File7 鐘の音は告げる
時刻、0時。
……ガラン、ゴロン。ガラン、ゴロン。
オルドーの北側に位置する時計塔から、鐘が打ち鳴らされた。
時を告げるその鐘の音に、誰もが振り返り、時計塔の天辺を見上げた。
「何故だ!?」
ラングもまた、叫び、時計塔を見上げる。
――『大陸時計塔規定』で、午後9時以降、翌朝5時までの鐘突きは禁止されているはず。
――……出たな。奴か! 相変わらず、派手なお出ましだな!
すかさず、ラングはオルドー警備組の全員に指示を下す。
「鐘に気を取られるな、満月の夜の陽動作戦だろう! 空中遊撃隊1班のみ、時計塔を監視。それ以外の者は、自分のエリアの警備に集中せよ!」
ラングの一声で、鐘の音に注意を乱された自衛団員および大陸共同軍兵士たちは、すぐさま自分の監視エリアに注意を戻し、武器を構えなおす。
そしてラングが、確認と次なる指示を下す。
「それでは、各班の班長を確認しよう。1班はこの俺、ラング・レグルスが指揮を執る。2班はカルキノス州自衛団長アルカウス・ライル、3班はパルセノス州自衛団長エルア・アストレア、4班は大陸共同軍ヴァン・エンシェント一尉、5班は同軍クロノ・ブラックウェル一佐を任命している。各々、班長の指示に従うこと。互いに声を掛け合い、任務を遂行せよ。本作戦責任者ラングからは、以上である!」
そして、鐘の音は止んだ。
ラング指揮下に置かれた、空中遊撃隊1班からは、何の連絡もない。だが、別の隊員から連絡が入った。
「空中遊撃隊5班から全員へ。6時の方向に、満月の夜と思わしき影を確認。移動手段は、黒い気球。どうしますか、発砲しますか?」
黒い気球。
そう、クリシュナが用意していた、厳重な警備を突破する策のひとつだ。
その言葉に、すかさずブラックウェルは通信を入れる。
「ブラックウェルから空中遊撃隊5班へ。そのまま待機せよ。1班班長レグルスへ。その方角だと貴君の陣が迎撃に適していると判断した。そちらでの駆逐を要求する。」
「レグルスからブラックウェル一佐へ。了解しました。ラングから空中遊撃隊1班、および銃士隊1班へ。このあたりに民家はない。安心して撃破せよ。」
「しかし!」
班員の声が、ラングに届く。
「それでも、周辺の建物に被害が出ます! 宿舎とか、各党の集会所とか、倉庫とか!」
「問題ない。現代建築は、気球の1機や2機落ちたところで壊れるようなヤワなものじゃない。構うことなく、撃ち落とせ!」
ラングのその怒号のような命令に、通信を入れた隊員は「はいぃ!」とひるんだ様子で返事をする。
「改めて我が班の空中遊撃隊および銃士隊へ。撃ち方、はじめ!」
「撃ち方、はじめぇっ!」
途端。
空中に配備された気球や、オルドー周辺の建物の屋上から、魔法による銃撃、砲撃が始まった。赤い光、青い光、緑色の光、黄色い光。そのどれもが、鮮やかな軌跡を描き、空を照らし出す。そしてそのうちの何発かは、見事、気球を貫き、撃ち落した。
「狙撃隊1班からレグルス団長へ。標的の撃沈を確認。」
落下を確認した狙撃隊からの通信が入る。落下した地点は、オルドーから程遠くない大通り。建物の向かいに消えたため、ラングは偵察を向かわせる。
「了解。槍術隊1班からひと組、気球の落下地点に向かい、満月の夜の存在を確認せよ。」
そこに、新たなる連絡が入る。
「大変です、満月の夜が!」
その通信に、ラングは特に動揺することもなかった。おとり作戦なら、何度も使われていることを知っているし、自身も経験した。
――やはりな。今の気球はおとりだったか。
――今更驚くことなど無い。どうせ次もおとりだ。
「ただいまの者、所属を名乗り、再度報告せよ。」
「はい! 銃士隊4班です。2時の方向(東から15度北に寄った方角)、黒い気球が接近!」
「すみません、こちらからも!」
「こっちにも現れました!」
唐突に、一気に現れたという、黒い気球。ラングは一瞬戸惑うも、現在の状況を把握し、今度こそ本格的に、各班の班長に、以降の指示を任せることにした。
「レグルスより各班の班長へ。これより、それぞれの陣の射程に入った気球を撃ち落とせ。空ばかりに気を取られることなく、地上にも注意し、作戦に当たれ。」
