File9 夜の虹
五稜郭城壁、5班の陣。
ラングは、疲弊していた。
両腕、頬、胴、左足…… 体の様々な場所に切り傷を負い、腹部にはブーツで蹴られた足跡まである。息も絶え絶え、流した汗が傷に沁みる。まぶたも落ちかけ、ヴリトラの姿もまともに捉えていない。
ラングの剣の刃も、ところどころ刃こぼれが目立ち、ヴリトラが切り刻んできた人々の血にまみれ、汚れはじめている。一方、ヴリトラの剣も相当使い古されてぼろぼろになってきたため、両手に握る短剣は、鍔の辺りから折れて、なくなってしまっている。
「キヒャハハハハ…… しぶといガキだ。だが、そーじゃなきゃ、面白くねぇ。」
ヴリトラは、そんな使えなくなってしまった双剣を放り投げ、右手で腰から何かを抜いた。
それは、長剣のグリップ部分。握る部分は革紐を巻かれ握りやすくなっているが、柄頭と鍔にあたる部分には、金属の装飾が施され、そして真紅に輝くマギア・フィラフトが輝いている。
ヴリトラはそれを目の前に掲げ、意識とイメージをフィラフトにつなげることによって、つばの先から、魔法の剣身を現した。剣身は、まるで鮮血のような緋色に輝いており、まるでヴリトラの地そのものを刃にした、おぞましい姿をしていた。
そんな、不気味な長剣を掲げるヴリトラに、ラングはなお、立ち向かう。
「俺はまったく楽しくないが…… それでも、貴様に道を譲ることはできない!」
そんなラングのつぶやきが聞こえているのか否か、いや、おそらく聞こえていないだろう、ヴリトラは狂気に満ちた目で、ラングを見下ろす。
「ケヒャハハハ…… いいぜいいぜぇ、その目。戦うことをあきらめかけた目。絶望に染まりきった目。それでも揺らぐかすかな希望。そのちっぽけな希望のみが貴様を奮い立たせている。その希望ごと、貴様の勝利を、俺様は否定してやろう。貴様にあるのは、絶対たる死だ。」
「……バカ言うな。希望ならあるさ。」
ラングは、自身とヴリトラの血にまみれた剣を地面に突き立てると、希望に満ちた目で、ヴリトラをにらみ返す。
「俺は、たったひとりで戦っているんじゃない。ともに戦う仲間がいる。」
「ほざけぇぇぇぇええ!」
ヴリトラの右薙ぎ。だが、ダメージをあまりに負い過ぎたラングは、もう動くこともままならない。ヴリトラの魔法の剣が、ラングの右腕を跳ねようとする。
……だが。
「とぁ!」
それを受け止めたのは、1梃の魔導銃の尖端から飛び出した、魔法の刃。この刃の原理は、ヴリトラが持つ剣と同じ。どうやらこの魔導銃は、射撃と剣術、両方に切り替えることができるようだ。銃身にはマギア・フィラフトのほか、持ち主の肩章と同じ紋章を持つ。
「ヴァン……」
そう、銃とそれに埋め込まれた紋章の持ち主こそ、ヴァン・エンシェントだった。
半歩距離を置くヴリトラ。そんなヴリトラに銃を向け、エンシェントはラングに答えた。
「ああ、そうとも。お前はひとりで戦っているんじゃない。」
「はは…… 信じていたさ。」
そして、ラングは体を支えることを諦め、糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちようとしていた。
そんなラングを支えたのは、アルカウス・ライルだった。右腕でラングの背中を抱え、右手を前に出してヴリトラを威嚇する。すでに、銃撃魔法にも匹敵する威力の魔法を、魔法陣とともに展開していた。
「アルカウス……」
「さぁ、逃げましょ。早く手当てをしなければ!」
アルカウスの方に手を回し、力を振り絞って立ち上がるラング。だが、ヴリトラが吼える。
「さすかぁぁぁぁぁぁあああッ!」
「こっちこそさせるか!」
魔法の刃を振り上げ、それをラングめがけて振り下ろす。エンシェントが割って入り、ヴリトラの攻撃が振り下ろされる前に、こちらが先に突き込むことで、ヴリトラに攻撃を中断させた。
――魔法の刃は、研ぎ澄まされた剣と同じ、もしくはそれ以上の切れ味を発揮する。
――さすがのヴリトラも、魔法銃撃には耐えられてもこれは拒むか。
「然らば!」
そう叫び、ラングの傍らを駆け抜ける、黒い影。
「ブラックウェル一佐!」
「臨む!」
影は、クロノ・ブラックウェルだった。戦いとなると邪魔になるマントを脱ぎ捨て、黒いバトルスーツ姿で、果敢に立ち向かってゆく。
彼の得物は、1本の杖。長いグリップの前後、それぞれに刃がついている武器だ。リーチは槍よりも短いが、順手と逆手を切り替えることで、バリエーションに飛んだ戦いが展開できる。また魔法を纏わせることで、切れ味を数倍に引き上げている。
「さあ、一佐と一尉がカバーしてくれているあいだに!」
