汝、平和を欲さば、戦への備えをせよ――』、とは。」


 そして。

 クリシュナは軽量化された小型グライダーの翼を大きく広げ、エンジンの上のハンドルに両手を添える。エルメスは搭乗式のグライダーのサドルにまたがる。ともに、風除けのためのゴーグルをかける。

「今日は会ってくれてありがとう、エルメス。」

「こちらこそ、久しぶりにお話ができてよかったわ。……そう、すっかり遅くなったけれど、ラングさんの具合、大丈夫?」

「ラングなら、もうすっかり元気になって、自衛団に復帰したよ。でも、入院している間に体がなまったみたいだから、大陸共同軍のブラックウェル新総統に鍛えてもらってる。」

 どうやら、エンシェントと同様、ブラックウェルも昇格したようだ。だが、将官の座を一気に飛ばして大陸共同軍のトップになれたことは、他の将官たちの推薦と、ヴリトラとの戦いにおける実績によるものであろう。

 だが、かつてのヨルムンガンドのように、ブラックウェルが首相と総統を掛け持ちすることはできない。現在、首相の席は空席となっており、汚職発覚によって辞職させられた役人たちも続々と出始めたため、あらゆる大臣席の空白が増え始めている。当面は、大陸共同軍が代理で政治を司ることになろう。

「そう。お元気そうで何より。パパも、最近忙しそうよ。おかげで、過労で倒れている暇がない…… あぁ、あなたが新政府のトップ候補に推薦してくれたおかげかしら。」

「あははは…… スロックノールさんもお元気そうで。じゃあ、わたしはこれから、炊き出しにお邪魔してくる。エルメスも探偵のお仕事、がんばって!」

 クリシュナのその言葉に、エルメスはやわらかくも力強い笑みを向けてうなずき、クリシュナも同様に返事をする。

 クリシュナは、口元までマフラーを引き上げると、世界樹の枝の草原を駆け、小型エンジンを起動させ、飛び立つ。赤いマフラーがなびき、自由な鳥や、世界樹の精霊のように、大空へと飛び立ってゆく。満月の夜としても、クリシュナとしても、彼女には自由という言葉がとても似合う。そう、エルメスは思った。

「……では、あたしも。」

 エルメスもグライダーのエンジンをかけ、草原に突き立てていたジャッキを機内に格納する。グライダーはすぐに斜めになっている草原を滑走するが、エルメスが舵を取ると、風に乗って空へと舞い上がる。

 世界樹から離れてゆく、ふたつの幌の翼。その様子を、世界樹の精霊たちは、面白そうに見つめている。


 クリシュナが壊した、私利私欲に満ちたヨルムンガンド政府。

 それに取って代わるであろう、第三者機関。

 統率者と秩序を失い、無法と化したこのミミル国。

 それでも人々は、生きなければならない。


 すべての人々はここから、本当の自由と、希望に満ちた未来を手にする。

 そのための『新暦維新』が、幕を開ける。

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