ラングの言葉に、すべての班長が了解と答える。
その一方で。
「気球による陽動…… 相変わらず派手なまねをするわね、満月の夜も。」
オルドーの中央棟の屋根の上で、エルメスは、いよいよ始まった戦いを眺めていた。
彼女の傍らには、エレベーターで運搬してきたと思われるバイクがある。
エルメスの眼下には、エルメスを原案として構築された五稜郭城壁が広がっており、そしてその内側では、あわただしく動く、自衛団員と大陸共同軍兵士からなる、今回のためだけのオルドー警備兵の姿がある。
夜風は冷たく、素肌からは体温が奪われる。インバネスコートの中に手を隠し、首にはクリーム色のマフラーを巻き、目元にはゴーグルを当てている。冷たい風に中てられたか、頬が、やや赤みを帯びている。
冷たい夜風になびく、マフラーとコート。微動だにしない、冷静なたたずまい。エルメスはただ、クリシュナが送り込む気球が、次々に撃ち落とされるのを眺めている。
――遠隔操作魔法で気球を飛ばし、注意がそちらに向いている隙に、この混乱に乗じてオルドーへの侵入を画策していることでしょう。
――しかし、地上からの侵入経路も、五稜郭陣形にて封鎖。すでに内部に侵入しているとしても、警備兵はもちろん、役人や知事といった賓客たちを含む誰もが、事前に3回もの身体検査を済ませてある。誰かに変装し、紛れ込むことは、まず不可能。
――それでもあなたは、やって見せると言うの、満月の夜? ならば、あたしは迎え撃ちましょう。この五稜郭の陣の、直中にて。
エルメスは、少しうつむき、小さな鼻先をマフラーにうずめ、オルドー屋上の手すりに手を添える。
夜風の中、マフラーの中にうずめた唇は、かすかに笑みを浮かべる。
――そう。
「だから、この難攻不落の城砦を、突破してきなさい、満月の夜……ッ!」
その頃。
撃ち落とした気球を偵察しに行った隊員たちは……
「こちらレグルス。偵察要因、応答せよ。繰り返す。どうしたか、応答せよ。」
「ライルより。偵察、応答を求む。何故応答しない、何故報告しない?」
「アストレアより! どうしたの、お使い係! 現状を報告しなさいってば!」
一向に戻ってこず、一向に報告をしない。
この状況の中、全班長に連絡が入る。4班の班長を担う、軍魔法戦略隊所属ヴァン・エンシェント一尉からだ。エンシェントは、整った顔立ちに、ボサボサの栗色の髪すらスタイリッシュな、若きエース。ラングにも勝るとも劣らないカリスマ性と、ラングと同等の熱血と行動力が、信頼を勝ち得ている。
「エンシェントより全班長へ。おそらく気球による陽動は、こちら側の戦闘要員を削ぐための作戦だったと推測されます。」
「レグルスよりエンシェントへ。どういうことか。」
「はい。大方、こんな感じでしょう。人が乗っているかどうかも怪しい気球を何機も飛ばし、偵察係にそれを確認に行かせることで、こちらの警備体制を手薄にさせます。
そして気球の様子を見に行った者を、標的が得意とする催眠ガスを吸わされたり、催眠音波を聞かされたり、気球に搭載した撒き菱などのトラップに巻き込むなどして、行動不能に陥らせます。
俺たちの注意をひきつけるばかりでなく、偵察要員を帰らせない、そして気球に標的が乗っているかどうかも確認できなくする、それが標的の狙いと考えられます。」
「成る程…… ちっ、これはやられた。では、どうすればいいと思う、エンシェント?」
「はい。もはや作戦を一度リセットし、この人数で作戦を続行するしかありません。満月の夜の存在も確認できませんし、まだこの五稜郭を突破されたわけではありません。気持ちを新たに、がんばるのみです。」
「気持ちを新たに、か…… よし。各班の班長は、人員のロス状況を確認、速やかにロスを補うこと。必要なだけ別の班から人員を集め、人員は均等に配備せよ。その間も、警戒態勢を緩めることなく。次に気球が現れた際には、撃ち落とすだけ撃ち落とし、偵察に行くことはなし。槍術隊は出番が少ないが、耐え抜いてくれ。」