そうして、ラングの左脇を支えたのが、エルア・アストレアだった。左手に持ち方にかついでいるものは、得物である巨大なハンマー、太鼓のような面の広い槌を、背中合わせにふたつ持ち、柄の先端には槍の穂がついている。叩き潰すもよし、突くもよし、多彩な攻撃手段を誇るが、扱いが難しい。
「アストレア……」
「うん。レグルス、あんたの活躍、ちゃんと見届けたぜぃ?」
「あぁ。ありがとうな……」
そしてラングは、ゆっくりとまぶたを閉じ、自身をアルカウスに預けた。そんな彼を支えながら、アルカウスは不安を覚え慌てるが、アストレアが彼女に微笑み、言った。
「大丈夫よ、心配しないで。彼は気絶しているだけ。でも、早く止血しないとね。レグルスのこと、ちょっと頼んだよ。」
するとアストレアは、ハンマーの口(叩く部分)に魔法をまとわせ、両手で握りながら大きく振りかぶる。すると、アンチマジックバリアが施されていない五稜郭の内側から、城壁めがけて一気に叩きつけた。
途端、城壁は爆発を伴って崩壊する。その城壁に開いた大きな穴を前に、アストレアは振り返り、アルカウスに叫ぶ。
「んじゃ、脱出しますか。」
「……あなた、見かけと言動によらず、豪快ね?」
「ええ、よく言われるわ。」
五稜郭城壁、2班の陣。
エンシェントとブラックウェルが、ヴリトラと激しく衝突していた。
ヴリトラは魔法の刃を展開する剣、エンシェントは魔導銃、ブラックウェルは杖。互いに一歩も譲らぬ熾烈な戦いは続く。エンシェントもブラックウェルも、軍で鍛えた確かな戦術があると言うのに、ヴリトラは殺人衝動だけで、彼らと互角の戦いを繰り広げていた。
互いに距離を置く。そしてエンシェントは、魔導銃の銃口に展開していた魔法の刃をアークルに戻し、銃撃スタイルをとった。
「一佐。ヴリトラは、見かけ以上の化け物です……!」
「同意する。されど、我々は彼を排除しなければならない。」
改めて再確認する、ヴリトラの化け物じみた実力。それでも、彼らは倒さなければならない、この殺人衝動に犯された、まさに化け物以上の化け物を。
すると、ヴリトラは距離を置いたまま、咆哮を上げた。
「ウルォドォオアアアァァァァァァアァッ!」
空気が震撼する。すさまじい気迫に満ちる。
「テンメェラ全員、ぶっ殺ぉぉおっす!」
するとヴリトラは、距離があるその状態で、魔法の剣を左に振りかぶった。抜剣に次ぐ攻撃も通じないこの距離から、どうやって攻撃を仕掛けるのか。だが、賞賛なき構えなど、誰もとりはしないはず。
そしてヴリトラが繰り出した攻撃とは。
「ゥドラァ!」
グリップを大きく振るう。そしてその瞬時に、緋色に輝く魔法の剣身を、大きな碇に変化させた。その碇は、グリップの柄の部分とは、同じく緋色の光を放つ魔法の鎖で連結されている。そして魔法の碇は、死の宣告をつかさどる斬首台の刃のように、ふたりに襲い掛かってきた。
「回避せよ!」
ブラックウェルとエンシェントは、互いに左右に回避する。だが、エンシェントが一瞬出遅れたため、碇のフックの尖端が、左肩を掠めた。
「はぐぅっ!?」
痛みで、その場にうずくまるエンシェント。ジャケットの左肩の部分は破れ、そこからとめどなく、鮮血が流れ出す。エンシェントは思わず銃を放り投げ、その傷口に右手をあてがった。
ヴリトラの凶行は止まらない。
「ヒャーッハッハッハァ!」
それまで無限に伸びていた鎖を、今度は縮め、右下に握ったグリップを振るい、鎖にも波を持たせることで急速に引き寄せたのだ。このままでは、エンシェントは再び鎖の餌食となってしまう。だが、エンシェントは痛みをこらえるのが精一杯だ。
だが、そんな彼を救ったのがブラックウェルだ。彼はエンシェントの背後に立つと、得物である杖を構え、杖の逆手の刃、グリップ、順手の刃へと滑らせることで、碇をやり過ごし、エンシェントを攻撃から防いだ。
グリップと碇をつなぐ鎖は完全に回収され、碇は直接グリップの鍔につながれている状態となった。その碇が戻ってくる反動で、ヴリトラの右腕は背後に引っ張られ、彼自身も足を引きずりながら、若干後退した。
「次は…… 外さねェ……!」
悔しさの中にも高揚感がうかがえる、ヴリトラの何とも言いがたい表情。それを一瞥するブラックウェルは、なおも冷静で冷徹な、そして鋭い視線を向けるのみだった。
「一佐、すみません……!」
エンシェントは、痛みをこらえながらブラックウェルに言う。彼は視線をヴリトラから外さず、彼に答えた。
「礼は不要。貴君のその状態で、戦闘は困難。直ちに戦線を離脱せよ。」
「了解いたし……」
だが、それをヴリトラは許さない。