その後も次々と、黒い気球はやってくる。そのたびに、空中遊撃隊、銃士隊は気球を打ち落とし、槍術隊は地上の監視を続ける。どれだけ同じものを打ち落とさせるのか、どれだけ地上を見張っていればいいのか。これは、全隊全班の隊員にとって、我慢比べのようなものなのかもしれない。
どれ程、気球を打ち落としただろうか。
とうとう、エンシェント率いる4班の空中遊撃隊が気球を打ち落としたことを最後に、気球は現れなくなった。その様子を、エンシェントがラングに報告。やっとラングは、腰に提げた水筒を口にした。余程緊張し、のどが渇いていたことを忘れていたのだろう。
「ふぅ。ひと息ついた。皆、ご苦労。しかし油断することなかれ。まだ、怪盗・満月の夜は姿を現さない。満月の夜がどこから現れるか分からない以上、総員、気を引き締めてかかるよう。」
だが、その時だ。
ラングのレシーバーに、通信が入る。
「こっ! こちら銃士隊5班! オルドーの煉瓦壁を飛び越えた標的が、ホバーボードに乗ってこっちに向かっています!」
「何? ……現れたか!」
ラングが双眼鏡を手に下途端、またレシーバーから通信が入る。
「こちら槍術隊3版! やはりホバーボードに乗った標的が!」
そして今度は、ラングの陣地から。
「ラング! 今度はオルドー正門からだ! ……ちっ、あの門番め、何をしてやがる!?」
「落ち着け。どうせ陽動だ。だが、それが攻撃してくるようであれば迎え撃て。その場合、槍術隊は陣を下りて五稜郭城壁前にて敵を迎撃。銃士隊はその場にて標的を駆逐。空からの襲撃に備え、空中遊撃隊は空中からの襲撃のみに対処せよ。」
無数に遅いかかってくる、煉瓦壁を突破した満月の夜。いずれも、ホバーボードに乗り、一定の速度で進行してくる。体の右側を前に向け、右手には魔導銃を構えている。
だが、意外にも満月の夜は、早い段階から攻撃を仕掛けてきた。
「こちら4班! 標的からの銃撃に被弾!」
「何だと!?」
「し、しかし…… 実弾でも銃撃魔法でもありません。これは、コインみたいです。いぶし液で、満月の夜のサインが……」
満月の夜が撃ってくる、数々のコイン。
その表裏には共に、世界樹の枝と満月のエンブレムが掘り込まれ、そのエンブレムの周囲には『満月の夜・参上』という、おそらくは印刷の要領で、いぶし液によるサインが刻まれている。
「おちょくっているのか、こちらに配慮してくれているのか、それでもどこまでも生意気なやつだ。……レグルスより全員へ。容赦するな、反撃開始!」
そしてはじまった、五稜郭城壁すぐそばでの銃撃戦。
銃士隊は容赦なくライフルを撃ち、団体で押し寄せる満月の夜を駆逐する。だが、標的は一向に倒れる様子を見せず、ホバーボードに乗りながら銃を乱射する。だが中には、手榴弾のようなものを五稜郭の陣内に放り投げ、ガスによって攻撃してくるものもあった。
「ガスには水で対処! ひるむな、撃ち続けろ!」
そして、ようやっと1体の満月の夜が被弾。足元からスパークを起こし、倒れる。だが、満月の夜はホバーボードごと姿を消し、あとには、ホログラムを映し出すためのマギア・フィラフトとコインの発射装置だけがついた、リモートコントロール式の四輪駆動の車体があった。
「なっ!? ……敵の正体はラジコンだ! 本体の攻撃に意味はない、足元だけを狙え!」
そこから先は、次々に満月の夜、もといホログラム装置を撃破していった。しかし、的が小さい。そのため、戦車の防壁をかいくぐり、堀を進み、壁を駆け上ってくるものもあった。
そこから先は槍術隊の出番。待っていたとばかりに、ホログラム装置を貫いてゆく。槍の穂先に突き刺さった車体をどんどん堀の中に捨ててゆき、また次の装置を駆逐。中には突破されるものもあったが、ラングをはじめ各班長が、対処に当たる。
戦いはしばらく続き、その間もコインを撃ち込まれ、ガス手榴弾を投げ込まれる。何とか、すべてのホログラム装置を駆逐した頃には、約一割の人員が、眠らされたり、しびれて動けなくなっていたりと、戦線を離脱していた。
ラングのレシーバーに、通信が入る。
「ブラックウェルよりレグルスへ。標的が攻めてくる様子はない。」
「エンシェントより。こちらも同じ。」
「アストレアより。こちらの陣も異常なし。」
「ライルより。攻めてくる様子はないわ。」
どうやら、もう終わったようだ。
水筒を口にし、ひと息つくラング。口をぬぐうも、その間もずっと警戒を怠らない。
「警戒を続けよ。まだ、標的本人は現れていな……」
その時だ。
「空中遊撃隊1班からレグルス班長へ。どこからかエンジン音が聞こえます! しかし、ここからは何も見えずぐああああああああ!」
レシーバーから悲鳴が聞こえる。ラングは動揺し、空を見上げ、レシーバーに向かって叫んだ。
「こちらレグルス! 応答せよ! 何があった!?」
だが、レシーバーからは何の応答もない。
見上げてみれば、ひとつの気球の真下を、大きな翼を持つ影が落下しているのが見える。しかも、その影がすれ違った気球からは、オレンジ色の煙が上がっている。どうやら、その影ははるか上空から一気に降りてきたのだろう。
そしてその影は軌道を変え、夜空を悠々と舞い始めた。そして次の気球に向かっている。
「こちらレグルス! 現れた、満月の夜だ! 1班の気球に、煙幕を撃ち込んだ模様。標的の移動手段は、搭乗式のグライダーであることを確認した。それぞれの班の射程範囲内に入り次第、銃撃せよ。作戦開始!」
満月の夜が乗っていると思われるグライダーは、黒い骨組みに、やはり黒い幌布の翼。満月が輝く夜と言えど、世界樹の枝の影が邪魔をし、時折、標的がその陰に隠れて見えなくなる。そしてその間にも、次々に気球にガス手榴弾、煙幕手榴弾などを投げ込んでゆく。これには、銃士隊の隊員も、各班の班長も、困惑を隠せない。
そこに、3班の班長エルア・アストレアが提案する。アストレアは、成人女性にしては低めの背丈と童顔という、実年齢よりも若く(あるいは子どもっぽく)見えるのが特徴的な女性。ライトブラウンの髪を長く伸ばし、前髪を残してうなじで括っている。右襟足のみ細い三つ編みにし、髪の結い方も左右で非対称にしているあたり、髪型にはこだわりがあるのだろう。
「アストレアよりレグルスへ。槍術隊は、腰のライトで空を照らすのはどう? このままだと、標的がユグドラシルの枝の陰に隠れて敵の位置を確認できないわ!」
「分かった。では、すべての班の槍術隊員へ。アストレア班長の案を実行せよ。銃士隊は引き続き、グライダーの駆逐に当たれ!」
そしてすぐさま、空は照らされた。エルメスも協力し、オルドーの屋上から、足元に用意したとてつもなく大きなライトと、バイクのヘッドライトで、空を照らす。
すると、いた。
確かに人が操縦するグライダーが、満月が輝く夜空の下を、悠々と飛びまわっている。
「こちらエンシェント。標的は4班の射程範囲内に入った。銃士隊4班は銃を構えよ。撃ち方、はじめ!」
「撃ち方、はじめぇっ!」
そして、地上から空へと延びる、無数の閃光。そのどれもが、グライダーをめがけて延びてゆく。
だが、グライダーは空中で旋回、閃光をすべて回避する。そして、骨組みの両脇に設置されたランチャーのような装置から、砲弾のようなものを発射した。1発だけではない、2発、3発と、立て続けに発射してゆく。
そして、ランチャーから飛び出した砲弾は、空中で炸裂。空に、赤、青、黄色、緑など、色とりどりの煙幕を展開する。地上からのライトはこの煙幕だけを照らし、再び誰もが、グライダーを見失ってしまう。
「撃ち方やめ! アークルをムダに消費するな!」
銃声が止んだ五稜郭。そして煙幕の中に隠れて姿を現さないグライダー。
静寂が、ここを包む。ラングが、オルドー警備隊全員が、そしてエルメスが、固唾を呑んで、煙幕の向こう側を見据える。敵の次なる行動は、まだない。
静かな夜風が、煙幕を運ぶ。ゆっくり、ゆっくり、空が晴れてゆく。世界樹の枝が、そしてその向こうの夜空が、少しずつ、顔を出し始めた。
……その時だ。
「来た! こちらレグルス、敵からの攻撃に備えよ!」
煙幕を突っ切って、グライダーが現れた。ゆっくり、ゆっくり、大きな螺旋を描きながら、五稜郭の城壁の領空内に、舞い降りる。
……だが。
――様子が、変だ…… 何故だ、何故エンジンをストップさせ、自由落下に任せる……?