先程よりも距離を置いてしまったヴリトラは、少しだけ鎖を伸ばすと、碇を回し始めた。どうやら、遠心力をつけているようだ。そしてその間も、「ケヒヒヒヒヒ…… ヒャハハハハハ……」と、不気味な笑いをあげている。
そしてヴリトラは、わずかな助走をつけると空中に飛び上がり、体を斜めに回転させ、更なる遠心力を碇に乗せた上で、それを撃ち出そうとしている。
「ゥドラァ!」
その時だ。
碇を繰り出そうとしていたヴリトラめがけ、黄金の閃光が飛来した。そしてそれは、ヴリトラの右腕に命中するなり、小さな爆発を伴って金色の光となってはじけ、ヴリトラの右腕を強くきしませる。ヴリトラはそのダメージに顔をゆがめ、思わず魔法の剣を手放してしまう。
「ヅァ!?」
きしんだ右腕全体を左手で押さえながら、ヴリトラは着地する。そして彼が手放した魔法の剣は、グリップと碇の先で空中に円を描き、そのまま五稜郭陣の内側の芝生へと落ちた。碇は地面に突き刺さったが、持ち主であるヴリトラからのアークル供給が絶たれたことで、緋色の光の粒となって、やがて消滅していった。
ヴリトラは叫ぶ。
「誰だァァアッ!?」
そして響き渡る、バイクのエンジン音。
五稜郭の城壁の内側を、猛スピードで駆け抜けるバイクがある。
バイクを駆るのはエルメス。後部座席から攻撃してきたのはクリシュナ。そしてクリシュナが構えた魔導銃のマギア・フィラフトには、黄金の魔法陣と魔法式が輝いている。
「いい腕してるわね、クリシュナ!」
「そらどうも! エルメスのライディングも安定感抜群なこって! 死に掛けたけどさ!」
怒りに狂ったヴリトラ。彼は、すぐそばに落ちていた槍の穂先をブーツで踏みつけ、起き上がった柄を右手でつかむと、それをそのままバイクめがけて投げつけた。槍の穂先がふたりに襲い掛かるが、エルメスは冷静にハンドルを切り、それを難なく回避。さらにヴリトラはもう1本取り上げてふたりに投げつけるが、今度はクリシュナの銃撃が阻み、槍を打ち落とす。
「………… ……こんの、盗賊気取りの赤マフラーが、舐め腐りやがって……! 殺す、殺す! ブッ殺ォォオッス! ただ殺すだけじゃ飽き足んねェッ! 泣き叫ぶまでいたぶってェ! 命乞いするまで痛めつけてェ! 顔なんぞ、原形が分からなくなるくらい、ぶちのめしてくれてやるぁぁあァァアッ!」
エルメスは、ヴリトラとすれ違う前に、五稜郭足場の階段を駆け下りて芝生に降り立つ。そして芝生を駆けながら、タンク右側のタンクバッグからレシーバーを取り、ブラックウェルにつないだ。
「こちらエルメス。ブラックウェル一佐、応答願います。」
ブラックウェルは、エンシェントを介抱しながら、応答する。
「ブラックウェルだ。」
「大陸共同軍や自衛段の皆さんは、全員退避しました。あとは、あたしと満月の夜に任せてください。」
「拒否する。」
そのまさかの答えに、エルメスは驚く。
「なぜですか!?」
「標的の駆逐は、我々軍人の任務である。また、きみは軍事戦闘訓練を積んでいない。満月の夜はともかく、きみに我々でも駆逐が困難な敵を任せることはできない。」
「大丈夫です。探偵は凶悪犯と立ち向かうこともありますし、それを想定した戦い方もパパから習っていますし、相応の武装も整えています。それに、あたしのライバルでもある満月の夜と一緒なら、絶対に勝てます。……どうかあたしを、あたしたちを、信じてください。」
「………… ……了解した。」
ブラックウェルは杖の刃から魔法を解き、それを足場に突き刺し、答えた。
「最後にひとつ、命令する。」
「はい。」
「無事に帰還せよ。」
「了解しました。ありがとうございます。」
エルメスはそう答え、レシーバーをバッグにしまう。
そして対峙する、エルメスとクリシュナ、対するヴリトラ。
バイクのエンジン音が高鳴る中、最後の戦いが始まる。
ヴリトラによる反撃が、始まった。
彼は、銃士隊が使っていた魔導ライフルの銃口付近を踏みつけてストックを起こし、それを拾うと、カーゴパンツから取り出したマギア・フィラフトを、ライフルの動力部に接続した。どうやら、フィラフトには何かしらの魔法が搭載され、それをライフルで打ち出すようだ。
「エルメス、出して!」
クリシュナに言われるまでもなく、エルメスは強くハンドルを回した。後輪は芝生の草や土を巻き上げ、濃いタイヤ痕を刻み、走り出す。
そして襲い掛かる、ヴリトラの緋色の銃撃魔法。先程エルメスたちがいた場所に命中するなり、それは大爆発を起こした。クリシュナが振り返ると、何と、地面はえぐれ、芝生の下の土がむき出しになっていた。
「気をつけて、エルメス! 当たったらそこから爆発を起こす!」
「了解! クリシュナは、絶対に振り落とされないで!」
そしてクリシュナとエルメスは、反撃に打って出る。
階段を解さずに、芝生に降り立ったヴリトラは、なおもライフルを乱射し続ける。そのたびに、地面はえぐれ、植木や花壇が破壊され、五稜郭城壁も穴だらけになってゆく。一部の足場も崩壊し、5班が使っていた陣の足場は、もはや使えそうもない。
エルメスがバイクを駆り次々に回避してゆきながら、クリシュナは右手に構えた魔導銃にて迎撃する。ヴリトラが乱雑に銃撃するのに対し、クリシュナの銃撃は丁寧で的確。ほぼすべての銃撃魔法を、着実にヴリトラに当ててゆく。
エルメスのライディング、クリシュナの銃撃、息の合ったふたりのコンビネーションが、確かにヴリトラにダメージを浴びせている。そしてこちらは、一撃とて浴びてはいない。確実にクリシュナの銃撃は、ヴリトラの肉を晴れ上がらせ、骨を軋ませている。
だが、クリシュナは次第に、ヴリトラの異変に気づきはじめた。
「ねぇ、あいつおかしくない、エルメス!?」
クリシュナは叫ぶ。エルメスは敵との距離を置くべく、五稜郭の階段をバイクごと駆け上がり、ブレーキをかけ、ギアをローに戻す。
「ええ。普通の人なら30回倒れてもおかしくない銃撃を浴びているというのに、ヴリトラ、倒れるどころかますます凶暴化して襲ってくる。あいつの原動力は何なの?」
「多分、だけど……」
ふたりが見やる、ヴリトラ。
彼の目からは光が失われ、しかし顔全体は愉快そうに笑っている。左頬、上半身、両腕は腫れあがり、黒いシャツもほとんど破れている。それなのに、着実にダメージを受けているとは思えない足取りで、ふたりの方へと歩み寄ってくる。
「ケヒヒヒヒヒ…… ヒャハハハハハ…… ヒャーッハッハッハァァアッ!」
そしてもはや、人語を話していない。
「闘争本能、殺人衝動、そういった高揚感だけが、あいつの頭の中を支配しているんだと思う。わたしたち、いや、誰かを殺したい。そういった感情だけが、痛みも苦しみも、みんな感じられなくなっているんだ。
……ううん、ひょっとしたら、痛みすら戦いの実感として、心が高揚しているのかもしれない。あいつはもう、欲望に全てを支配された、化け物以上の化け物だ。」
「化け物以上の化け物…… そうね、あいつには、お誂え向けのフレーズだわ。」
そして、エルメスが言う。
「クリシュナ。あたしもそろそろ疲れてきた。神経使うバイク捌きで、かなり腕も痛い。それに、クリシュナにもやるべきことがあるんでしょ? あいつを倒して、さっさとあなたの目的、果たしなさい!」
「……分かった。ありがと!」
そして、ふたりは。
「エルメス、敵を牽制して。あとは任せて!」
「信じてるわ、うまくやりなさい!」
最後の一手に、全てを賭けようとしている。
その頃。
五稜郭の外、軍事衛生車両および周辺の臨時キャンプ。
この車は、手術室と診察室の設備を搭載した、まるで『移動する病院』のようで、縦に大きく2階建てとなっている。医療設備は整っており、医療器具のほかに携帯式のクリーンルームを常備し、運転手も全員、救命士である。
今回、大陸共同軍とトクソティス州自衛団から、合わせて7台が出動しているが、ヴリトラの思わぬ反逆によって多数の死者、重軽傷者が出ており、野営テントをいくつも展開している。それでも間に合わない分は、使い捨てコットンシートを広げ、その上に負傷者を寝かせている。
「………… ………… ……っ、うぅっ……!」
ラングが、うめきながら目を覚ました。
彼の覚醒に気付いたアストレアが、駆け寄ってくる。
「ラング! よかった、目を覚ましてくれて……!」
「あぁ、何とか。……そうだ。ヴリトラだ。あいつは、どうなった?」
頭を抱えながら、ラングは上半身を起こす。だが、ヴリトラとの戦いで負った傷が鈍く痛み、体中が軋む。
「まだ起き上がるのは無理よ、寝てなさい! ……ヴリトラは今、探偵スロックノールと怪盗・満月の夜が、敵同士ながら一緒に戦ってくれているわ。」
「そんな、満月の夜とエルメスが…… ………… ……ははは。何てこった。俺たちは、逮捕するべき相手に助けられているというのか。」
ラングは、周囲を見渡す。
軍事衛生車両、テント、そして地面に敷かれたシート。どこもかしこも、負傷した自衛団員や兵士たちばかり。しかもここにいる全員が、ヴリトラによって傷を負わされた者ばかりだ。死者は短い間隔で横たえられ、全身を白い布で覆い隠されている。
そして離れた場所には、折りたたみのベンチに腰掛け、アストレアに左腕の手当てを受けているエンシェントの姿があった。ブラックウェルも、ラングが目を覚ましたことに気づいたようだが、視線をこちらに向けるだけで、言葉はかけない。だが、ラングにはそれで充分だった。