自身もグライダー乗りであることから、グライダーの特性を知るラング。そう、現在、グライダーのエンジンはかかっておらず、機体両脇のランチャーからも、煙幕弾などを発射する様子は見られない。
そして、グライダーは。
ゆっくり、ゆっくり、オルドーの敷地内の芝生に、ゆっくりと着地した。
いぶかしがるラング、そして一同。武器をすべて、グライダーの方に向け、グライダーの様子を伺う。そんなラングに、通信が入る。
「ブラックウェルよりレグルスへ。こちらの班員を、偵察要因として要請するか。」
「いえ、一佐。その必要はありません。あれは無人です。下手に近付くと、ガスを食らうでしょう。」
ラングは腰から長剣を、鞘ごと抜き、鍔の部分から拳銃のような機構を引き抜く。それは、トリガーガードと、引き金だった。
また、鞘の先端にも、銃口に当たる位置に、宝玉の形をした青いマギア・フィラフトが埋め込まれている。そしてそのフィラフトに、アークルが光となって圧縮される。どうやら、鞘と剣は一体型のまま、ライフルとして使うことができるようだ。
「魔法破壊プログラム、起動。」
ラングは照準を合わせ、銃撃する。
すると、鞘の先端から青白い閃光がほとばしり、グライダーに命中。途端、グライダーはバチバチと火花を上げ、搭載している魔法機器をすべてスクラップにしてしまった。ガスがあふれ出してくる様子は、ない。
そしてラングは、剣を鞘ごと腰に戻し、拡声魔法を使い、オルドー、そしてここを取り囲む五稜郭全域に聞こえるように、叫んだ。
「本作戦責任者、ラング・レグルスから、おそらくここにいると思われる、怪盗・満月の夜へ! 聞こえるか! ガス作戦は使えない。逃げる手段であるグライダーも破壊した。これでもまだ何か策があるというのなら、正々堂々、挑んで来い!」
静まり返る。
冷たい夜風だけが、静かに凪ぐ。
夜空から煙幕が流れてゆく。
月明かりがオルドーを照らしはじめる中、誰もが、緊張と困惑の色を隠せない。
静寂が淡々と過ぎようとしている中。
とうとう、満月の夜が動き出した。
「……だったらっ!」
声が聞こえた。凛とした、そして自信にあふれる声だ。
「お応えしましょう。我こそが、怪盗・満月の夜。最後の大捕り物に、参上仕りました!」
誰もが、空を見上げる。
満月の夜がいる場所、そこは。
「……現れたわね、満月の夜。」
エルメスもシールド越しに、その姿を捉える。
何と、そこは時計塔のてっぺん。それも、やぐら状の屋上の手すりに、両足をつけて地上を見下ろしている。
黒い装束に、赤いマフラー。目元にはゴーグルを巻いている。
地上では、大騒ぎになった。
「出たぞ、本物だ!」
「満月の夜が現れた!」
「撃つのか? 撃っちゃうのか!?」
「あんな所に…… 一体、何をする気だ!」
待ちに待った、今回の宿敵、怪盗・満月の夜が現れたことで、陣形はあっさりとバラバラになった。五稜郭の城壁の中では、誰もが右往左往し、ラングすらその隊列の乱れを正すことができずにいた。
「答えろ、満月の夜! お前の狙いは何だ? 水を盗むとは、どういうことだ!」
「残念、それには答えられない。もし知りたければ、今からヨルムンガンドのところに行くから、そこで捕まえてみなさい。……あなたたちに、できるものならね!」
すると。
何と、満月の夜=クリシュナは、時計塔のてっぺんから身を躍らせ、何と、オルドー中央棟の後ろへと飛び降りてしまった。自殺か!? と叫ぶ者もいたが、満月の夜に限って、それはありえない。
そしてラングは、新たなる指示を下す。
「こちらレグルス! これより本作戦は分断行動を開始。空中遊撃隊は全員待機、1班の槍術隊員、銃士隊員は、俺とともにオルドー内部に突入。それ以外は、ブラックウェル一佐の指揮に従い、警備を続行せよ。ブラックウェル一佐には、標的の次なる仕掛けを想定し、それの駆逐をお願いします。総員、状況開始!」
そして、ラングは隊員を率い、オルドーへと突入した。
この事態を静かに見つめ、分析するエルメス。マフラーの首に巻いた部分を更に引き上げ、唇と鼻をすっぽり覆うようにして、行動を起こした。
――成る程ね。
――標的の作戦、それは、今回のために結成された戦力をそぎ落とす目的があった様子。しかも、ある程度こちらの準備を想定していたのか、確実に守備要員を削ぐことに成功したみたいね。