「一佐。俺に統率力がなかったばかりにこのような結果になり、申し訳ありません。それと…… ありがとうございました。」
「貴君の責任にあらず。気に病むことはない。レグルス、健闘を評する。」
「はい、ありがとうございます……」
そしてラングは再び、周囲を見回す。見れば見るほど、それは悲惨な景色だった。
「ヴリトラ…… 何の罪もない仲間たちを、欲望だけでここまで……!」
そこに、手当てを終えたアストレアが答える。壁を打ち抜いたハンマーは、持っていない。
「17年前の大陸間戦争が、ああさせたのよ。あたしは子供だったから戦争には参加していなかったけど、あの戦争を気に心を病んだ人は大勢いると聞いたことがあるわ。悪いのは戦争よ、いつの時代も。」
そこに、エンシェントも続く。
「そっか。悪いのはいつも戦争、か。……そうだな。いつも人はどこかで戦争を引き起こす。だが、その戦争を食い止めたいと願うのも人だ。だから…… なぁ、ラング?」
「ああ。」
遠くに見える、オルドー時計塔。
きっと、オルドーで戦いを繰り広げているだろう、満月の夜とエルメスを。
ラング、アルカウス、エンシェント、アストレア、ブラックウェル…… そして誰もが、見守る。
「倒してくれ、ふたりとも。」
オルドー庭園。
エルメスは、クリシュナが離れたバイクを駆り、五稜郭陣内を駆け抜ける。
現在、エルメスのバイクの前輪の支柱には、大陸共同軍銃士隊のライフルを積載している。攻撃に使うのではなく、ライフルにプログラムされた魔法を使っている。
ヴリトラは、再び緋色の碇を具現化させ、エルメスに襲い掛かっている。そんな碇を、エルメスはハンドルさばきだけでは避けきれない場合、ライフルに組み込まれた魔法で防御している。五稜郭城壁も使われている魔法、『アンチマジックシステム』だ。
――あの碇…… おそらくは、『魔導流星錘』の原理を組み込んだ魔法ね。碇を打ち出すだけじゃない、伸縮自在の鎖を引っ張って戻す際の作用でも攻撃できる。しかも錘の部分があの鋭い碇となれば、かすっただけでも鋭い切り傷を負うことは必至。絶対に直撃は避けなければ!
するとエルメスは、左手でハンドルを裁きながら、右手でコートの内側に隠していたリボルバーを抜いた。そして銃口をヴリトラに向け、引き金を引く。
飛び出したのは、ライム色の閃光。それはヴリトラにも当たりはしたが、ほとんどがヴリトラの手前の地面に命中。銃撃魔法は地面に着弾するなり、アークルの霧となり、ヴリトラの視界を奪う。エルメスはもとより、煙幕を展開することを目的としていた。
「小ッ賢しいんだよォォッ!」
煙幕を突っ切ろうと、自らその中に飛び込むヴリトラ。意外と煙幕は広範囲にわたって展開されていたようだ。ヴリトラが煙幕を突破し、次にエルメスを捕らえたときは、何と彼女は、五稜郭城壁の足場の上にバイクごと登り、車体右側にジャッキを展開して立ち止まっていた。
――では、反撃といきますか。
――クリシュナ、見ていて頂戴。あたしだって、戦えるということを!
タイヤとジャッキの3点で、バイクを支えたことで、バイクは安定する。エルメスはその状態で銃を構え、銃のシリンダーに装填されている魔導弾に封じ込められている魔法を発動する。
――『マジッククラッシュシステム』、起動。
――ヴリトラが撃ち出す魔法そのものを、これで侵食する!
エルメスは真っ向から、ヴリトラに挑む。
「ウオラァ!」
ヴリトラはライフルを構え、引き金を引く。そして無限に伸びる鎖を引きながら、緋色の碇はエルメスめがけて襲い掛かる。だが、エルメスは臆することなく、それに立ち向かう。
エルメスも銃撃する。リボルバーの銃口から飛び出す、ライム色の閃光。まっすぐ伸びるその閃光は、緋色の鎖に衝突するなり、光の粒となって霧散してしまう。それと引き換えに、ヴリトラが放った魔法の碇は、鎖とともにアークルの大爆発を伴い、爆風を巻き起こし、煙を上げ、消滅してしまった。
「ダラァッ! 小娘ェ、何ァニしやがったァァァァアア!?」
少なからず、碇と鎖の爆発による衝撃を受けたヴリトラ。半歩後ずさりし、アークルの爆発による赤い煙の向こうを見やる。だが、煙が広がってしまい、エルメスの姿が確認できない。
一方のエルメスも、下手にそこから動くことなく、バイクを横向きにし、バイクの陰に膝立ちの状態でしゃがみこみ、ヴリトラからの反撃に備える。
――さあ、敵の牽制はしておいたわ。
――あとはしっかりやりなさい、クリシュナ!
その時だ。
何と、世界樹の枝の間、煌々と輝く満月の中から、大きな白い翼を持つものが現われた。
魔法を動力、水を燃料とするウォーターエンジンに白い外装をかけ、上方に足場とバー型ハンドル、下方に滑走ブレード、そして両脇に翼を持つ、超小型グライダーだ。
グライダーの上にはクリシュナが両足で立って乗っており、左手でバーをつかみながら、右手で銃を構えている。翼の両端で煙の筋を引きながら、クリシュナは空中でヴリトラに照準を合わせると、迷うことなく引き金を引く。
「ヴリトラァ――――――――――――――――――ッ!」
満月を背にし、クリシュナが撃ち出した銃撃魔法。それは、月の光を束ねたかのような、幻想的で美しい、黄金の閃光。見るものを魅了する美しい光は、しかし絶大な破壊力をともない、ヴリトラに断罪の審判となって襲い掛かる。
だが、ヴリトラはなお、自らに下された審判に抗おうとする。銃口が破裂した状態のライフルを向け、クリシュナの銃撃を迎え撃つ。
「ヤァーッハァーッ! 無駄だァーッ!」
そして衝突する、緋色の放射と月色の閃光。正反対の性質を持つ魔法は、大地が震えるほどの衝撃をともない、空気さえ焦げるほどの大爆発を起こす。それにともない、すさまじい炎と煙、爆風、衝撃が、ヴリトラとクリシュナに襲い掛かる。炎は届かないまでも、爆風はエルメスにも襲い掛かり、五稜郭城壁に背中からたたきつけられてしまう。
「様ァ!」
爆風によって芝生を引きずり、足を地面にめり込ませたまま、ヴリトラは勝ち誇った。あれほどすさまじい爆発と衝撃が走ったのだ。下手をすれば、大の大人でも致命的なダメージを受けていてもおかしくはない。
だが、エルメスは壁にもたれかけながらも、冷静にその行方を見守る。
――いいえ。魔法のエキスパート、クリシュナを見くびらないことね!
エルメスの確信は、現実となった。
何と、空中に漂う炎と煙の中から、グライダーが翼の両端に雲を引き、空に飛び上がったのだ。そこにはクリシュナの姿もあり、両足と左手でしっかりとグライダーにしがみついており、魔導銃も手放していない。
グライダーはある程度上昇すると軌道を変え、ぐるりと大きなカーブを描く。そしてクリシュナは、再びヴリトラへの攻撃を試みる。だがそれより早く、ヴリトラはライフルにアークルを充填。クリシュナが体制を整えるより早く、先に銃撃魔法を繰り出してしまった。
「死ニャアレェェェェェェェェェェェェエエエッ!」
クリシュナに襲い掛かる、緋色の魔法。それを食らったグライダーのエンジン部分は、魔法の暴走と蒸気爆発をともない、炎と霧を巻き上げ、空中で大爆発を起こしてしまう。
満月が輝く夜空を、赤い炎が埋め尽くす。オルドー本堂を、芝生や植木を、五稜郭の城壁を、そしてエルメスの瞳を、残酷な炎が照らす。もはや満月の夜とて、無事では済むまい。いや、あれほどの爆発に巻き込まれたのだ、死は免れまい。
……しかし、それでも。
エルメスは表情を変えることはなかった。
何と。
ヴリトラの懐の内側で、赤いマフラーが揺らめく。
芝生が踏み鳴らされ、青い草がふわっと舞う。
漆黒の髪が、風に凪ぐ。
そう、クリシュナだ。
両手で構えた魔導銃をヴリトラに腹部に向けたときにはすでに、引き金に指を添えていた。そしてクリシュナは、ゼロ距離のこの状態で、静かに、無表情のまま、引き金を引いた。
「……チェックメイト。」
途端。
月光のように美しい黄金の光が銃口からあふれ出し、黄金の銃撃魔法がヴリトラを襲う。
ヴリトラは目を剥き、口から胃液と血を吐き出し、叫ぶこともできないほど呼吸ができなくなっていた。そして彼は、クリシュナの銃撃魔法によって吹き飛ばされ、五稜郭の城壁に叩きつけられてしまった。
腹、背中、後頭部、そして内臓に至るまで、ヴリトラはダメージを負い続けた。さすがに化け物のようなしぶとさを持つヴリトラでも、今の一撃を食らえば、ひとたまりもない。
口からあふれ出す、ドロドロとした黒い血。焦点が合わずあちらこちらを向く両眼。ふらつく両足に、ライフルを手放した血まみれの両手。
そして、とうとうヴリトラは。
「グ……」
ゆっくり、ゆっくり、芝生へと伏せた。
目を白く剥き、起き上がってくることはなかった。
決着はついた。
クリシュナは銃を構えた中腰の状態から、ゆっくり、姿勢を正す。うつむきながらも、息は荒い。そんな彼女に、エルメスは言う。
「クリシュナ、やったわね……」