――さあ、ここからが双方の本領発揮、と。
一方。
オルドー大広間。
ラジオから流れてくる音声での遣り取りで、現状を分析している大陸共同軍の兵士が、この状況を一同に報告していた。
「何っ!? レグルスの部隊め、何をやっておった!? ……ええい! こうなれば、大広間の警備隊だけで、わしの前に現れた満月の夜を、一網打尽にしてくれよ……」
だが、その時だ。
何と、大広間の奥の壁、とても高い位置にあるステンドグラスの大窓を叩き割り、漆黒の影が、シャンデリアへと飛び移った。ガラスが砕け散る鋭い音に、誰もが立ち上がり、ざわめく。
「奴か!?」
ヨルムンガンドは、叫び、立ち上がる。ソファーに座っていた役人一同、壁際に待機していた兵士たちも同様に身構える。
そしてその影は、2列に並ぶソファーの間に降り立った。シャンデリアの上からという、普通の人であれば臆するほどの高さから、その影は何のためらいもなく、舞い降りたのだ。
すとん、と、静かに着地する影の正体、満月の夜=クリシュナ。赤いマフラーをなびかせ、遮光フィルムを貼ったゴーグルのシールド越しに、ヨルムンガンドを、そして周囲の人々を、一瞥する。
「きっ、き、貴様は……!」
狼狽するヨルムンガンド。役人たちはざわめき、壁際の兵士たちも一瞬うろたえたあと、いっせいにライフルを構える。
そしてクリシュナは、静かに、こう言い放った。
「お初にお目にかかります、ヨルムンガンド。わたしの名は、怪盗・満月の夜。今宵は、大陸中の水を盗みに、やってまいりました。」
「なんだと……!? ふっ、ふざけるな、この賊めが! お前たち、いっせいに撃……」
「やめて! 互いに巻き添えを食らう!」
クリシュナは言うと、右手を見やる。クリシュナの出現に驚き立ち上がった役人たちの向こうに、ライフルを構える兵士たちがいる。左手も、同様。
「今ここで一斉に発砲すれば、わたしを殺すことができても、貫通し、あるいは外れた銃撃が向こう側の人に命中し、多数の人的被害が出ることは必至。同時に自身も狙われているんだ。この陣形でわたしに銃撃することは、自分や他人の命を犠牲にしてしまう可能性がある。そんなことはさせたくない、今すぐ銃を下ろしてもらいたい!」
そう。だからあえてクリシュナは、敵地のど真ん中に、堂々と舞い降りたのだ。
途端、ソファーの前に並んだ役人たちは「やめろやめろ、銃をしまえ!」と叫び、向かい側にいる警備兵たちに両手を向けた。気付くのが遅すぎる。
そこに、大広間のドアを乱暴に開け放ち、ラング率いる、槍術隊と銃士隊がやってきた。ぞろぞろと雪崩のように押し寄せてきた彼らは、大広間警備兵の前に整列し、クリシュナに槍や銃などを向けないまでも、いつでも攻撃できるよう、構えている。
「全員整列、指示あるまで待機!」
「これはこれは、レグルス殿。英雄の剣バルムングの一件以来ですね。今日は見事な作戦でした。今回の黒気球とホログラムによる戦力削減も、目標まであとちょっと至らなかった。あなたの冷静な判断と、その後の迅速な対処には、唖然とするばかりです。特に、ガスを水で無効化する対処は、すばらしい。」
自分の兄に対して恭しい態度を取るクリシュナ。ラングは敵対する人物が自分の妹であるとは気付いていないようだ。
「挨拶はいい。この状況でどうやって逃げるつもりだ? さっさと降伏するのが、お前を含む、ここにいる全員のためだ。」
「残念ながらそうは行かない。まだなすべきことがあるので。……さて。」
そしてクリシュナは、踵を返す。
見据えるものは、ヨルムンガンドだった。
「ところでヨルムンガンド。」
「なっ!? 貴様、わしを呼び捨てにするとは、無礼な!」
「んじゃ首相。さっきから、あなたの椅子に貼り付けられているもの、何かな?」
「椅子、だと……?」
するとヨルムンガンドは、先程まで自分が座っていた椅子の、背もたれの裏側を見やる。そこに貼り付けられている紙を引き剥がし、そしてその裏面を一瞥した。
「………… ………… ……ッ!」
途端、ヨルムンガンドは言葉を失う。その代わり、大きく目を剥き、全身がガタガタと震え、傘も差さないまま雨にでも降られたかのように、びっしょりと汗をかく。
「な、な、な……!?」