爆風に乱された、髪、インバネスコート、そして狩猟帽をただし、ふっと笑顔を向ける。そんなエルメスに、クリシュナも呼吸を整え、髪をグシャグシャにかき回し、笑顔で答えた。
「………… ………… ……そう、だね。」
微動だにしないヴリトラ。
それを前にして、うつむきながら、クリシュナは言う。
「ごめんね、エルメス。」
「……何が?」
「わたしが、国を脅かす泥棒、満月の夜だってこと、黙ってて。」
「……そうね。」
「いつか、自分の口で言うつもりだった。そしてその時に、謝りたかった。エルメスに嫌われても、仕方ないと思った。でも、もう遅いよね。」
「バカね。嫌うわけ、ないでしょ?」
そうエルメスが答えると、振り返るクリシュナに、笑いかけた。
「あたしたちは親友だもの。そして、大陸の未来を切り開く、その目標を掲げる同士だもの。嫌う道理が、見当たらないわ。」
「エルメス……!」
「だから。」
エルメスは、クリシュナの左肩を、ポンと叩いた。
「あなたのやりたいこと、あたしに見せて頂戴。中途半端なことだったら、それこそ許さないんだから。」
「………… ………… ……うん。」
そして。
クリシュナは魔法で呼び寄せた予備のグライダーに、エルメスはバイクに乗り、五稜郭の城壁を飛び越え、オルドーをあとにした。
だが、クリシュナによる最後のイベントが待っている。
彼女は腰から取り出した端末で、ラジオの放送システムをジャックし、叫んだ。その声は、ミミル国を飛び出し、周辺の国 ――レーヴェ、アースガルズ、レムリア、ドリームレジデンス、ビジョン、ツァドキエル、ヴァイスガルテン、ニヴルヘイム―― へと、大陸全土に響き渡る。
「レディーッス、エーン、ジェントゥメェーンッ!」
まだ、水を盗むという大捕り物を成し遂げていない。
「お待たせいたしました、怪盗・満月の夜の、最後で最大の捕り物ショーを開始いたします。
今日の出来事は、ミミルの、そして大陸の歴史に残ることでしょう。法に背いた大泥棒が、大陸全土から水を盗むという、とんでもないことをしようとしているのですから! 我が写し身たる満月も、わたしを祝福してくれているように思えてなりません。
今宵は雨雲ひとつない、素晴らしい夜空が広がっています。しかし、たった今から雨が降ると言ったら、皆さんは驚きませんか? 私は今宵、国境付近の川沿いのあたり限定で、盗んだ水を雨に変えて、降らせて見せましょう。
さすがに、矮小なる泥棒ごときが国内全土に雨を降らせることはできませんが、それはご勘弁を。そして運がよければ、気まぐれな月の女神様がイタズラをして、あっと驚くものを見せてくれるかもしれません。
……それでは、怪盗・満月の夜がお送りする犯行予告は、これで最後になります。今までお騒がせして、申し訳ございませんでした。そして次は、各社新聞の折り込みにて、最後のご挨拶といたしましょう。その際には、国境の川沿いにお住まいでない方にも、今回の大捕り物の全貌を、詳しくお伝えできるかと思います。
願わくは、このミミル国、そしてこの神々の大陸のすべての国々に、更なる発展がもたらされ、人々の幸せな暮らしが、とわに続きますように。」
その時だ。
国の各地で、爆音が鳴り響く。
ミミル湖から、大陸の各地へと流れる大河、その国境付近に位置するダムから、突然、それが響き渡ってくる。1度や2度ではない、立て続けに、爆音が轟く。赤い炎を巻き起こし、真っ黒な煙を巻き上げながら。
ダムが崩落してゆく。大河に瓦礫が崩れ落ちる。ものすごい勢いで、ダムを形作っていた瓦礫が沈むとともに、灰色の水柱が立ち、空に届こうとしている。
だが、まだまだ爆発は続く。
水面から深い位置にある爆弾が爆発したのだろう、崩落による水柱とは違う水柱が、大きく立ち上る。それは崩落の水柱よりもはるかに高く水を舞い上げ、夜空一面を覆いつくしてゆく。
そして、一度夜空に舞い上がった水は、大粒小粒の雨となり、再び川へ、そして一部は陸地へ、降り注いでゆく。クリシュナは見事、晴れ渡った夜空の下、雨を降らせることに成功した。
その様子を、町を行き交う人々、酒をたしなむ大人たち、勉強道具を開きながらラジオを聴いている学生たち、キャンプを開き避難を続ける大勢の人々…… 誰もが驚き、空を見上げる。
空は確かに晴れている。世界樹の枝の向こうには、ひとつの満月と無数の星たちが輝いている。それなのに、雨が降り注いでいるのだから。
……そして、奇跡が起こった。
何と、空に淡い色合いの光の弧が浮かび上がってきたのだ。
その名を、『月虹』。昼間に見る虹ほど鮮やかな色は出ず、白い色合いになることが多いことから、『白い虹』と呼ばれることもある。だが、クリシュナが降らせた雨が夜空に描き出した虹には、淡いながらも、七つの色が煌いている。
これが、クリシュナが最後に言った、月の光がもたらすイタズラ。月虹という、滅多に見ることができない、希少な虹の中でも、更に希少な現象。それをクリシュナは、人為的に引き起こしてしまったのだ。
更にクリシュナは遠隔操作で、この景色を川のそばではないオルドーでも再現するべく、州立消防署・本署のタンクにつないだ放水車から、空に向かって、最大法推量、最大出力で、シャワーモードで放水した。すると見事に、クリシュナたちの前に、月虹がその姿を現した。
その様子を、クリシュナはもちろん、エルメス、ラング、自衛団員、大陸共同軍兵士、誰もが、そこに生まれた月虹を見上げる。驚きながら、この素晴らしく神秘的な光の幻影に、ずっと、ずっと、見入っていた。
そして、クリシュナは。
悠々と空を飛びながら、ゴーグルを額の上に押し上げ、夜空を見上げる。
「怪盗・満月の夜。これにて、ミッションコンプリート。……かな?」
……だが。
五稜郭。
誰もいなくなったそこに、ただひとり、ヴリトラが取り残されていた。
クリシュナの強烈な銃撃魔法をゼロ距離で受け、その勢いで吹っ飛ばされた先の壁に強く叩きつけられ、大ダメージを負ったことで意識を完全に手放していた、そのはずだ。
微動だにしないその状態から、彼は急に双眸を剥き、鋭い視線を芝生に向ける。両眼のピントは合っていない。だがそれもやがて合うと、ゆっくり、ゆっくり、ヴリトラは起き上がった。
「ウグググググ……」
口から漏れる、黒い血が混じった唾液、獣のようなうめき声。
銃撃によって腹部は赤く腫れあがり、皮膚もわずかにえぐれている。
そしてヴリトラは、周囲をうかがう。
誰もいない。残されているのは、ヴリトラが流した多くの血、自衛団と大陸共同軍より組織された警備隊の隊員たちの武器および防具の残骸。クリシュナによって弾き飛ばされた魔法の剣のグリップも、芝生に投げ出されている。
「………… ……!」
ヴリトラは、そのグリップを拾い、緋色に輝く魔法の刃を出現させると、周囲を再び見回す。そしてどうしたことか、それを思い切り、振り回し始めたではないか。
「ウロォァアァァア! ウォッラァアアア! ドォアラァァァァァァアアアッ!」
宙を切る。斬る。斬り続ける。
彼は幻覚でも見ているのだろうか。いつまで経っても、まるで敵対する人々を斬り続けるかのような奇行は止まらない。剣は宙を斬るばかりではなく、時に五稜郭の壁や柱、樹木まで斬りつけはじめた。
「ヒャーッハッハッハァ! イーッハッハハハハァァァァァァ!」
高笑いしながら。
そしてなお、無意味に刃を振るい続ける。誰もいない中、ヴリトラは高笑いしながら、獣のように吼えながら、なおも長剣を振り回す。そのうち、長剣を碇に変え、それを何度も、無意味に、振り回しはじめた。次第に五稜郭の内側は、見るも無残な姿になってゆく。
だがそのうち。
「………………………………」
何を思ったか、唐突に止まった。
そして周囲を再び見回し、奇行もピタリと止んだ。
「殺ス。……イナイ?」
幻覚が冷めたのか、それとも幻覚の中の人間が誰もいなくなったのか、ヴリトラは自らが殺す対象がいなくなったことを、何とか理解したようだ。
ぐるり、ぐるり、何度も見回す。あるのは、五稜郭の城壁とそれを支える柱、および階段と壁、オルドー本堂、その周囲に並ぶ花壇と植木。どれもこれも、満月の夜、エルメス、警備兵、ヴリトラ、4つの勢力の衝突によって、戦いの傷跡ばかりが刻まれていた。
「殺ス。……殺ス、殺ス、殺ス。………… ……殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺スゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥウウウアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァアアアッ!」
右手に握る、魔法の剣のグリップ。鎖は回収され、碇がグリップに接続されている。ヴリトラはそれを、碇から長剣に戻し、順手から逆手に持ち替え、柄頭に左掌を添える。
そして、彼がやってしまったこととは。
「ヒ、ヒャハ、ハハハハハハ……」
今度こそ。
庭園は静まり返った。
あとには、赤黒く染まった芝生だけが、『最期の惨劇』を物語っていた。