「その報告文にある通り。わたし、怪盗満月の夜は、唯今を以ちまして、確かに水を頂戴いたしました。……そう、あなたが水を質にとって各国との不条理な条約ばかりを結ばせている『大陸条約文』、および、国民に対して、ただの水に、他国ではありえないほど税金をかけている税制に関した『税法6巻』。そのふたつの『原本』を、確かにわたしが盗ませていただきました。」
その言葉に、誰もが驚愕する。
そしてクリシュナは続ける。
「法律は、原本あって成立する。たとえ写本が何万冊発行されようと意味がない。つまり、この瞬間から大陸条約と税法第6条は、完全に無効となる。それが、『ミミル国憲法第1条・絶対不動令』として、オルドー封印金庫にしまわれている。さすがのわたしでもこれは盗めないので、守らざるを得ない。そうですよね?」
途端、ヨルムンガンドは紙を握る手を、そして全身を怒りに震わせ、満月の夜をにらみつける。それはもう、額や手の甲には青筋が浮かび、目は血走るほどに。ギリギリと歯を鳴らし、そして叫び、食ってかかる。
「うおぉぉぉぉおおのれぇ、このコソドロの分際でぇ! 許さん、許さんぞぉぉおっ!」
そしてヨルムンガンドは、法律原本を盗んだと書かれた紙をグシャグシャに丸め、クリシュナの足元に叩きつけるようにして投げた。あとには、クリシュナの傍らを、その紙の塊が、むなしく転がるだけだった。
「こんなことをして、国家がどれ程の損害を被ると思っておるのだぁ!? 国家は、国民の税金で成り立っているのだぞ、国民の税金で我々が動いているのだぞ!」
「働く? 笑わせないでよ。わたしたち国民が納めているその税金とやらを、あんたたちは給料として一般市民の10倍20倍の給料および各種手当てとして受け取り、国民が必要としない設備の開発と組織の運営に回している。まったく、子どもの無駄遣いじゃないっつーの。
国家の損害、国家運営の予算、それらを四の五の言う前に、その運営方法を見直し、ムダでも切り詰めてみたら?」
「適当なことも休み休み言え! 政治もろくに知らぬコソドロが何を言う!」
「分かってないのはそっちの方だ。政治は、国を運営するということは、国民の願いを聞き入れること。国民が必要としているものを税金にて提供すること。国民の意見を反映させること。国民の健やかなる生活を守ること。それなのにあなたたちは、どこまで国民たちを飢えさせると言うのか…… いや、私利私欲に支配され、金と権力に溺れたやつに、これ以上言おうと、詮無きことか。」
自分の立場と権利とお金を守ろうとする自己優先的な者、自分ではない人々のために罪を背負おうとする他者貢献を掲げる者。相反する者の言い争いは、平行線をたどるばかりか離れゆく一方だ。
ため息をついたクリシュナ。何とも哀れなものを見るような表情だ。
そこに。
「……成る程ね。」
吹き抜けとなっている大広間、その東側の壁に斜めに沿っている、2階と3階の東側の塔の廊下に続く階段を下りながら、エルメスが姿を現した。
「あなたが法律原本を盗み出し、政府から法律を奪ってしまえば、国民は水にかけられた、他国から見れば逸脱した額の税金から開放される。周辺の国々も、水を質に取られたり搾取されたりすることもなくなる。あなたが水を盗むと言ったその真相は、それだったのね?」
「さすが、名探偵エルメス。そう、水を盗み出し、大陸のすべての人々に還元することこそ、わたしの夢だった。そしてそれが今、実現しようとしている。」
「バカね。」
エルメスは、乾いた革靴の足音を響かせながら、クリシュナの前に歩み寄る。役人や警備兵たちはエルメスの左右に退き、彼女へと道を開ける。クリシュナは、武器を構える様子もなく、ただ、エルメスの鋭い視線を受け止め続ける。
「そんな紙切れを盗んだってどうしようもないわ。盗まれた法律は、『写本』を書き写し、それを新たなる原本とすることで、また作り直す。あなたが何度、法律原本を盗んだって同じこと。あなたのしていることは、限りなく無意味なことなのよ。分かる?」
「分からないなー。それこそ、エルメスこそおバカさんなんじゃないかな?」
「どういうこと?」
「わたしのターゲットは、水そのもの。つまり、エルメスが言うこんな紙切れ、わたしだって欲しくない。いわば条約文を盗んだのは、言ってみれば『契約締結』。怪盗・満月の夜が、確かに大陸から水を盗みましたよ、という宣言のようなもの。今、ここでわたしが本当に欲しいものは、水そのもの。そして……」
クリシュナは、怒りに打ち震えるヨルムンガンドに向き直る。
「もうひとつ。わたし、怪盗・満月の夜は、水と同時にあなたから大事なものを盗ませてもらいました。」
「何……? 何なのだ。それは一体、何なのだ!?」
「あなたの、人権を除く全ての権利ですよ。あなたは本日を以ってミミル国首相および大陸共同軍総統を降りてもらいます。」
その、満月の夜の言葉に。
「なっ、なっ……! 何だとぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおっ!?」
ヨルムンガンドは、絶叫した。
そしてもちろん、ラング、エルメス、そしてその場の誰もが、表情を変えた。大広間は一機に、大きくざわめいた。
だがクリシュナは、大きな声で続ける。
「わたしは怪盗として以前に、この国に、大陸に暮らすひとりの人間として、あなたの暴政を許せません。もうこれ以上、あなた方役人が甘い汁を吸うために人々が苦しむ姿を、見たくないんです。わたしたちの血税が、あなたたちに無闇矢鱈に使われていると分かっていて、黙って見ていることはできないんです。
あなたが大臣としての権利を使い行ってきた、数々の裏工作、税金でまかなってきた物資や権力の『違法な』買収、都合の悪い人物や出来事の排除および隠ぺい、ワイロによる強引な法律の可決移行などなど、ここ1年半だけでも充分に罰せられるべき悪事を、大陸中の新聞社にリークさせていただきました。
あなたを今まで支えてきた、権力、税金、法律、立場…… それらを丸ごと、頂戴いたします。そして明日の今頃、あなたは大臣席ではなく、裁判所か牢屋の中にいることでしょう。あなたの政治家生命は、もう終わりです。」
冷たく言い放つクリシュナ。
そんな彼女の前で、ヨルムンガンドは、ガクガクと震えはじめた。
表情は完全に青ざめ、目は絶望一色に染まっていた。先程まで怒りに打ち震えていた様子は、まるで一転している。
「そ、そんな、そんなバカな……! あり得ん。そんなことは、断じてあり得ん。こんな事実はない。ワシは、ワシは! こんなことは身に覚えなどない! 何かの間違いである、これは別の何者かによる、そう、貴様による、陰謀である…… 裏工作である!」
「陰謀でも工作でもないよ。みんな、ちゃんと調べてあるんだから。」
するとクリシュナは、大陸共同軍の軍服を来たとある男性(バッジからして、将官であろう)に、とある紙切れを手渡した。それは、ヨルムンガンドがこれまで為してきた、罰せられこそすれ決して認められない、汚職の数々のリストだった。
「こ、これは……!」
「わたしなんていつでも逮捕してくれて構いません。でも、それ以前に厳罰に処すべき人物がいるはず。まずその人を罰してこそ、大陸に新しい未来がやってくると思っています。」
そこに。
「何だよ、俺様がいないところで、ずいぶん盛り上がってんじゃねぇか……?」
大広間の出入り口から、聞くだけで背筋も凍る、どんよりとした声が聞こえてくる。
クリシュナ、エルメス、ヨルムンガンド、そして役人たちや兵士たち、誰もがそちらを見やる。そこにいるのは、3人の男女だった。
うちふたりは、戦う力とは無縁そうな、軍服の青年と黒いスーツの女性。だがあまりに特徴的な大男がいる。
「……ッ!?」
――何、あの悪魔みたいな男……?
その大男は、高い背丈に、細身でありながら、鎧のような筋肉を持つ、目つきがギラギラした、凶悪そうな男だった。
彼のいでたちは、黒いタンクトップに前開きの革ジャケット、マギア・フィラフトを用いた黒い革の首輪、深緑のカーゴパンツに、頑丈だが軽そうなブーツといったもの。腰に提げている装備は、2梃のナイフに、ふた振りの短剣、背中には魔法動力の連射式ライフル、そのほか細々(こまごま)した武装といった具合。目つきは狂気に満ちており、笑みを浮かべる口元からは、牙にも似た八重歯が、下唇に引っかかっている。
「あなたは、何者……?」
クリシュナは問う。
そして大男は、にやりと更に不気味さが増した笑みを浮かべ、返した。
「俺様の名はヴリトラ。黒尽くめのお前か、満月の夜ってやつは。俺様は、貴様を殺す任務と許可をもらっている。だから…… 死ね。」




